第五章 3 エルンファードの手みやげ
手術用ポッドの前には、最後に三人の男だけが残った。
閉ざされた扉の中では、今まさにマザー・ミランディアの緊急手術が行われていた。
「ずっとお立ちになったまま、毅然としてあれだけの議論を戦わせておられた。信じがたいほどの精神力です」
めずらしく感動を隠そうとせずにそう言ったのは、ツェントラーだった。
クレギオンとロッシュも、同感を示してうなずいた。
「寮母陛下は、わしが保安部長官として赴任してきて以来、ずっとわしとは距離をとっていた。皇帝陛下から寮母を監視せよとでも命ぜられてきたのではないかと、お疑いだったのだろう。この数日間に起こったことを思い返すと、なぜもっと早く腹を割って話し合う機会を持たなかったのかと、悔やまれてならぬ。わしのほうでも寮母陛下を誤解していたのだ」
クレギオンが述懐するとおりかもしれなかった。
カナリエルとの結婚は、ロッシュが当初望んでいたとおりに執り行われることはなかったかもしれないが、事前にクレギオンとマザー・ミランディアの間で話し合いがあれば、すくなくとももっと納得のいく形で決着したにちがいない。
「今回は陰謀めいた成り行きになったが、皇帝陛下も、強権を振りかざしてすべての者を思いどおりに従えようとなさるような方では、けっしてない。長年戦場暮らしをともにしたわしには、よくわかっておる」
「陛下がお変わりになられたのでなければ、閣下の代わりに今おそばにいる者の入れ知恵のせいでしょう」
ツェントラーが辛辣に言った。
もちろん、執政マドランへの当てつけである。
「ですが、マザー・ミランディアと皇帝陛下は、なぜあのように……」
ロッシュは思わず口にしかけて、後の言葉をのみこんだ。
しかし、ほかの二人には、ロッシュの言いたいことは十分に通じた。
「皇帝の妻が皇后ではなく、寮母というまったく別の権力者がいる――そのことの理由は、こんどのことで初めてわかった。そこに、そもそもの矛盾の根源があったわけだ。しかも、皇帝と寮母が夫婦だった例は、長いスピリチュアルの歴史においても、ほんの数例しかないはずだ。二重構造の権力が、幸福な一枚岩であれればよかったのだが……オルダイン皇帝は外征に明け暮れ、マザー・ミランディアは、おそらくブランカから一歩も外にお出になったことがあるまい。どうしてこれほどの齟齬が生じたものか……」
クレギオンは、ため息まじりに言った。
「お二人のなれそめは、どのようなものだったのですか?」
ツェントラーがたずねる。
「わからぬ。あのように聡明さと美しさが寸分の狂いもなく結晶したような女性は、そうそういるものではない。おそらく、言い寄る男は無数にいたことだろう。オルダインは、わしが率いてきた兵士の中ではまちがいなくもっとも有能で果敢な男だった。妻となった相手のことは、もちろん遠い戦場からでは知るよしもなかったが、どんなに素晴らしい女性だろうかとは思ったな。そういう意味では、みごとな取り合わせの男女ではあったわけだが……その男に、ある日ブランカから急な呼び出しが来た。そして、もどって来たときには、白馬にまたがる皇帝となっていた。わしが知っているのはそれだけだ」
懐かしそうな、しかし一抹の悲哀のこもった眼をして、クレギオンは言った。
ロッシュも思い出の中を手探りしていた。
下層にあるロッシュ母子の住居を訪れてくる、黒衣のマザー・ミランディアの姿が見える。
記憶にない父と同様に〝刷り込み〟がなく地味で平凡な容貌の母親より、むしろくっきりとした像として残っていた。
慈愛にみちた微笑を浮かべる横顔は、ロッシュの子ども心を陶然とさせたものだった。
「ところで、犯人はどうなった?」
クレギオンがロッシュにただした。
「それが、会堂に向かう途中で警備兵をつかまえ、生命回廊に逮捕に行くように命じたのですが、彼らが到着したときにはすでに姿が消えていたそうです。ファロンの状態から考えて、自分でロープを解いて逃げられたとは思えません。何者かが生命回廊からの昇降機の動きを見張っていて、私とマザー・ミランディアが昇ってくるのと入れ替わりに、ファロンを連れ去ったにちがいありません。監禁していた病室は、やはりもぬけの殻でした」
「そうか。寮母陛下の命がねらわれたのは、ファロン個人の保身や怨恨だけが理由ではあるまい。御前会議のときも感じたことだが、わしやマザー・ミランディアを抜きにして、さまざまなことが進行しているようだ。寮母のあのような発言を恐れ、阻止しようとする意志が働いたのだ。〝陰謀〟とまで言うのは早計だろうし、すべてが皇帝や執政が仕組んだこととも思えない。だが、流れている潮の方向は、だいたい似たようなものと考えていいだろう。流れに乗り遅れまいとあせる必要はないが、知らぬ間に押し流されていれば、いつかは溺れるはめになる。すくなくとも、おのれの立ち位置だけは見失うまいぞ」
クレギオンの言葉に、ロッシュとツェントラーは深くうなずいた。
会議のさなかにマザー・ミランディアに異変が起こったことで、議事は打ち切りになり、あの場で発表されたすべてのことが宙ぶらりんのまま残された。
カナリエルの不在は埋めようのない事実だったから、よほどの奇跡が起きないかぎり、キール入城の式典で北方王国の王太子との婚約が発表される見込みはない。
しかし、貴族制の施行および新たな分割支配に関しては、マザー・ミランディアがいくら強硬にスピリチュアルの根本原理を主張しても、賛同して異を唱える者がほかに多数現れるとは考えられなかった。
そのマザーの容態さえ今はまだ不明である。
たとえ無事に快癒するとしても、その間にも帝都アンジェリクでは新体制の構築が着々と進んでいくことだろう。
クレギオンが『流れている潮の方向』と言うのは、そういうことである。
「――ツェントラー、ファロンは暗殺計画の第一の生き証人でもある。よもやブランカから逃げられはすまいが、すぐに手配してくれ」
「はっ」
皇帝にカナリエルの失踪を報告することに失敗した後、クレギオンはツェントラーと相談して、追跡隊の増援としてとりあえず三個小隊を派遣していた。
皇帝が臨席した会議の場でカナリエルの不在はついに公になったが、皇帝からもマドランからもクレギオンの失態についてあげつらうような言葉はなく、大々的な捜索を行うようにとの命令もなかった。
ブランカで起こった一事件として、対応は保安部にまかされた形となった。
外界では猛烈な夏の嵐が吹き荒れている。
クレギオンは、夜明けと嵐が鎮まるのを待ったうえで、さらに二個大隊を投入するつもりだった。
後手後手にまわってしまっていることが、今回だけはそれほど後悔の念を覚えさせなかった。
そのとき、昇降機のホールのほうから、ウォークを急ぎ足にやって来る足音が聞こえた。
「ロッシュさま! 寮母さまは、ご無事でしょうか?」
変事を聞きつけてようやく生命回廊から駆けつけたアラミクが、息を切らせて尋ねた。
ちょうど手術用ポッドの扉が開き、マスクをはずしながら執刀医が出てきた。
「ご安心ください。内臓も、動脈も、ぎりぎりのところでそれていました。凶器に毒が塗られていたというような恐れもありません」
その場にいた全員の間に、安堵のため息にも似た空気が流れた。
ポッドから運び出された寮母の身体は、そのまま救護棟の中でいちばんゆったりした個室に運ばれた。
麻酔で深く眠りこんでいるマザー・ミランディアを守るために、とくに信頼のおける警備兵が戸口に立ち、二人ずつ交替で二四時間の見張りをつとめることになった。
ロッシュは、皇帝の一行がブランカを離れるまでがもっとも危険だと判断し、病室内にとどまることにした。
ベッドわきの椅子には、アラミクが座っている。
「寮母さまがお目覚めになったら、生命回廊を放置してと、きっとお怒りになるでしょう。けれど、とてもおそばを離れるわけにはいきませんわ」
アラミクはそう言い張って残ったのだ。
マザー・ミランディアの受難という異常事態に、生命回廊では他のシスターたちが結束して緊急体制をしいているという。
しかし、ロッシュも、アラミクも、早朝からずっと不眠不休で激しい活動をしてきていた。
ロッシュはアラミクの頭が優しげにコクリコクリとうなずくように傾きはじめたのに気づいたが、そのうち自分のほうも壁にもたれて立ったまま眠りこんでしまった。
ドアがそっと開かれた。
ロッシュはハッとして、腰の短剣に手をのばした。
「やっぱり、ここだったか……」
のっそりと入ってきたのは、軍帽からしずくをしたたらせ、全身ずぶ濡れになった異様な風体の男だった。
「エルンファード!」
ロッシュは思わず大声を上げてしまった。
その声で、アラミクも驚いて眼をさました。
エルンファードは、あわてて立ち上がったアラミクをいきなりひしっと抱きしめた。
「だ、だめよ。ここは病室よ。寮母さまが眠っていらっしゃるというのに!」
アラミクは顔を赤らめ、むしろロッシュに気をつかって、エルンファードの身体をじゃけんに押しのけた。
「そうだったな。それに、このひどい格好だ。外に出よう。手みやげもあるし――」
ロッシュのほうにいたずらっぽく片眼をつむってみせると、エルンファードは悠然と病室の外に出た。
「これだ」
エルンファードが指さしたのは、通路の床にむぞうさに置かれた濡れた鉄球だった。
錆の浮いた鎖がついていて、鉄輪の途中が焼けちぎれている。
「奴隷の足かせ……そうか、あのゴドフロアのものか」
「ああ。例の森の川をさかのぼって、岩場を抜けたところにある狭い谷間で見つけた。馬のひづめがたまたま当たって変な音がしたんだ。掘ってみるとこいつが出てきたってわけさ。近くには、注意深く始末されていたが、火をたいた形跡もあった」
「すると……」
「そこからもどってくれば、おれたち追跡隊の中のだれかと鉢合わせしたはずだ。そのまま進んだとすると、だいたいの方角でしか言えないが――」
「西だな」
「ほう、よくわかったな」
ロッシュはうなずき、アラミクのほうに向き直った。
「覚えているかい? 排気口の鉄格子の間から見えた、草原の白い点を」
「あっ。じゃ、やっぱり、あれは羊……」
「そう、羊の群れだと思う。こんな高地に野生の羊が棲息しているはずがない。だれかが住んでいるのだ。あの長髪の男は、たぶん道案内だ。そのことを知っていた可能性がある」
「すると、そこをめざせばいいんだな」
エルンファードが濡れた髪を後ろにかき上げ、眼を輝かせた。
「ああ。しかし、あの方角だとすると、だいぶ北に回りこんでいく必要がある。越えなければならない険しい尾根や急流もひとつや二つではない。森は深いし、道なき道だ……」
つぶやきながら、ロッシュは、ひたいに手を当てて考えこんだ。
「……いや、手はある。エルンファード、来い!」
ロッシュは、返事も待たずにウォークを駆け出した。
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