第四章 5 寮母のしたたかさ

 ロッシュの出世の早さは、敵を作ることにもなるだろうが、それだけ注目を集め、ロッシュがめざすところ、主張するところを広く知らしめることになる。

 まだまだ数は足りないが、信頼するにあたいする者は、いずれ続々と集まってくるだろう。

 それまでは、けっして足元をすくわれないようにすること。何よりも、自ら失態を演じないことだった。


 そうすると、やはりカナリエルのことに思考はもどっていく。

 彼女のことを、ロッシュ自身は本当のところどうとらえていたのか。

 どういう存在だったのか。

 マザー・ミランディアに問いつめられるまでもなく、カナリエルに対する態度や気持ちに不遜さや誤解がなかったのかどうかと、どうしても考えてしまう。

 しかし、いくら自分の内部を手探りしてみたところで、カナリエルがブランカから逃亡したという事態を穏便に収束させることに、何の役にも立たないことはあきらかだった。

 内省するのは、すべてが解決してからでいい。


 今のロッシュが差し迫って求められているのは、事態をどこへ持って行けばいいのか、そのためにはどういう手を打てばいいのか――それを考え、決断することだった。

 一個小隊のスピリチュアル兵が全滅したことは、逃亡した奴隷一人の力を見くびっていたためだという事実を、ほぼそのまま報告すればいい。

 全滅という出来事そのものが数年来ブランカにはなかった失態だが、綱紀や軍紀のゆるみといったたぐいの漠然とした非難の声が上がる程度のことだろう。

 すくなくとも、クレギオンがアンジェリクから管理責任を追及されるようなことにはならないはずだ。


 埋葬に同行した警備兵の中で生き残った者たち、とりわけカナリエルを直接目撃したファロンをどうするかだった。

 当面は救護棟の個室に押しこめて、外部との接触を断つことにするつもりだった。

 そして、ファロンの意識がもどったらすぐに面会し、カナリエルの名を口に出すことがけっして得にならないことを伝える。

 これはなにも、取り引きを持ちかけるということではなく、事件の全体が露見して騒ぎになれば、ファロンの関与は共犯に問われかねない、と警告するだけのことである。

 もちろん、それがクレギオン長官の意向であるとつけ加える。

 保安部からだれか信頼できる者をつかわして伝えるのであれば、いざとなってもロッシュ自身がファロンに弱みを握られることにはならない。

 棺の中に女がいたと報告した警備兵も、ファロン同様に救護棟の別室に隔離させるが、こちらにはカナリエルだとは知られていない分、捜査の進展があるまで他言を控えるように命じておくだけでいい。


 これらの処置と同時に、まったく別の方面から、フィジカルの奉公人の女が奴隷の埋葬人と駆け落ちしたらしいという噂を流させる。

 ブランカに居住するフィジカルの実数を全体として把握している者はほとんどいないから、信憑性を疑われることはまずない。

 女を目撃した警備兵はもちろんのこと、彼の報告をロッシュといっしょに聞いて箝口令を敷かれている者たちも、噂のほうを信じて納得することだろう。


 残るは、カナリエルの追跡だ。

 もちろん、明朝にはロッシュが自ら追跡隊の先頭に立つつもりだった。

 クレギオンに反対される理由は、もうないはずである。

 むしろカナリエルを秘密裏にブランカに連れ帰るとなれば、公式に部隊を派遣することはむずかしい。

 秘密を厳守することができる、少数精鋭の追跡隊を編成しなければならない。

 となれば、指揮をとるべき者はまちがいなくロッシュだ。

 エルンファードに協力を頼むことも可能だろう。

 それに、明日から本部付きになるラムドなら、まだ具体的な仕事が決まっていない分、自由に動かすことができる。


「おい、ロッシュ。何をぼんやりしている。もうすぐ裏ゲートだ。おまえのおかげで、みんなずいぶん楽ができたよ。礼を言うぞ」

 ウォルセンが言い、携帯灯を上下させてフィジカルの兵士たちに馬から降りるように指示した。


 ロッシュの胸にめばえた小さな希望がけっして不可能なものでないことを示すように、ブランカの裏ゲートの明かりが、眼下の闇の中にぼんやりと見えはじめた。


「ロッシュどの、お待ちを――」

 クレギオンの女性秘書官が、秘密めかしたささやき声で言いながら、ロッシュの前に立ちはだかった。

 ロッシュは立ち止まり、形のいい眉をひそめて長官室のほうを見やった。

 ドアは閉じている。

 秘書官の眼に迷いのようなものがかすめるのを見て取ると、ロッシュは秘書官の肩をゆっくり押しのけ、ドア口へ進んだ。


 部屋の中には、二人の男女が立ったまま向かい合っていた。

 身近な人物であるにもかかわらず、〝二人の男女〟というのがもっともふさわしいほど、両方とも見たこともない険しい表情をしていた。

「この者はだれです。人払いをお願いしたはずですよ」

 女のほうが、固いその表情のまま顔をめぐらせ、ロッシュを見やって言った。

「私はお話を聞く資格があります。当事者ですから」

「ほう、そうですか。それは知りませんでした。……でも、わたくしから言うべきことは、もう何もありません」

 マザー・ミランディアは、ロッシュをあっさり無視してクレギオンのほうへ向き直り、かたくなな態度で言った。


「しかし、現にスピリチュアル兵の死者が出ております。われわれとしては、奴隷の捜索を続行せざるをえません」

 クレギオンも表情を崩さず、ねばり強く言い返した。

「ですから、それはわたくしひとりの責任だと言っているのです。その奴隷を解放してやることをあなた方に前もって告げておけば、このような行き違いは起こらず、犠牲者も出なかったわけですから」

「どうかご理解願いたい、マザー。理由はどうあれ、起こってしまったことに対処するのは、われわれの職務なのです」

「そう。では、勝手になさい。とにかく、生命回廊に関することは、すべてわたくしの管轄です。これ以後も、あそこに立ち入ることはもちろんのこと、よけいな口出しはいっさい許しませんからね」

 マザー・ミランディアは、きっぱりと言い切った。

 そしてくるりと身をひるがえすと、迷いのかけらもない歩調でつかつかと部屋から出て行った。

 ロッシュのほうへは、もうちらりとも視線を向けようとしなかった。


「いきなり寮母陛下のほうから訪ねておいでになったのだ」

 クレギオンは、いかにも疲れた様子で、執務椅子にもたれながら言った。

「マザー・ミランディアが、直々にですか?」

「正式な事情聴取の要請が出される前に、先手を打とうとなさったのだろうな。『男子禁制は、そもそも不文律でもなんでもない。奴隷は、どうしても男手の必要な仕事があったから召し入れただけだ』とおっしゃっていた」

「なるほど。それと、時間稼ぎのためですね。不文律への違反がないということになれば、われわれが奴隷の追跡に踏み切るのが、それだけ遅れるとお考えになったのでしょう」

 クレギオンは苦々しげにうなずいた。

「そうだろうな。『埋葬が終わったら、奴隷はそのまま解放してやる約束になっていた』などと、このようなものまで用意なさっていた」

 机の上に置かれた書面を、ロッシュのほうへ押しやった。

『解放許可証』と書かれた手書きの文書だった。

「それを、うっかり奴隷に渡し忘れていたのだそうだ」

 クレギオンは苦笑した。


 まだインクも乾ききっておらず、いかにも即席にでっち上げたものであることは明白だった。

 寮母に奴隷を解放する直接の権限はないから、もちろん有効なものではないのだが、いやしくも寮母の署名と押印があるものを突きつけられれば、それを無視したり突っ返したりできる者は、すくなくともブランカにはいない。

 それに、たとえ無効ではあっても、これを寮母の意向とするなら、奴隷をすぐには逃亡者あつかいできなくなる。

 逮捕ではなく、保護する必要が出てくるのである。

 奴隷の追跡――すなわちカナリエルの追跡が、犯罪者に対する性急で荒っぽいものになることを牽制する効果もあるということだ。

 クレギオンが笑ったように、男子禁制が不文律ではないという居直りと同様、子どもだましのたぐいのものにすぎないが、窮地に追いこまれた母親のなりふりかまわない抵抗のようでいて、寮母のしたたかさの証しであるようにも思えた。


 だが、事態はすでに、そのような小細工が効果を持つような範囲を超えている。

 ロッシュは、派遣した小隊のスピリチュアル兵が全滅したことをクレギオンに報告した。

 クレギオンは、ますます苦りきった表情で聞いていた。


「そして、カナリエルが自ら脱出を望んだということも、確実です」

「うむ……」

「マザー・ミランディアがいくら追跡を妨害なさろうとしても、われわれが極秘で行動することまでは阻止できません。閣下、追跡部隊を編成して出動することを、どうか私にご許可下さるようにお願いします」

「まだ、寮母の娘の逃亡を隠したままにしておけるということだな」

「カナリエルの身柄を密かに確保できれば、逃亡の事実を最後まで隠しとおすことも、不可能ではありません」


「寮母陛下がわしに告げたことは、生命回廊からの正式な意思表明ということになる。男子禁制は不文律ではなく、したがって禁制違反は問題にされないということだ。ただ、今回その手続きにいくつかの行き違いが生じて、結果的に埋葬に同行した警備兵と奴隷との間で争いが起こり、さらに追跡した一個小隊の全滅という事態に立ち至ってしまった、と。……たしかに、筋は通る」

 クレギオンは腕組みして、自らに納得させるように言った。

「そういうことです。マザー・ミランディアは、できるだけカナリエルの追跡を遅らせたいとお考えです。われわれとしては、逃亡の事実そのものを表沙汰にしたくない。双方の思惑があるからこそ、そういう筋書きが可能なのです」

「しかし、その筋を書き上げるためには、秘密を厳守しなければならん」


 ロッシュはうなずき、慎重に言った。

「大編成にはできません。こんどは、私が一人ひとり厳選し、できるかぎり少数精鋭の追跡隊を編成します。むしろ、そのほうが機動力を発揮できるでしょう。逃亡者の一人が私の婚約者のカナリエルであることも、臨時の隊員たちに率直に知らせ、彼らの責任感に訴えて、その身柄確保が最優先であることを徹底させるつもりです」

「それしかあるまいな。だが……どうなのだ、おまえ自身は?」

「迷いはないのか、とおっしゃるのですか?」

「さもなければ、感情的なわだかまりだな。おまえを指揮官にせざるをえないが、わしが指揮官にもっともしたくないのも、やはりおまえなのだ」

「そうですね。私自身は……こう考えることにします。ゴドフロアなる奴隷とカナリエルは、誕生間近な女の子が入ったカプセルをたずさえたまま逃げているようです。放棄していかなかったということは、まだ生きているということでしょう。その子を無事に取りもどすことが私の第一の使命なのだ、と」


 ロッシュは、本当にそう思いこみたかった。

 しかし、彼の脳裏には、その子どもが実は、カナリエルとの結婚によって自分の娘になるかもしれなかったということは、ついに思い浮かぶことはなかった。

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