第二章 Riders on the Storm 草原の嵐
第二章 1 閉ざされた扉
ツェントラーは部屋を出ていった。
ドアが開いたほんの数秒の間に、空洞内にこだます歓呼の叫びと、遠波のような拍手がわき起こるのが聞こえた。
皇帝がクレギオンに先導されて、ちょうど昇降機から小回廊に敷かれた赤絨毯へと進み出たのにちがいない。
ふたたび静まりかえった部屋の中で、ロッシュは自分の思考の中に没みこんだ。
ツェントラーは言っていた。
「歓迎式典の後、皇帝陛下は数時間はお寝みになられるはず。その後で、貴顕の方々に接見されるのが恒例だ。クレギオン閣下は、歓迎式典は寮母のご列席抜きでやり過ごし、接見の儀の開始を午後までなんとか引き伸ばしたいとお考えだ。しかし、キールご入城を控えている皇帝がお急ぎになる可能性もないとは言えん。わかったな、ロッシュ。それに間に合うよう、マザー・ミランディアを……」
生命回廊から引きずり出せというのだ。
そのうえ、カナリエルの逃亡の申し開きをさせなければならない。
たとえマザー・ミランディアが皇帝と面会することを承知してくれたとしても、ロッシュや、クレギオンをはじめとする保安部が安堵するような内容のことを語ってくれるという保証は、もちろんない。
むしろ、『カナリエルがどうしてもと逃亡を望んだからだ』とマザーに居直られたりすれば、原因の追及は婚約者のロッシュにおよぶことになるだろう。
その後の対処のまずさと不首尾については、保安部長官であるクレギオンの口から語られなければならない。
そこにも、ロッシュの関わりと責任が問われてくる。
だいいち、マザー・ミランディア自身、皇帝の帰還のことはおろか、カナリエルが逃亡した奴隷とともにいるのを発見されたことさえ知らずにいるはずだ。
いきなり皇帝の面前に引き出された彼女が、『カナリエルは生命回廊にいる』などと言い出したとしたら、ブランカじゅうの人々や随行してきた貴顕たちに、皇帝に対する寮母の不実がさらされることになる。
そのこと自体が、重大な事件と化してしまうのである。
急がなければならないし、マザー・ミランディアと最初に顔を合わせる人間が、ロッシュ以外の者であってはならなかった。
壁の時計は、もうすぐ五時を指そうとしている。
ロッシュは立ち上がった。
中層部では、ウォークも壁面階段も人で埋めつくされ、謁見の間のほうにむかってすべての視線が注がれていた。
ロッシュは、足音をしのばせるようにして部屋を出た。
そして、昇降機に乗りこんだところで急に考えを変え、ある部屋をめざした。
その人物は、やはり皇帝の出迎えには出ずに部屋にいてくれた。
「ああ、ロッシュさま!」
「アラミク。急ですまないが、私といっしょに生命回廊に行ってもらいたいのだ」
「わかりました。すぐに支度します」
事情をくどくど説明する必要はなかった。
思ったとおり、マザー・ミランディアが生命回廊にこもり、出入口を閉ざしてしまっているという事態は、シスターたちの間にも困惑と動揺を引きおこしていたのだ。
元大臣のだれかが歓迎の挨拶をしていることなどまるで眼中にない様子で、アラミクはロッシュにつづいて昇降機に駆けこんだ。
ロッシュは、ノンストップで生命回廊に向かう特別コードをキーパネルに打ちこんだ。
昇降機が下りはじめるとすぐ、アラミクはロッシュにすがるようにして言った。
「きのうの朝、シスターたちがみんなで集まって生命回廊に向かいました。呼び鈴をいくら鳴らしても、寮母さまはお出になりませんでした。わたくしは夕方にももう一度ひとりで行ってみましたけど、やはりご返事がありません。カナリエルとお二人で、どうしていらっしゃるのでしょうか?」
アラミクは、地味だが印象的で聡明な眼をしており、長い黒髪が落ち着いた雰囲気のただよう容姿によく似合っていた。
心労と不眠のせいか、その眼は赤くうるみ、ほつれ毛が頬にいく筋もかかっているのが目立った。
「生命回廊にいるのは……マザーだけだ。カナリエルは、いない」
「では、噂は本当なのですか?」
「どのような噂が――」
「噂は、しょせん噂ですわ。まさかと耳を疑うようなものから、口にするのも恥ずかしいようなことまで、さまざまです。とてもロッシュさまのお耳に入れられるような内容ではありません。ですが、ブランカから逃亡した奴隷が、カナリエルを連れているというところだけは、どの噂にも共通しているのです」
ロッシュが打った手は、たいして効果がなかったようだ。
噂というものは、単なる憶測にすぎないものの積み重ねによっても、かなり真実に近くなることがある。
追跡隊のうちのだれかがもらしてしまったとも考えられるが、犯人探しをしても意味はなかった。
「それは、事実です」
「やはりそうでしたか……すみません、ロッシュさまにはおつらいことをお尋ねして」
アラミクは悔やむように深々と頭を下げた。
「いや、かまわない。それどころか、あなたには、前もってそのことを承知しておいてほしい。マザー・ミランディアには、こうなったことの真相を、皇帝陛下に対してご説明していただかなければならないのです」
「寮母さまが、それをご存知だと――」
「あなたは聡明な方だ。うすうすお気づきでしょう。マザーのご関与がなければ、奴隷が生命回廊に入りこんでカナリエルを連れ去るなどということが、起こりうるはずがない」
「わかります、わかりますわ。でも……不文律をおんみずから破り、警備の方々をあざむいてまで、寮母さまはカナリエルをお逃がしになられたのです。かならずや、何か深いお考えと悩みがおありだったにちがいありません。それではまるで、寮母さまを罪人かなにかのように引きすえるのと同じではありませんか!」
アラミクは両手で顔をおおって嘆いた。
「そうではない――いや、断じてそのようなことにはしたくない。だからこそ、マザー・ミランディアご自身に謁見の間に出向いていただき、その胸の内をはっきりと申し立てていただくしかないのです」
「なんと残酷な……」
「発端は、もしかすると私とのことなのかもしれない。私一人が責めを負ってすむことなら、すすんで負いもしましょう。だが、事はもはや、私とカナリエルの破局や、マザーお一人の責任問題ではおさまらなくなっている。保安部全体、そして生命回廊のあり方そのものにさえ、累がおよぶ危険性が出てきているのです」
「本当ですか?」
アラミクは、眼を大きく見開いてロッシュを見上げた。
「本当のことです。マザー・ミランディアは、スピリチュアルの故地ブランカの最高責任者でもあらせられる。この失態につけこもうとする勢力が、かならずや出てくるはずなのです。マザーが追い落とされるようなことになれば、生命回廊をささえる体制も無事ではすまなくなるでしょう」
「そんな……」
昇降機が生命回廊に着いた。
ホールには昨夜アラミクが灯したほの暗い照明がそのままになっており、回廊への入口は固く閉ざされていた。
ロッシュが小さくうなずくと、アラミクは意を決したようにうなずき返し、呼び鈴のボタンを押した。
「寮母さま、お応えください……」
アラミクは祈るようにつぶやいたが、いくら待っても扉は開かなかった。
「寮母さま! 寮母さま! アラミクです。そこにいらっしゃったら、どうか扉を開けてください!」
扉の横にある伝声管のふたを開けて呼びかけた。
しかし、やはり返事はなく、アラミクはひざをガックリ折ってしゃがみこんでしまった。
ロッシュが直接自分で呼びかけるのでは最初から相手にされないだろうと考え、アラミクを同行させたのだったが、それも無駄だったようだ。
ロッシュは声を低め、アラミクの肩に手をそえて諭すように言った。
「アラミク、気をしっかり持て。これは十分予期されたことだ。マザー・ミランディアがどうされているか、安否も気づかわれる。頼む、きみはここで待っていてくれ」
アラミクが涙に濡れた顔を上げた。
「ロッシュさまは……」
「もうひとつだけ、残された道がある。それを試してみる。私が生命回廊の中に入りこむことに成功したら、すぐに扉を開けるから」
「どこに行かれるのです。ロッシュさま!」
ロッシュはふり返らず、止めたままにしておいた昇降機にふたたび乗りこんだ。
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