第四章 6 新たな旅の仲間

 一瞬、ここはどこだ、と思った。


 背中はごつごつした硬い岩に当たっている。

 目が覚めたときに視界が漆黒の闇に閉ざされているのは、いつものことで慣れっこになっている。

 しかし、陰鬱な地下牢とまったく違い、ここには冷たくて新鮮な外気が流れこんでいて、しかもその中に、妙に心をくすぐるような甘い香りがほのかにただよっていた。


(そうか……)

 腕に冷やりとした硬質な感触をあたえているのは、樹脂製のカプセルだ。

 それをはさんで、かすかな寝息が聞こえてくる。


 目覚めたゴドフロアは、驚くほど体力が回復しており、全身にふつふつと力がわいてくることに気づいた。

 カナリエルがあたえた奇妙なあの衝撃、というか、強烈な熱の波動のようなものが引きおこした効果にちがいなかった。


 スピリチュアルにおかしな力があることは、今までの戦いの中でも感じてきたことである。

 味方の兵士が、スピリチュアル兵との取っ組み合いで、絶対有利な体勢になりながらあっさり形勢を逆転されるのを何度か眼にしたことがあった。

 しかし、体格の割に腕力や持続力にやや劣る彼らは、じかに格闘するのをできるだけさける傾向があり、ことにゴドフロア相手の場合には最初から彼の体力を警戒してくるために、それがどういう力なのかを直接経験したことがなかった。


 カナリエルが示した力は、それと似た何かか、あるいはそれが形を変えたものかもしれない。

 フィジカルのゴドフロアにはとうてい想像もつかない現象で、当然得体の知れない恐怖感を覚えずにはいられなかったが、それと同時に、脳がじーんとしびれ、全身がとろけるような、なんともいえない心地よさも感じた。


『代わりに』とカナリエルは言って手を合わせてきた。

 何の〝代わりに〟だったのか?

 そうだ、『スピリチュアルの女にとっての禁断の行為』の代わりにだった。

 そして、眼をつむって唇を突き出してくるような、あの、まるで口づけのようなしぐさ……。


「起きたの?」

 いきなりささやきかけられて、ゴドフロアはどきりとした。

 カナリエルの瞳がほのかな光をたたえている。それはまるで、闇の中に浮かんだ二つの碧い宝石のように神秘的だった。


「よく眠れた?」

 ふたたびカナリエルが問いかけてきた。

「……ああ。おまえのおかげだ。うそみたいに疲れが取れてる」

「よかった。ひと声うめいたっきり、死んだみたいに動かなくなるんだもの。あなたがどうかなってしまったんじゃないかって、とても心配したのよ」

「よく言うぜ。おまえがそうしたくせに」

 カナリエルが含み笑いするのがわかった。

「おまえのほうは、どうなんだ?」

「ええ、ぐっすり眠れたわ。こんなに固いベッドで寝るのは初めてなのにね。きっと、あなたが横にいてくれて安心できたおかげよ」

「おれが気を失っていたからじゃないのか」

「そうかも」

 こんどはゴドフロアもつりこまれて笑ってしまった。

 そして、今が出発すべきそのときだと直感した。


 早めに出発したのは、いい判断だった。

 リールを使って一気に飛んで距離を稼ぐのではなく、コードを命綱にして、最初の崖下りと同じように手探り足探りで下りはじめた。

 コードを全部つなぎ合わせても崖の残りの高さに足りないからだし、最初に使いきってしまえば、いざというときになって自由がきかなくなるからだった。


 カナリエルが持ったリールでコードを繰り出す速さを調節できるので、ゴドフロアは一〇メートルほどを一息に降り、そこで足場と手がかりになる岩を探せばよかった。

 カナリエルのほうはかなり夜目がきくから、月明かりがあれば、コードを岩からはずしたうえで自力で降りるのにほとんど不自由はない。

 行程は思っていた以上にはかどった。


 あたりが青っぽい単色の薄闇に変わっていくころには、針葉樹林がすぐ足の先に届きそうに見えるところまで達していた。

「聞こえない? 馬のひづめの音よ」

「やっぱり崖の上からだな」

 街道のほうから回りこんでくるのでは、地形から考えても遠回りになる。

 また、夜のうちに出発したとしても、馬で深い森を抜けてくるのは難しいし、徒歩ではいつになったら崖下に到着できるかわからない。

 夜明けとともに崖を下ってくるのが、やはりいちばん妥当な作戦だ。

 挟み撃ちはありえなかった。


「行くぞ、カナリエル」

 二人は満を持してリールを使い、すべるようにたちまち崖を下りきった。

 自力でかなりの距離を降りたから、コードはまだ数本残っている。

 これから先のことを考えて残したのはもちろんだが、ゴドフロアにはすぐに役立てる腹づもりもあった。


 崖に近い針葉樹の根元には、前日の戦いの犠牲者の遺体があちこちに転がっていた。

 地面に叩きつけられた衝撃のせいで、奇妙な姿勢をとった無残な死体もある。

 カナリエルは思わず吐き気をおぼえたが、面頰をつけていて顔が見えないのがわずかな救いだった。

 二人は、激しい雨が作った細い流れの跡をたどりはじめた。

 下生えの草が一方向になぎ倒されていて、低いほうへ、低いほうへとつづいている。

 まだぬかるんでいる場所もあり、油断していると足をとられそうになる。

 すぐに水が流れている小川になり、それが何本も集まって沢になっていった。


「思ったとおりだ」

 ゴドフロアが立ち止まったのは、沢からさらに、岩がごろごろしている渓流に出たときだった。

 数メートルの川幅があり、両側は、切り立った岩と、水流で削り取られた土がむき出しになった岸壁だ。

 澄んだ水が、岩と岩の間を縫うように流れている。

 流れの中に足を踏み入れたものの、ゴドフロアは、すぐに歩きだそうとはせず、頭上をふり仰いでゆっくりと見まわしていく。

「急がなくていいの?」

 カナリエルが、後ろを不安そうにふり返りながら尋ねる。

 地図に示されているのはこの谷川の下流の方向だ。

 指示はそこまでしかないが、行けば道に達するか、何らかの判断をつけられる手がかりがあるということなのだろう。

「いや、急ごう」


 ちょうど手ごろな枝が頭上に張り出しているのを見つけた。

 ゴドフロアはカギを重りにしてコードをぐるぐる振りまわし、投げ縄の要領でうまくその枝にからみつかせる。

 リールのおかげで、カナリエルを抱えても、そこまで身体を引き上げるのは簡単だった。

 つぎにまた、さらに高い木の枝を選んで同じことをくり返して登り、最後はひときわ高い針葉樹の梢までたどり着いた。


「追跡隊よ」

 カナリエルが、梢と梢の間を指さした。

 山々の頂をようやく越えた朝陽が、水の涸れた巨大な滝のようにそそり立つ絶壁を照らし出していた。

 きのうの戦いがあったあたりの高さで二〇人ほどが横に展開し、リールも使わずに壁面をなめるように調べながら降りてきている。

「こんどの指揮官は、馬鹿じゃないな」

「どうしてわかるの?」

「あの手は、おれも考えなかったわけじゃない。気の短い指揮官だったら、一刻も早く追いつこうとして、一気に崖を降下してくるだろう。そしたら、おれたちは洞穴に隠れたままそれをやり過ごしておいて、敵の背後からゆっくり降りればいい。下に着いたら、そいつらとは反対の方向に逃げるだけだ。敵の裏をかくのさ。だが、今のやつらは、その手を使われる可能性をつぶそうとしているんだ」

「なるほどね」

 カナリエルは感心した表情で、肩を抱いているゴドフロアを頼もしそうに見上げた。


 ほどなく二人が先刻までひそんでいた穴ぐらが発見され、数人が集まって中を調べているらしい様子が見えた。

 そこでもう切り上げていっせいに降りてくるかと思ったら、穴ぐらを起点にさらに広く散開して、岩壁のあちこちをより綿密に調べていく。

 それを眺めて、ゴドフロアは笑った。

「なかなか見上げた野郎じゃないか。ま、おれもたぶんそうするがな」

 指揮官は、別の穴ぐらに移動して隠れている可能性もあると考えているのだ。

 慎重というより、執念深いというべきだった。

 さも愉快そうなゴドフロアとは逆に、カナリエルは、しだいに不安げなおももちになっていった。

 そうまでする指揮官とは、ロッシュ以外には考えられなかった。


 スピリチュアルの追跡隊が全員崖下に降りきるまで、じれったいほどの時間がかかった。

 しかし、その後沢づたいに渓流との合流点に達するまでには、さほどの時間を要しなかった。

 二人が崖を降りるのに最後に使ったコードを発見し、その真下から草や湿った地面に残されている足跡をたどって来たのだ。


 きのうの小隊とはちがって、よろいや面頬や肩かけマントを着けていず、いずれも探索に適した軽装だった。

 スピリチュアルには、敵の眼をあざむくために迷彩服をまとうというような感性はまるっきりなく、身体にぴったり合った鮮やかな濃紺の装束は、周囲の自然の風景からくっきりと際立っている。

 戦い方にもそれは表れていて、彼らはよほどの危険がなければ姿を隠そうとはしないし、不意をつく奇襲攻撃もめったにしない。

 気位の高さは、スピリチュアルならではの特徴だった。


 彼らはザブザブとむぞうさに流れの中に踏みこんでくると、迷わず下流にむかって歩きだそうとする。

 それを押しとどめた男がいた。

 男は、軽い身のこなしで巨岩の上にひらりと跳び上がると、両岸の樹木をぐるりと見渡した。


 カナリエルはどきりとした。

「あれがロッシュだな……」

 ゴドフロアのささやきに、カナリエルは男を見つめたまま蒼白な顔でうなずいた。

 さきほどゴドフロアがしたように、ロッシュは渓流の上に差しかかっている木の枝を見上げ、それからつぎに飛び移ったまさにその木を指さした。

「やばいぞ。こちらのたくらみが完全に見抜かれてる」

 ゴドフロアは舌打ちした。


 渓流を見つけてそれを下流へとたどるのは、道に迷わずに山を下るもっとも確実な方法である。

 足跡が渓流にむかってつづいていれば、その経路をとったと考えるのが当然だ。

 追っ手が近づいていることが確実だとしても、ほかに選択の余地はないのである。

 渓流に入れば水の中を歩くことになるから足跡は残らないが、向かう方向は下流に決まっている。

 追跡隊をそちらに誘導し、彼らの背後をとるのがゴドフロアのねらいだったのだ。

 彼らはゴドフロアたちを追っているつもりで、逃走経路に選ぶ可能性がもっとも高い道筋をたどっていくだろう。

 彼らを先に行かせ、その動きをつねに見張りながら後にぴったりついていけば、労せずしてブランカから遠ざかることができるはずだった。


 ロッシュの指示で一人の兵士が枝に登り、さらに高い木に飛び移った。

 それにつづいて、一人、また一人と同じ枝に登っては、そこからコードを投げて届きそうな木をそれぞれが選んで飛び移っていく。

 スピリチュアルの精鋭部隊の身のこなしは、どの兵士をとってもみごとなものだった。

 彼らはコードなど使わなかった。

 サルのような恐ろしいほどの身軽さで、走るように木を登り、枝から枝へひょいひょいと飛翔した。

 木を一本ずつすべて調べる必要はない。

 ある程度の距離までは、葉むらの間をすかして、周囲の木々に人影がないかどうか確認することができるからだ。


「どうだ、まだ見つからないか」

 ロッシュが隊員たちに呼びかける。

 ゴドフロアは唇をなめ、カナリエルはこわごわと肩をすくめた。

 二〇人前後の人数にもかかわらず、捜索の網はたちまち半径五〇メートルほどの範囲にまで広がった。

「梢まで登ったら、ゆっくり降りてこい。つねに周りの木に気を配るのを忘れるな。下まで来たら、最後に地面に足跡がないか確認しろ」

 厳しいロッシュの声が渓流にこだました。


 やがて木々の間から兵士が一人ひとり姿を現し、岸壁の上から渓流の岩に身軽に飛び降りて、ロッシュの前へもどって来た。

 浮かない顔をして、だれもが首を横に振った。

 そのときだった。

「ぎゃあっ――」

 何かの叫び声が上がり、つづいてバシャバシャと水の中を走る音が聞こえた。


 ロッシュたちの顔がいっせいに下流のほうへ向けられる。

 つぎの瞬間には追跡隊全員が駆けだしていた。

 ロッシュは岩の上に跳び上がり、数メートルとばしで岩から岩へと跳び移っていく。

 恐ろしいほどの跳躍力とバランス感覚だ。

 隊員たちもそれにならって、つぎつぎ岩の上を跳躍していった。


 その場から完全にひと気が絶えたのを見定めて、ゴドフロアとカナリエルは身を隠していた場所からはい出した。

 そこは、ロッシュたちが向かった方向とは正反対の、沢が渓流に流れこんでいる地点から三〇メートルほど上流にさかのぼった岩陰である。

 うまいことに葉の密集した灌木が流れの上に張り出していて、木立に登った兵士たちの視線からもさえぎってくれた。


 断崖でのロッシュの驚くほどの慎重さと鮮やかな機転を目の当たりにして、ゴドフロアは樹上にひそんでいてさえ危険だと判断した。

 案のじょう、そのくわだてはロッシュにみごとに見抜かれることになった。

 追跡隊が追いつく寸前、二人は作戦を変更し、コードも使わないようにしてふたたび下に降りてきていたのである。


 だが、地上に降りれば、当然足跡が地面についてしまう。

 残る隠れ場所は、やはり渓流の中しかなかった。

 隊員たちが最初迷わず下流にむかって歩きだしたように、まさか上流のほうには眼をつけないだろうとゴドフロアが判断して選び直した場所だったのだが、実際のところ、それでもロッシュをあざむき通せたかどうかわからない。

 偶然あの悲鳴のような声が聞こえてこなかったらと考えると、背筋が寒くなる思いがした。


「あの声は何だったのかしら。人間のもののようにも聞こえたけど……」

「さあな。それを調べるのは、やつらにまかせておこう。おれたちは今のうちにできるだけここから離れるんだ」

 ゴドフロアはカナリエルの手を引き、急いで歩きだした。

「え、こっち? 上流のほうじゃないの?」

 下流へ向かおうとするゴドフロアに、カナリエルは非難するように問いかけた。

「ちがう。渓流に降りてきたところから、もと来た沢へもどるんだ。一度たどった場所というのはいちばんの盲点なのさ。だれだって、ほかをしらみつぶしにしてからでなければ、そこをもう一度探してみようとは思わないものだからな」

「まるでだまし合いね」

「まったくだ。これで、思いつけるだけの手は全部打ったことになる。すっからかんだ。しかし、ロッシュにはまたあっさり勘づかれるかもしれん」

 厳しく引きしめられたゴドフロアの横顔は、その言葉が誇張でもなんでもないことを物語っていた。


 ゴドフロアはさらに、念には念を入れた。

 渓流から沢にもどってしばらくの間は、足跡が渓流に向かっているように見せかけるために、カナリエルに後ろ向きに歩くように指示した。

 しかも、最初の数十メートルは、自分たちの後から来た追跡隊の足跡の上から跡をつけないよう、細心の注意を払わせた。


「妙なことをしているんだね」


 その、拍子抜けするほどのんびりとした声が聞こえてきたのは、二人が後ろ向きにそろそろと歩きだしてから一〇〇メートルほど来たところだった。

 ゴドフロアとカナリエルは、飛び上がりそうなくらい驚いてふり返った。


「だれだ、おまえは!」

 ゴドフロアはとっさに短剣を抜いて身構え、カナリエルはその後ろにすがりつくように身を隠した。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。ぼくは怪しい者じゃない」

 もしゃもしゃした巻き毛の若者が、武器を持っていないことを示そうとするように両手をヒラヒラさせながら、横手の斜面からゆっくり降りてきた。

 たしかに、肩かけの小さなかばんを後ろにまわして背負っているだけだし、長いブーツをはき、スピリチュアルの軍装とは似ても似つかない旅装束のような格好をしている。


「十分怪しいさ。ブランカにほど近いこんなところに、まともなフィジカルがいるわけがない。盗賊か、それともスピリチュアルに雇われた犬か」

 ゴドフロアは、渓流のほうへも油断なく眼を配りながら、若者を問いつめた。

「たしかに、スピリチュアルに雇われたんだけどね」

 若者は、まったく隠しだてするようなそぶりも見せず、あっさりそれを認めた。

「じゃ、何も聞いてないのかい?」

「何のことを言っているんだ?」

「寮母さまからさ」

「えっ」

 寮母と聞いて、カナリエルが声を上げた。


「ぼくは、寮母さまに雇われたんだよ。ブランカから逃げ出してくる娘の手助けをしてやってくれってな。それで、こうして待ってたってわけさ」

「じゃ、おまえは……」

「そう、旅の仲間だよ。ステファンって呼んでくれ。よろしくな――」

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