第27話 新たに刻まれた時


 ―…暗闇の中で一人鉄鎖に縛られ、サクラはずっと苦しみに耐えていた。だが次第に全身から力が抜けていき、僅かに上下していた胸の動きも徐々に小さくなっていく。


「…っ」


 そこへ止めと言わんばかりに喉の鎖が食い込んできて、サクラは微かに眉根を寄せた後に動かなくなった。


 呼吸が止まり、徐々に小さくなる心音。…これで死ねる。そう思っていた時だった。


「おねえちゃん」


 誰かがサクラを「おねえちゃん」と呼び、サクラを縛っていた鉄鎖を一本ずつ取り払っていく。そして最後にサクラの両手を縛っていた鎖を取り去ると、その相手はサクラの顎へと手を掛けて唇を塞いでくる。


「…ん、ぅ――」


 ぴくりと、微かにサクラの指が動く。誰かが息を吹き込んでくれているのだと思いつつ、サクラは微かに戻って来た意識の中で唇の感覚に酔い痴れる。


 しかし相手から唇を離されると、再びサクラの意識は下降していく。相手はそれに逸早く気付き、改めて唇を塞いでからサクラに呼び掛けるのだった。


「おねえちゃん、眼を覚まして。…俺だよ、アキラだ」


「…ん、ぁ――?」


 ようやくサクラはぼんやりと眼を開ける。暫くは眠たげに瞬きを繰り返していたが、すぐ我に返って顔を赤らめさせていく。


「ぬぁっ! …こ、これは一体――。…ア、アキラッ! 何を恥ずかしい事をしとるか! すぐに手を離せ。今すぐにだっ!」


「…ぬぁって、あんたねぇ」


 何とも色気の無い目覚め方に、相手―アキラは溜息を付きながら抱き締めていたサクラの体を緩やかに開放していく。


 サクラは桃色のパワード・スーツを着ていた。その額にはコントロール・サークレットもあり、普段と変わらぬ姿にアキラは小さく安堵していく。…まぁ尤も、自分もスクール指定である灰色のパワード・スーツとサークレットを着けていたから良かったが。


 そうアキラは思いつつサクラの体を解放してやったのだが、彼女は未だ意識が定まっていなかったらしく、ふっと意識を途切れさせて体勢を崩してしまう。しかしすぐに我に返り、慌てて体勢を戻しながら「…だ、大丈夫だからなっ」と赤面して言い訳のように言ってくる。


 だが咄嗟に手を差し伸べたアキラとしては微妙な心境でしかなく、虚しく空を掠めた手を黙って引っ込めるしかなかった。


「……」


 まぁ別に良いのだか。そうアキラは思いつつ、改めてサクラを見て困り顔で告げていく。


「あのさ、おねえちゃん。…迎えに来たんだ。遅くなってごめんな。もっと早く迎えに来るべきだった。…本当にごめん。ごめんな」


「……」


 それにサクラは短く沈黙した後、改めてアキラの前に立ちながら告げていく。


「もう謝るな。それに何故貴様が謝る。…が、そんな事よりもだっ!」


「?」


 びしっとサクラから指差されて、一体何だろうとアキラは首を傾げていく。するとサクラは更に顔を赤く染めていき、今にも火を噴きそうな顔をしてアキラへと言うのだった。


「私は貴様のおねえちゃんではない! 名前で呼べっ! …そ、その。せめて名前で呼んでは貰えないだろうか。…その、せめてな?」


 必死にアキラへと告げつつ、何とも情けない限りだとサクラは自身に思っていた。名前で呼んでもらう事から始めなければならないとは。


 そして悲しい事に、そんな乙女心はアキラには通じなかった。アキラはそうだったと手を叩いて頷いてきて、そんなサクラにこう言ってきたのだ。


「あ、悪い。ヴァイスマン少佐って呼べって言われたよな」


「…………」


 ある意味期待を裏切らなかったアキラの言葉を聞いて、サクラは「やはり通じないか」と大きく肩を落とすしかなかった。…一体何を期待したのだ、私は。


 そうサクラは肩を落としつつ、それでもめげずに改めてアキラへと言うのだった。


「…その、な? 名前で呼べと、そう言っただろう。…せめてファースト・ネームで呼べ。貴様はまだ学生なのだ。私の事を少佐と呼ぶ必要は無い。だから…その――」


 恥ずかしげにサクラが訴えると、ようやくアキラは言わんとする意味を理解したようだ。ぽんっと改めて手を叩いていき、頷きながらこう言ってきたのだ。


「あ、そっか。だよな。…う~ん。だったら「サクラ」で良い? 何となく「さん」付けはしっくり来ないし。でも仮にも少佐を呼び捨てにするってのもな~。…どうしましょう?」


 するとサクラは見る見る嬉々とした表情を浮かべていき、満面に微笑んで頷くのだった。


「っ! いいや、良い! …よ、呼び捨てを許してやる。有り難く思え!」


「ほぇ? あ、うん。…え~っと、アリガトウゴザイマス?」


 何とも変な遣り取りだ。そう思いつつアキラはサクラへと答えていき、そしてはたと我に返って何の話をしていただろうと首を傾げていく。


 そして「ああ」と思い出しはしたが、同時に話の腰をサクラに思い切り折られた事も思い出した。…彼女にとっては現状よりも、名前の呼び方が何よりも重要だったようだ。


 …まぁ尤も、そんな彼女の事を自分も言えた義理ではないのだか。


 そう思いつつアキラが小さく欠伸を漏らしていると、すぐにそれをサクラが咎めてくる。


「どうした。眠いのか」


「…う~ん」


 そうみたい。アキラは再び欠伸を漏らしつつ、そうサクラに答えていく。するとサクラはその場に腰を下ろしていき、横座りして自らの膝を叩きつつアキラを促してくる。


「ほら、こちらに来い。…そ、その。膝枕だ! 他には誰も居ないんだ。良いだろう?」


「…え」


 他に誰も居なければ良いのか。そうは思ったが口には出さず、アキラはどうしたものかと逡巡していたが、再びサクラから「ほら、早くしろ!」と促されてしまい、少し恥ずかしく思いつつも彼女の傍に腰を下ろして横たわっていく。


「……」


 感想。誰も居なくてもやはり膝枕は恥ずかしかった。…まぁ当然ではあるが。


 でも眠気が勝つのだから面白いものだ。それに彼女の膝は温かく、彼女の手がアキラの頭を幾度も行き来して髪を梳いてくれている。これで気持ちが落ち着くのだから面白い。


 サクラは何度もアキラの髪を梳きつつ、穏やかに微笑んでアキラへと言っていく。


「少し眠れ。貴様が起きるまで私が傍に居る。だから安心しろ。…私は誰よりも強いからな」


「…はは、確かにな」


 そう軽口を叩きはしたが、既にその時アキラの思考は半分ほど眠っていた。そして緩やかに瞼を閉じていって、幾許も無く寝息を立て始める。


「……」


 サクラはそんなアキラを黙って見つめていたが、そっとアキラの頭を抱き締めて自らもまた瞼を閉じていく。酷く疲れた。少しなら寝ても大丈夫だろう。


 だってここには誰も居ない。二人だけなのだから。…アキラと二人きり。それが何よりもサクラには嬉しく、そして酷く心地好くて安心できた。


 だからと、サクラもまた眠りへと誘われていく。こんなにも穏やかな気持ちで眠るのは、果たしていつ振りだろう。もう覚えていない。こんな事はずっと無かったから。


 やがて二人を包んでいた暗闇は白光へと包まれていって、静かに音を立てて崩れ始める。もう二人を包む暗闇は無い。彼らには新たに歩むべき道が在るのだから。


 そうしてどれだけ経った頃だろうか。サクラは全身に打ち付ける冷たい風雨、そして鼻腔を掠める硝煙の臭いに気付いて眠りから目覚めていった。


「…ここは」


 緩やかに眼を開いた先にあった光景に、サクラは小さく眼を見開く。…そこに在ったのは懐かしき母校。セグヴァ・アルヴァリエ・スクールだったのである。


 だがすぐに思い立ったように腕の中に居るアキラを確認していき、彼の胸が動いて呼吸している事を素早く確認する。…うん、大丈夫だ。ただ眠っているだけのようだ。


 それにしても何故と、サクラは混乱を隠せない。眼前に在るのは懐かしき母校。空は厚い雲で覆われており、そこから冷たい雨を降らせて微かな潮風と共に全身に打ち付ける。


 そんな事よりもと、サクラは困惑げにスクールを見る。…ここで戦でもあったのだろうか。目の前の第一セクターの外壁には大穴が空き、地面には銃弾の痕が幾つも刻まれている。


 でも、懐かしいものだ。…サクラも学生だった頃は、このレンガ仕立てでレトロな広場を友人と談笑しながら歩いたものだ。今日は雨天の所為で畳まれているようだが、晴れた日はパラソルの下で菓子を片手に勉強していたものだ。…あの日々に戻れれば、どれほどに。


 どれほどに幸せだろう。人々を救う為に自分達は在るのだと信じ、ただ只管と己を磨く事だけに時間を掛けられた日々。でも、もうあの頃には戻れない。…今の自分はもう――。


 そうサクラは悲しげに顔を歪めつつ、未だ眠りから覚めないアキラを少しでも風雨から守ろうと、更に腕の中へと抱き込んで自らの体を傘代わりとしてアキラの体を覆っていく。だがその左腕は酷く黒ずんでおり、つい先ほど負傷したかのような有様となっている。


 それを疑問に思いつつも、サクラは小さく苦笑しながらアキラを抱き続けた。


 …冷たい雨に晒されても起きないとは。寝汚い奴だとサクラは微笑みながらも、何故このセグヴァ・スクールがこのような事になっているのか首を傾げていた。


 明らかにこれは硝煙の臭いだ。そしてその中に交じる濃い血の臭い。雨が降っているにも拘らずこれほど臭うのだ。ここで激しい戦闘が繰り広げられたと見るべきだろう。


 しかし直後にその原因に思い至り、サクラはもしやと苦い顔を浮かべていた。


「…そうか。ユーライアが多国籍軍と手を組んだのだから、おそらくこのセグヴァでも――」


 何かしらの騒動が起きたのだろう。スクールのアルヴァリエは普通戦争に加担する事を誰よりも嫌う。自分達は人々を守る為に在ると信じているからだ。…何処からかユーライアの情報を入手した一部の学生が蜂起し、スクールの施設を占拠しようとしたのだろう。


 この状況からするに、そう考えるのが自然だ。…そうか。ここも戦場になったのだな。


 それをサクラが悲しく思っていると、そこへ第一セクターの中から複数の学生が慌ててこちらへ駆けて来るのが見えた。その手には毛布を持ち、背中には軽機関銃を背負っている。


「…教官っ、アキラ!」


 そう叫びながら真っ先に駆け付けたのはカイスだった。だがカイスは額にサークレットをしておらず、パワード・スーツではなく制服を着ていた。他の学生も然りだ。


 カイスは持ってきた毛布を素早くサクラへと掛けていくと、続いて駆け付けたヴェインが未だ目覚めないアキラの体へと毛布を掛けていく。


 確か彼らはアキラと共に深緑の大海に現れた学生だ。…あの時のサクラはほとんど自身としての意識を保っていなかったが、彼らは女神と化したサクラと戦いながらも、動けないアキラを必死に支えて守りながら戦っていた。だから間違いない。あの時の学生達だ。


 もしかしたら、あれからかなりの時間が経過しているのかも知れない。だからこそ彼らはスクールに居て、パワード・スーツではなく制服を着ているのだろう。


 そう思い掛けて、サクラは否と頭を振っていた。自身の勘が告げている。そうではないと。何かが噛み合っていない。どうしても強烈な違和感を覚えてならないのだ。


 警戒するようにサクラが険しい顔をしていると、ヴェインが徐にアキラへと手を伸ばしてくる。サクラはそれを見て咄嗟にアキラを抱き締めていき、思わず彼らを怒鳴っていた。


「アキラに触れるなっ! …貴様ら、私の眼を誤魔化せると思うなよ。今の私は銃一丁すら持っていないが、素手でも貴様らを殺せるぞ。見縊るなよ、たかが学生に負けはしないっ」


「「……」」


 そうサクラが吠えると、彼らが浮かべた表情は何故か困惑だった。彼らはそれぞれ視線を交わした後、代表するようにカイスがサクラへと言っていく。


「教官、落ち着いて下さい。ここは戦場ではありません。もうスクールに戻って来たのですから、何も心配する必要は無いんです。…だからお願いです。僕達を信じて下さい」


「…貴様らを、信じる?」


 冗談のような言葉を掛けられて、サクラは思わず鼻で笑っていた。だがそんなサクラに、言葉を続けるようにヴェインが言ってくる。


「教官、目覚めないアキラが心配です。早く手当てをしなければ。それに教官もです」


 そうヴェインから心配そうに見つめられて、サクラは眼を瞬かせながら漏らしていた。


「…私も、だと?」


 一体何を言っているのだ。そう思ってサクラが狼狽えていると、そこには同じように心配そうにしている学生達の姿があり、ようやくサクラはここで彼らが「教官」と、そう自分の事を呼んでいる事に気が付いた。私は教官では無い。その筈なのに――。


「……」


 何故か全身から急激に力が抜けていく。…もう大丈夫なのだと、そう理解できたからだ。するとヴェインが改めてアキラへと手を伸ばしていって、両腕でアキラを抱き抱えながらサクラへと改めて言ってきたのだった。


「さぁ、教官も早く。…俺達、ずっと二人が戻って来るのを待っていたんですよ?」


 待っていた。そうヴェインから言われて、思わずサクラは他の者達へと視線を向けていた。すると彼らは同様に頷いて来て、続いてカイスがサクラへと手を伸ばしながら言ってくる。


「当然じゃありませんか。だって僕達、セグヴァ・スクールの学生なんですから。…そして僕らに味方してくれた教官の事を心配しない筈ないでしょう? 教官は未熟な僕らを庇い守ってくれました。アキラを守ってくれて本当に有り難う御座いました。…本当に」


「…私が、貴様らの?」


 呆然とサクラが呟くと、そこへカイスが脇に手を差し入れて来てサクラを立たせていく。だがサクラの足元が覚束無いと知ると、カイスは膝の下に腕を回して抱き上げようとする。


「いらんっ! 自分で歩ける!」


 サクラは素早くカイスの頭を叩き、カイスの腕を振り切って自らの足で歩いて行く。当然その足元は不確かで、今にも倒れそうではあったが。


 そんなサクラがいつ倒れても大丈夫なように、カイスが後ろからそっと付いて行く。他の学生達も強情な教官の態度に溜息を付いていき、そんな教官の後を追うように歩き始める。


 しかし、一人歩いて行くサクラの頬には一筋の涙が伝っていた。…少しずつ新たな記憶が流れ込んでくる。己の手を血で染めた戦いの記憶では無い。もっと違う何か。別の記憶が。


 次々と流れ込んでくる。その中には戦場を翔けた記憶など一つも無く、誰かを手に掛けている光景すら存在しなかった。…この私が誰一人殺さず、ここまで歩んで来た新たな記憶がそこにはあった。そんな筈が無い。こんな記憶は私の記憶では無い。…その筈なのに、


「…っ、馬鹿だな。何を泣いているのだ、私はっ! …泣く必要など在りはしないのにっ。もう何も心配は要らない。だって私達は帰って来た。スクールに帰って来たのだから――」


 そう自身に呆れつつも、サクラは声を押し殺して泣き続ける。だが歩み続ける足は決して止めず、己の頬を濡らす雨に感謝しながらサクラは一人泣き続けた。


 その隣にはヴェインに抱き抱えられたアキラが居り、穏やかな顔をして眠り続けている様を見てサクラは安堵の息を付いていた。…もう大丈夫。もう何も心配は無いのだ。


 誰の仕業かなど、最早考えるまでもなかった。おそらく天母の仕業だ。


 こんな事が可能なのは彼女しか居ない。彼女は我が子であるアキラだけではなく、サクラの事も救ってくれたのだ。…狂って暴れるばかりだった馬鹿な女まで救ってくれた。


 サクラは学生達に気取られないよう声を押し殺して泣き続けながら、その視線を暗雲が立ち込める空へと向けて、心中で祈るように天母へと言葉を捧げていた。


 やはりあなたは大いなる我らの母だ。…ありがとう。本当にありがとう、我らが母よ…と。

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