第29話 双子と教官


 …サクラはようやく粗方状況を把握できて、すっかり暗くなってしまった廊下の片隅を一人歩いていた。


「異質なのは我らのみ。…世界は何事も無かったかのように回っている。我らを残して」


 アキラと自分だけが異質なのだ。そしてそれを証明するかのように、現在のサクラは女神に変じる力を持っていた。おそらくラグマ・アルタに乗らずとも可能だろう。


 左腕に古傷が残っているアキラと、女神へ変じる事が出来るサクラ。つまりそれは自分達が世界にとって異質な存在である事を示しており、元はこの時間の流れに存在しなかった事になる。…アキラだけではなく、紛い物であるサクラもまた神の一族に変じてしまった。


 その存在を曲げる事は叶わず、結果このような事になってしまったのだろう。幾ら天母と云えども、アキラとサクラの存在を捻じ曲げる事は出来なかったのだ。


 それがサクラの出した結論だった。そしてそれをアキラへと伝えるべく、現在彼女は彼が眠る病室を目指して歩いていた。…時刻は零時。疾うに彼は眠っているだろう。


 だが少しでも早く彼と話がしたい。何と言っても現状を共有できる唯一の人物だ。何よりもスクールに戻って以来、サクラは一度もアキラの元を訪れていない。だから会いたいのだ。


「…あいつは眠っているだろうな」


 もし目覚めないようであれば、彼の寝顔だけ見て朝にでも出直せばいい。…現在この周辺にある病室には全て重傷患者だけが収容されている。他の怪我人は学生寮にある自室での療養を命ぜられており、一刻を争う患者だけが病室に収容されているのだ。


 そこにアキラも収容されているのは正直微妙だが、それほどに彼の左腕の傷は酷かった。むしろ止むを得ない措置と見るべきだ。


 サクラはそんな事を思いながら一人薄暗い廊下を歩く。そして医務室を通り抜けて彼の病室の前まで辿り着き、現在の時間を考慮して少しでも音を立てないようドアをスライドさせながら静かに中へと入っていく。


「…アキラ、いま良いか?」


 そっと話し掛けてはみるが、やはり彼から返事は無い。…病室に明かりは灯っておらず、閉じられたカーテンの隙間から淡い月明かりが零れて室内を微かに照らしている。


 眠っているのか。そう思ってサクラが寝台へと歩み寄った時だった。


「っ!」


 居ない。アキラが眠っている筈の寝台が空なのだ。それを見たサクラは椅子に座ったまま寝台に寄り掛かって眠っているヒカルを見つけて頭を殴り付けていき、慌てて飛び起きたヒカルの胸倉を掴み上げて怒鳴り付けて行く。


「ジルバード兄っ! …弟はどうした。貴様の弟は何処へ行ったかと聞いている。答えろ!」


「…へ?」


 何の事だと、ヒカルは眼を瞬かせて首を傾げていく。ヒカルからすれば突然現れた教官に頭を殴られて、一体何事なのかと逆に問い返したい気分だ。


 そんな頭の巡りの悪いヒカルに焦れつつ、サクラは改めてヒカルへと訊ねていく。


「だからっ! 貴様の弟は何処へ行ったのだと聞いている! ベッドにアキラの姿が無い。あの怪我で出歩ける筈が無い。…貴様は何をしていたっ! この大馬鹿者!」


「…っ」


 ようやくヒカルは事態を悟り、見る見る表情を青ざめさせていく。そして慌てて寝台へと視線を向けていき、サクラに指摘されたように寝台が空になっていると知る。


「…そんな。だって、傷の痛みは薬で抑えているだけなのに。あんな体でっ」


「あの馬鹿。兄にも行く先を告げず病室を抜け出したな? …全く仕方の無い奴だ」


 相変わらずのお馬鹿さん振りである。おそらく彼の事だ。少し散歩をしてくる程度にしか考えていないだろう。…全くどうしようもないお馬鹿さんである。


 ヒカルの悲愴ともいえる反応を見てサクラは呆れ顔をしていき、仕方ないとヒカルから手を離して改めて言っていく。


「手分けして捜すぞ。あの馬鹿の事だ。どうせ近くに居るに決まっている」


「…わ、判りました! では僕は校内を捜してみます。…あの、申し訳ないですが教官は」


 困り顔でヒカルから言われて、当然だとサクラは頷いて告げていく。


「ああ、こんな時間だからな。外は私が受け持とう。なに、心配するな。あの馬鹿は無駄に頑丈だからな。ちょっとの事では死なない。だから安心しろ」


「…はい」


 そうサクラが言ってやると、ヒカルは不安そうな面持ちで弱々しく頷いていく。そのままヒカルとは病室で判れて、サクラは荒々しい足音を立てながら早足で廊下を駆け始める。


 兄であるヒカルにはああ言いはしたが、サクラも心配な事には変わりない。彼は基本的に無茶をする傾向にある。…左腕の怪我をした後でもサクラと共に出撃していたのが証拠だ。


 何処かで苦しんでいなければ良いが。そう思ってサクラは薄暗い廊下を駆けて行く。一刻も早く彼を見つけなければ。それだけで頭を一杯にして。


 …そして彼らの心配を他所に、当の本人は外へと出て広場の片隅にある長椅子に一人で腰掛けていた。当然ながら上着は羽織っておらず、三毛猫ちゃんのパジャマ姿である。


「何だか変な感じだよな~。自分の過去がダブルである感じ? まぁ普通に受け入れてる自分にもビックリだけど。…少々動揺はしてしまったが」


 動揺した挙句にヒカルの胸の中で泣いてしまったのは失敗だった。…物凄く恥ずかしい。とても今更だとは思うが凄く恥ずかしい。傍にはヴェインとカイスも居たというのに。


 こんな場所まで来て一人で恥ずかしがっても今更だ。それは分かっている。でも少しでも良いから一人になって恥ずかしがる時間が欲しかった。…だってずっと兄が傍に居るのだ。それでは恥ずかしがる事も出来ない。


 よって、こうしてアキラは一人病室を抜け出したのである。寝台に寄り掛かってヒカルが転寝しているのを良い事に。…その結果、更なる騒動を巻き起こしているとも知らずに。


 所詮アキラはアキラ以上には成り得ない。そこは彼が彼である所以であろう。


 医務室や病室などといった医療施設は第一セクター内に在るのだが、第一セクターには出撃先から戻って来た上級生達や教官が昼夜問わず仕事をしており、その所為でここまで来る道中に随分多くの者から呼び止められたものだ。


 まず初めに出会った上級生達からは「馬鹿、寝てろ」と即行で叱られてしまった。続いて一緒に居た別の上級生からも「君と教官が発見された時、凄い騒動になったんだから」と、心配そうな口調で病室に戻るよう言い聞かされてしまった。


 彼らが言うにはサクラとアキラが発見された時、アキラの意識が一向に戻る気配の無いのを見て居合わせた者達は騒然となり、その場でアキラのパワード・スーツを脱がせて皆で怪我の状態を確認したとの事。それを前提として彼らはアキラを諭すように言ってきた。


 …双子の片割れにあまり心配を掛けるな。お前の片割れ、ずっと泣いてたぞ…と。


 そう言われてしまえば、アキラとしては「ごめんなさい」と謝るしかなかった。まぁ尤もそんなもあったから、少し彼から距離を置きたいな~っと思って病室を抜け出したのだが。


 だがやはりと、アキラは思った瞬間だった。そこで多くの者がアキラの怪我を見て違和感を覚えなかったという事は、つまりアキラの怪我は治り掛けではなく、怪我を負ったばかりだったという事だ。…そうでなければ、誰か一人くらいは怪訝に思って訊ねて来る筈だ。


 当然その傍にはサクラも居ただろうから、彼女もアキラの怪我を見て事態を悟った筈だ。ここは違うのだと。自分達が居た時間とは異なっているのだという事を。


 そう言えばヴェインが「出撃している機体が戻って来る度に」と、確かそう言っていた。その言葉を証明するかのように、第一セクター内には弾痕や大穴がいくつも刻まれており、場所によっては立ち入り禁止となっている場所まであった。


 おそらくここでも、何らかの争いが起きたのだろう。それもスクール全体を巻き込むほど大きな争いが、である。


 深緑の大海に現れたセグヴァの訓練機。…あの時に現れたのはスクールの格納庫に収容された訓練機の半数以下だった。それと比べれば被害は少ないようだが、それでも至る所に刻まれた弾痕や漂う硝煙は隠せない。


 新しい記憶の中にここが戦場となった原因がある筈なのだが、どうにも元の記憶が邪魔して思い出せない。二つの記憶が混在して訳が分からなくなっているのだ。


 つまり、アキラがお馬鹿なだけ。現状を把握できないのは己が原因なのである。


 何とも情けない理由である。そうアキラが自身に呆れていると、微かにアキラを照らしていた筈の外灯が突然陰り、座っているアキラを上から見上げるように言ってきたのである。


「この…馬鹿者がっ! こんな所で何をしている! しかもそんな格好でっ」


「ほぇ?」


 頭上から降って来た声は何とサクラだった。彼女は肩で荒い息を付いており、その格好は戦闘服ではなく、ましてパワード・スーツですらなかった。


 彼女はセグヴァ・スクールの教官が纏う制服を着ていたのである。全体の色は黒く、学生の制服と基本は同じ形をしている。ただ教官の制服には赤い縁取りが施されており、同様にネクタイの色も赤だった。そして額には相変わらずのコントロール・サークレット。


 新しい記憶では見慣れた姿の筈なのに、現在のアキラにとってはやはり新鮮な出で立ちだった。だってあの彼女が戦闘服でもパワード・スーツでも無いのだ。これは新鮮であろう。


 そう驚いて彼女を見上げていると、そんなアキラを見て何故か彼女は溜息を吐いてくる。


「…ああ、こんな事だろうと思っていたさ。貴様の思考は人とは微妙にずれているからな。どうせ貴様の事だ。皆に心配を掛けるだろうな~とか、そんな事は一ミリも考えなかったのだろう? 貴様はそういう奴だからな。…ああ、知っていたさ。知ってはいたが――」


「? ? ?」


 一体彼女は何が言いたいのだろう。アキラは彼女の言わんとする意味が判らず、ただ眼を瞬かせるしかない。…が、馬鹿にされているのは分かる。流石にそれは分かる。


「…あのなぁ。俺だってね――」


 そう文句を言い掛けたアキラではあったが、何となく言い辛く感じて口吃ってしまった。サクラはそんなアキラの様子に眉根を寄せていき、苦い顔をしながら言うのだった。


「何だ。言いたい事があるなら言え。…幸い周囲には誰も居らん。私達しか居ないのだから気にするな。…ふむ、何なら「良い子、良い子~」してやろうか?」


 だが後半はおかしな内容へと変わってしまった為、アキラは頭を抱えて突っ込んでいた。


「いらんわっ! 何だよ、その「良い子、良い子」って。俺はガキじゃないっての。あのね、俺はこれでも十八歳なんですよ? そんな大の男がガキ扱いされて嬉しいかっての」


 少なくとも俺は嬉しくない。嬉しくないのだが――。


 彼女の方はそうではなかったらしい。あの彼女が嬉しそうに満面の笑みを浮かべてきて、穏やかな口調でそんなアキラにこう言って来たのだ。


「私は嬉しいぞ? こうして貴様と二人で居られるのだから、少しくらい羽目を外しても良いと私は思っている。…ああ、隣に座っても良いか」


「…へ? あ、はい。どうぞ」


 物凄く変な事を言われたような気がしつつ、アキラは慌てて隣にずって彼女に席を空けていく。すると彼女は「すまんな」と言って腰掛けていき、そこで何を思ったのか、アキラの姿を見て制服の上着を脱いでいき、それをアキラの肩へと掛けていった。


「……、え」


 それにアキラが眼を瞬かせていると、サクラはニヒルな笑みを浮かべて静かに告げる。


「寒そうだったからな。外へ出る時は上着くらい羽織れ。…風邪をひくぞ」


「……」


 ありがとうと、それすら言えなかった。だってそうではないか。自分より一回り以上華奢な女性に上着を掛けられたのだ。それも現在彼女が着ていた上着を、である。


 これが男としてどれほど情けない事か。…そして彼女は男の自分よりも男らしかった。


 周りに誰も居なくて良かった。そう心底思った瞬間である。もしこれで周囲に人が居れば、確実に誰かに笑われていたであろう。それも仲の良い姉弟を見る様な眼差しで。


 そうならずに済んで良かった。…そう心底感謝した瞬間だった。


 アキラが赤面しながら彼女の上着を胸元で手繰り寄せていると、白いカッターシャツに赤いネクタイ姿となったサクラが神妙な顔をしていき、静かにアキラへと語り始める。


「…ようやく貴様とゆっくり話が出来るな。こうして貴様と話すのは随分久しぶりな気がする。そんなに経っていない筈なのにな。おかしなものだ」


 そんなサクラの言葉にアキラは苦い顔をしていき、小さく頭を振りながら言うのだった。


「……、そうだな。俺もそう思うよ。あんたとゆっくり話した日が随分前に感じる。…もうあんたと話せる日は来ない。そこまで思った。だってあんたは――」


 悲しげにアキラが漏らすと、サクラもまた「そうだったな」と遠くを見るような眼をしてそう漏らしただけだった。


 束の間二人の間に沈黙が流れたが、サクラは小さく息を付きながら改めて話し続ける。


「貴様も既に気付いているとは思うが、どうやら我ら二人が経験して来た時間が書き換えられたようだ。…そんな大それた事が可能な人物は誰か。言うまでもないとは思うがな」


「っ! 時間の書き換えって…その所為で俺の中の記憶が二重になってるって言うのかよ」


 信じられない。そうアキラが漏らすと、サクラは自身も困惑しつつ話を続けていく。


「貴様の動揺は分かる。私もそうだったからな。そして私の結論から言うとだ。我らを取り巻く時間の書き換えは行われたようだが、我らの存在自体は書き換えられていない。…貴様の髪や眼が相変わらず白髪金目であるように、私もまた女神のままだ。おそらく女神の姿になるのは容易だろう。ここまで生きて来た経緯が二つに増えた。我らからすればそんな印象だろうな。通常では有り得ない事だがそう考えるのが自然だ。…しかし、書き換えなければならなかった理由が分からない。そこまでする必要が果たしてあったのか。それが疑問だ」


「……」


 それに対してアキラは短く沈黙していき、最後に聞いた天母の嘆き声を思い出して僅かに顔を伏せていた。…あの嘆き声からするに、おそらく天母の嘆きが原因だろう。


 だがそれには触れずアキラが黙っていると、彼女は「まぁ良い」と答えを導き出すことを諦めて別の事を喋り出す。


「我らの記憶を書き換えた事によって、様々な部分に差異が生じている。…たとえば我らが最後に戦った深緑の大海での戦だ。あれは書き換え後の時間では発生していない。似たような戦は発生しているが、ここではイスヴァニア王国のジュード市で行われている。あそこは我らの記憶では紅焔の狼が拠点を置いていた場所だ。そこで多国籍軍とガイア諸国連合軍が衝突し、その最中にユーライア・スクールが多国籍軍に合流して戦況は激変。その結果、このセグヴァ・スクールで暴動が起きて校内は御覧の有様だ。現在理事会のメンバーは学生によって拘束されている。…彼らの処遇は、このセグヴァ・スクールに資金提供をしている国々が決めるそうだ。その後、新たな理事会が結成される事になっている」


「…う、うん。えーっと。…あのね、サクラさん」


 だがアキラは言い難そうな顔を隣に座るサクラへと向けていき、サクラの顔色を窺う様に上目遣いに彼女を見ていく。すると彼女は「なんだ」と不機嫌そうな声を漏らしてきて、アキラはそれに怯えつつも彼女へ言うのだった。


「…あの、何を喋っておられるのか全く分かりません」


「…………」


 たっぷり十秒。サクラは瞬きすらせず沈黙していた。そしてアキラの言わんとする意味を悟り、怒りに震えながらアキラの後頭部を殴り付けて言っていく。


「大人しく私の話だけ聞いていろ、この阿呆がっ!」


「…はい」


 でも理解出来なければ話しても意味が無いと思うのだが。そうは思ったが口に出す勇気は当然なく、アキラは大人しく彼女の話を聞いている事にした。


 そんなアキラに呆れつつも、サクラは嘆息しながら話を続けていく。


「セグヴァ・スクールで暴動が起きた後、学生達はユーライア・スクールのアルヴァリエを説得しようとラグマ・アルタに乗って飛び立った。その中には私と、そして貴様が所属するチームの姿もあった。…だがジュード市へ向かう途中で待ち伏せに遭い、私と貴様の二人はチームから逸れてしまったのだ。そのまま我らはセグヴァの者達と合流できず、しかも貴様はその際、多国籍軍の戦闘機から攻撃を受けてコックピットを被弾。同じく私も操縦不能なほど攻撃を受けてしまい、機体を捨てて意識を失った貴様を背負ってセグヴァまで戻った。そこを学生達に発見された。そういう事らしいな」


「へ~…って、あれ?」


 そうだったのか。そう思って聞いていたアキラではあったが、ふと大きな疑問が過って、思わずそれを彼女へと問うていた。


「あのさ、どうやってスクールまで帰って来たの?」


「…どうやって、とは?」


 だが彼女には通じなかったらしく、意味が判らないと訝しげな顔をされてしまった。それでもアキラはめげず、何となく怖々としつつも改めて彼女へと問うのだった。


「だってさ、ラグマ・アルタは大破しちゃって動かなかったんだろ? …そこで俺が左腕を怪我したのは俺も憶えてるけどさ。そこで機体を捨ててたらスクールに帰れないじゃんか。あんたどうやって帰って来たの? まさか泳ぎ?」


「…………」


 すると案の定と言うべきか、彼女から再び長々と沈黙されてしまった。これは不味いかと思って咄嗟に頭を抱えると、次は腹に肘鉄砲が飛んで来た。


「…ほんっとうに貴様の脳はどうなっている! 我らはアルヴァリエだぞ? 貴様の背中にある翼は飾りか? コントロール・サークレットさえ着けていれば翼を発生させられる。それで飛んで帰ってくれば良いだろう。それだけの話だっ!」


 それを聞いてアキラはポンッと手を叩いていき、納得げに笑いながら言うのだった。


「ほ? …あ~、成程。アルヴァリエって便利なのな。得したって感じ?」


「…………」


 駄目だ、こいつは。そうサクラは諦めた瞬間だった。だが同時に怪我が治った後で仕込み直してやると教官魂に火が付いた瞬間でもあった。


 何を期待していたのだ、私は。…そうサクラは諦め顔をしつつも、まだ話は終わってないのにと改めて嘆息しつつ話を続けるのだった。


「我ら二人は待ち伏せに遭った所為でジュード市に辿り着かず、その結果、ガルーダや天母が戦場に介入する事も無かった。…まぁ当然だな。肝心要の貴様が戦場に居ないのだ。天母が介入する謂れは無い。天母やガルーダの介入を受けず戦場は入り乱れて大混戦となって、両軍ともに大損害を被った挙句に決着が付かず、そのまま痛み分けに終わったそうだ。双方とも主力部隊を遣られて先頭続行不可能となり、現在は停戦協定に向けて話し合いの最中。尤もこれは時間を書き換えられなくても変わらなかっただろうがな。…そういえばアキラ、あの後はどうなったのだ? 私は途中から何も覚えていない。天母に見つめられた後の事は何も覚えていないのだ。あの後貴様は…戦況はどうなった?」


「……」


 今度はアキラが沈黙する番だった。…すると彼女は戦いの後半を何も覚えていない事になる。いいや、おそらく大半を覚えていないだろう。何と言っても彼女は正気では無かったのだから。あんな状態になっていた彼女が覚えている筈が無い。


 だからとアキラは溜息を付いていき、小さく頭を振りながら言うしかなかった。


「…俺もよく覚えていないんだ。俺も母様…天母に何かされちゃってさ。だから――」


 そう言葉を濁して言うと、サクラは「そうか」と頷いただけで終わった。そんな話を二人でしながら、互いに脳裏では異なる二つの戦争について考えていた。


 ここでは天母が戦争に介入しなかった為、世界中を巻き込んだ種の生存を賭けた戦いにまでは発展していない。その為にアースガルズ・スクールもまた戦場に現れず、その所為で戦場は泥沼と化して収拾が付かなくなってしまった。

 どちらにしても多大な犠牲を払っている事に変わりはない。確かに戦争の規模は小規模で済んでいるが、何とも苦い想いだけが残る話である。


 だがそれよりもと、アキラはふと思い出したようにサクラへと言っていく。


「やっぱりあんたは紅焔の狼じゃなく、スクールの教官として存在してるんだな」


 すると彼女は小さく頷いてきて、自らの制服を見下ろしながらそれに答えてくる。


「そのようだな。首席で卒業した私をスクールは手放したがらず、私もそのまま教官としてここに残る事にしたようだ。…それにしても貴様、想像通りの成績だったのだな。見事とも言うべき成績の数々、楽しく眺めさせて貰ったぞ。実技以外の悲惨さは目も当てられないな。あんな成績でよく戦場に出る気になったな。その勇気には敬意を表したいぞ。いや、天晴だ」


 褒めているのか貶しているのか分からない物言いをされて、アキラは顔を真っ赤にして彼女へと言い返すしかなかった。


「うっさいわい! 俺だって行きたくなかったよ! だって戦場だぜ? 普通は嫌だろ! せめてシミュレーションくらいはさせてくれるかと思ったら、いきなり戦場だぜ? 俺の適合率がずば抜けて良いから問題ないとか言ってさ。問題大有りだっつーの。…その所為で逃げ遅れるわ、あんたに捕まるわ。何か色々と意味不明な経験をさせられるわ。まぁあんたと再会できたのは嬉しかったけどさ。…そういえばさ、あんた俺の事を他に調べたか?」


 サクラはアキラが自分と再会できた事を嬉しく思ってくれていると知り、幾分気を良くしながらアキラの言わんとする意味を察して小さく頷いていく。


「ああ、お前の片割れの事か?」


 言葉足らずなアキラの質問を理解してサクラは笑いつつ、その時の事を思い出しながら楽しげな口調で言っていった。


「あの時は本当に驚いたぞ。…雨の中で動かずにいる我らの元へ学生達が駆け寄って来て、そのまま第一セクター内に連れて行かれた所までは良かった。だがそこにはもう一人お前が居たのだからな。しかもそのもう一人、お前の兄と言うじゃないか。冗談抜きであの時は本当に驚いたぞ。何せ黒目黒髪のお前が目の前に立っているのだからな。八年前と変わらぬ姿をしたお前がそこに居た。…あの時は心から動揺したよ。思わず涙ぐんで顔を伏せると、そのもう一人は私へ懸命に微笑みながら「弟を守って下さって有り難う御座いました」と、そう言って来たのだからな。そこで悟った。…彼はお前では無いのだ、とな」


「…、悪かったな」


 彼女の言わんとする意味を悟って、アキラは頬を膨らませながらそう言うしかなかった。つまりは、である。もう一人の方が本人よりも出来が良かった。そう言われたのである。


 サクラは不貞腐れてしまったアキラを見て「そう言うな。まぁ聞け」と言って来て、苦笑しながら話を続けていく。


「全ては天母か変えたのだろう。…どのみちあのままでは、我ら人類の未来は無かったのだ。私は無理やり女神にされて狂い、天母は腐り切った人間達から貴様を守ろうと必死だった。他にどうする事も出来なかったのだ。むしろ今では感謝している。息子である貴様だけではなく、こんな私の事まで救ってくれたのだからな。…感謝しているよ、本当に」


 しかしアキラは、そんなサクラの言葉に疑問を抱かずにいられなかった。アキラは無意識に彼女に着せられた上着の胸元を手繰り寄せていき、表情を隠すように俯いて言っていく。


「あんたは本当にそう思うのか? 俺にはとてもそんな風には――」


 思えない。思わずそう彼女へと告げると、彼女の眼差しが刃のように鋭くなるのを感じた。そして彼女はそんなアキラを睨み付けながら言い返していく。


「貴様の胸に引っ掛かっているのは罪悪感か何かか。…天母は我らの因果律だけではなく、世界そのものの歴史まで改変してしまったからな。それとも何か? …貴様は一人前にも多くの者を巻き込んでしまったと、そう悔いているのか? 自分の所為で多くの者の時間が書き換えられ、ここまで巻き込んでしまった。そんな安っぽい罪悪感か」


「……」


 鋭く彼女から問われて、アキラは即答できなかった。それにサクラは「どうした。答えろ」と凄むように言ってきて、止むを得ず躊躇いながら頷いていく。


「ああ、そうさ。だってそうだろ? 俺の所為でこんな――」


「ふざけるなっ!」


 そんなアキラの言葉を最後まで待たず、サクラの吠えるような怒号が響いていた。そして更に怒鳴り付けようとした彼女ではあったが、そこで何かに気付いた様に頬を緩めていき、穏やかに笑いながらアキラへと言ってくる。


「良いか、アキラ。…貴様が抱いている感情は多くの者を愚弄する行為に他ならない。他の誰でもない。貴様だけはそれを口にする事は許されない筈だ。天母は誰の幸せを願い、何に胸を痛めて歴史改変などと云う所業を犯したと思う。…確かに貴様や私の事もあるだろう。だがそれだけでは無い筈だ。そしてアキラ、現在の貴様がそれを口にする事は絶対に許されない筈だぞ。…前を向け、アキラ。今の貴様には捜しに来てくれる人が居るだろう。そんな相手を得ておきながら、それでも尚、貴様はそんな事を口にするのか? それだけは許さん。今の貴様には相手の想いに応える義務がある。…違うか」


「…?」


 何を言っているのだ。そう思って彼女に促されるままに顔を上げていくと、そこには息を切らせながら走って来る双子の片割れ、ヒカルの姿があった。


「…え?」


 それにアキラが眼を瞬かせていると、ヒカルは数歩手前で立ち止まって長椅子に並んで腰掛けている二人を見て小さく苦笑していく。


「アキラ、良かった。…でも俺、邪魔だったかな」


「へ?」


 そう言って寂しげに微笑むヒカルの様子を見て、アキラはもしやと隣に座るサクラの事を思い出す。そして慌てて立ち上がっていき、言い訳するように言い返していた。


「違うって! …そ、そんなんじゃないからさ」


「……」


 関係を否定されて面白くないのはサクラだ。ヒカルは彼女から発せられるブリザードのような空気を察して改めて苦笑していき、アキラへと「そうか」と相槌を打つに留める。


 だがサクラはそこでヒカルが手に持っている物に気付いて、アキラに掛けていた自らの上着を取り上げていき、それに眼を瞬かせているアキラへと「私が寒いんだ」とだけ告げる。


 そしてヒカルへと視線を向けていくと、ヒカルは意味を察して恥ずかしそうに笑った後、手に持っていたそれをパジャマ姿のアキラへと掛けていった。


「上着も持たずに外へ出るからだ。…全く、心配したんだからな」


「え? …これ――」


 ヒカルから掛けられたのは厚手のガウンだった。当の本人はきちんと制服の上着を着ており、明らかにそれはアキラの為に用意したものだと分かった。


 わざわざ持って来てくれたのだ。アキラはそれに気付いて嬉しく思いながら、ヒカルへと小さく「…ありがとう」とはにかむように言っていく。


 それにヒカルは穏やかに微笑んでいくと、のんびり立ち上がっているサクラへと思わず視線を向けていた。するとサクラはその視線を受けて、不敵な笑みを浮かべて言うのだった。


「安心しろ。まだこれからだ。…ジルバード兄。遠からぬ未来に私も貴様の事を「兄様」と、そう呼んでやるから楽しみにしていろ。だがこいつは初心でな。中々気付いてくれない」


「…そ、それは大変ですね」


 突然何を言い出すのだ。そんな声調を滲ませながら、ヒカルは苦笑いだけを返していく。そして改めて弟であるアキラを見つめていき、そんな視線を受けてアキラは「兄貴、どうかしたか?」と首を傾げている弟を見て、兄としては微妙な心境で苦笑いするばかりだ。


 これは先が長そうである。…鈍感な弟が果たしていつ気付くのやら。


 でもと、ヒカルは穏やかに微笑みながら思っていた。ようやく日常が戻って来たのだと。まぁ教官であるサクラが弟のアキラに特別な想いを抱いていた事には驚いたが、目の前に二人が居て、こうして喋れているだけで幸せではないかと。


 そんなヒカルを訝しく思ったのか、アキラが改めて「兄貴?」と不思議そうに小首を傾げている。それにヒカルは「何でもない」と頭を振っていき、続いてサクラに頭を下げていく。


「教官、改めてお礼を言わせて下さい。弟を守って下さって有り難う御座いました。しかも病室を抜け出した弟を一緒に捜して頂いて…本当に何とお礼を言って良いものか」


 深々と頭を下げるヒカルの様子に、アキラが焦るような声で「…あ、兄貴!」と弱り顔をして止めるよう促している。そんな様子にサクラは穏やかに微笑んでいき、小さく頭を振りながらヒカルへと言っていった。


「なに、当然だろう。…むしろ私の方が貴様に謝罪するべきだと思うがな。教官である私が付いておきながらこの失態。敵の術中に嵌った挙句に学生であるアキラに怪我をさせ、そのうえ貴重なラグマ・アルタを二機も失ってしまったのだからな。せめてもの救いはこいつの命を繋ぎ止められた事か。後少し帰還が遅れていたらどうなっていたか。そう思うとぞっとするよ。本当にすまなかった。この場を借りて謝罪したい。…本当にすまなかった」


「…え」


 だが逆にサクラから頭を下げられてしまい、ヒカルは慌てながら頭を振っていた。そして弟の頭を揉みくちゃに撫でながら、焦りつつサクラへと言い返していた。


「…そんな。教官、頭を上げてください。僕ら学生の味方をしてくれた教官には感謝しこそすれ、恨むような事をする筈が無いじゃないですか。だからこの話はもう止しましょう? もう済んだ事ですから。それがお互いの為でもありますし」


「……」


 そうヒカルから言われて、思わずサクラは眼を瞬かせた瞬間だった。そして思わずアキラを見やっていき、小さく耳打ちするように言っていく。


「同じDNAなのにこの違い。しかも貴様と同一人物だろうに。貴様は何処で何を間違ってそうなったのだ。彼は貴様でもあるのに余りに違い過ぎる。…貴様、残念すぎるっ!」


「その残念すぎるって何だよっ! …お、俺だってこのくらい。…このくらいは」


 必死にアキラはそう言い返しながらも、内心では無理かもしれないと思っていた。本当に何処で何を間違えてしまったのだろうか。自分の事ながら疑問は絶えない。


 因みにスクール内で内紛が発生した際、全ての教官が理事会の命令に従って学生に銃口を向けた訳では無かった。中には学生に味方する教官も少なからずいて、教官であるサクラもまたその内の一人だった。その結果、圧倒的な数を誇る学生達を前にスクール側は降伏を余儀無くされ、未だ抵抗の意思が消えない教官と理事会メンバーが捕らえられたのである。


 中には教官として戻って来た者も居たが、互いに禍根を残したのは言うまでもない。


 そんな時、パジャマ姿のアキラが寒そうに体を震わせていく。ヒカルはそれを見て素早く自分の方へと抱き寄せていき、申し訳なさそうな顔でサクラへと言っていった。


「すみません、教官。…そろそろ」


「ああ、そうだな。この馬鹿が風邪をひいたら大変だ。戻ろうか」


 ヒカルの言わんとする意味に気付き、サクラはすぐに頷いていく。内心ではアキラを抱き締められる双子の特権を羨ましく思っていたが、大人の維持でおくびにも出さなかった。


 そして三人で緩やかに歩き始め、その道すがらヒカルは思い出したように告げていく。


「そうだ、教官。…今度弟を連れて一度実家へ戻る事にしたんですが、もし宜しければ教官も一緒にお願いできませんか? 弟の怪我を家族に説明しなければいけませんし、その際に教官の事も家族に紹介したいんです。…あの、宜しければですが」


「っ!」


 そんなヒカルの申し出に、サクラはぱっと顔を綻ばせていた。そしてまるで少女のような満面の笑みを浮かべていき、嬉しそうに何度も頷きながら言うのだった。


「勿論だっ! 是非一緒に行かせてもらうぞ! …ご両親にはきちんと挨拶をせねばな。こいつの怪我の事を謝罪せねばならないし、今後の事もあるからな!」


「? 今後って何?」


 だがそんなサクラの言葉に首を傾げたのはアキラだ。ヒカルは理解していない弟の様子に苦笑いするしかなく、本当にこの先どうなるのやらと心から弟を心配した瞬間だった。


 そうして三人は緩やかに校内へと戻って行く。…尤も未だ校内には弾痕と硝煙の臭いが色濃く漂ってはいたが。内紛の痕が消えるにはもう暫く掛かるだろう。


 でも、ゆっくり互いの傷を癒していけば良いのだ。…すぐには癒えないだろうが、きっと時間が癒してくれる。今はそう信じるしかない。


 こうして思い掛けない日常を得る事が出来たのだ。それだけで十分ではないかと、アキラとサクラは心中で微笑みながら思っていた。


 もし次に何かあったとしても、きっと今度は正しい道を歩いて行ける。だって道を正してくれる人が傍に居るのだから。きっと今度は大丈夫だ。もう道を間違えたりしない。


 アキラは失った筈の家族を取り戻し、しかも新たな家族である双子の兄であるヒカルを得た。…そしてサクラは、二度と軍人として理不尽な虐殺に手を染めずに済むのである。


 これほどの喜びが他に在ろうか。そう二人は喜びを噛み締めながら歩いて行く。…新たな日常の象徴であるヒカルを交えて談笑しながら。


 もう道を間違えたりしない。それだけを胸に秘めて二人は歩く。そしてこのような日常を与えてくれた天母へと感謝し続けていた。…ありがとう。本当にありがとう、と。


 あなたが与えてくれた新たな日常を歩いて行こう。きっとそれは多くの者の時間を歪めてしまった自分達の義務だろうから――。


 それこそが新たに与えられた義務だ。過去を背負って歩く。…それは罪の呵責によるものではない。ただ過去を忘れない為に歩いて行くのだ。


 消えぬ過去と新たに得た未来を背負って歩く。それこそが義務なのだと思うからだ。そう二人は微笑みを浮かべつつ、新たな道をヒカルも交えてゆっくりと歩き始めるのだった。

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