第六章 2 草原への出撃

 ロッシュは艦橋の広々とした船窓から、前方に高くそびえる崖を流れ落ちる一筋の滝を見つめていた。

 飛空艦は、曲がりくねった深い渓谷を、狭いすき間をぬうようにしてさかのぼっているところだった。


「貴官には、さぞ絶景に見えることだろうな」

 周囲の風景に眼を奪われているロッシュに、ボルナーデが、おもしろそうに尋ねた。

「ええ。私もほかの仲間と同様、飛空艦には新兵としてアンジェリクにおもむくときに一回乗ったことがあるきりですから。ゴンドラの狭い銃眼からでは風景などろくに見えませんでした」

「それは結構なことだが、わしの部下たちにとってはそうでもなさそうだぞ」

「どういう意味ですか?」

「みんなの様子を見なさい。なかなかがんばっとる」


 左右の船窓には二人ずつ見張りが立ち、顔をガラスにくっつけるようにしてそれぞれ前方と後方をじっと注視していた。

 彼らが「右舷、後方、上二」「左舷、前方、下八」とかときどきつぶやくと、そのたびに、中央にいる操舵手があざやかな手つきで舵を右や左にクルクル回転させる。

 すぐ後ろにいるもう一人の総舵手が小刻みに回しているのは、艦を上下させる舵だろう。

 船速を調整しているらしき者、風向計と風速計をにらみつけたままの者など、彼ら全員がひどく緊張し、一分の隙もない連携を保って忙しく活動しているのがわかった。

 船体が木立や岩場に接触しないように、細心の注意を払って運行している。


「そうか、私の指示のせいで……」

 ロッシュは、飛空艦が接近するのをゴドフロアたちに気づかれ、身を隠されてしまうのをさけたいと、できるだけ低空で飛行してくれるようにと頼んだのだ。

 山を越えてしまうまでは用心する必要はないはずだが、ロッシュの気持ちとしては、カナリエルがたどった道筋をできるだけ自分も追って行きたかった。


「いや、気にしないでください。わたしたちにとってはいい訓練です」

 一等航空士のウルワースという青年が笑って言った。

「すみません。でも、そろそろ陽が射してきます。すぐに上昇してあの峰の間を越えましょう」

 ロッシュが言うと、浮揚気体が一気に注入され、船体がふわりと浮き上がった。

 とたんに艦橋内の空気もなごみ、窓際の見張りたちが思い思いに持ち場を離れた。


「なんだ、もうすこししごいてやればよかったのに。皇帝の旗艦などと偉そうにしていると、危険をさけて安全運行ばかりだ。腕がすっかりなまっておる」

 艦長が大きな声で皮肉を言うと、だれもが声をたてずに笑った。

 顔をしかめたのは後ろに立つ副官だけだった。


 飛空艦にとっては、鬱蒼とした樹木で埋めつくされた小高い峰もたいした障害ではない。

 二つの尾根を軽々と越えると、そのむこうには北方山脈までさえぎるものは何もなく、きれいに開けた草原が見えてきた。

(カナリエルを乗せて、このままどこまでも飛んでいけたら……)

 ロッシュらしからぬ夢想は、しかし、伝声管からの突然の叫びで破られた。


「ご指示のあった羊らしきものを発見! あっ、そして、そのむこうに……」

 報告してきたのは、艦橋の正面からのびる鉄階段を降りていった船体の先端部にある監視用ポッドの搭乗員だった。

「何だ?」

「馬の群れです。一〇騎……いや、一五騎……地上付近がもやっていて数はよくわかりません。とにかく全速力で北へむかって駆けています!」

 ロッシュはボルナーデと顔を見合わせた。


「飛空艦を見て逃げだしたということですか?」

 ロッシュは伝声管を引き寄せて尋ねた。

「そうではないようです。おそらく、まだわれわれに気づいていません」

「北方王国軍なのか?」

 ボルナーデが顔を寄せてきて聞く。

 山脈の手前側は協定でブランカの領内とされているが、国境侵犯を問うとしても、北方軍相手ではうかつな手出しはできない。

「軍旗のようなものは見えませんし、装備までは、まだ……」


 ロッシュは、伝声管を艦長に手渡した。

「艦橋からではじれったくてたまりません。私は下のゴンドラに行きます」

「ばかな……飛行中だぞ。吹き飛ばされたらどうする!」

「なんとかなります。指示は伝声管でつたえますから」


 ロッシュが引き扉を開けると、とたんに激しい突風が吹きこんできた。

 腰の安全フックを鉄ばしごにかけ、すぐに外に出た。

 広大な風景と巨大な船体の対照の中ではまったくわからないが、たしかに飛空艦は相当な速度で進んでいるのだ。

 ロッシュは、叩きつけるような強風に吹き飛ばされないために、つねに片腕と片脚を手すりにからめていなければならなかった。


 途中まで降りてくると、眼下にそれまで船体の陰に隠れて見えなかったいくつもの馬影が肉眼でも視認できた。

 逃げているのではない証拠に、草原に散らばっていた数騎も本隊に合流しようとしてその後を追っている。


 ボルナーデはたくみな操艦でプロヴィデンスを降下させ、谷間を滑り降りるようにして接近していった。

 騎馬の様子がさらにはっきりと見えてくる。

 服装は戦闘向きのもので、武器も帯びているが統一されてはおらず、旗印も見えない。

(野盗か……)

 長く伸びた隊列を眼で追っていったとき、そのずっと先を行くいくつかの点のようなものに気づいた。

(もしや――)


 ロッシュは急いで下部のゴンドラに飛びこみ、通路を走って前方を見渡せる観覧室に入った。

 いかにも皇帝の旗艦らしく、まるで見晴らしのよい塔上の応接室のような豪華さだ。

 窓際にはソファがずらりと並び、ゆったりと風景を眺められるようになっていた。

 エルンファードら数名が前方の窓際にいて、そちらに来るようにうながした。

 ロッシュは双眼鏡をひったくるようにして受け取り、山脈の手前へと焦点を合わせた。


 見まちがえるはずがなかった。

 四騎のうちの一人は、背中に黒い筒状のものを背負っている。

 ゴドフロアだ。そして、彼らは野盗の群れに追われているのだ。


 ロッシュは伝声管をつかんだ。

「艦長。騎馬は野盗の群れです。カナリエルたちを追っています。飛空艦を地上ぎりぎりまで下げて、馬の列と並走してください」

「どうする気だ?」

「馬で飛び出してやつらと戦います」

「な、何だって。いいかね、飛空艦の役目というのは、戦場の全体を視察するか、人馬や物資を輸送することだぞ。戦闘に加わるとしても、せいぜい高空から炸弾を投下するていどのことだ。とても、そのような危険な飛行は……」

「艦長閣下は、総司令官の要求しだいでどのようにでも飛ぶとおっしゃった。お忘れか?」

「いや、もちろん憶えているとも……わかった、わかった、二言はない。なんとか貴官の言うとおりにやってみよう」

 ボルナーデは苦りきった声で答えた。


 ロッシュがさらにたたみかける。

「それと、隊員の三分の一をゴンドラに残して援護射撃させます。われわれへの援護と、夜盗の速度をすこしでも鈍らせるためです。われわれが降りしだい、カナリエルたちとの間に割りこむような形で飛んでください。よろしいですか?」

「うむ、よし、それも承知した。だが……」

「何か?」

「ロッシュ。貴官はそのうち、飛空艦の役割や飛び方まですっかり変えてしまいそうだな」

 ボルナーデは、ひとつため息をつくと、すぐに泰然自若とした口調を取りもどしてそう言った。

 ボルナーデになら、安心してすべてをまかせられるだろう。


「おぬしの準備はいいか」

 今艦長に告げた内容を後方の隊員たちに伝えるようにラムドに命じると、観覧室に一人残ったエルンファードに言った。

 飛空艦は、晴れ上がりつつあるもやを吹き散らしながら、さらに地上に接近している。

 出撃のタイミングを見定めてから、最後に隊に合流するつもりだった。

「もちろん。しばらく寝られたからな。いい揺れ心地だったぞ」

 エルンファードは、ソファの上に丸められた貴賓用のふかふかの毛布を指さした。

 あきれたことに、ロッシュが艦橋にいる間ここで悠然と眠っていたらしい。


「なあ、ロッシュ。ほんとうにカナリエルを連れて帰るつもりか?」

「もちろんだ。今さら何を言う」

「ツェントラーから聞いた。皇帝陛下は、カナリエルを北方王国なんかに嫁がせるつもりらしいじゃないか。彼女は承知すまいが、かといっておまえとの結婚を考え直すだろうか? カナリエルの望みは、たぶんブランカから出ていくことそのものなんだ」

「何が言いたいのだ?」

 ロッシュは、真っ正直なエルンファードの眼を見返した。


「カナリエルといっしょに、逃げてもいいんだぞ」

「エルンファード――」

「おまえがその気なら、おれは全力で協力する。盗賊どもも、追跡隊も、まとめて足止めしてみせる。いや、追跡隊の仲間たちだって協力してくれるかもしれん」

 エルンファードは本気だった。

 それが痛いほどわかって、ロッシュは眼をそらした。

「それは……」

 言いかけたロッシュは、その言葉を最後まで言い切ることができなかった。

 今や船窓の前のもやが完全に晴れ、猛然と駆ける夜盗の最後尾がすぐそこに迫っていた。

 ロッシュとエルンファードは無言でうなずき合い、ゴンドラの後部へと走った。


 ボルナーデの操艦はみごとなものだった。

 艦を完全に水平に保ったままゆっくり降下させると、途中で推進装置を止めて音を消し、夜盗の背後から気づかれないように接近していった。

 草の穂先をかすめて滑空させ、ちょうど馬群の真ん中あたりに来たときに、それとピタリと並行する形になった。


 いきなり横に出現したのしかかるほど巨大なものに、盗賊たちは驚異の眼を見はった。

 その威容を眼にしただけで、馬の足並みを乱れさせて転倒する者もいた。

 そこにさらに、ゴンドラの銃眼から射撃がはじまった。

 全速力で疾駆していた馬をすぐには回頭できず、つぎつぎねらい撃ちされて血煙が上がる。

 銃で応戦しても、分厚い装甲板にはね返されるばかりだ。

 盗賊たちには、まったく反撃するすべがなかった。


 ロッシュは面頰をつけ、伝声管を取った。

「ボルナーデ閣下、われわれは突入します。残った狙撃隊は、乱戦になったらロープをつたって飛び降ります。合図を待ってください。その後は上空で待機を――」

 返事を待たず、ロッシュは馬にまたがった。

 馬は一五頭載せてきている。

 野盗は倍以上いるが、その不足分はゴンドラに残す歩兵に援護射撃させておぎなうつもりだった。

 飛空艦を並行させるのは、その意図もあった。


「行くぞ。後部壁を開けろ!」

 ロッシュの指示でゴンドラの後部壁がゆっくり倒されていくと、壁板がそのまま地上に駆け降りるスロープとなった。

 ロッシュを先頭に、馬にまたがった武装騎兵が雪崩れをうって飛び出した。


 草原に降り立った馬たちはすぐに草原にくるりときれいな弧を描いて回頭し、野盗の群れの最後尾につけた。

 走りだしたばかりのスピリチュアルの元気な騎馬は、草原を駆けつづけた野盗の馬たちに楽々追いつき、あおるように激しく追いたてていく。

 ロッシュは、恐怖にかられてやみくもに振りまわす盗賊の剣をあざやかにはね上げ、走り抜けざま胴をなぎ払った。

 あちらでも、こちらでも、同じような光景がくり広げられている。

 やられているのは、ほとんど不意をつかれたフィジカルの盗賊のほうだった。

 ゴンドラからの射撃もあり、数的な有利不利はどんどん縮まっていった。


 スピリチュアル兵の動きには、あきらかに統一されたひとつの意図があった。

 野盗の群れを追い抜き、その前方を目指そうとしているのだ。

 野盗の先頭を走るダブリードは、後方から猛然と追い上げてくるスピリチュアルの軍団をふり返り、その意図に気づいた。


「やつらのねらいは、おれたちと同じだ。急げ。ゴドフロアたちを逃がすな!」


 ダブリードは大声で叫び、手下たちを叱咤した。

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