第五章 5 皇帝への嘆願
エルンファードはあわてて後を追った。
ロッシュは昇降機を待とうとはせず、ウォークを数層分駆けとおして保安部の長官室に直行した。
「なに、カナリエルの行方がわかっただと?」
ツェントラーが驚いてふり返り、クレギオンも執務机のむこうで腰を浮かせた。
エルンファードとロッシュの話を交互に聞いたクレギオンは、納得の表情で言った。
「それは、われわれの先祖の最初の標的になったケルベルク城だ。まさか、われわれに復讐をもくろむ勢力が巣食っているなどということはなかろうが……よし、目標さえわかれば、もはやためらう必要はない。ツェントラー、ただちに守備隊に出発の準備を命じろ!」
「お待ちください」
ロッシュは出口へ向かいかけたツェントラーを制し、クレギオンにむかって言った。
「こんな嵐の夜に出発しても、あそこまで到達するのに丸一日以上はかかりましょう。もし、カナリエルたちが北方王国へ抜けるつもりなら、明日にも山岳地帯に入ってしまうかもしれません。険しく複雑な山道では、なかなか追いつけなくなります。まごまごしているうちに北方軍の警備隊とでも遭遇したら、国境紛争に発展する恐れさえあります」
「では、どうすればいいというのだ」
クレギオンは、いらだたしそうに声を荒げた。
「私に、飛空艦をお貸しください」
「飛空艦だと――」
クレギオンは眼をむいた。
「いや。ロッシュ、それは無理だ」
ツェントラーが首を横に振った。
「飛空艦は、浮揚気体の注入やさまざまな点検に最低一日は必要だ。格納庫から引き出すのに、またさらに何時間もかかる。これから夜を徹して作業にかかったとしても、飛び立てるのはやっと明日の夕刻だぞ」
「そんな必要はない。広場には、皇帝陛下の旗艦プロヴィデンスが繋留されている。あれなら、いつでも離陸可能なはずだ」
こんどこそ、ツェントラーとエルンファードも眼を丸くした。
「ロッシュらしい妙案だ……とほめてやりたいところだが、むずかしいな、それは」
クレギオンが唇を噛むと、ツェントラーがその後を引き取って言った。
「さきほど、マドラン閣下から通達があったのだ。陛下のご一行は明日の午前八時にアンジェリクへ出発する、とな。天候が回復するとしても、夜間の飛行には、山塊に衝突する危険をさけるために、超高度飛行がどうしても必要となる。搭乗者の健康を考慮して超高度飛行を一夜かぎりですますには、たしかにその時刻がぎりぎりだろう。明後日まで延ばすと、こんどはキールへの入城に間に合わなくなる恐れがある」
「陛下は陛下で、ご息女の安否を何よりお気にかけておいでだろうが、身柄を無事に確保できたからといって、御前会議という公の場で寮母がああもきっぱり断言されたことを無視してまで、政略結婚を強要することはできまい。それより今は、キールの式典をとどこおりなく執り行うことを優先するだろう。となれば、プロヴィデンスをこころよくお貸しくださるとは、やはり考えにくい。そうだろう、ロッシュ」
クレギオンは、さとすように言った。
「……わかりました。では、こうするしかありません」
ロッシュは、押し殺した声に固い決意をこめて言った。
「私が皇帝陛下に、飛空艦をお貸しくださるよう、直接お願いに上がることにしましょう」
「待て、ロッシュ。それならわしも行こう」
ロッシュがクルリときびすを返し、ドア口に向かおうとすると、クレギオンが執務椅子から立ち上がった。
「いいえ。閣下がごいっしょでは、カナリエルの失踪を公的な問題としてあつかわなくてはならなくなります。そうなると、陛下のご一存で飛空艦を動かすような無謀なことはかえってむずかしくなるでしょう。ここはかえって、わたし一人が嘆願する形のほうがいいのです」
保安部を出るとロッシュはすぐに昇降機に乗り、最上階への直通コードを打ちこんだ。
ロッシュには、勝算も、どうしようという作戦も、まったくなかった。
そもそも、一兵士が皇帝に直接目通りすることが可能かどうかもわからない。
扉が開くと、ホールを警備している保安部の兵士が驚いて迎えた。
近衛兵は、夜間は居室周辺の警備に専念しているのだろう。
「何か、またあったのですか?」
警備上の問題が生じたのかと勘違いして、上官であるロッシュに尋ねた。
「いや……そういうことではない。皇帝陛下にお目通りしたい。取り次いでほしい」
「は?」
「いや、いい。私が自分で行こう」
他人まかせではあっさり拒否されるだけかもしれない、と思い直した。
ここまで昇ってくると、頭上には皇帝の居室しかない。
下界の嵐がうそのように、ブランカの空洞の真上にはきらめく星空が広がっていた。
居室となっているポッドは、全体の規模がほかのものより倍以上大きく、前にはブランカを見下ろすテラスが張り出している。
昇降機のホールからウォークをほぼ一周しないと、そこまでたどり着けない。
そしてテラスに立つと、あらためてその巨大さに圧倒される。
テラスから見下ろすブランカの風景は、たしかに支配者にのみ許された視点からのものだった。
居室の観音開きの扉は大きく開かれていたが、その内部は公的な面会に使われる前室で、人の気配はまったくない。
扉の両側を固めた近衛兵たちは、建物より尊大だった。
紫色の飾り房をつけた槍を交叉させ、ロッシュの行く手をふさいだ。
「面会だと? 正気か。いったい何時だと思っている。だいいち、保安部の警備隊長格ごとき身分で、陛下にお目通りがかなうはずがなかろう」
ロッシュの若い顔を横眼で見てせせら笑った。
「私は、皇女カナリエルの婚約者です。カナリエルについての陛下のご懸念を、晴らして差し上げられると思います」
拒否されてもともとという気持ちで、切り札を出した。
皇女の婚約者と聞いて、近衛兵たちの表情がにわかにこわばった。
アンジェリクから同行してきた近衛兵には、まだくわしい情報に接する機会がなかったのかもしれない。
「しばし……ここで待て」
一人が開け放たれたままの扉口に向かいかけたとき、そこに、ゆったりとした部屋着をまとった皇帝の姿が現れた。
「そなたがロッシュか。余はまだ寝ておらぬ。かまわん、入るがよい」
皇帝は鷹揚に言って、前室からさらに奥の間に入った。
贅沢な調度類であふれてはいるが、私室は、わずか一日の滞在ですでに気持ちのいい雑然とした雰囲気がただよいはじめている。
それは、長年の戦場暮らしで身体にしみついたもののようだった。
皇帝の人気は、そういう率直で飾らないところからも来ていた。
いつどんなことが突発しないともかぎらない戦場では、四六時中神経を張りつめていてはもたないし、逆に弛緩しきっていては対処できない。
ものにこだわらず、つねに自然体でいることが肝心だった。
皇帝は、そのことにだれよりも長けているにちがいない。
皇帝は、大きなひじ掛け椅子にかけて脚を組み、ざっくばらんに切り出した。
「そなたが晴らしてくれようという懸念とは、どんなことかな?」
「カナリエルがいなければ、あらゆることが始まりません。まず、カナリエルをブランカに連れ帰ることです」
「それは、そなたにとっても同じであろう」
皇帝は、おうむ返しに言った。
会議の後、それなりに経緯を知らされたにちがいない。
「はい。カナリエルを、自分の手でぜがひでも取りもどしたいと思います」
「そなたも会堂にいた。北方王国の王太子との結婚の件は聞いたな。それは承知か?」
いささかのためらいもない口調で、核心をつく質問を発した。
「本人の意思しだいかと」
「余は、そなたに説得してほしいのだ」
「私が、ですか?」
「そうだ。母親は、ああいう意見と立場だからな……余自身も、もちろん説得する。そなたからカナリエルに言ってくれれば、あの子も承知してくれよう」
おそらく皇帝は、マザー・ミランディアが政略結婚を阻止するためにやむなくカナリエルを逃亡させたと思っている。
ロッシュとの関係がどうなっているかなど、ほとんど知らないだろうし、関心もないにちがいなかった。
「私には、できません」
「そうかな」
皇帝は、頬づえをついてニヤリと笑った。
「そなたがカナリエルに求めているものとは、何なのだ? 皇帝の、あるいは寮母の娘であることか? それとも、愛する対象としてかたわらに置くことか?」
「私は、カナリエルが皇帝陛下や寮母陛下の娘であることを理由に、彼女を得たいと思ったのではけっしてありません」
「ならば、よいではないか。余は、カナリエルを遠い北方王国になど、最初からやるつもりはないのだからな。生まれてくる子どももだ」
「ほんとうですか?」
「もちろんだとも。そもそも結婚などというものは、単なる形式にすぎん。政略結婚となれば、なおさらのことだ。王太子とは、せいぜいフィジカル好みの盛大な結婚式を挙げてやる。だが、カナリエルが愛をかわす相手はそなただ。そなたを宮廷伯の一人に任じてやろう。広大なアンジェリクの城中なら、カナリエルとはいつでも自由に密会できる」
「相手の王太子は、はたしてそれで満足するでしょうか」
「フィジカルの男をスピリチュアルの女が満足させられないというのは、自明のことではないか。なに、むこうは、どうせ半分以上は本国での暮らしになる。側室など何人でも持つがいいのだ。寵愛している女を結婚式典に連れてきたとしても、余はいっこうに気にせぬよ。どれほどの美人か、この眼でとくと品定めしてやろう」
皇帝は、下卑た笑いを浮かべた。
「生まれてくる子どもは、いったいどうなりましょう……」
「フィジカルには、〝刷り込み〟などというものの精妙さは永遠に理解できまいよ。式さえ挙げればむこうは満足しよう。親として対面するのはカナリエル一人でたくさんだ。むしろ、そうすることによって子どもはカナリエルにしかなつかぬし、スピリチュアルの純粋さも保たれるというものだ。北方王国の宮廷には、結婚と子どもの披露のために一度でも出向きさえすればそれでよい。強情なミランディアも、それなら文句は言えまいさ」
言いたいことを言いおえると、皇帝は、自分の計略の完璧さに酔ったかのように深々と椅子にもたれ、ロッシュをそこに立たせたままうつらうつらと舟をこぎはじめた。
ロッシュは、憮然としてその尊大な寝顔を見下ろした。
あのクレギオンがそうそう人物を見誤るとは考えにくいが、彼が身近に見知っていたオルダインは、戦場という異常な場に限定されていたということだ。
殺し合いとだまし合いが常態化した戦場で、有能で、信頼厚く、勇敢だったからといって、どのような場合にも優れた人物であるという証明になるわけではない。
オルダインと話しながら、会話がまったく噛み合わないことにいらだった。
皇帝が言おうとする内容には、いちいち強い違和感と反発をおぼえたものだ。
カナリエルやマザー・ミランディアの心情は、完全に無視されていた。
ロッシュ自身の運命を平気で決めつけてくる粗雑な口調には、吐き気さえ感じた。
ロッシュは、やがてだらしなく口を開けていびきをかきだした皇帝をそこに残し、そのまま居室を出た。
飛空艦の件を持ち出せなかったことに、まったく後悔はなかった。
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