第五章 7 巨艦に忍びよる影

 雨はしばらく前に止んでいた。

 足早に頭上を過ぎていく雲の間から、ときおりほの明るい澄んだ早朝の青空がのぞいて見える。


 地上はまだ闇にすっかり閉ざされているが、ガチャガチャと武具がたてるやかましい音や、馬のひづめの音、そしてときおり人の声がそこに混じって聞こえた。

 等間隔に立てられたかがり火に横顔を照らされながら、多数の兵士たちが表ゲートにむかって行進していく。

 皇女カナリエルの捜索を命じられたブランカ守備隊の二個大隊だった。


 ロッシュは馬にまたがり、その隊列の中にいた。

 右手前方に、巨大なものが闇の中にうずくまっている。

 丸一日前まで、そこはただのガランと開けた広場の一角だった。

 それが出現してからというもの、ブランカ全体が大きく揺れ動いてきた。

 その物体自体が引き起こしたことではなかったが、見上げる者にはかならず何らかの強い思いを抱かせずにはおかない。

 今のロッシュも例外ではなかった。


 長くのびる隊列の最後尾が飛空艦プロヴィデンスの近くにさしかかったとき、フラリと隊列を離れた者がいた。

「それ以上近づいてはならん。皇帝陛下のご旗艦であるぞ」

 美麗な軍装をした近衛兵の一人が、槍を横にして行く手をさえぎった。


「ちょっと見せてくださいよ。飛空艦には初めての兵役に出るときに乗ったきりなんです」

 兵士が興奮ぎみの声で言い、面頰を上げて巨大な船体をあこがれるように見上げた。

「それがふつうだろう。ましてやプロヴィデンスは、兵員の輸送などにはめったに使われることがない。若い者がおいそれと乗れるような艦ではないのだ」

 近衛兵は、まるで自分の持ち物を自慢するように言った。


 ブランカの守備隊は、最初の兵役から帰還したもっとも若年の兵士ばかりだ。

 息子のような兵士の興奮ぶりを見て、威丈高にかまえた近衛兵もつい気を許した。

「ええ。ぼくが乗ったユリーカもすごかったけど、これはもっとずっと立派ですね。ところで、あの装備は何のためのものですか?」

「どれのことだ……」

 近衛兵は首をまわし、指さされたほうを見上げた。

 そのとたん、無防備になった首筋に、若者がふるった手刀がみごとに決まった。


「なにごとだ――」

 異変を感じてそちらに注意を向けた残りの二人の近衛兵は、ひそかに接近していた別の兵士たちに跳びかかられ、どちらもあっさりと昏倒した。

 うめき声や物音は行進の音にまぎれてしまい、だれにも気づかれることはなかった。


 兵士のひとりが合図すると、隊列の最後尾に並んでいた二〇人ほどの兵士たちが静かにつぎつぎと離脱し、飛空艦のほうへ引き返していった。

 すると、飛空艦の下部にあるゴンドラの後部壁がゆっくりと手前に倒れてきて、内部につづくスロープになった。

 そこに最初の若者が立っていた。

「エルンファード、中はだいじょうぶか?」

 面頬をはずしながら下から呼びかけたのは、ロッシュだった。

「ああ。ゴンドラは無人だ。みんな、はやく乗れ。馬を暴れさせないようにしろよ」


 全員が乗り込むと、後部壁を元どおりにせり上げた。

 左右の側壁に並んだ銃眼の丸窓から射し込むわずかな光が、輪をつくって居並んだ顔をかろうじて浮かび上がらせている。

 面頰を脱いだ者も着けたままの者もいる。

 ロッシュは、その面々を順に見まわして言った。

「私とエルンファードは、これから艦橋に昇って艦長と交渉してくる。結果は伝声管で伝える。かならずだれかが近くにいて受けてくれ」


「交渉だと? 艦長を人質にとって、無理やりこちらに従わせるんじゃないのか」

 バルトランが驚いて言った。

「わたしも行こう。たった二人じゃ、構造が複雑な艦橋全体を制圧するのは不可能だ」

 リドレイが身を乗り出した。

 機工部の所属で、飛空艦の搭乗員になることを希望している秀才である。

「おれも行くぞ。たとえ交渉するにしても、対等の話し合いに持ちこむにはある程度の脅しは必要だろう」

 銃を立てて名乗りを上げたのは、射撃の名手として知られたメイガスだった。


 ロッシュは、ひと呼吸おいて言った。

「申し出はありがたいが、この行動の動機と責任はすべて、カナリエルの婚約者である私ひとりにある。そのために、前回の追跡隊の参加者に声をかけ、その任務の継続という口実で集まってもらった。それに、大隊の出発にこっそりまぎれこんだのは、クレギオン閣下には知られたくないからだ。だから、ツェントラーにも声をかけてない。おぬしたちには、できるだけ累をおよぼしたくないのだ。あくまでも、私の勝手な行動に巻きこまれたことにしてほしい」

「そういえば、計算高いムスタークの顔が見えんな。あいつめ、日和りやがった」

 バルトランが言うと、ドッと笑いがわいた。

 緊張が一瞬だけゆるみ、彼らの素顔が透けて見えた。

 彼らは、前代未聞の暴挙に参加することに、だれもが胸を躍らせていた。


 ロッシュはハッチから出て、船体の胴体に取り付けられた鉄ばしごを昇った。

 エルンファードがすぐ後ろにつづく。

 高原の朝の気は、身を切るように冷たい。

 艦橋の入口に達し、ロッシュはあらためて周囲を眺めわたした。

 高いゲートの物見の塔が同じくらいの位置にある。

 巨大な胴体の上に載っている艦橋は、まるで小高い丘の上に建つ風変わりな建物のようだ。


「搭乗員は、長い飛行にそなえてまだほとんどが眠っているはずだ。操艦室には当直がいるだろうが、おぬしはそこを押さえてくれ。通路を入って左手だ。私は艦長のところへ行く」

「艦長室の位置はわかるのか?」

「保安部で見取り図を調べてきた。だいたいの構造は頭に入っている」

「おまえらしいことだ」

 外扉を開くと、その後は二人とも無言で行動に移った。


 艦長室には鍵がかかっていなかった。

 私室を施錠しないのは、艦に緊急事態が起こったときにそなえてのことだと聞いたことがある。

 飛空艦の内部に私生活は存在しないのだ。

「艦長、お目覚め願いたい――」

 狭い室内の枕元に立って、声をひそめて呼びかけた。

 艦長ボルナーデはすぐに眼を開けたが、ロッシュを見上げて眼をしばたいた。


「だれだ? いきなりものものしい軍装で現れるとは。何の用があって艦に入りこんだ」

「私は、保安管理官のロッシュと申します。しばらく貴艦をお借りしたい。そして、私の申し上げるとおりに飛行していただきたいのです」

「借りたい、だと?」

 ボルナーデはむっくりと上半身を起こした。

 でっぷりと太った身体に、すでに艦長服を着こんでいる。

 皇帝の要請がありしだい、いつでも飛び立てる準備ができているということだ。


「クレギオンの命令か? それなら命令書を見せてもらおう」

「いいえ、持っておりません。これは私の一存による行動です。クレギオン閣下にも、保安部にも関係ありません」

「一兵卒の身で、飛空艦を飛ばしてくれとは、いったいどういうわけかな」

 小さな洗面台でていねいに顔を洗いながら、落ち着きはらって問いただした。

「私の婚約者が奴隷の男に拉致され、行方不明になっております。彼女を探し出し、救出したいのです。どうかご協力いただきたい」

「途方もない話だな。恋人探しに飛空艦を使おうとは。その一途な心情に免じて、艦への不法侵入には眼をつぶってやらんでもないが……願いをかなえてやるのは難しい」

「私にも覚悟があります。どうしてもお聞き届けいただけないのであれば……」

 ロッシュは、胸当ての内側からそっと短剣を抜き出した。


 そのとき――

 艦内に一発の発砲音が響き、つづいて激しく争い合う音が通路のむこうから聞こえてきた。

「一人ではなかったのだな。どうやら貴官の仲間が暴れているようだ。その物騒なものをしまって、わしについて来なさい」

 短剣になど眼もくれず、ボルナーデはタオルをベッドに投げすてて艦長室を出た。


「動くな。手を上げて窓際に寄れ!」

「そっちこそ、こいつがどうなってもいいのか!」

 声は操艦室から聞こえた。

 ボルナーデはわずかの躊躇も見せず、扉を引き開けた。


 室内には銃をかまえたメイガスとリドレイがいて、周囲を油断なく牽制していた。

 ロッシュたちの後をこっそり追ってきたにちがいない。

 そして、ロッシュの事前の予想に反して、操艦室にはすでに飛行用の制服に身をかためた搭乗員が七、八人も詰めていた。

 そのうちの二人がエルンファードの両腕をねじり上げて床に押さえつけ、奪い取った短剣を突きつけていた。


 ボルナーデは開きかけた扉をまた半分閉じ、小声でロッシュに言った。

「私に短剣を突きつけるのだ」

 ロッシュは一瞬耳を疑ったが、すぐにその意味を理解した。

 騒ぎを大きくすまいという意図なのだ。


 ボルナーデの首筋に短剣を押し当て、こんどはロッシュが扉を開いた。

「きみたち、乱暴はやめたまえ。おまえたちもその若者を放してやりなさい」

 ボルナーデが、威厳に満ちた太い声でそこにいる全員をたしなめた。

「で、ですが……」

 エルンファードの短剣を構えている男が反論しかけた。

「わしが人質になっている。それで十分だろう。まず艦長席に座らせてもらうぞ」

 ロッシュは、脅迫者というよりむしろ従者のようにボルナーデについて操艦室を横切っていった。

 メイガスとリドレイも、ボルナーデの風格に気圧されて銃口を下げた。


「地上のもやい綱を解いてこい。ただし、くれぐれも、ゴンドラにいるこの者たちの仲間と衝突したり、警備の近衛兵にいらぬ助けを求めたりしてはならんぞ」

 ボルナーデが近くの部下に命じると、遅れて室内に入ってきた副官が声を上げた。

「か、艦長……もしや、プロヴィデンスを飛ばす気ですか。これは皇帝陛下の旗艦ですぞ。しかも、まもなく陛下がご搭乗される予定だというのに!」

「しかたなかろう。わしも命が惜しい」

 首筋の短剣を指さして言った。

「し、しかし、そのようなことをしては――」

 副官は、くたくたとその場にしゃがみこんだ。

「陛下の怒りがそれほど恐ろしいか。おまえは帝国操艦法をちゃんと読んでないらしいな」

「は?」

「帝国における飛空艦一隻の位置づけは、帝国軍一個師団と同等だぞ。師団を率いる将軍は皇帝の命を受けて戦うが、軍を動かすのはあくまでも将軍自身だ。すなわち、飛空艦を飛ばす権限は、わしにあるということだ」

 人質に取られているにもかかわらず、ボルナーデは泰然として言った。


「ただし、総司令官が搭乗しているときだけは、艦長はその要求に従わねばならん。つまり、プロヴィデンスが皇帝陛下の旗艦であるのは、総司令官にあたる陛下がご搭乗されているときに限られる。貴官の名は……何といったかな?」

「ロッシュです」

「では、保安管理官ロッシュを、たった今からわしは総司令官と認めることにする」

 思いもよらない言葉にだれもが眼をむき、口をあんぐりと開けた。

「そうすれば、この無粋な短剣をどけてくれよう。わしも存分に操艦の腕をふるえる」

「わかりました。私も部下たちを下のゴンドラに行かせます」

 ロッシュは間髪入れずに応答し、短剣をおさめた。


「さあ、この艦はもう貴官のものだ。ただし、先約が入っているからそう遠くまでは飛ばせないが、それでもいいかな?」

「結構です。感謝いたします、ボルナーデ閣下」

 奇妙な顛末ではあったが、とにかくロッシュの当初の目論みどおり、まもなく飛空艦プロヴィデンスは明けはじめた空にむかってゆっくりと浮上していった。


 ブランカの中腹にさしかかったとき、山のほうからチカチカとまたたく光が見えた。

「艦長、ブランカの信号所からの通信です。『ケントウヲ、イノル、オルダイン』……なんと、皇帝陛下のお言葉です!」

 操艦室がドッと沸きかえった。

 皇帝からお許しが出たとわかって、固く氷結していたような空気が一瞬にしてなごやかなものに変わった。


 いたずらっぽい眼をして、ボルナーデが耳打ちした。

「あれは偽物だな。貴官の指示か?」

「いいえ」

 ロッシュはきっぱりと首を振った。

 ムスタークのしわざにちがいない。

 今回の呼びかけには応じてこなかったが、こういう形で協力してくれたのだ。

「そうか。しかし、黙っていたほうがよいぞ。これで貴官も搭乗員たちに受け入れられるし、わしもやりやすくなる。それにしても、貴官は素晴らしい友人を何人も持っているようで、うらやましいことだ」


 ボルナーデに言われて、はじめて気がついた。

 追跡隊に参加を依頼した者たちには、こちらの才能を認め、主義主張に賛同してくれる同志となることを求めていた。

 だが、彼らとさほど親しく口をきいたわけでもなく、ましてや主義や主張の話などしていない。

 にもかかわらず、へたをすれば皇帝の怒りをかって旗艦乗っ取りの共犯あつかいされかねない暴挙に、ほとんどの者がふたたび参加してくれている。

 どこでこの秘密作戦のことを聞きつけたのか、地熱発電所のドミニオスまでが押しかけてきていた。


 エルンファードには感じていたことだが――

(これが、友情というものなのか?)

 ロッシュは不思議な気持ちを味わっていた。


「では、閣下はなぜ、初対面の私ごときに……」

「さきほど言っただろう、艦長は将軍と同格だと。クレギオンどのほど上位ではないが、これでもわしは位階六等級の下のほうに引っかかっているのだよ」

 言われてようやく、ロッシュはボルナーデが御前会議に出席していたことを知った。


「貴官が、寮母陛下に孝行息子のようにずっと親身につきそっているのを見た。衝撃的な新制度採用の計画や両陛下のご息女にまつわる途方もない婚姻話もあの場で聞いたし、後で彼女の噂のことも耳にした」

「そうだったのですか」

「わしの居場所は広大無辺の空の上だ。領地などもらっても当惑するばかりで、荒れ果てさせてしまうだけかもしれん。それと同様に、政略結婚などということについても、わしにとくべつ意見のようなものがあるわけではないが、何というか……婚約者である貴官の立場が、あまりにもないがしろにされているとは感じたな。貴官の思うがままに行動させてやりたいと思ったものだ。そこにこういう機会が訪れた……まあ、そういうことだ」


 ボルナーデは座面に悠然と身体を伸ばし、虚空にむかってはにかむように笑った。

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