第一章 6 ツェントラーの伝言

 ツェントラーは、視線をつとあらぬ方向へむけた。


 高く秀でた鼻は、明晰な頭脳の持ち主であることを、ひと目で強く印象づける。

 つねに深くしわ寄せられた眉間は、思慮深さと同時にとっつきにくい性格を象徴しているが、ロッシュが帰還するまでは、派手で陽気でありながら事ごとに尊大な態度を見せるバルトランなどより、むしろ女性たちの間では密かな人気を博していたという。

 しかし、浮いた噂もなく、いまだに独身を通しているのは、近寄りがたい雰囲気がわざわいしているというより、本人にまったくその気がないとしか思えなかった。

 彼がもっとも親しくしているはずのロッシュにも、彼の本心はなかなか見通せない。


 ツェントラーは、ロッシュの最大の懸念をこめた問いにも、すぐには答えようとしなかった。

 やがて自身の思考からゆっくりもどると、嘆息するように言った。

「おぬしは気づいておらぬだろう。保安部に抜擢されてまだ間がない。このところ、閣下の意を受けて、いろいろ忙しく立ち回らなければならなかった。しかも、陛下の娘とのことでせいいっぱいだっただろうしな」

 こういう物言いが皮肉やあてこすりに聞こえない人物は、ブランカじゅうを探してもツェントラー以外にはいない。

 かといって、同情の響きもまったく感じられない。

 彼の口から出る言葉は、まさに文字どおりの意味なのだった。


 ツェントラーが静かに語りはじめたことは、たしかに自分ひとりの暗い熱を帯びた苦悩にかまけていたロッシュの思考を新たな地平へ連れ出した。

「そう……もう五年ほどにもなるか。クレギオン閣下とわたしは、帝国のありようについて、ことあるごとに話し合ってきた。スピリチュアルの支配はどうあるべきか、どうすれば永続性のあるものになるか、とな」

「ほう……」


 五年といえば、クレギオンが将軍職を退く以前からということになる。

 きわだった戦功があったとは聞かないツェントラーであったから、ロッシュはその経歴にさほど注意をはらっていなかったが、軍ではたしかクレギオン麾下の第三師団に属していたはずだ。

 ツェントラーは、早くからクレギオンに参謀としての才能を高く評価されていたのだろう。

 帰還して即座に保安部に抜擢されたのは、それだけクレギオンがツェントラーを切実に必要としていた証拠だった。

 その後も戦線へ再召集されることなく、すでに三年近くブランカにとどまり、クレギオンの右腕となっている。


「ブランカは帝国軍の、いわば後衛として外征軍を支えるために、長らく軍事体制下にあった。保安部は、守備隊にせよ、警備隊にせよ、軍事力を統括する形で都市ブランカの運営に当たってきた。われわれの地位や存在価値は、戦乱がうち続くことが前提となっていた。しかし、キールの落城とともに全土の平定が成れば、その前提はもろくも崩れる。軍事の拠点だった帝都アンジェリクは、帝国の政治の中心地という側面がよりいっそう大きくなろう」

 ツェントラーの分析に、ロッシュもうなずいた。

「そうか。当然、ブランカも影響を受けるな。もともとはブランカがスピリチュアルの本拠地であり、アンジェリクは前線基地という位置づけだったものが、時代とともに変質してきた。両者の力関係は今や完全に逆転している。皇帝の腹心だったクレギオン閣下が保安部長官に任じられたこと自体、いわばアンジェリクによるブランカ支配強化の意図を露骨に示すものだった」


「ああ、そのとおりだ。アンジェリクにとってのブランカは、今やいくつかの拠点のひとつに過ぎない。他には代えがたい特殊な機能を有しているとはいえ、機能としてだけとらえれば強大な帝国の一部分でしかない。しかし、支配地が大陸のどこまで広がっていこうと、ブランカの重要さは不変だ。スピリチュアルは一人の例外もなくブランカで生まれるのだからな」

 ロッシュはためらうことなくうなずいたが、頭の隅では、ただ一つの例外が今にもゴドフロアが背負うカプセルで起ころうとしていることにも気づいていた。


 ツェントラーはつづけた。

「ブランカの最高権力者である寮母のお力は、象徴的なものだ。人の結びつきの根幹をなす結婚の承認と、未来を託す子どもを授与すること。スピリチュアルにとって神聖で最重要なことだ。それによって、寮母陛下は最大の尊敬と厚い信頼を寄せられている。形のない、精神的な存在――それがブランカそのものの位置づけと重なる。ブランカは聖なる場所だ。何者にも侵略させてはならないし、内部にはけっして異常事態があってはならない」

「ツェントラー、おぬしらしからぬ考え方だな」

「わたしではない。これはクレギオン閣下のお考えだ」

「閣下のだと?」

「大陸全土にスピリチュアルが散っていく時代だからこそ、精神的なよりどころであるブランカの重要性はより大きなものになるとお考えなのだ。閣下は今でも皇帝に定期的に詳細な報告を送ってはいるが、もはや監視者としてのものではない」


 クレギオンがそのような考えでいるというのは意外だったが、その誠実な人柄からすれば、寮母を監視するというような役割をよしとするはずがなかった。

「なるほど、異常事態さえ起こらなければ、報告するものもなくなるのが道理だな……」

「だからこそ、閣下はブランカの住人をことさら厳しく律してきたのだ。ところが、そのことはかならずしもマザーの意に添うものにはならなかった。閣下がずっとお心を砕いてきたにもかかわらず、マザー・ミランディアとの意思の疎通はうまくいっていない。マザーの眼には、閣下はいまだに皇帝の手先としか映っていないだろう」

 カナリエルの問題をめぐるマザー・ミランディアのかたくなな態度を思い起こせば、それはあきらかだ。


「閣下は歯がゆい思いをされているが、マザーの誤解には根深いものがある。そこに持ち上がったのが今回の不祥事だ。マザーのお立場を悪くするつもりなど、クレギオン閣下には毛頭ない。むしろいかに問題化させずに収束させるかに頭を悩ませていた。まさか、そのうえ皇帝陛下が緊急にご帰還なさろうとは思いもよらないことだった。事件を隠しおおすことはもはや不可能だ」

 ロッシュは事態のさまざまな側面を知って慄然とした。


 さらにツェントラーはつづけた。

「ことは皇帝家の家族問題という側面もある。この時期に表立ってマザーと対立することは避けたいだろうし、陛下は、あるいは、おまえやクレギオン閣下の責任を問うのもためらうかもしれん。……だが、執政閣下にはまた別なお考えがあろう」

「なに? マドラン閣下までが、アンジェリクからおいでになったというのか」


 ツェントラーはうなずいた。

「クレギオン閣下は、序列こそ武官の第三位だったが、実力、声望ともに並ぶ者はなく、皇帝のご信頼も篤かった。かたや執政マドラン閣下は文官中の第一人者だ。お二人は幼年学校時代からの好敵手だった。選んだ道はちがったがな。全土の平定が成った今、帝国全体を経営する文官の力はこれまで以上に増すことが確実だ。その手始めとして――」

「クレギオン閣下の追い落としをはかろうというのか!」

 ロッシュは、眼をむいてツェントラーの顔を見下ろした。


 ツェントラーは、ロッシュの荒い語気をいなすように、椅子の上でゆっくりと長い脚を組みかえた。

「まあ、その好機だと考えるだろうな。個人的な対抗心からばかりではない。これまで軍部と執政府は帝国内の役割をたがいに分担し、補完し合う関係だった。しかしこれからは、大陸全体の経営をどちらが主導していくかという、政治的な、いわば縄張り争いをする二大勢力となるだろう。もはや戦場に出ることはできなくとも、政治の場となれば、クレギオン閣下が帝国軍を代表して軍政の指揮をお執りになることは十分可能だ。皇帝の信頼、軍における人望、スピリチュアル人民の間の知名度、いずれにおいても不足はない。抜け目のないマドランなら、この機会をみすみす逃すようなことはすまい」


「そういうことか。今回の事件を、クレギオン閣下の失態としてだけでなく、軍事体制そのものがもはや時流に合っていなかったからだ、という議論の方向に持っていこうとするということなのだな」

 ロッシュの言葉に、ツェントラーはうなずいた。

「軍政のままでいいのかどうか……いつかは文治政治に移行するのが理想だとしても、今がその時期にふさわしいのかどうか、それはわからん。いちがいに文治政治といっても、それをささえていく形態にもさまざまあろうしな。ただ、軍政下のように、華々しくつぎつぎと武勲をたて、飛鳥のように出世することはかなわなくなるだろう。おぬしもわたしも、スピリチュアル社会の成人ではもっとも若年だ。文官として出直す機会も十分にある。黙って大きな変化を受け入れるという手も、ないわけではない」


 ツェントラーは、個人的な保身や処世のすべを語っているのでない。

 それは、長い間クレギオンと語り合ってきた、帝国の未来のほうから逆に現在を見通すような、冷徹で巨視的なツェントラー流の分析だった。


 だが、今のロッシュには、そのような悠長な見方は不可能だった。

「しかし……この事件がその政争のきっかけになるとしたら、見せしめの意味でも、私の未来の立場はかなり希望のないものになるかもしれないのだな」


 ロッシュの苦渋にみちたつぶやきに、ツェントラーは容赦なくうなずき返した。

「わかったか。しかも、ことはおぬしひとりの問題ではない。おぬしの対応しだいで、帝国におけるブランカの地位や寮母のお立場、その体制にかかわるわれわれすべての命運が決まるかもしれんのだ」

 ロッシュには、この緊急事態にツェントラーがわざわざ禁足中の同僚のもとを訪れた理由が、今こそはっきりと理解できた。

「……わかった。私が一人で陛下のもとへ出向こう。カナリエルは婚約者の私が全責任を持って奪還すると。それが認められなければ、責めはすべて私一人が負う。この件を口実にはさせない。保安部にも、いや、ブランカの秩序を維持する機構には、一指も触れさせはしない。クレギオン閣下も、おぬしも、完全に無関係だ」


 ツェントラーは、初めて口の端をゆがめて笑みのようなものをつくった。

「まあ、そう力むな」

「いや、覚悟はできている」

「クレギオン閣下は、そうまではおっしゃっていない。皇帝陛下のお出迎えを指揮するために、大急ぎで執務室を出ていかれた。そろそろプロヴィデンスから内部へお連れした頃だろう。今わたしが言ったことは単なる私見にすぎんが、そう的をはずれているとも思えない。閣下がおまえに伝えるようにとわたしにお命じになったのは、たったひと言だ。だが、それをおっしゃったときの眼は、あきらかにそういう危機感に満ちていた」

「閣下は、何と?」

 ロッシュは、緊張してツェントラーの答えを待った。


「禁足中のロッシュに告げよ。マザー・ミランディアを説得して、かならずや皇帝陛下にご面会させよ、と」

「寮母陛下が、皇帝とお会いになろうとしないというのか?」

「わからん。マザー・ミランディアは、先日保安部へ来られた後、その足で生命回廊へ向かわれた。それ以来、ずっと回廊に閉じこもっておられる。安否さえ不明だ」

「シスターたちはどうしている」

「彼女たちも入れずにもどってきた。それぞれの自室に待機しているはずだ」

「中から鍵をかけておられるのだな」

「解錠器も役に立たん。なにしろ、最高権力者の特権をお持ちだ」

「そうか……」

 ロッシュは唇をかみしめた。


 マザー・ミランディアは、ロッシュにとって幾重にも謎めいた、複雑な人物だった。

 ロッシュの生い立ちに大きな影響をもっていたという意味では、カナリエル以上に重大な存在だったし、ミランディアの考えや、苦悩、悲哀といった感情がどこにあるかが、ロッシュの意識に重くのしかかってくる。

 それを知ることがどれほどつらく、衝撃的であれ、ロッシュが知らずにすますことができないこともまた事実だった。


 ツェントラーが、背後で椅子から立ち上がりながら言った。

「娘の失踪の申し開きをしていただくのはもちろんだが、それにつけこんでブランカの体制に改変をもたらそうとするような動きには、寮母陛下以外に抵抗できる方は存在しない。こうなれば、マザー・ミランディアがどういう対応をなさるにせよ、まずは生命回廊からお出になっていただかねばならない。可能か不可能かを問うている場合ではないのだ。どのような方法をとってでも、そうさせるのがおぬしの任務だ。わかったな、ロッシュ」

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