第一章 5 〝謁見の間〟
ロッシュが帰る道筋は、空虚だった。
ブランカじゅうの人々は帰還する皇帝を出迎えるために出払ってしまい、光景としてはふだんの夜明け前となんら変わらないにもかかわらず、巨大な空間は不気味なほどの空虚さで満たされていた。
ただ一か所、人のざわめきが聞こえてくるのは、保安部などの中枢組織が集中している中層部の一画からである。
正式の帰還式典が行われる〝謁見の間〟の設営が、大わらわで行われているのだった。
元来のブランカは、DNAを模した螺旋構造のポッド群と、それらをつなぐウォークや昇降機を備えた大支柱、壁面階段をのぞけば、人工的なもののほとんどない、いたって簡素な構造をしていた。
内壁は掘削されたときのまま今もむき出しになっているし、もちろんフィジカルが基底部の上に建造した高層バラックなど存在するはずがなかった。
そこに手が加えられたのは、おそらくスピリチュアルが『帝国』を称し、皇帝を戴くようになってからのことである。
つまり、外界への進出にともなって、ブランカの内部も改造の必要にせまられたということだ――そう推測するのは、若いロッシュにもさほどむずかしいことではなかった。
最初に中層部のポッド群が数層分取り払われ、ぽっかりと開けた空間が出現した。
そしてそこに、透明な樹脂板を敷きつめた〝小回廊〟という空中の広場が設置された。
そこは帝国の首脳たちが列席する叙任や叙勲などの式典が執り行われる会場となり、幼年学校の競技会の表彰式や卒業式典の場にもあてられた。
その後は、たとえば、増加するフィジカルたちに居住地をあたえるために、それまで荒天時や冬期の訓練場に使用されてきた空洞の基底部の広場が彼らに開放され、今は見苦しい高層バラックとなった建物群が、植物が増殖するようにつぎつぎ建ち並びはじめた。
そして、広場の代替地として、やはり中層部の壁に巨大な横穴が掘られた。
新たな訓練場は幼年学校の生徒が使用することも多く、講義や集会のための講堂や、さらに小教室群、高学年用の寄宿舎なども、そこからより奥深く掘りすすむ形で増設されてきた。
そのようにしてさまざまに手を加えられてきたブランカだったが、三代前の皇帝ウェグランの時代に〝謁見の間〟が造営された。
それは、小回廊の一方を壁面まで伸張し、その先をドーム状に掘削して設えられた。
内壁は重厚な銘木で張り巡らされ、装飾をほどこした列柱が立ち並び、円い高天井はフレスコ画こそ描かれてはいないが漆喰でなめらかに塗り上げられ、巨大なシャンデリアが吊られているという、それまでのブランカには似つかわしくない、いわばフィジカルの〝王朝風〟の豪華な内装で仕上げられていた。
正式な名称は『会堂』というものにすぎないが、諸事に派手好きであった先々代の皇帝オストバルは、その重厚なたたずまいの空間で時間を過ごすのをことに好んだ。
式典の際には、奥のきざはしの上にすえられた玉座をフィジカルの華美な布で飾りたて、そこにゆったりと座して小回廊で執りおこなわれる儀式を満足げに見下ろしていたという。
しかし、大きな開口部を光沢のある豪奢な垂れ幕がなかばおおっているために、壁面階段やブリッジを埋めつくす一般のスピリチュアルたちには、ほとんど皇帝の姿を眼にすることができなかった。
そのせいで、皇帝がそこから姿を現す瞬間はよけいに荘厳な雰囲気が立ちこめ、あるいは歓呼の声で満たされるような、特別な機会となっていった。
会堂が造られてからは、ブランカにおける皇帝というものの位置づけさえ、しだいに変化してきた。
ことに、貴顕の人々が呼び集められ、垂れ幕の内側にある大扉がピタリと閉ざされるとき、そこは一般のスピリチュアルが一歩も足を踏み入れることのかなわない聖域のごときものとなった。
皇帝位の絶対化がいっそう加速し、いつしか人々の間では、〝謁見の間〟という通称のほうがふつうに用いられるようになっていった。
来たときと同様に壁面階段を途中まで降りてきたロッシュは、小回廊の昇降機前から謁見の間にむかって赤い絨毯が敷きこまれていくのを眼にした。
そういう様式は、フィジカルの宮廷でのしきたりにならって、外部に対する示威的な意味でアンジェリクでは取り入れられていたが、ブランカではかつてなかったことだった。
皇帝の権威の高さと大きさを誇示する世俗的な意匠が、またひとつつけ加えられたのだ。
(あれでは、小回廊より下層では、絨毯にさえぎられて、皇帝の姿をほとんど見ることができない者も出てくるにちがいない……)
しばらくその様子を眺めていたが、表の広場につづく中央通路から数多くの足音と人の声が聞こえはじめた。
ロッシュは手近なブリッジを渡り、昇降機のボタンを押した。
自分の部屋に帰り着いたロッシュは、ドアを解錠しようとして驚いた。
鍵がかかっていなかったのだ。
(おかしい……)
ドアを細めに開け、すき間から中をのぞくと、ひとつの人影があった。
机の上の書見用の小さな明かりだけが灯されていた。
ドアの正面に当たる場所に椅子を引き出してきて、脚を組んで座っている。
隠れるつもりはないのだ。
顔はうつむいて影になっていたが、眠っているのでないことは一見してわかったし、それがだれなのかもすぐにわかった。
「ツェントラーか」
ロッシュはドアを開けながら声をかけた。
他人の部屋に無断で入るとはなにごとだ、となじりたいところだったが、そういう言葉はもっとも通じない相手である。
「どこに行っていた。おぬしは謹慎中の身のはずだぞ」
「そのことなら、クレギオン閣下に個人的に命じられたにすぎない。申し開きは閣下に対してする」
ロッシュの居直るような態度に、ツェントラーは一瞬むっとしかけたが、どのような場合にも感情的にならないのが彼の最大の特徴だった。
「……では、そうするがいい。だが、もはやその必要はないかもしれん」
「釈明しても無駄だというのか」
「いや。今やそれどころではない、ということだ」
「皇帝陛下に……直接、釈明せよと」
ロッシュは、しぼり出すような声でつぶやいた。
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