第二章 4 風と光のゆくえ

 ミランディアは、がらんとした寒々しい部屋の中にいた。


 照明はひとつもつけていない。

 天窓には厚い遮光カーテンが引かれたままだった。

 そのすき間から細い光がひとすじ漏れていて、それが拡散して壁や造りつけの家具をしらじらと浮かび上がらせている。


 生命回廊からずっと身につけていたフードつきの重いマントを脱ぎ捨て、靴も脱いでベッドの上に座っていた。

 寮母の象徴のようになっている装飾的に結い上げた髪も解き、肩の後ろに流している。ひざを抱えたその格好は、まるで若い娘のようだった。


(カナリエルはどこまで行ったかしら……)


 考えてみれば、ミランディアが想像できる範囲は、南側の尾根づたいにある『日溜まりの丘』までだった。

 春から夏にかけて、その一帯はさまざまな高山植物が花盛りを迎える。

 ブランカの娘たちは、長くて憂鬱な冬が終わった後の一時期に限って、監視つきではあるが、連れ立って花摘みに出かけることが許される。

 歌をうたい、追いかけっこをし、おしゃべりを楽しみ、子犬たちのようにたわむれる。

 そうやってうららかな春の貴重な一日を過ごしたものだった。


 皆兵制度を謳っているために、幼年学校では女子にも厳しい軍事訓練があった。

 武器の取りあつかいから乗馬まで、成人する前にひととおりの教育を受ける。

 その一環としての野外の行軍や騎行訓練は、女子には過酷なものだった。

 周りの景色に気を配る余裕などまるでなく、ついて行くのがやっとだったというつらい思い出しか残っていない。


 カナリエルが運よく夜まで逃げつづけられれば、もしかしたらミランディアが経験したブランカからもっとも遠い距離をあっさり越えてしまうかもしれない。

 不思議なことに、娘の安否を気づかうというより、ミランディアはむしろうらやむような気持ちだった。


 カナリエルから胸のうちを明かされたのは、つい数週間前のことだ。

 面会を受けたミランディアは、結婚生活についてのあれこれの相談だろうと、笑顔で出迎えたのだった。

 すぐにそれが、ただならぬ悩みと決意の告白であることがわかった。


「ロッシュの申しこみを、あなたはあんなに喜んでいたではありませんか」

「ええ。でも、心臓がどきどきするのを感じれば感じるほど、それがほんとうは、わくわくときめくような気持ちをあらわしているのじゃなく、困惑と苦痛の表れだということがわかってきたのです」

「ロッシュとは、うまくいきそうにないと思うの?」

「そうなのでしょうか……いえ、わかりません。もちろん、あの方は、わたしの親しい仲間たちのだれもがあこがれる素晴らしい男性です。素晴らしすぎて、わたしなんかではとてもついて行けそうにないと思うくらい」

「あなたには、ロッシュと並んでもぜんぜん見劣りのしない、スピリチュアル女性としての素晴らしい魅力と知性がそなわっていると思いますよ」


「いいえ、ちがうんです。あの方に好かれて、というか、あの方に『私にはあなたしかいない』と言われて、初めて自分というものがわかった――というか、わたしというものの姿が、あの方の冷静で、それでいながら情熱的な眼で見つめられることで、わたし自身にもやっと見えてきたのです」

「あなたの、本当の姿?」

「わたしの心が、ほんとうは何を望んでいるのか――いえ、ずっと何を望んでいたのかということですわ。わかったのです。わたしは自由になりたかったのだと」


 奇妙なことだったが、ミランディアのほうも、娘のカナリエルからそう告白されて初めて、自分が人の親であることの意味と、無上の喜びを感じたのだった。


 寮母だからこそ、血のつながりがないことがどれほど決定的な断絶であるかを知っている。

 容姿の相違はもちろんのこと、ものの見方、考え方で親子がまったく折り合えないケースはめずらしくない。

 それを少しでも解消するために、歴代の寮母は結婚するカップルにできるだけ親しく面接し、二人の性格を見、彼らが作り上げていく家庭を予測したうえで、誕生前の幼体から得られたデータと照合して最適な親子の組み合わせを見つけ出そうとしてきた。

 平等であるはずのスピリチュアル社会に厳然と存在する〝上流〟〝下層〟という階層は、社会に貴重な貢献をする可能性を持つ優秀な子を、それにふさわしい環境の下で育てられる夫婦の元へという選択が何代にもわたって行われてきたことによる不可避的な産物だった。


 しかし、誕生前のデータから読み取れることには限界がある。

 結婚の時期にちょうど誕生を迎える、限られた幼体の中から選ぶしかないという事情もある。

 だから、カップルには男の子か女の子かを希望する権利さえ認められていない。

 にもかかわらず、結果として成功したと言える幸福な組み合わせをどれほど生み出せたかによって、寮母の功績も評価されることになる。


〝賢母〟と称され、大きな尊敬と信頼を寄せられていた先代寮母カザリンは、ミランディアとオルダインの結婚に際して女児をあたえた。

 最初の兵役を終えたばかりのオルダインはすでに英雄の風格を漂わせる美丈夫で、ミランディアはカナリエルほどの派手さはなかったものの、カザリンが自分の後継者にと想定していたほどの聡明さと、優雅ささえ感じさせる美貌を兼ねそなえていた。

 当代随一と騒がれたそのカップルに授けられた子は、父親の勇猛さとも母親の知性ともちがった、くるくるとよく動く大きな眼に生き生きとした好奇心をたたえた活発そうな女の子だった。


(多くの人々に祝福され、だれよりも恵まれた環境に育ち、何ひとつ不満も不足もなく成長してきたはずの娘が、『自由になりたい』と言う……)


 本人の性格にも育て方にも何ら問題はなかったはずである。

 しいて言えば、皇帝の娘らしくとか、寮母の娘らしくと強制したことが一度もなかったことくらいだろうか。

 父親の不在が何のためで、どのように戦い、どれだけの成果を上げているのかは、兵士であるほかの子どもたちの父親のだれよりも詳しく伝えられていた。

 母親とは職場を共にし、その激務と責任の重さ、誠実な仕事ぶりをつねに目の当たりにしてきた。


 それでも自由になりたいという――


 それはわがままだ、恵まれた身分の者の思い上がりだと、人は批判的に評することだろう。

 しかし、ミランディアには、意外なことでも、当惑させることでもなかった。

 衝撃はまるで受けなかった。

 むしろ、やはりそういう結果になったかと、深く納得させられる思いがした。

 娘の言葉に、カナリエルがまちがいなく自分の娘であり、スピリチュアルの誕生の仕組みを超えたところで深くつながった関係がきずかれていたことを確信できたのである。


 もちろん、娘の思いを理解できることと、それを実際の行動に移すことを認めるのは、まったく次元のちがうことである。

 いったんは慰留しようとつとめた。

 結婚を延期するなりして、もう一度冷静になって考えてみなさいと、忠告もした。


 しかし、当のミランディア自身が、娘の心からの願いをかなえてやりたいと、しだいに思うようになった。

 それが偽らざる気持ちだとわかったのだ。

 そしてついにミランディアも決断した。

 むしろ決断することで心が落ち着いた。


 それは思わぬことがきっかけだった。

 帝都アンジェリクから届いた一通の私信である。

 とりたてて重大性を感じさせるような内容ではなかったが、そのことがかえってミランディアに疑念を抱かせた。

 カナリエルが大切な結婚を控えていることなど、まるでちょっとした用事を失念してしまっているだけであるかのような書きぶりが気になった。

 単なる勘ちがいでないとしたら……そこに何かの意図が秘められているのだとしたら……。


 命令を強制するような二通めが届いてしまえば、もう取り返しのつかないことになる。

(カナリエルもやはりわたくしと同じだった……今をおいてその機会はない)

 冷静なまなざしで娘の望みを見つめ直し、それがけっして愚かな選択でも、早まった行動でもないことを確信した。


 今、とうとう旅立ってしまった娘の姿を想像していると、去っていくその背中を見送るというより、カナリエルの身体と同化し、その眼の前に広がっていく新しい光景の中に、どんどん自分自身が入っていくような感覚があった。

 爽快な風が頬をなでて吹き過ぎ、ブランカでは見られないまぶしい夏の光が眼を射る。

 それは、若かった頃のミランディアが夢見た自分の姿だった。

 夢見たばかりではない。もしかすれば、もうすこしで本当になるはずの夢だったのだ……。


 ミランディアはふところにしのばせてあった小ビンを取り出した。

 さきほど生命回廊から持ち帰ったものである。

 子どもたちのカプセルに数滴たらしてやるだけで、どのような苦痛でもたちどころに癒してしまう万能の秘薬。

 これだけの量をいっぺんにあおれば、こんどはそれは、大人の命でもあっさり消し去ることが可能な猛毒になる。

 小ビンを手にしたミランディアは、迷いのかけらもない若々しい微笑を浮かべていた。


 施錠したはずのドアが、カチャリと小さな音をたてた。

 それにつづいて、薄暗がりの中にスッと足を踏み入れる人影があった。


「やっぱり、ここにいらっしゃったのですね」


 低く穏やかではあったが、その声は、ミランディアが顔を合わせることをもっとも恐れていた人物のものだった。

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