(7)

「ただいまふっ!?」

「おかえりーーーー匠っ!」


 帰宅一番。

 ノータイムで俺の顔が、姉の桜の豊満すぎる胸に埋まった。

 ……なんで俺の周りにはこう、凶悪な胸を持った人が多いんだ?

 姉はうりうりと嬉しそうに楽しそうに俺を抱きかかえて、ぶんぶんと振り回す。

 乳圧による幸福感と、ぶん回されることによる首の骨の危機とのせめぎ合いだ。

 いや。

 比べるまでもなかった。このままだと死んじゃう。死因がかっこ悪いなんてもんじゃないレベルで恥ずかしい。「死因は……乳圧、です、ぷっ、くく……っ」とかって笑われそうだ。


「むぐおお……姉ちゃん、死ぬ、すげえ恥ずかしい理由で死ぬ……!」


 姉の肩をタップすると、ようやく止まってくれた。


「あ、ごめんね? それじゃ、脱ぐ?」

「うちそういう店じゃないよね?」


 自宅の玄関でする会話では、間違ってもなかった。

 やっとのことで姉乳あねちちから解放され、部屋で着替えてリビングに向かう。

 リビングに入ると、姉が鼻唄混じりで料理をテーブルに並べていた。

 ……今日も、量が多いな……。


 うちの家族は両親共働きで、今もばりばりと夜遅くまで働いている。

 その為幼い頃から俺と姉でよく家事をしているのだけど。

姉はまだ幼い頃に初めて料理をした時、拙いながらも一生懸命作った料理を、俺が美味しそうに食べたことに甚く感動したらしく、それ以来料理に没頭している。

 今ではもはや、料理研究家と名乗って料理本を出しても差し支えないのでは……と真面目に思う程に、自分流のアレンジを加えたとてつもないクオリティの料理を作っている。


 今日も今日とて、視覚と嗅覚を存分に楽しませるような料理の数々がテーブルに所狭しと並べられている。

 ……二人で食べるんだけどなぁ。しかも姉ちゃん、そんなに食わないのに。俺を破裂させる気なの?

 しかしこんな馬鹿げた量でも、なんだかんだで食べきれてしまう程姉の料理は飽きが来ない。前に聞いてみたことがあったが、どうやら計算してやっているらしい。お、恐ろしい子……!


「いただきます」

「はーい、召し上がれ」


 姉が手を組んでそこに顎を乗せながら、にこにこ笑って答えた。


「…………」


 …………。

 美味いけど。

 超美味いけど。

 俺、なんでこんな見られてんの?

 いつもにこにこと見てはいるけど、今日はなんか一段と……。


「匠」

「おふおっ!?」


 もやもや考えていたところで名前を呼ばれたので、噴き出しこそしないものの何やら変な声が出てしまった。

 軽く咳き込んでから顔を上げると、姉がにこやかに笑いつつも、今まで何度か見たことがあるような表情をしていた。何の時だったっけ?


「お姉ちゃんに、何か言うことがあるでしょ? あるよね?」


 ……ああ、これだ……。

 恋愛系の追及をする時の微笑みだ……。

 て言うか、なんで急に?

 平然とご飯を食べ続けながら答えることにする。


「別に。何もねぇよ?」

「ふむふむ。同じクラスの子なんだね」


 噴き出した。

「なんでそんなこと分かっ……!? い、いや、それより、何も言ってねえだろ!?」

「ふむふむ。同い年なのに大人びて見えて……」

「やめろ! そんなことない、そんなことないけど、これ以上言われると何か猛烈に恥ずかしい!」

「ふむふむ。胸が大きくて……」

「何故だ!? 何故何もかも見透かしてくる!?」

「そっかそっか、下ネタ大好きで匠にもエッチなこと一杯してくるんだ」

「どういうこと!? 喋るから!? 俺が喋るからいけないのか!?」


 もう。

 動揺が、止まらない。

 姉のこんな凄まじい能力の設定なんて知らない。あなたどこのシャーマンキングなの?


「そっかそっか。それで……たまに見せる寂し気な表情が、気になってしょうがないんだね」

「……っ」


 次々と読み取られる情報の中で、唯一言葉を返す事が出来なくて。

 思わず、止まった。


「……なんでそんなことが分かるんだ?」

「ん、今まで匠が好きになった人のタイプと、最近の匠の交友関係から予想を立てて、かまをかけてみましたー」

「え」


 姉、怖い。


「ちなみに最後のはアドリブで足してみたんだけど……割とベタなところとは言え、こうも予想がぴったり当たると、我ながら恐ろしいな~」


 ……いやいやいやいや。

 的中率、異常でしょ?


「……誰にも言うなよ」


 姉に、俺が気になっている体で言われると、どうにも本当に自分が皐月に対してそういう気持ちを抱いている気がしてきて。

 だから、取り敢えずこの言葉を捻り出した。


「ん。大丈夫。応援するよ」


 姉がにこりと笑った。

 ……このくだり、慌ててツッコんで、箝口令を敷いただけで終わった……。



 なんだかんだで今日も姉の料理を全て平らげ、皿を洗ってリビングのソファに座る。


「はい、どうぞ」

「ん、どうも」


 姉がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。

 ……超美味い。

 何この姉ちゃん、お嫁に欲しいんですけど。


「それでさ、さっきの話なんだけど……」


 言いながら、姉が俺の隣に腰を下ろす。一応ソファは2つあるんだけどなぁ……。


「どんな子? あ、どんな子なのかはさっきわたしが大方言い当てちゃったか。じゃあさ、なんて名前なの?」


 ずい、とこちらに近付いてきた。肩が当たってるよ……。二の腕柔らかいよ……。良い匂いするよ……! なんで女の人ってこんな柔らかくて甘い良い匂いがするの!?

 と言うか。

 ここで名前を出すと、いよいよ俺が皐月に気があるということを認めることになってしまう気がするんだけども。

 でも、いやしかし……。


「ね、ね、ほら、お姉ちゃんに教えて? ね?」


 …………。

 出来ない。

 俺には、こんな目を爛々と輝かせている姉の期待を裏切ることなんて、出来ない……!

 ふう、と大きく一息つくと、俺は姉の目を見た。


「えっと……皐月、って言うんだけど」


「え」


 姉の動きが、ぴたりと止まった。

 表情を見ると、明らかに凍り付いていた。

 名前を言っただけで、どうしてこんな表情になるのか。


「……あ、ご、ごめんね? そんな筈……無い、無い、筈だから……」


 姉の目が泳ぎ、動揺しているのが見て取れた。

 何故こんな動揺をするのだろう。


――あなたは私を……覚えていてくれる?――


 ふと。

 脳裏に、皐月と初めて出会った時の彼女の言葉が浮かんだ。

 何故かは分からない。分からないけれど、鼓動がどんどん速くなって行く。得体の知れない不安感が湧き出て来る。

 今、ここで、姉とこれ以上この話をするのは、危険なのではないか。

 そんな風にさえ思ってしまう程の、不安。

 そうだ、そうしよう、違う話題にしようと、必死で他のことを考えていると、姉がおずおずと俺の目を見た。


「あ、あのね……? その子ってさ、背は女の子の中では平均くらいで、髪は黒くて長く真っ直ぐ伸びてて……胸が大きくて……」


 何故、こんなに皐月の特徴を言い当てられるのだろうか?

 いや、まだ分からない。言ってしまえばここまでの特徴は、魅力的ではあるが決して稀有な特徴ではない。


「それと……」


 姉が付けたそうとしている言葉を聞くのが、怖くてたまらない。


「……左目尻の下に、泣き黒子がある、子かな?」


 心臓が、鷲掴みにされたような気がした。

 何故皐月の特徴をこうも言い当てられるのか。

 理由を聞くのが、怖くてたまらない。

 それでも。

 答えるしか、ない。


「……そう、だよ」


――つつっ、と。

 姉の頬を、涙が伝った。


「ね、姉ちゃん!?」

「あ、ご、ごめんね? つい……」


 つい?

 ついって、何だよ。何なんだよ。


「ね、姉ちゃん……皐月のこと、知ってるのか?」


 いつの間にか俺は姉と向かい合っていて、姉の肩を掴んでいた。

 姉は涙を拭うと、少し俯いて、ゆっくりと顔を上げた。


「うん……知ってるよ。よおく知ってる」

「どういう……関係なんだよ?」


「皐月はね、私の元クラスメイト。本当に仲が良くって、心の底から大好きだった親友なんだ」


 だったんだけど、と桜は言葉を繋ぐ。



「……わたしたちが卒業する直前に、事故で死んじゃったんだ」



「……え……っ」


――どくん、と。

 心臓が、大きく大きく跳ね上がる音がした。


 どうして――?

 何が、どうなってる――?


 頭の中に、最近あった不思議なことがいくつも浮かぶ。


 お願いノートと書かれた、胡散臭いノートに出会ったこと。


 その放課後に、皐月を初めてちゃんと『認識』したこと。


 皐月が夕方6時を過ぎると、毎回どこかへ消えてしまうこと。


 そして。


――あなたは私を……覚えていてくれる?――


 皐月が言ったあの言葉が、頭の中で何度も繰り返し再生された。

 まだ分からないことがあまりにも多すぎて、思考が追い付かない。

 そうだ、まだ何も分かっていない。まずは整理しなければ。


 だけれど、だけれど――。

 姉の悲しげな顔を見つめながら、俺たちはしばらくの間、呆然としていた。


 かち、こち、かち、こち……。

 

 テレビの上の壁に掛けられた時計の針の音だけが、リビングに淡々と響く。


 俺の心臓は、一度跳ね上がった後はまるで鼓動の仕方を忘れてしまったかのように、静かに息を潜めていた。

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