(10)

「こほん。……ええと、失礼。取り乱しました」


 皐月が咳払いをして、妙にかしこまった風に言う。この状態に戻るまでの様子を見続けて、俺たち三人は既に瀕死だったりする。なんでこの子、顔を机に突っ伏したと思ったら上目遣いで俺を見つめて、また「あうぅ……」とか言いながら突っ伏したの? 未だに心臓がどきどきしてんだけど。

 まあ、馬鹿話はここまでだ。


「皐月。俺な、お前から話を聞いた後、姉ちゃんと卯月先生に話を聞いてきた」


 まずは報告をする。皐月は、俺の言葉に目を見開き、唇を引き結んだ。


「……そう。あの二人に聞いたんだ。それならだいぶ色んなことを聞けたんじゃない?」

「ああ。……お前のこと、色々聞けた」

「……そう。……そっか」


 皐月は静かに俯いた。長い睫毛が儚げに揺れる。その心には、今どんな感情が渦巻いているんだろう。

 顔を上げて、俺たち1人1人を見つめる。そして気が抜けたような――正確に言えば、気が抜けたように見せている笑みを、力なく浮かべた。


「あーああ。聞いちゃったか。そうだよ、私、そんな感じなの。……生きてるのか死んでるのかも分からない、曖昧な存在。経緯まできちんと聞くと、余計に私の存在が歪に思えるでしょ?」

「……ちがう、お前は生きてるよ。……生きてる」

「ありがとう。そう言ってくれると嬉しい。でもさ、これって結構しんどいんだよ?」


 皐月が自嘲的に笑う。


「学校から出られない……それは比喩で言えば、学生はみんなそう言う所があるよね。よっぽどの勇気や明確な将来のビジョンでも無い限り、この場所を途中で離れる気になんてなれない。あるいは刑務所の囚人なんかも似ているかもしれない。塀の外に出ることは出来ないから」


 でも、と皐月は笑う。胸がざわめいた。


「私は違う。違うんだよ。学校の他の皆みたいな比喩じゃなくて、本当に学校を出ることが出来ないの。言ったよね? 私には学校が開く早朝前の記憶と、完全下校時刻の後の記憶が無いって」

「……ああ」

「私、色々試したんだよ。学校に居て、下校のチャイムが鳴ると意識が消える。じゃあ学校の外に出たら何か変わるんじゃないかって考えた。だからある日ね、私は学校の外に出ようとしたの。授業中だったけど、私が見えているのはその時は卯月先生だけだったし、先生は協力的だったから、特に何も言わなかった。やってみろって背中を押してくれた」


 皐月が席を立つ。机と机の間をゆっくり歩き始めた。その歩調は軽そうで重い。


「結果で言えば、私は校門の外に出られたの」


 皐月が手を広げて、大空を仰ぎ見るように上を見た。しかし程なくして、手をだらりと力無く下げる。


「……やった、私は自由なんだって思って、チャイムが聞こえない場所まで行こうと走り出したの。そしたらね? 走り出してほんの数秒で、見慣れた通学路を懐かしむ暇も無いままに、強烈な目眩が襲ったの」

「……っ」

「立ってられなかった。そのまま膝から崩れ落ちて、どさりと倒れたの。痛みが無いことに気付いて、おかしさに気付いた。呼吸が荒くなって、助けを求めようとして道行く人に手を上げて助けを求めても、誰も助けてくれない」


 皐月が近付いてくる。俺の前に立って、目を伏せた。その表情は暗く沈んでいて、まるで希望など絶え果てたような顔をしている。


「苦しくて、怖くて、悲しくて。……気付いたら、意識を失っていて。気付いたら、次の日の朝だった。私は、教室の自分の席に、座っていた」


 皐月の言葉に、思考が真っ暗闇に覆われる。皐月を取り巻く現状が、想像以上に異常で、異形で、恐ろしかった。


「その時思ったよ。ああ、私はもう、自由になれないんだって。どうしようもないんだって」


 皐月が伏せた顔からぽたぽたと滴が落ちてくる。皐月は――泣いていた。


「皐月……」

「私は、私はね? もう、戻れないんだよ。駄目なの。駄目なんだ。もう駄目に決まってるの」

「皐月」

「どうせ私は救われないんだよ。どうせ匠くんも、薫くんも、更紗ちゃんも、卒業したら私のことを忘れちゃう。卯月先生だってずっとこの学校に居られる訳じゃないから、いずれ私はひとりぼっちになるんだ」

「皐月」

「それでも、私は自分で死ぬことも出来ない。死ぬっていう恐怖は誰よりも知ってる。知ってしまっているから。……あーああ、こんなこと、話したくなかったんだけどね。これ以上私に関わると、辛くなるだけだよ。だからみんな、ね? もうおわか――」

「皐月!!」

「っ!」


 気付けば、俺は立ち上がって、皐月を強く抱きしめていた。腕の中の彼女は、今までのどんな想像よりも柔らかくて、良い匂いがして――生きているんだと、確かにそう思えた。


「……匠、くん? 離してよ。分かるでしょ? 私は、私は、私は……」


 皐月の声が震えている。


「……つらかったよな。お前、今までずっと怖かったろ。眠れない夜さえ過ごせなくて、相談したって解決策は見えなくって。……つらかった、よな」


 気付けば俺の視界も滲んでいる。皐月の身体が、ぶるぶると震えた。


「う……うぅぅ……匠くん、うぅぅぅ……」


 皐月の声音がどんどん弱々しいものに変わっていく。今まで我慢して、ためにためていた感情が、堰を切って溢れ出そうとしているかのようだ。


「大丈夫だ、皐月。お前は生きてる。生きてるんだ」



「うぅっ、ひっく、えぐっ、うわ、うわぁぁぁぁぁぁ……っ」



 皐月が大声を上げて泣き始めた。肩を濡らす温かい滴が、感情の奔流を知らせてくれる。


 笑顔が素敵で。

 下ネタばっかり言って。

 優しくて。

 そして、泣くことが出来る。温かい涙を流すことが出来る。


 こんな子が、生きていないなんて誰が言える?

 言わせない。絶対に、言わせない。


「よーしよしよし……」


 皐月の背中をぽんぽんと撫でて、思う存分泣かせる。横を見やると、薫と更紗もぽろぽろと涙を流していた。

 やがて皐月が落ち着いた頃、皐月の肩を掴んで身体をゆっくりと離し、正面から見つめた。


「皐月」

「はっ、はいっ」


 俺の力強い呼びかけに、皐月は背筋をぴんと張る。


「お前は、生きてる」

「う、うん」

「復唱しちまえ! はい、『私は生きてる!』」

「わ、私は生きてる!」

「生きてる!」

「生きてる!」

「生きてる!!」

「生きてる!!」

「生きてるんだー!!」

「生きてるんだー!!」


 まるで軍隊の教官のごとき勢いで、皐月に復唱させ続ける。強引な流れだったが、皐月の顔つきが変わってきたのが嬉しかった。


「皐月!」

「は、はいっ!」

「お前は、必ず、俺が、俺たちが、助ける」

「……っ」


 皐月が唇を引き結び、目に涙を浮かべた。


「絶対に助ける。……だから、待っててくれ。笑っててくれ。つらい時はいつでも泣いてて良い。俺は、俺たちは、お前がまた心の底から笑えるように、頑張るから。な?」


 皐月の目から、綺麗な涙の粒がぽろぽろと溢れてきた。


「……匠くん、ずるいよ、そんなこと言われたら……う、うぅぅ……ありがとう……ありがとう……うわぁぁぁぁぁ……っ」


 皐月が再び、わんわんと泣く。俺は皐月をがっしり抱きしめながら、薫と更紗と目を合わせて頷いた。


 今はまだ、分からないことが多すぎる。

 何をやったら良いかも分からない。

 でも、絶対、絶対に、助ける。



 ……皐月の生活を、人生を、命を、取り戻す。



 そう、固く心に誓った。

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