(3)

 皐月を見ると、さっきとは違い、悲痛な雰囲気を漂わせながら俯いている。

 その姿勢のまま、皐月がぽつりぽつりと話し始める。


「匠くんが言おうとしてること、すごく嬉しい。でも、今は……私は……ううん、今だけじゃなくてきっとこれからも……私は……匠くんに、どう言ったら良いのか……うっ、ひっく……」


 身体を震わせ、スカートの裾をきゅっと握りしめながら話す皐月の手に、ぽたりぽたりと滴が落ちてきた。

 ほんのついさっきまでの浮かれた心が、波が引くように消えていく。

 それと同時に、この子の心にもっと寄り添いたい――そう、強く思った。


「……なあ、皐月。お前さ、橘桜って人、知ってるか?」


 なるべく柔らかな声を心がけて聞くと、皐月の震えがぴたりと止まった。


「……え、匠くん、なんで桜のこと……? あ、橘って、もしかして……」


 皐月は、懐かしい友の事を懐かしむような、もう戻れないあの頃を思い出して切なくなっているような、複雑な表情を浮かべた。

 今度は彼女を落ち着かせる為に、両肩に手を置いた。


「そうだよ、橘桜は俺の姉ちゃんだ。そんで、姉ちゃんから昨日、元クラスメイトで皐月って子が居たってのを聞いた。……今の今まで信じられないでいたけど、どうやら本当に訳ありのようだな。……話聞かせてくれるか? っと、おお、お前らか」

「え……」


 からりと教室のドアが開くと、薫と更紗が入ってきた。


「ああ、匠に皐月さん、おはよ……邪魔した?」

「匠くんに皐月さん、おはよ……邪魔した?」


 ……お前ら、夫婦かよ。

 上手く行ってろバカ野郎。

 そんな悪態(という名のエール)を二人につきつつ、皐月に向き直る。


「あいつらも、お前のこと心配してんだ。良かったら……話してくれるか?」


 言うと、皐月は少し迷ったような表情をして俯き、やがて顔を上げて小さく頷いた。


「うん、分かった。でも朝はもうあまり時間が無いから、放課後で良いかな?」

「だってよ、薫、更紗。お前らは大丈夫か?」


 俺の突然にも程があるフリだったが、二人は一瞬目を丸くしたものの、色々と細かい事情を察したようで、ちらりと二人で目を合わせた後、快活に笑みを浮かべた。


「オッケー。大丈夫だよ」


 薫が親指をグッと立てる。


「うん。あたしも大丈夫だよ! あと、あたしたち、一回教室出よっか?」


 更紗が親指を立てながら、にへっと笑った。いや、可愛いけど。お前そんなキャラだったっけ? 薫は薫で「ああ、こういう更紗さんも良いなあ……」みたいなふやけ顔してるし。なんだお前ら、結婚しろよ。


「いらん世話を焼くなよ、恥ずかしい」


 二人にさっさと入ってこいと手招きをしていると、背後で小さく呟く声がする。


「それでも良かったのに……」

「え?」

「な、なな、何でもないわ。うん、なんでも……」


 皐月は慌てて手をぶんぶんと振ると、しゅーんと縮こまってしまった。

 ……うーん。

 倫理観とか色んなものを気にしなくていいなら、今すぐこの子を抱きしめちゃいたいくらいには可愛いな……。



 後は授業をいつも通り受けて、放課後を迎えるばかり……と思っていたら。

 俺は、皐月という人物を舐めていたことに思い知らされることになった。


「……ん?」


 授業中、背中をてしてしと叩かれて振り返ると、皐月がにこにこ笑みを浮かべながら俺に髪を手渡した。

 向き直って紙を開いてみると、


『朝のお返し。放課後までたっぷりしてあげる』


 と書かれていた。


「…………」


 ちらりと、今現在授業を行っている先生を見る。

 教科は数学。卯月先生ではない。

 皐月は先生がこちらを見ている状態で、わざとらしく手を振る。けれど先生もクラスメイトもそれには気付かず、俺や薫、更紗だけが何事かと目を丸くしている。


――ふと思う。

 生徒同様、先生にも皐月は認識出来ていない。

 なのに、どうして卯月先生だけは皐月を認識出来ているんだろう。ましてや、あんなに事情を知っているんだろう。


 ……何ていう疑問が湧いたのだけど。

 手を下げた皐月と目が合い、にやりと口の端を吊り上げたのを見て、一瞬でそれどころじゃなくなった。

 ……これ、やばいやつだ。

 もう一度皐月に背中をつつかれる。

 振り向くと、今度は違うメモ書きを見せられた。


「んぐっ!?」


 噴き出しそうになるのを堪えて、変な声が漏れた。

そこには『今から私、匠くんに色々いたずらするけど、気にしないで授業を受けてね! お姉さんとの約束☆』と無駄にポップな語調のメッセージが書かれてあり、卯月は平然と立ち上がり、教室の真ん中最後列と廊下側前方にいる薫と更紗にまた別のメモ書きをそれぞれ手渡した。二人して俺と同じように「うぐっ!?」「ひゃっ!?」などと言っている。声を上げながらも、皐月に向かってこくこく頷き、皐月は爽やかにサムズアップしていた。


俺だけならまだしも、続けざまに離れた場所で二人が声を上げたから、数学の先生(32歳独身女性。綺麗だけど性格がやや残念)が「この教室には何かいる……!? あ、こういうところで怖がれば男の印象がアップするかな……」などと悲しいことを言っていた。あ、最前列の男子がドン引きしたらクリップボードで引っ叩かれた。先生もそいつもどっちも涙目ってこれ何の地獄だよ……。


 皐月が戻ってきて、任務完了とばかりににんまり微笑む。

 ……参った。

 これは、本当にまずい。

 恐らく、薫と更紗には「気にしないで」もしくは「邪魔をしないで」という旨のメッセージを見せたのだろう。今、皐月が俺にいたずらする上で気にすべき人物である薫と更紗の動きが封じられたことで、何の障害もなくなっている。

 この状況で皐月にいたずらされると、俺は変人扱いされないためにも(もう手遅れな気もするが)、必死でリアクションしないよう堪えなければならない。

 え、あれ、これ……何のプレイ?


 皐月が立ち上がる。

 何をするかと思えば、椅子を横にどけて、自分の机を後ろに下げた。

 そして、あろうことか俺の真後ろに椅子を置いて座り、吐息が俺のうなじにかかる程の距離まで近づいた。

 耳元で、蠱惑的な囁き声がする。


「ふふ……何か、企画物のAVみたいだね」

「(お前ばかじゃねえのか!?)」


 小さな声で最大限にツッコむ。ちなみにひそひそ声は意外と通るらしいので使っていない。多分今、人生で一番発声に気を遣っている。


「ふふふ……朝は散々恥ずかしい目にあわされたからね。……たっぷりお仕置きしてあげる」

「……っ」


 ごくりと、息を呑む。

 えーっと、ここ、高校ですやん?

 教室ですやん?

 授業中ですやん?

 なのに。


「……放課後までに、匠くんのズボンがガピガピにならないと良いんだけど……」


 耳元で囁かれる内容が、心底えげつない。

 あと、ガピガピって言うな、ガピガピって。妙に生々しいだろうが。


「大丈夫! 私自身が恥ずかしいと思っちゃうようなことも、ちゃんと頑張って仕掛けるから!」


 そんな決意はいらない。


「それじゃ……始めるわよ」


 声音に色香が混じって、いたずら開始宣言が為される。

 ……本当に、洒落にならないぞ、これ……。



 数学の授業は尚も続く。

 開始宣言をした割に、皐月はまだ何も仕掛けてこない。背後から静かな吐息だけが聞こえてくる。


「……っ」


 不意に。

 うなじを、十本の指でそろりと撫でられた。

 そしてそのまま、爪でなぞり、指の腹で撫でてくる。

 自分の手で同じことをしたって、何とも思わないであろう行為なのに。

 自分以外の誰かが。

 ましてや異性が。

 ましてや……憎からず思っている人が。

白魚のような手指で触れてくるだけで、こんなにもぞわぞわとしてしまうものなのか。

 これって何のジャンルだろうなと心でツッコみながらも、無心でノートをとる。


「お~……粘るねぇ……」


 背後から、耳朶に染み入る甘い声がする。

 ……ええっと、これ、ほんとにやばくない?

 ちらりと横を見やると、更紗が教科書で顔を隠しながらこちらを凝視している。後ろに目をやると、薫も同様のことをしていた。すげぇやなギャラリーだ。

 皐月の手が、両肩に置かれる。

 そこから、腕を交差させるようにしてしゅるりと絡み付いてきた。


「……~~~~っ」


 うなじに皐月の蕩けるような吐息がかかり、艶やかな黒髪が耳元を撫でる。

 2本の腕が制服のボタンを2つ程開け、その中にそろりと忍び込んできて、ワイシャツの上から胸板をまさぐる。

 それでも何とか耐えていると、今度はワイシャツのボタンも片手で器用に外して、その下のTシャツ越しに撫でてくる。

――つん、と。

 胸板にある二つの突起に、皐月の手が触れる。


「……おやおや? 男の人って、みーんな最初からこんなに硬いのかな?」


 からかう声を上げる皐月も、息遣いがどこか荒い。


「……さあ、な……っ!?」


 皐月の指の腹が、二つの突起をすりすりと撫で始めた。

 身体が震えるのを必死で堪えるが、皐月の指の動きは止まらない。


「ほ~れ、ほ~れ、どう? 気持ち良い? ねえ、匠くん、どう?」

「うっ……ぐ……っ」


 こいつ、完全にスイッチ入ってんじゃねぇか! 朝の初心なお前はどこに行ったんだ!?

 振り返って顔を見てみたい。多分俺は生まれて初めて牝の顔というものを見られる気がする。

 ……そうじゃなくて。

 これは、本当に、まずい。

 視線をちらりと下にやる。

 制服のズボンが、綺麗に丘の形を作っていた。

 これがこいつにバレたら本当に終わりだ。何とか平常心を保って鎮めなければ――


「……あ、ここ、すっかり元気になってるねぇ」


 だめだった。

 皐月は俺の肩に顎を乗せて、楽しそうに喋る。

 ちらりと振り向くと、皐月の整った顔立ちが目の前にあって心拍数が跳ね上がる。

 どんな発情した顔をしてらっしゃるのか……と思ったんだけど。

 皐月は、顔を真っ赤にしながら、目を度々逸らしながら、丘を見つめている。

 初心さと、リードしたい感情とが織り交ざったような、不思議な表情。

 思わず見惚れてしまうと、ぱちりと目が合った。


『…………』


 お互い見つめ合ったまま黙っていると、皐月が先に目を逸らした。そしてこほんこほんと咳払いをすると、俺から身体を離す。

 ほっとした直後、俺の太ももと机の引き出しとの間に、二本の足がそろりと伸びてきた。黒のストッキングを履いた艶めかしい足が、丘を目指して両側から伸びてくる。


「……っ」


 危機が去らないどころか更に加速してしまい、再び心拍数が高まる。

 ――あ、机の下なら俺が抵抗しても周りに怪しまれないじゃん。

 コンマ数秒の間にそう思ってシャーペンを置いたが、もう間に合わなかった。

 二つの足の裏にズボンの丘をむんずと挟まれて、全身に電流が走る。

 こ、こいつ、頭おかしいんじゃねぇのか……!?


「(おい、皐月! これは本当にまずいだろ!)」


 小声で必死に言うと、皐月は俺の耳元で囁いた。


「だーめ。お仕置きの最中だっていうのに、生意気に反撃してきた罰だよ」

「……っ」


 目が合っただけだろ、さっきのは!?

 思考がまとまらないうちに、皐月の足裏がぐにぐにと動き出す。

 挟み込んで上下に動いて。

 互い違いに上下に動いて。

 互い違いに前後に動く。

 ぎゅっぎゅっとねちっこく揉み込む。


「~~~~~~~~っ」


 想像を越える快感に絶句する。

 こいつ、どこでこんな知識を仕入れてくるんだよ……!? ……そういうのいっぱい読んでたな、そう言えば。くっそ……!


「うふふ……どう? もうやばいんじゃない? いっぱい興奮したでしょ。……楽になっちゃいなさい?」

「(ば、ばか、こんなとこで出せるわけ……っ)」

「あら? 私は別に出すなんて言葉一言も言ってないわよ? ……なぁに匠くん。出したいんだ……?」

「……っ」


 やばい。

 本当に、やばい。


 授業中だというのに、腰が前後にかくかくと揺れる。快感から逃れようとしているのか、与えられる快感を増幅させようとしているのかも、よく分からない。


――もう、だめだ――


 そう思った瞬間。


「……あら、残念ね」


 救済を告げる、チャイムの音が鳴った。

 起立の合図がかかると同時に、皐月が心底名残惜しそうに足を離す。

 気を付けの号令。

 礼――という声が聞こえて、身体を前に曲げた時。


「……この後も、続けてあげる」


 恐ろしい声が聞こえた。



 結局あの後も同様の責めを受け続けたが、今度は俺が周りにバレないように器用に制服のボタンを開けられないよう押さえたり、足を手で封じ込めたりしたことで事なきを得た。本当に命がけだった。がぴがぴとは行かないまでも……危なかった。


 そんな壮絶なバトル(?)を終えて、やっと迎えた放課後。

 俺は、教室から他のクラスメイトが居なくなる前に、昨日姉から聞いた話を薫と更紗に話すことにした。

 場所は食堂。

 昼休みなら多くの生徒で賑わうこの空間も、放課後は開いているだけで精々飲み物を買うくらいしか出来ない。生徒は俺たちの他には誰もいなかった。

 教室からさほど離れてもいないため、ここにした。旧校舎でも良いかと思ったが、あそこは幾分遠いのだ。


「……さて」


 俺の対面に薫と更紗が並んで座った状態で、昨日の夜の出来事を伝える。


「昨日な、姉ちゃんと話してて、ある事が分かった」


 俺の真剣な表情に、薫と更紗がごくりと息を呑む。


「皐月は……姉ちゃんの元クラスメイトだった。卒業する直前に、事故で死んだらしい」

『……っ』


 喉を鳴らす音が、二つ重なった。


「た、匠、それ、どういうことなのさ……? だって、皐月さんは現に……っ」


 薫の声が震えている。隣を見やると、更紗も小さな手を震わせ、俯いていた。


「…………」


 沈黙で返す俺の反応を見て、薫も更紗も現実を突きつけられたような顔をする。

 現実という名の、非現実だ。

 自分で話していても、信じられないんだから。

 正直、こんな話を人にしたら、普通は馬鹿にされるだろう。自分自身、そんな話を聞いたら「何を馬鹿な」と思うだろう。

 普通は。

 そう、あくまで「普通」は――だ。

 けれど、俺も、薫も、更紗も、見てしまっている。

 皐月という存在の、奇妙な、言ってしまえば歪な成り立ち方を。

 なんで、みんなには見えない?

 なんで、俺と薫と更紗と卯月先生にだけ見える?

 そして、何で――皐月は、俺の姉のことを、さも昔から知っているかのように話題に出せる?


「俺もまだ詳しくは聞いてない。取り敢えず分かってるのは、姉ちゃん……桜って言うんだけど。姉ちゃんと皐月は親友だった。そして、卒業直前に皐月が死んでしまった。そして、朝お前たちが来る前に話してたのは正にその話でな。皐月、姉ちゃんのこと知ってたよ」


『…………』


 二人は、静かに聞いている。


「姉ちゃんが昨日話した時は、もう思い出しただけで心がぼろぼろになっちまったみたいで、それ以上は聞けなかった」


 けど、と言葉を繋ぐ。


「おかしなことがある。俺は昨日、姉ちゃんに、その、まあ、色々詰問されてな。色々特徴を言い当てられた後、皐月の名前を俺からぽろっと出したんだよ。普通、死んだクラスメイトと同じ名前だからって、本人だなんて思わないだろ? 有り得ないだろ。常識的に考えて」


 二人は尚も静かに聞いている。


「でも、姉ちゃんはそう思い至った。そして、実際合っていた。どんなに常識で考えて有り得ないと首を振ろうが、それが、紛れも無い事実なんだ」


 言い切って、一息つく。

 吐き出すだけ吐き出したのに、何一つすっきりしない。

 それもそうだ。

 だって、何も解決していないのだから。


「……そっか」


 薫が、呟くような返事をした。


「皐月ちゃん……きっと、辛いよね。すごく、辛いよね」


 更紗が、優しい言葉を漏らす。

 事情はまだ、何も分からない。

 分からない、けど。

 それでも、きっと。

 辛くて悲しんでいる人がいる。

 皐月も。

 姉も。

 俺たちも。

 そして……誰か、他の人も。


「……そうだな。とにかく、俺は今、情報が欲しい。まだ何が何だか分からないけど、何かしてやりたいんだ。皐月にも、姉ちゃんにも」


 だから……と、両膝を手でぱんと叩く。


「……薫、更紗。協力してくれるか?」


 二人の目を見て、力強く尋ねる。

 すると、


「……あはは、ほーんと匠は……」

「うふふ、そうだね、匠くんったら……」

「? 何だよ?」


 何だかシリアスな雰囲気にそぐわない、盛大なにやにや顔が返ってきた。何か腹立つな……。


「何なんだよ?」


 尚もにやにやしている2人にジト目を送ると、2人は口を揃えて言った。


『ほーんと、皐月さん(ちゃん)のこと、大好きだよね』


 取り敢えず、薫にラリアットをした。強めのやつ。

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