(8)
それからしばらくして。
俺たちは先生の紅茶を飲んで、ようやく落ち着いていた。まあ俺はいつも通りだったんだけど、薫と更紗がそれはもうひどいボコられ方をしていたから、大方回復した今もどこか表情に影がある。
「しかしあれですね、先生の紅茶、すごい美味しいですね」
「うむ、そう言ってもらえて良かった」
実際、先生の淹れてくれた紅茶は、全く紅茶に詳しくない俺でも美味しいと思えた。種類なんてせいぜいダージリンくらいしか知らないんだけど、今度教えてもらおうかな。
もう一口、こくり。
ほふーん。
落ち着く。
「本当に美味しいです」
「そうか、そんなに私を抱きたいか」
『ごふぁっ!?』
俺と薫と更紗が同時にむせた。
「いや、先生何言ってんですか……」
「さっきは乙瀬と上原ばかりイジってしまったから、その反動でつい、な。ああ、乙瀬とは薫の苗字で、上原は更紗の苗字だからな」
「理由もびっくりだし補則説明もびっくりだよ」
「だって久しく苗字で読んでないだろう? 忘れられるぞ」
「誰にだ」
「神にだ」
「先生、あんまり言う内容があれだとどん引きますよ」
「そう言うな、私は結構お前を好いているんだぞ」
「え……」
「主に性……」
「……格?」
「いや。性……的に」
「あんた頭おかしいのか」
「私の肩を掴んで押し倒して足の間に膝を入れておきながら何を言っている」
「話を微妙に盛るなよ!?」
「え……匠……?」
「匠くん……?」
「違うんだ。今のは一部が嘘で」
『一部が……?』
「せんせい、ぼくかえります」
「子どもみたいな口調で意思表示した所で逃さんぞ。いくら口調を子どもっぽくしても、お前の身体はもう立派な男なんだぞ。……そう、立派な、男なんだ」
「ねえなんで二回言ったの? ねえなんで?」
「すごいね更紗さん。匠、どんどん仲良くなってる風にタメ口を混ぜてきてるよ」
「そうだね、すごいね、薫くん。……あたしもああいう風に距離を縮めたら良いのかな……」
「え……更紗さん?」
「あ、な、何でもないよ……?」
「人が下ネタで地獄を見てる時に何を乳繰り合っとんじゃ貴様ら」
「乳繰り合ってるのはそっちだろ? 匠」
「よせ、誤解が広まる」
「匠くん。知らないと思うけど、あたし新聞部なんだー」
「知ってるよ、もう覚えたよ。ていうか何でそれ今言ったの? 広めるの?」
「寿退職だな。私も捨てたもんじゃない」
「いや、先生は死ぬほど魅力的……じゃなくて。一体どこまで本気なんですか……」
「あ、それは、まあ、その、……な?」
「うわー、更紗さん。先生、匠に思い切り女の子の顔を見せてるよ」
「すごい可愛いね、薫くん。写真に収めたいくらい」
「おいやめろ記事にして貼り出そうとするな。先生もマジの顔やめて。ときめくから。すごいときめくから」
「橘が私の肩を掴んだ時の力強さは……忘れられそうもない」
「ふむふむ……メモメモ……」
「小説の入りみたいなテイストで語り出すんじゃねえよ。あと更紗、メモを取るな、メモを」
「ところで橘」
「なんでしょう」
「私はお前をイジるより弄りたいんだが」
「何と言うことでしょう! 表記が違うだけであっと言う間に卑猥な響きに!」
こんな感じで。
もう一度先生が紅茶を淹れてくれて場が落ち着くまで、俺たちはひたすらぎゃーぎゃー騒いでいた。
「さて」
二度目の放課後ティータイムを過ごした所で、先生が真剣な顔をした。気持ちを引き締めると、先生は俺をじっと見た。
「橘の無駄話のせいで、話がだいぶ滞っていた訳だが」
「先生のブーメラン、特大すぎます」
「うるさい。咥えるぞ」
「字がやばい、字が」
まったく、橘は卑猥だな……と信じられないくらい自分のことを棚上げした台詞を言うと、先生はゆっくり、深く息を吐いた。
「……さて、皐月のことだが」
『……っ』
その名前が出て、三人それぞれが小さく喉を鳴らす。
「まず、君たちはどこまで知っている? そこを確認しておきたい」
尋ねる先生の顔には、どこか影が差している気がした。
「……姉の桜と、皐月本人から、話を聞けるだけ聞きました」
言うと、先生が目を見開く。
「桜から話を……? そうか、君はあの子の弟だったな。……では、私に聞くようにと勧めたのもあの子か?」
「いえ、色々話は聞けたんですが、卯月先生の話は出ませんでした。それでこれからどう情報を集めれば良いか考えていたら、先生の存在がぽっと浮かんだんです」
「……そう、か」
卯月先生は顎に手を当て、視線を下げてじっと考え出した。
「なるほど……桜が皐月の話を出した上で私を話題に出さないということは……そうか、そういう影響もあるのか……」
「あの、先生?」
「ああ、すまないな。ちょっと、私が知っていることと、今君から聞いた話を照らし合わせていたんだ」
では、どこから話そうか――と、先生が物憂げな息を吐く。これから話す内容は、先生にとって一定の負担になっているだろうことが伝わった。
「これは最初に確認しておくべきかな。君たち、皐月の本名は知っているかな?」
「それは……あれ?」
先生に尋ねられて、俺たちははっとする。
そう言えば、皐月はずっと名前しか名乗っていない。
背中に、嫌な汗が伝う。
先生は俺たちの反応を見て頷くと、俺たちを一人一人見やり、悲し気に微笑む。
「皐月の本名はな、桐橋皐月というんだ」
『……っ』
薫が、ひゅっと息を吸うのが聞こえた。
「桐橋皐月は……私の、娘なんだよ」
「……そ、んな……っ」
更紗が、口を手で覆って今にも泣き出しそうな声で呟いた。
「……橘。君はあまり驚いていないな。……気付いていたのか?」
先生に指摘されて、自分の反応が思いの外小さかったことに気付く。
「……いえ、気付いていた訳ではありません。けど、今先生からこの話を聞いて、どこか納得している自分がいます」
そうだ、俺は納得しているんだ。
そう思った。
先生と皐月は、どこか似ていた。
綺麗な黒髪に澄んだ瞳。
気さくな性格。
そして……意外と押しに弱い所。
「ふむ、そうか……君は、私たち母娘のことを、よく見てくれているんだな」
先生が嬉しそうに言って、穏やかに目を細める。何だか急に照れくさくなって、目を逸らしてしまった。
「しかしな。皐月はどうやら、私のことを母親と認識していないようなのだ」
「……な……っ」
紡がれた言葉に絶句する。
……だってそんな、母親を忘れるなんてこと……?
先生がふっと息を吐いた。
「君たちは……あのノートを見たんだったな」
「……はい」
「念の為確認しておこう。そのノートは、表紙に『お願いノート』と書かれていたな?」
「は、はい。そうです。中も読みました。あれは……何なんですか?」
薫がどこか興奮した様子で言うと、先生は思案を始める。
「あれは……どう言ったものか……そうだな、強いて言うならば、あの説明書きの通りだ」
「……え、それって……」
「あのノートに書かれた願いは、叶う」
『……っ』
「ただし、……これは仮説なんだが。願い事の大きさに、願う者のやり方が見合っていないと、それがきちんと叶うことはない」
「それって……どういうことですか?」
「例えば、『3年2組の〇〇さんと付き合いたい』なんて願い事をすると、それが叶う。あのノート自体、どうやら強い願いを持っている者にしか見えないようでな。基準は分からないが、ノートを発見するという時点で、どうやらかなり篩にかけられているようなのだ。その意味では、君たちは三人とも、何かしら強い願いがあるのだろう。願いの種類を問わず、便宜上言わせてもらえば『ノートの主(ぬし)』がそれを感じ取って、ノートを見えるようにするんだ」
「……話を聞いても、まだ信じられないですね。それじゃあ……皐月はどうして? 親友だった姉が願い事をノートに書いたんですよ?」
俺の質問に、先生は顎に手を当てて思案する。
「そこが問題なのだが……恐らく、人一人生き返らせるという願いは、相当重いのだろう。だから、桜一人がその場で心の底から願ったところで、それが完全に叶えられることはなかった。しかしそれでも皐月は蘇った。……不完全で、曖昧模糊な存在としてな」
「……っ」
「皐月が私のことを覚えていないのも、その弊害かもしれない。このノートは関わった人に奇妙な帳尻合わせを起こしているようなんだ」
「……と言うと?」
「簡単に言えば、記憶の改竄だ。皐月は私との関係を忘れて、普通の教師――自分が見える教師として接している。他の記憶が戻っても、何故か私との記憶は戻っていないのだ。それに加えて、桜が君に話をしておきながら、私の話を出していなかったのは聊か不自然なのだ。あの子は私と皐月の母娘関係をもちろん知っていたし、ノートに願い事を書いた後、私に相談していたのだ」
「そう……なんですか?」
「ああ。……訳あって、私もあのノートと縁があったものでな」
先生は、どこか遠い目をしてふっと笑う。
「その改竄が、一体誰にとって都合が良いものなのかも、そもそも誰の都合を考えたものなのかどうかも分からない。しかし、どうにか帳尻を合わせて、あの子の……皐月の存在というものを、どうにかこの世に繋ぎ留めている……そんな気がするのだ」
先生はここまで喋ると、すっと顔を伏せた。長い睫毛が儚げに揺れて、憂いを帯びた瞳は濡れている。この考え方に行き着くまでに先生が経てきた紆余曲折を思うと、じんわりとした悲しみが、水面に垂らした墨のように胸の中に広がった。
「ちなみに、ついでと言っては難だが……夫とも、私は離婚しているんだ」
「え……そ、そうなんですか?」
「ああ。私たちは皐月を溺愛していたからな。子はかすがいとはよく言ったもので、元々夫婦仲が良かった中で生まれたあの子は、本当に天使のような存在でな。夫婦間・家族間、共に最高と言える状況だった」
先生が視線をどこか遠くへ投げかけて、ふっと微笑む。在りし日の――もう戻らない日々を思い出す表情は、見ていて辛くなった。
「だが、皐月がいなくなってからは……夫と過ごす時間が息苦しくなってな。こんな時こそ支え合うべきではと思うかもしれないが、私も、夫も、だめだったんだ。お互いの顔を見た時、その間にいたあの子を思い出してしまって……な」
「卯月先生……」
更紗が、瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。薫がハンカチを取り出して、更紗に渡した。
「あの子は……皐月は、ずっとあんな状態で、もう二年以上過ごしてきたんだ。前に言っていたよ。『先生、何でか分からないんですけど、私が見えて仲良くなれた人が卒業した後に学校に遊びに来たりすると、私が見えなくなってるんです。いくら話しかけても、触れても、まるで反応してくれない。まるで私が、そこにいないかのようになっていて……ちょっと、きついです』とな。……私は、何も出来なくて、ただ、相談に乗ってやることしか出来ない。私だって、いつまでこの学校に居られるか分からんのだ。今はまだ良いが、これから先、私が他の学校へ移ることがあれば、あの子は本当に……本当に、独りぼっちになってしまう」
『……っ』
先生の声に嗚咽が混じった時、俺たちも泣きそうになって――俺は、いてもたっても居られなくなり、ソファから力強く立ち上がった。
「……橘……?」
先生が俺を不思議そうな顔をして見上げている。美しい瞳からは滴が伝っていて、頬を濡らしていた。
「先生。今は、皐月が見えるのは先生だけじゃありません。俺も、薫も、更紗も。3人とも、見えるんです」
「……橘……ふぁっ!?」
先生と俺たちの間にあるガラス製の低いテーブルを回り込み、先生の両肩を掴む。
これ以上、先生が苦しむのを見たくない。
だから、言う。
伝えるべき言葉を、伝えなければいけない言葉を。
「……俺が、俺たちが―――」
先生の双眸をじっと見つめる。澄んだ瞳から流れていた涙はもう止まっていた。
「――皐月を、助けます。必ず」
何の根拠も無い言葉だったけれど。
それでも、俺の言葉に先生は、嬉しそうに笑ってくれた。
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