第18話 屋根裏の小説家(完)

 私の耳に細かく、そして大胆にささやくオック。

 作品世界の中に最早安寧をもたらす行間はなく、血と臓物と異界の魔性だけがただ在り、炎と狂気が吹き抜ける展開が紡がれる。

 ゴール間際で鞭打たれる競走馬のように、私はひたすら終章を書き続けた。


「はあっ……はあ」

 心臓が早打ち、いつか破れて息絶えてしまうんじゃないかと思うほどの勢いでタイプし終えると、私は執筆机に突っ伏してしまった。全身で息を整えてなんとか椅子からずり落ちないよう踏ん張る。


 オックが私の肩をポンと叩く。

 一作書き終えた興奮から熱を奪う冷たい掌だった。

「おめでとう。ジョナサン・グリーンが支配する恐怖の世界の完成だな」

 私の代わりにワープロのデータを保存しながらコーヒーをすすめてくる彼。

「ふむ……だがこの作品には一点問題が残されている」

「ど、どこのことだい」

 全身全霊を込めた一作に改善すべきところがあると編集は言うのだ。彼の意見に盲従することに慣れ切った私はそれが何であれ直すつもりだ。

「終章、ヒロインが突き飛ばされ転落死する箇所だ。ここは君の妄想だけで組んだ粗いハリボテだよ。目の肥えた批評家は突然色褪せたページを容赦なく罵倒するだろう」

「そ、そ、それは仕方ない。僕は君の意見を十分に尊重し、自分の持てる表現を駆使して仕上げたんだ。これが限界。これ以上は難しい。それにほかのすべてのシーンだって言ってしまえば君と僕の妄想の産物じゃないか」

「欠けてるんだよ、ここには」

「何がだ」

「リアリティさ」

 オックの黒い瞳は私を正面から見据え、私の心の奥底まで見通すかのように微動だにしない。その瞳には光彩がなかった。


 彼は椅子から立ち上がると、音もなく屋根裏部屋の唯一の出入口であるドアを開け放った。

「キャッ」

 ドアに体と耳を押し付けて部屋の中の様子を窺っていたと思しき我が妻タバサが、突然内側に開かれたドアに招かれるように床に手をついて転がる。

「タビー、ここで何しているんだ。君は仕事に行ったはずじゃ」

「あなたのことが心配で、仕事どころじゃないって引き返してきたのよ」

「心配も何も仕事をしているだけだ」

「ジョン、あなたどうかしてしまっていることに気づいてないの?」

「僕が?いたって普通だよ。傑作を完成させて少し疲れてはいるが。なあ、オック」

「あなた―――」


 オックは、嘆かわしいと言いたげに首を振りながら私の横に戻ってきた。

 部屋の主である私でさえ床板を軋ませずに歩けないのに、歩き回る彼が足音ひとつ立ててないのは不思議だった。今頃になって気づいた。

 


 プッ

 オックが笑いをこらえきれないように腹に手をあてて長身を折り曲げる。



 両手を床についてよろよろと立ち上がるタバサ。その視線は私だけを見据えている。オックのことは文字通り眼中にない。無視しているとも違うのだ。


「君が何を言ってるのかわからないよ、タビー」

 私はこの混乱した状況をどうすべきかわからないまま出入口に立つ妻に近づく。

 タバサはヒールをもつれさせて2、3歩後じさり、ハッと背後を見やる。

 彼女は例の急勾配の階段が始まるぎりぎりのところに踵を置いていた。


「あぶない」

 咄嗟に彼女のそれぞれの手首をつかむことに成功した。


「ジョン、君に足りないリアリティのことだが」

執筆机の横から動かないオックの声。

耳元で聞こえるのはなぜなのだろう。


「終章でヒロインが突き飛ばされて転落死するシーン。彼女だけは生還するはずだと愚かな読者に思い込ませた挙句、いともあっさりと潰れた肉塊になり果てるよな。そう、希望の灯なんて最後にフッと息を吹きかけて消してしまえ」

「ど、どういう意味―――」


 誰もいない耳元だ。オックはそこにいる。

。最高のリアリティだ」

「なんてことを!」


 おお、神よ。お救いください。私は、いや、私の両手は私の意志に反して妻の体を急勾配の階段の下に押し出そうとしています。

 愛する妻は、タバサは糸の切れた操り人形のようなぐにゃりとした肢体を階下にさらすことになります。そんなことを私にさせないでください。


「神ならじきに顕れる。君が世界に放つベストセラーに隠れされた呪文が召喚する。何億人もの読者や視聴者が無意識に唱えるであろう、召喚呪文が混沌の玉座に届いたあかつきに顕現する。窮極の虚空で蠢く王アザトースという名の神をね」

 アザトースとはなんだ。オック、君は一体。


「ジョン、お願い。やめてちょうだい!」

 アザトースなんかよりもこの手を、妻を殺めようとしている自分の両手を止めるのが先だ。

 神じゃなくてもいい、誰か。誰か!


「俺でもいいか?」


ドズンッ


 あり得ないところ―――屋根裏部屋の天窓からその音は聞こえた。

 天窓を突き破らない程度の衝撃音。


 私の耳元から『何か』の気配が消え、体がコントロールを取り戻す。

 すんでのところで両腕で力いっぱいタバサを抱き締める。


 気を失いかける妻を室内に引き入れて、天窓に目を向ける。

 黒いブーツが蒼穹を背景に厚いガラスを踏みしめていた。


「ジョン、僕の言うことだけ聞いてればよかったのに」

 オック―――いや、オクトーバー・ダーレスの姿をした何か―――は執筆机の横で冷笑を浮かべていた。

「君は何者だ。僕に何をさせようと」


 あのコーヒーの香気が漂ってきた。この香りは僕の意志をさんざん蕩かしてきた。これはダメなものだ。

 いけない。奴の言うことを聞くな、奴の差し出すものを否定しろ。


 オックが口を開く前に天窓の上から再び声が降りてきた。

 音に鋼を張ったような厳めしい声。甘みも柔らかさも皆無。

 それは嘘のない苦みリアル


「人心を巧みに腐敗させる刺激的な物語が様々な媒体を通じて世界中に拡散される。魔術的な韻律を踏んだ呪文に感染させられたと知らずに、無意識の召喚者が何千万人もアザトースの降臨を求める。そうなったら地球どころかこの星系は終わりだ」


「あーあ、面倒な奴に見つかっちまった」

 先ほどまで盲信しきっていた麻薬の如き囁き。

 私のような凡愚は最後の最後まで見抜くことも逆らうこともできなかった。あろうことか私の最も大切な者まで失わせようとした悪魔の声音。


「そいつは外なる神に仕える神性『ささやくもの』。取り憑いた相手にだけ姿を見せ、甘言を囁いて働かせるしかできない道化―――ああ、お茶汲みも得意だったな」

「容赦ない物言いしやがって。けどね、実体のない僕に君のバリツとやらは通じないぜ。さあ、どうするよ?」

 天窓のブーツは微動だにしないが、何かあれば分厚いガラスをぶち抜いて鋼の声の主は降りてくるだろう。

「精神生命対策がないとでも?弱いものいじめは趣味じゃないんでな。アザトース召喚など分不相応な夢は諦めて消えろ」


「ハスターの糞でも舐めてろよ、ウィップ」

 オクト―バー・ダーレスの姿を模した『ささやくもの』の輪郭があいまいなものになり、色を失って消えた。


 天窓の上から声は続く。

「俺の依頼はふたつ。今すぐその原稿のデータを消去すること、コーヒーカップの中身を―――頭がおかしくなる異界の飲み物だ―――捨てること。3分以内に誠実な対処ができない場合はこの家ごと焼きはらう」

 オック―――『ささやくもの』の言葉どころじゃない、依頼という名の命令だ。

 ウィップとか呼ばれたブーツの主がことは生存本能レベルで理解できた。

 私は妻とささやかな生活を守るために、彼の依頼を履行し、急勾配の階段で足をくじいた。

 痛みをおして履行完了を報告に屋根裏部屋へ戻ると、天窓には足跡だけが残っていた。

 



 数日後。

 屋根裏部屋を物置にして、キッチン横のリビングで執筆活動をするようになった私は、相も変わらずけたたましい電話のベルが4回鳴ったところで受話器をとることに成功した。足の痛みはもうほとんどない。


「ジョン、今日は4コールで出てくれたな。リビングでフットボールの試合でも見てたのか?」

 アーカム出版の編集者オクトーバー・ダーレス。私の全身が緊張で硬直したのは理解していただけるはずだ。


「や、やあ。ダーレスさん。え……ええと本物ですよね」

 アーカムのビルの一室で受話器を怪訝に見つめる彼の姿が想像できた。

「僕が2人いるのか?ちょうどいいや。このくそ忙しい仕事を半分おしつけたいから、編集部に来るよう伝えてくれ」

 なんとなく感じるいつもの軽薄な口調。よかった、たぶん本物だ。間違ってもオーダーメイドのブラックスーツなんか着ちゃいない。ほつれた糸の出まくったスーツにクロムハーツがおしゃれだと信じているオックだ。


「ジョン、今日はいい知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」

「あ、じゃあ悪い方から」

 私はいつも悪い方から聞くタイプだ。

「僕の仕事が増えたせいで来週の休暇が取り消しになった。ああ、まったく!

「は、はい?」

 オックが笑った。


「次はいい知らせだ。前にボツった君の『巫女の祈りは界境を超えて』が編集会議通っちまった。少しだけ編集長の好みに展開をいじってもらうのが条件だが、何とか通った。僕は諦めが悪くてな。そのせいで休暇が飛んだ。というわけで君も明日から改稿で死んでもらうからな」

 ホラーの帝王の座なんか尻がかゆくなる。

 ベストセラー、映画化はご縁があればでいい。

 今ある仕事に感謝してワープロのキーを叩こう。

 

「ありがとう、オック。もうひとついいネタが浮かんだのでその新作の話もしたいんだが。簡単に言うとホラーヒーローものさ。人ん《》の天窓を土足で踏みつけるような―――」


 私は書くことが大好きだ。これで今後も食べていけたら幸せなのである。



(完)


久々の仮面の夜鷹でした。こんな登場の仕方もありかなーっと。

きゅぴーんとくるおもろい企画があれば混ざりたいし、コンテストに思い出応募してもいいし(参加賞ゲット!)し、また何か書きたい今日この頃です。





 




 

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