第五章 6 出発のきっかけ
カナリエルは、遠く近く何かの動物が鳴きかわしているような気がして、ふっと薄眼を開いた。
すっかり眠りこんでしまっていたのだ。
まだ明けきっておらず、窪地の上は青黒い薄闇がおおっている。
雨が止んでいるのが唯一の救いだった。
また鳴き声が聞こえた。
カナリエルが知っている動物といえば、馬と犬以外には羊しかいない。
空耳ではなかった証拠に、傾斜の上からひょっこり羊の白い顔がのぞいた。
斜面をはい登ってみて驚いた。
窪地を取り囲むようにして、数十匹の羊が群れをなしている。
よく見ると、中の一匹は首にロープが巻かれて草の束に結びつけられていた。
「これは、どういうことだ」
カナリエルの後に登ってきたゴドフロアが、うめくように言った。
「ああ、その羊ならねえ……」
あくびしながら窪地から顔を出したステファンは、その光景を眼にして絶句した。
「おまえのしわざか」
「あ、いや、だってさあ……馬を捨てるとか言うし、そうなったらきっと食い物に困るじゃないか。ちょうど近くに一匹いたから、こりゃ後でごちそうになるなと思って、ロープをつけて連れてきたんだよ」
ステファンは、得意がっていいのか、謝るべきなのか、よくわからないまま、まだ眠気のとれない眼をこすりながら言った。
「羊はね、すぐに群れたがる動物なんですよ。どれか一頭が動きだすと、つられてほかの羊もどんどんついて来るんです」
フィオナが苦笑をこらえながら説明した。
「気を回してくれたのは、なんともうれしいかぎりだが……」
言って、ゴドフロアは遠くへ耳をすました。
雨が上がって静寂に返った草原のあちこちで、馬のいななきやひづめの音が聞こえている。
「すぐに夜明けだ。これだけの数の羊が集まっているのが見えたら、何かあるなと思わないほうがおかしい。馬を捨てるのはやめだ。できるだけ早くここから離れよう」
もうこうなったら、思い切って馬を駆けさせるしかなかった。
四人は急いで窪地から馬を引き上げてまたがった。
「フィオナ。山の入口はどっちだ。どこをめざせばいい」
速力を上げながら、ゴドフロアが尋ねた。
「あの二つの峰の合わせ目。白い塔のようにとがった大岩が目印です。その真下に細い抜け道があるんです」
四頭の馬は、一直線にそこにむかって走った。
山脈に近づくにつれて起伏が大きくなっていったが、しばらく休ませたおかげでどの馬も快調に駆けつづけた。
女たちの馬をあやつる技術もなかなかのものだった。
そのとき、ビュッと風を切る音がして、どこからか矢が飛来した。
先頭のゴドフロアは、とっさに首をすくめてそれをかわした。
二本めは、カナリエルの馬のすぐ足元に突き立った。
「右の岩陰へ!」
ゴドフロアは速度を落とさず、方向だけを指示した。
その先がなだらかな斜面になって下っている。
大岩が盾になって、たちまち矢の射程からはずれた。
弓を構えた盗賊が草むらから走り出て、岩の上に駆け登った。
その上から矢を射かけるつもりなのだ。
だが、放たれた矢はとんでもない方向へそれた。
岩から転げ落ちる盗賊の背中に、ナイフが突き立っている。
とっさに一人だけ反対側に馬を駆けさせたステファンが投げたのだ。
すぐにナイフを回収して岩場を回りこんでいくと、ゴドフロアが幅広の戦場剣を振るって戦っていた。
相手は、大岩の陰で待ち伏せしていたもう一人の斥候だった。
だが、不意をついた攻撃をかわされてしまうと、あつかい慣れた戦場剣を抜き放ったゴドフロアの敵ではなかった。
一撃で馬も乗り手もたじたじとなり、二撃めで剣を弾き飛ばされ、三撃めで胸を突かれ、棹立ちとなった馬から落下していった。
「おそらく、こいつらが前衛だ」
ゴドフロアは剣をさやに収めながら言った。
剣は、ケルベルク城から脱出する際に、武器の部屋から調達してきたものだ。
並みの兵士ではとてもあつかえそうにない大振りの長剣だった。
「じゃ、前にはもう敵はいないんだね?」
ステファンが顔を輝かせる。
「ああ。だが、目標の白い岩をめざすには、この岩場の上にもどらないとな」
ゴドフロアが横手の斜面を見上げると、フィオナが首を振った。
「いいえ、このまま進みましょう。ちょうどこの方向に、谷川に架かる吊り橋があるんです。ゲオルが、羊や荷車を渡すためにつくったものです」
フィオナが指さしたのは、山の手前を横切る渓流の上流で、目標の白い岩とはかなりのへだたりがあった。
「しかし、そっちでは遠回りになるんじゃないのか」
「ええ。馬だったら、川幅は広いけど浅瀬を渡れるからあっちのほうが近いんです。でも、盗賊たちは、あたしたちがどこから山に入りこむかわかっていません。まっすぐ追いかけてくるでしょう。むこう岸に渡ってから橋を壊せば、追っ手はまた下流の浅瀬まで大きく迂回しないといけなくなります。その間に、だいぶ引き離せると思います」
ゴドフロアがうなずくと、こんどはフィオナが先になって駆け出した。
「もしかして笑ってるのかい、カナリエル?」
馬を並んで走らせながら、ステファンが不思議そうに尋ねた。
「え。わたし、笑ってた?」
カナリエルは、長い髪を風になびかせながら、そのままの笑顔でふり向いた。
「こんな場合、あせったり、怖かったりするものだろ。きみはなんだか、遠乗りにでも出かけていくみたいに気持ちよさそうだよ」
「ええ。なんだかすごく爽快な気分よ。このままどこまでも駆けて行きたいくらいだわ。きっと、追っかけられているから、かえってためらいも不安もなくなってるのね。わたしを捕まえられるものなら捕まえてごらんなさい、って感じ」
カナリエルが言うと、フィオナもゴドフロアもつられて思わず笑った。
空には、大きな雲の塊がいくつも嵐の残した風に吹かれて悠然と移動していく。
その合間には、くっきりと晴れ上がった青空ものぞいてきた。
たしかに、馬を駆けさせるにはうってつけのさわやかな夏の朝だった。
しかし、後方の地上にたなびいている朝もやの中から、しだいにかなりの数の馬が駆ける音が聞こえてきた。
さきほどの異変を察知して、本隊が近づきつつあるにちがいない。
つかの間の笑みは、だれの顔からもしだいに消えていった――。
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