第28話 ヒカル


 ―…誰かが子守唄を歌ってくれている。この声は…もしかして天母だろうか。眠っている赤ん坊のアキラを腕に抱き、あやすように揺り動かしながら小さく口遊んでいる。


 アキラは未だ夢の中で、そんな天母の歌声を聴きながら眠り続ける。しかし次第に歌声は変わっていき、いつの間にかサクラの声になっていた。


 あれ、おねえちゃんだ。そうアキラは思って、先ほど彼女から名前で呼べと叱られた事を思い出した。


 そうだ。名前で呼ばなくちゃ。そう微睡みながら思いつつ、アキラは彼女の腕に抱かれて眠り続ける。…そうしてどれだけ経った頃だろうか。


 ふと意識が浮上していき、アキラは柔らかな感触の中で眼を覚ました。そしてすぐに自分が寝台に寝かされていると知り、先ほどまで夢見ていた感覚はこれだったのだと納得する。


 白い天井が見える。紅焔の狼に捕まっていた時のように黒ずんだ天井ではない。清潔感に溢れて生活臭が感じられる天井だ。…久しぶりに感じる感覚だ。


 サクラに捕まる前…スクールで生活していた時以来だろうか。そうアキラは思いながら、緩やかに頭を動かして周囲へと視線を送っていく。


 壁は一面白い壁紙で覆われており、見えるのは白い壁とスライド式のドアだけだ。…他に見えるのは床のタイルくらいで、そしてドアとは反対側に見えるのは――。


「アキラ、眼が覚めたか」


「…………」


 そう静かに声を掛けられて、アキラはこれ以上ないほど眼を見開いていた。…いや、これほど驚いたのは人生で初めてであろう。余りにもこれは…その、ねぇ?


 心中でしどろもどろに思考を巡らせるアキラではあったが、直後に「そんな訳あるかっ!」と勢いよく上半身を起こして悲鳴染みた声を上げていた。


「…って、はいぃぃ~っ?」


 そこに居たのはアキラのドッペルゲンガーだった。…そうか、そうか。ドッペルゲンガーは実在していたのだな。…って、そんな訳あるかっ!


 アキラは改めて自身の心中に突っ込んでいき、だったら目の前の人物は何なのだと眼を白黒させながら相手を睨め回していた。


 何処をどう見てもアキラと瓜二つ。寸分違わぬ男が寝台の脇に腰掛けていた。…顔立ちや身長はアキラとほぼ同じ。しかし彼の場合は髪と眼の色が共に黒で、アキラの白髪金目とは大きく異なっている。…逆に言えば髪と眼の色以外は全て同じという事でもあるのだが。


「…ちょ、は? え?」


 変な言葉を漏らしつつ、思わずアキラは飛び起きて壁際まで逃げていた。因みに逃げた方は当然ながらドアが在る方だ。だって怖いではないか。目の前に居るのは何処をどう見ても自分そのもの。この世には同じ顔をした人間が三人居るとは云うが、これは余りにも似過ぎている。これは怖すぎる。余りにも怖すぎる。


 アキラは目の前に居る自分と瓜二つの男を前に動揺するしかなく、だがどうにか理性を総動員して一つの答えを導き出し、必死になって男へと問い掛けていった。


「…あ、あ、あのですね? えーっと、えーっと。…あ! 保護してくれた方ですか?」


 この場合、そう訊ねるのが無難だ。だって良く周りを見回してみれば、ここはスクールの中にある病室ではないか。そして目の前の男はセグヴァ・スクールの制服を着ている。


 きっとアキラが知らなかっただけで、同じスクールの中にそっくりさんが居たのだろう。そうだ、そうだ。きっとそうに違いない。


 必死に自分へ言い聞かせるアキラではあったが、そんなアキラの心中を打ち砕くように男が心配そうに椅子から腰を上げていき、立ち上がってアキラへと歩み寄りながら眉根を潜めた後、これまたアキラと同じ声を発しながら言うのだった。


「こら、アキラ。…眼が覚めたばかりなのに起きちゃ駄目だろ。早くベッドに戻れ。それに何だ、その反応は。頭でも打ったのか? …まさかお前、俺の事――」


 忘れたんじゃないだろうな。そう告げる男の声が余りにも悲愴だった為、アキラは思わず言葉を詰まらせてしまった。何となく悪者になったような気分である。


 そんなアキラの心中を他所に、男は自らを奮い立たせる様に微笑んで話を続けてくる。


「…なに言ってんだろうな、俺。そんな訳ないのにな。アキラが俺の事を忘れる筈が無い。そんなの当たり前なのに。…ごめんな。お前を疑うような事を言って。…ちょっとさ、俺も動揺してるんだ。お前がこんな大怪我して帰って来て、しかも俺は一緒に付いて行ってやる事も出来なかったから。…自分が情けなくて。凄く情けなくて――」


「……」


 決定。やはり悪者は自分のようだ。何が何か分からないが、どうやら彼と自分は顔見知りらしい。しかもかなり親しい仲だったようだ。


 …全く覚えていないのですが。しかし場の流れでは余りにも言い辛く、ただ男の話に耳を傾けるしかない。でも覚えていない。彼は一体誰だっただろうか?


 はてと必死に思い出そうとするアキラではあったが、やはり思い出せない。…こんなにも似ている知り合いが居れば、幾らアキラが馬鹿でも忘れないだろう。それは断言できる。


 只管と困惑するばかりのアキラを置いて、男は儚げに笑いながら言葉を続けてくる。


「お前が左腕に大怪我をして帰って来て、治療してくれた医師から何て言われたと思う? 弟さんは過去、左腕に大怪我をした事はありますか…だってさ。左腕の広範囲に古傷がある。そう言われたんだよ。…俺さ、何だよそれって驚いちゃって。そんなの俺は知らない。お前の事で知らない事なんて無い筈なのに、左腕に古傷があるの知らなかったんだ。…だから俺」


「……、え」


 いま、彼は色々と爆弾発言をしなかっただろうか。左腕の怪我? …ああ、いや。これは良い。現に今もかなりの痛みがある。尤も鎮痛剤が打たれているのか大分和らいではいるが。


 その点はまだ良いのだ。何となく治り掛けていた傷が逆戻りしているような気はするが、この際そこは気にすまい。ここで重要なのはそこではない。…彼はいま、アキラとの関係を何と言っていた? 聞き間違いだと思いたい。思いたいが嫌な予感がしてならない。


 只管と一人で動揺していたアキラではあったが、ここでようやく自分の服装が変わっている事に気付いた。…いや、見慣れた愛着のある服ではある。あるのだが――。


 しばらく考えた後、アキラは思い切り自身を抱き締めて顔を赤らめさせて、目の前に居る男を睨み付けて非難していた。


「…って、ちょっと~っ! 確か俺パワード・スーツを着てた筈じゃない? …それに頭の輪っか(コントロール・サークレット)も無いし! …いいや、着替えさせられているのは治療の一環として良しとしよう。でもなっ! どうして俺が愛用してるパジャマを知ってんだよ。おかしいだろ! それにどうやって持って来たんだ、このヘンタイッ!」


「……」


 すると男は「突っ込むのはそこなのか?」と微妙な顔をしていき、心底呆れたような顔を向けられてしまった。でもアキラからすればこれは一大事である。


 だって、現在アキラが着せられているのは学生寮で愛用していたパジャマなのだ。そして当然ながらパジャマは学生寮の部屋にしか無い筈だし、何よりもアキラは一人部屋だった。同室の人間が居ない以上、アキラが愛用しているパジャマの存在を知る筈が無いのだ。


 …たとえ部屋に行って取って来たとしても、アキラが愛用しているパジャマの事までは知らない筈。だってこのパジャマは常に奥の方へ仕舞うよう心掛けていた。純粋に恥ずかしかったからである。こんな大の男が好んで着るデザインではない。そんな事は分かっている。


 因みに現在アキラが着ているのは眼が冴える様な赤い色をしたパジャマで、胸の部分には何とも言い難いデザインの三毛猫がプリントされている。…が、やはり左腕は肩から指先まで包帯でぐるぐる巻きだった。それにしてもと、アキラは改めてパジャマを見下ろす。


 いや~、三毛猫ちゃん。久しぶりだね~。元気にしていたかい? 俺は元気じゃないよ!


 思わず現実逃避の如く胸の三毛猫に語り掛けた後、アキラは改めて周囲を見回してから、そういえばと疑問に思って言い難そうに男へと問うていた。


「…あ、あのさ。ここってセグヴァ・スクールだよな? …俺、どうしてここに居るんだ? あんたもここの学生みたいだし、あんたは俺の事を知ってるみたいだしさ。…あんた、俺に何があったか知らないか? それとサク――」


 サクラはどうしたのか。…そんなアキラの言葉は最後まで紡がれなかった。

「アキラ」


 遮るように男はアキラを呼んできて、そっとアキラの背中に腕を回して抱き締めてくる。そして双肩を小さく震わせながら、アキラを抱き締めたまま涙声で告げるのだった。


「ごめんな。…俺、お前の兄ちゃんなのに。お前の事を守ってやれなかった。酷い怪我までして帰って来て、俺は看病する事しか出来なかったっ! 兄ちゃん失格だ。こんな兄貴なら居ない方が良いと思われても当然だよな。俺も自分が情けないよ。弟は戦地に行ったのに、兄貴の俺は成績が足りず行けなかったなんて。情けなくて涙が出る。情けないよ、本当に。ごめんな、アキラ。本当にごめん。お前にだけ怖い思いをさせてごめん。…本当にごめん」


「兄貴って…兄――。…あのぅ、マジで? やっぱり?」


 やっぱりそういう事なのか。そう思った瞬間だった。…先ほど彼はアキラの事を「弟」と、そう言っていた。続いて彼の口から紡がれた謝罪の言葉、…の中に入っていた重要な単語。


 お前の兄ちゃん。間違いなく彼はそう言った。ここまで来ると、お前は誰だとか聞いたらいけないのは嫌でも分かる。彼の雰囲気からして冗談ではないのは明らかだからだ。


 …俺に兄貴なんて居なかったぞ。姉ちゃんは二人居た覚えがあるけど――。


 だから誰だよ、お前は。…物凄くそうは思うが、この空気の中でそれを口にするほど空気の読めない男ではない。でも兄貴だと? そしてこの風貌。もしや彼は――。


 冗談だろとアキラが全身から冷や汗を掻いていると、そんな微妙な空気を引き裂くかのように斜め後ろにあるドアが緩やかに開かれていく。だが入室者達は室内の空気を敏感に察したらしく、居心地悪そうな顔をして二人で顔を見合わせていく。


「…あちゃ~。ねぇヴェイン、僕らお邪魔みたいだよ?」


「そのようだな。…出直すか」


 何とそれはカイスとヴェインだった。彼らは互いに頷き合った後に、ならばと踵を返して病室から出て行こうとする。


 思わずそれを見送り掛けたアキラではあったが、直後に我に返って二人を引き留める。


「…って、ちょっと待てよ! 俺を見捨てるな~っ!」


 そんな二人を見て、ようやく男が体を起こしてアキラを解放していく。必死に二人を引き留めるアキラと苦笑いしている男の様子に、去り掛けていた二人は仕方ないと踏み止まり、ヴェインが流れ作業のように呆れ顔をしてアキラへと言ってきた。


「折角俺達が気を遣ってやろうとしたのに。…何だ、その「見捨てるな」というのは。第一ヒカル、お前がアキラを溺愛しているのは知っているがな。そいつだってアルヴァリエだ。しかも双子の弟なんだ。…まぁ今回は仕方ないにしても、少しくらい厳しく接しても良いと俺は思うぞ? アキラの馬鹿な声が廊下まで筒抜けていた。…全く恥ずかしい奴め」


 心底呆れたと云った風にヴェインから吐き捨てられて、アキラは弱り顔をして「おや~…」と漏らしていく。しかしヴェインが語ったアキラと男との関係を聞いて、やはりと項垂れた瞬間だった。でも「ヒカル」という名前に憶えはない。しかも双子、双子…―。


 何度も心中で繰り返しながら、男―ヒカルに何度も視線を向けてヴェインに問うていた。


「あのさ、やっぱりこいつ。…っとと、ヒカルさん? 俺の双子の兄貴なの? 本当に?」


「「……」」


 すると二人は同時に黙り込んで、訝しげにヒカルへと視線を向けていく。するとヒカルは悲しげに微笑んだだけで何も言わず、二人へと小さく頭を振っただけだった。


 それだけで二人は全てを察して、ヴェインがすぐさまアキラへと言っていく。


「すぐに医師の診察を受けろ。…他に分からない事はあるか。俺達の事は? ここが何処か判るか。左腕以外に不調を感じる所はあるか。お前は何処まで憶えている?」


「…アキラ、ちゃんと言うんだ。大丈夫。僕らは友達だから。何も心配ないよ」


 続けてカイスからも言われてしまい、これは完全に誤解されているなとアキラは察して二人へと頭を振っていく。


「違うって。記憶喪失になんてなってないよ。お前らの事だって憶えてる。…でもこいつは、ヒカルって奴の事は知らない。それに双子の兄貴って何だよ。そんなの俺に居る筈が無い。だって俺の家族は皆、八年前に死んでんだぞ。…たとえ居たとしても生きている筈が無い。あの中で生き延びている筈が無いっ! そうだ。確かあんた、俺の古傷の事を医者から聞かれたって言ってたよな。…だったら教えてやるよ。こいつはなっ――」


 だが、アキラの言葉は最後まで続かなかった。途中でカイスの鋭い平手打ちが飛んで来たからだ。…乾いた音が鳴り響いて室内がシンと静まり返る。


 そこには沈痛な顔をしたカイスが居た。カイスは素早くヒカルを背に庇っていき、青ざめているヒカルを励ますように視線を向けてから、アキラを責めるように言ってくる。


「…アキラ、言って良い事と悪い事があるだろ。君の大切なお兄さんじゃないか。…それを居る筈が無い? 居ても死んでる筈だ? …ふざけるのも好い加減にしろっ! だったらここにいるヒカルは何なんだよ。ずっと君の事を心配してたんだぞ! それをっ――」


 そこでヴェインが激情するカイスを無言で押し留めていき、続けて説明する様にアキラを見つめて静かな口調で語り始める。


「ヒカルはな、出撃した機体が戻って来る度にお前じゃないかと上級生に訊ねていた。でも、ついにお前は戻って来なかった。撃墜されていないのに戻って来ない。…それを知った時、ヒカルがどれだけ心配したかお前に分かるか。…そしてようやく戻って来たお前が左腕に酷い怪我を負っていると知った時、ヒカルがどれだけ胸を痛めたかお前に分かるか。お前が目覚めるまで絶対に傍を離れない。そう言ってヒカルはずっとお前を看病していたんだぞ。何度も俺達に「もしお前が目覚めなかったら」と泣きそうな顔をして漏らしながら、な」


「…え」


 その話を聞いて、アキラは小さく眼を見開いていた。そしてようやく気付いた。…何かが変だ、と。だってアキラがスクールから出撃している筈が無いのだ。…戻って来なかった。その言葉が示すのは、アキラがこのスクールから出撃したという事だ。でも実際は――。


 紅焔の狼に捕らえられていたアキラは二人に救出され、途中で戦闘に巻き込まれたのだ。だからアキラがスクールから出撃している筈が無い。そんな筈が無いのだ。


「…っ」


 怖いと、ようやく事態を悟ってアキラは思った。…スクールから出撃したというアキラ。そして居る筈の無い双子の兄。何もかもが変だ。ここは一体何処なんだ。…ここは一体。


 それにヴェインとカイスもだ。…ヴェインの口調からすると、彼らは出撃せずスクールに残ったのだろう。だからヒカルの様子も知っている。共にスクールに残っていたからだ。


 でも、そんな筈が無いのだ。彼らが助けてくれたからこそ、アキラは逃げる事が出来た。そのお陰で女神と化したサクラと再会する事が出来た。その筈なのに――。


 そんな彼らの口から紡がれる双子の兄だというヒカルの存在。…ここは何もかもが変だ。まるで自分だけが異質な存在となり、世界から切り離されてしまったように感じる。


 アキラは知らずに背中を壁に預けて呆然と立ち尽くし、自らの記憶を必死に手繰り寄せながら小さく漏らすしかなかった。


「だって俺、本当に双子の兄貴なんて知らない。俺にそんなのは居なかったっ! …そうだ。おねえちゃんなら。…なぁ、おねえちゃんは…サクラはどうしたんだよ。俺と一緒に女の人が居なかったか? 長い黒髪をした女の人だよっ! …なぁ、ヴェインッ!」


「……」


 縋るようにヴェインへ問い掛けると、彼は短く沈黙して長々と溜息を付いて言ってくる。


「もしやそれはヴァイスマン教官の事か? …ああ、お前と一緒に居たよ。だが教官も何か様子がおかしかった。まるで獣のような眼をして俺達を睨み付けて…必死にお前を守ろうとしていた。目覚めないお前を抱き締めて離さず、俺達の事を素手でも殺せると脅してきた。あんな教官は始めて見た。…考えてみれば、教官も初めは様子がおかしかったな」


 今更に気付いた様に漏らすヴェインの言葉に、カイスも確かにと頷きながら話し出す。


「そうだったね。…やっぱり何かあったんだろうね。二人して似たような症状が見られるだなんて。でも教官は何も異常が無かったって言ってたよね。だからってアキラに異常が無いとは言えないし、やっぱり一度精密検査をして貰った方が――」


 良いのではとカイスが漏らすと、ヴェインも苦々しい顔をして頷いていく。…そう二人が話している間もヒカルは沈痛に俯いたままで、決して顔を上げず伏せたままだった。


 アキラはそんなヒカルを見て居た堪れない気持ちになり、懸命に勇気を振り絞って双子の兄だというヒカルへと話し掛けていく。


「…あ、あのさ。…えっと、兄貴? あの――」


「いいよ」


 だがヒカルは小さく頭を振って言ってきて、顔を上げて寂しげに微笑みながらアキラの頭に手を伸ばして撫でながら言葉を続けてくる。


「俺が事前に覚悟しておくべきだったんだ。…教官の様子がおかしいと聞かされた時、俺はその話を他人事のように聞いていた。俺にとっては目覚めない弟の方が心配だったからさ。教官は自分が受け持っていた学生だけではなく、同僚の教官達すら初めは分からなかったらしいからな。それに比べればアキラはまだ軽度さ。…だってヴェインやカイスの事は憶えているんだから。分からないのは俺や家族の事だけ。ただそれだけなんだからさ」


 そんなヒカルの悲しげな言葉にヴェインとカイスは驚き、憐れむ様に顔を伏せていく。


「…ヒカル」


「……」


 悲しげにヒカルから言われて、二人は何も言えず沈痛に俯くしかなかった。それにアキラは弱り顔をするしかなく、ただ居心地悪そうに視線を逸らすしかない。


 ヒカルはそんなアキラの態度に更に寂しげな顔をしていき、それでも話を続けていく。


「ごめんな、アキラ。…お前を責めるような真似をして。本当に俺、兄ちゃん失格だよな。お前が見つかったって聞いた時さ、ちょうど母さんから通信が入ってたんだ。でも母親って凄いよな。何かを察したみたいにお前に替わってくれって言うんだ。あの時は本当に焦った。だってあの時、いつも俺の隣に居るお前は居なかったんだから。…そんな時に外からお前が見つかったって聞こえて来て。俺、思わず通信を切っちゃった。後で母さんに謝らないと」


「…え?」


 母さんと、確かに彼はそう言った。…でも、家族は八年前に死んだ筈だ。祖父母に両親、そして二人の姉。皆あの日に死んでしまった。そして自分もまた――。


 有り得ないとアキラは恐怖していたが、ここでようやく自分の記憶に変化が起きている事に気付いた。今までの辛く悲しい記憶の中に別の何かが入り込んでくる。今までに自分が経験してきた記憶は確かに存在するのに、そこへ新たな記憶が入り込んで来ているのだ。


 これは一体何なのだ。理解出来ない現象にアキラの恐怖は更に増していき、全身の震えが止まらなくなる。


 そんなアキラの異変に気付いたのか、ヒカルは慌ててアキラを抱き締めて叫び出す。


「…アキラ? アキラッ! …カイス、医師を呼んで来て。早くっ!」


「え? …あ、うんっ!」


 言われてカイスはすぐに病室を出て行こうとするが、何故かヴェインが慌ててカイスの腕を掴んでいき「いいや、待て!」と鋭く制してくる。


 それにカイスは焦りを露わにしていき、ヴェインに「…でもっ!」と悲痛に叫んでいく。だがヴェインは静かに頭を振っていき、無言でアキラを見るよう促す。ここでようやく意味を悟り、カイスは成程と苦笑してその場に留まる事にした。


 ヒカルも気付いたのだろう。弱ったような表情をして抱き締めたアキラを見つめており、自分の胸に顔を押し付けて小さく震えているアキラをそっと呼び掛けていく。


「…アキラ?」


 だがアキラはそれに応えず、ただ全身を小さく震わせながら泣き続ける。…そう、アキラは泣いていたのだ。突然溢れて来た記憶に感情が付いていかず、動揺して泣いていたのだ。


 そんなアキラを三人で静かに見守っていると、次第にアキラの嗚咽は大きくなり、やがて耐え兼ねたように己の感情を涙交じりの声で吐露し始める。


「だって俺、ずっと独りだったじゃんか。…俺だけが残されて、ずっと独りで生きて来た。それなのにどうして…どうして今更? こんなの変だろ。だって、だってこんなっ――」


「っ!」


 それを聞いてヒカルは大きく驚愕していき、悲しげな顔をしてアキラへと言うのだった。


「…そんな、独りだなんて。…俺は、俺はずっとお前の傍に居た。…それなのに、お前」


 まるで存在否定されたような気分だった。しかしヒカルは己の感情を押さえようと唇を噛み締めていき、自身の悲しみを笑みへと変えて弟であるアキラに言い聞かせるのだった。


「何度でも言うぞ。俺はお前の兄貴だ。今更辞めろなんて言われても無理だからな。だって俺はお前の片割れなんだから。辞めろなんて言われて出来るかってんだ。…辞める気も更々無いしな。…だからさ、アキラ。今度二人で外泊届を出して一度家に帰ろう? 皆も喜んでくれるさ。近年は世界情勢が不穏になって来たし、母さんも俺達の事を心配してたからさ。俺達アルヴァリエの立場が微妙に為りつつあるのをテレビで知ったみたいなんだ。だから皆を安心させる為にもさ、一度家に帰ろう? 二人で帰れば皆も安心してくれるさ。俺達は大丈夫だって安心させてやろう? 大丈夫、もう何も心配は無いから。お前の事は今度こそ俺が守ってみせるから。…だから大丈夫、大丈夫だから」


 優しく言い聞かせると、アキラの嗚咽は治まるどころか逆に大きくなっていく。ヒカルはそんな弟を無言で抱き締め続け、そしてヴェインとカイスは何も言わず見守り続けた。


 アキラは自身の感情を制御できず、溢れる記憶に翻弄されて一人泣き続けるしかない。


「…っ」


 何故こんな事になっているのか。何一つ理解出来ずアキラは一人動揺し続けるばかりだ。だってずっと独りで生きて来たのに。八年前のあの日、何もかも失ってしまった。…家族、そして故郷。友達も学校も、そして自身の命すら。…だからこんな事になったのに。


 急速に流れ込んで来る記憶に感情が付いていかず、アキラは動揺を抑えられず泣き続けるしかない。もう独りではない。…いいや、初めから独りではなかったのだ。初めから何も失っていなかった。そう思うと涙が止まらず、言葉では言い表せない感情が溢れてくる。


 その中にはサクラとの想い出もあった。彼女は成績が悪いアキラを心配して特別講師をしてくれている強面な優しい教官だった。…そんな彼女はアキラが所属するチームと共に出撃してガイア諸国連合軍の罠に嵌り、二人仲良くチームと逸れてしまったのである。


 この左腕の傷はその時に負ったものだ。新たな記憶ではそうなっていた。…だがしかしと、アキラは泣きながら負傷した左腕を抱き締めていた。


 これは確かに戦場で負ったものだ。…でもそれは、サクラが相手構わず皆殺しにしていた激戦地であり、スクールのチームと共に出撃した先で遭遇した戦場では無い。


 それだけは確かだ。そうアキラの中あるもう一つの記憶が告げていた。


 自分は彼らが知るアキラでは無いかも知れない。そんな不安が押し寄せて来て、どうしても顔を上げる事が出来なかった。もし自分が彼らの知るアキラでは無いと知られたら――。


 もしヒカルに知られたら。そう思うと怖かった。…彼は双子の兄だ。もしアキラが弟では無いと知れば、ヒカルはどう思うだろうか。それだけは嫌だと、何故か心から思った。


 だって彼は自分の兄だ。そうもう一つの記憶が確かに告げている。それだけは間違いない。だから知られたくない。もしかしたらヒカルの弟では無いかも知れない。それだけは嫌だ。


 いつの間にか兄を失いたくないと思っている自身の心情に気付かず、アキラは不安そうな顔を浮かべて兄であるヒカルを見上げて漏らしていた。


「…あ、あのさ。兄貴」


「ん?」


 小さく呼ぶとヒカルが応えてくれる。それが嬉しくもあり、何故か悲しくもあった。だがアキラは思い切るように口を開き、その続きをヒカルへと語り始める。


「今の俺はあんたが知る弟じゃないかも知れない。…それでも良いか? この傷…左腕の古傷の事もある。今の俺はあんたが知る弟じゃないかも知れない。それでも良いか?」


「っ!」


 それにヒカルは眼を見開いて息を呑んでいき、アキラを抱き締めている腕の力を思わず強めていた。だがヒカルは敢えて微笑み、不安そうにしているアキラに言うのだった。


「俺はお前の兄貴だ。それだけは何があっても絶対変わらない。俺はお前の事を憶えてる。俺とお前は双子なんだ。…だから俺、待ってるよ。お前が俺達家族の事を思い出してくれる日をさ。その日が来るのをずっと待ってる。お前に迷惑だと言われても待ってる。だって俺、お前の兄貴だもん。信じて待つのは当たり前だろ? …だから、さ」


 こうして生きて帰って来てくれたんだから。今はそれだけで十分だと、ヒカルは悲しげな顔をしてから告げてくる。…だが、そんなヒカルの視線はアキラの左腕に注がれていた。


 視線を感じてアキラは改めて左腕を握り締めていき、ヒカルの胸をそっと押して腕の中から抜け出ながら言っていく。


「いつか話すよ。…この傷の事。まぁ突拍子も無い話で兄貴は驚くだろうけどさ」


 信じないかも知れない。暗に言葉に含めてそう告げると、ヒカルは弟を抱き締めていた腕を下ろしながら小さく微笑んで頭を振っていく。


「なに言ってるんだ。…お前の話が突拍子も無いのはいつもの事だろ? 今更なんだから大丈夫だって。…お前の片割れを何年やってると思ってるんだ。慣れてるから安心しろ」


「……」


 何とも微妙な事を言われて、思わずアキラは沈黙した瞬間だった。でもまぁ良いかと安堵の息を付いていき、己の頬を濡らしている涙を掌で乱暴に拭っていく。


 そしてヒカルに支えられながら寝台へと戻りながら、アキラは双子の兄であるヒカルの温もりと、同時に左腕に残された古傷を思い出して静かに瞼を伏せていた。


 新たな記憶の証明である双子の兄・ヒカル。そして今までの記憶の証明ともいえる左腕の古傷。どちらも現在のアキラにとっては実在した記憶であり、現実に在った事だ。どちらが欠けていても現在の自分は存在しない。今の自分にとってはどちらも真実なのだ。


 八年前に家族が戦禍に巻かれて死んだ事も、その最中にサクラと出会った事も。…彼女が振り撒く戦火の中で彼女と再会し、彼女が八年前に出会った「おねえちゃん」だと知った。そうして彼女は軍の手によって女神にされ、人間の行いに怒り狂った天母がアキラの前に現れた。…あの後、地上はどうなったのだろうか。あの場で戦っていた人達は一体――。


 おそらく無事ではあるまい。天母によって葬られたか。もしくは地上そのものが消滅したと見るべきだ。アキラが最後に聞いたのは、悲しみに打ち拉がれた彼女の泣き声だった。


 そこまで考えて、アキラはもしやと眼を見開いていた。


 これは天母の仕業かも知れない。彼女は自分とアキラの事を「全てを超越した神の一族」と、確かそう言っていた。…ならば、このような非常識な事象を起こす事も可能な筈。


 あくまでも憶測だ。でも間違いないと、アキラは思わずにいられなかった。だって記憶が二つ存在するのだ。このような非常識な事象、可能なのは彼女以外に有り得ないではないか。


 だったら本当にと、アキラは己を支えてくれている兄であるヒカルを見る。自分と同じ姿をした双子の兄。彼は間違いなくアキラの兄であり、掛け替えの無い家族なのだ。


 おそらくここは、八年前の襲撃が起きなかった果てに在る世界だ。ここでのサクラは一度も軍籍に付かず、教官としてスクールに残った先に在る世界。その為にアキラの故郷であるナシア市は襲撃されず、この世界では戦火を逃れたのだろう。…何と言ってもナシア市にはラグマ・アルタが配備されなかったのだ。ならば襲撃される理由も存在しない事になる。


 だがそうすると、自分はと思わずにいられない。…何故アキラは双子にされて、ヒカルという双子の兄を得たのか。サクラは流れとして理解できる。でも自分は?


 どれだけ考えても答えは出ず、アキラは寝台へと横になりながら小さく息を吐く。するとヒカルが心配そうな顔をしてきて、それにアキラは「大丈夫だから」と笑いながら答える。


 天母も無茶したものだ。そうアキラは心中だけで苦笑する。おそらく天母が無茶したのだ。現在のアキラは神の一族。つまり人間ではないのだ。…そして神の一族となった最大の原因である八年前の襲撃。あれに出遭わなければアキラという存在そのものに無理が生じる。


 だから天母はアキラを双子にしたのだ。双子にする事で矛盾を解消しようとした。


 全く無茶をしたものだ。そうアキラは苦笑を禁じ得ない。つまりヒカルは八年前の襲撃に遭わなかった果てに在るもう一人のアキラ。彼は正真正銘もう一人のアキラなのだから。


 こんな非常識な事象、天母以外に可能な存在が居る筈が無いではないか。でもと、アキラは満面の笑みを浮かべながら一人思う。


 これほど最高のプレゼントが果たして在ろうか。…家族が全員無事で、しかも双子の兄という新たな存在を得た。これほどのサプライズが他にある筈が無い。


 おそらくヒカルは歴史を改変する際に生じた矛盾が原因だろうが、それでもアキラには嬉しかった。自分を支えてくれる存在が間近に居る。それが嬉しかったのだ。


 アキラは双子となり、八年前の襲撃時にアルヴァリエであるサクラがナシア市へと配備されなければ、ラグマ・アルタが防衛に付いていないナシア市が襲撃される理由は失われる。つまり襲撃そのものが無かった事になる。だから家族は死なずに済んだ。そういう事なのだ。


 そうなればアキラは家族と共に普通に暮らせて、サクラの過ちによって死んだ過去自体が失われる。そうなると今度は現在のアキラに矛盾が生じてしまう為、どうにか矛盾を解消しようと苦肉の策で双子にする事にしたのだろう。


 だからこそ天母はアキラという存在を二人に分けた。そうする事によって少しでも矛盾を回避しようとしたのだ。まぁ白髪金目のアキラが存在する時点で矛盾は十二分に生じてしまっているのだが。こればかりは天母と云えどもどうする事も出来なかったのだろう。


 そんな事を思いながら、アキラはもう一人の自分であるヒカルを改めて見る。すると彼は小さく微笑んできて「何かあったら言えよ」と、そう言いながらアキラの頭を撫でてくる。


 それをアキラは擽ったそうにしながら、心の中でそっと天母に告げるのだった。


 ――俺はもう大丈夫。だから母様、もう泣かないで? …ありがとう、母様。俺はいま、これ以上ないほど幸せだから。だからもう大丈夫。もう大丈夫だから…と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る