第26話 全ては無かった事に


 ―…これこそアルヴァリエの存在意義だった筈なのに。


 黄金色の炎に燃え墜ちる都市の中、多くのアルヴァリエ達がラグマ・アルタに飛び乗り、一人でも多くの民間人を逃がそうと只管と長剣を振り翳していた。


 既に機関銃の弾は尽き、残るはこの長剣一本のみとなっている。…一機、また一機と大型輸送機が空へと飛び立つ中、同じ速さで傷付いたラグマ・アルタ達が擱座していく。しかしコックピット内のアルヴァリエを救助するだけの余裕は誰にも無く、一人、また一人と動けなくなるのを黙って見て見ぬ振りするしかなかった。


 そんな時、大空に飛び立った大型輸送機が大爆発を起こす。それを見たアルヴァリエ達は思わず動きを止めて悲痛な声を上げ、動きを止めた者達はその直後にガルーダの炎の中に消えていく。…誰かが叫ぶ。動きを止めるな。残った輸送機を守るんだ、と。


 最早涙など枯れ果てたと思っていたのに、何故この頬に涙が伝って落ちていくのだろう。泣いてもどうにもならないのに、只管と長剣を振るうしかないのに。


 それなのにと、アルヴァリエ達は悲愴な咆哮を上げながらガルーダに立ち向かっていく。燃え行く都市を守る為、一人でも多くの民間人を救う為に。


 世界中の人々が泣いている。…その声を遠くに聞きながら、アキラは緩やかに意識を取り戻していった。そして双眸を開いて周りを見回し、天母の指の隙間から微かに漏れる淡い光を見て自分の置かれた状況を思い出した。


 そうだ。ここは天母の手の中…母様の手の中だ。だったら安心だ。何と言っても母様の手の中なのだから。これ以上安全な場所がある筈が無い。


 だがアキラは気付いていなかった。自分が何かを失っている事に。真っ白になったアキラの記憶に在るのは母である天母の事だけ。他には何も無い。何一つ残っていないのだから。


 でも、アキラを呼ぶ誰かの声が聴こえたような気がして慌てて周囲を見回していた。だが天母の手の中では声の主が見える筈も無く、アキラは焦るように天母へと声を上げていく。


「…母様っ! 誰かが俺を呼んでる。女の人の声だ。…でも凄く辛そうだ。この声は――」


 しかし、天母は指を開かずに声だけをアキラへと向けていく。


 …アキラ、何もありません。まだ怪我が癒えていないでしょう? まだ眠っていなさい。


「それは…そうだけど」


 天母から指摘されて、アキラは自分の左腕を摩りながら顔を俯かせていく。痛みはかなり和らいだが、それでも痛みが完全に引いた訳では無い。まだ傷は癒えていないのだから。


 あれほど酷い怪我だったのだ。そう簡単には癒えないだろう。しかし今はそれよりもと、アキラは頭を振って改めて天母へと訴えていく。


「お願いだ、母様。…俺を外に出して。母様は苦しんでる女の人を見捨てろって、俺にそう言うのか? そんなの嫌だ。俺はそんな嫌な奴になりたくないっ!」


 …アキラ、ですが――。


 思い掛けない我が子の懇願に、天母はどうしたものかと狼狽える。だがその間にアキラは訓練機を動かして無理やり天母の指を割り開いてしまい、そこから顔を出して外の光景を見てしまった。


「…っ!」


 アキラから声にならない声が漏れる。…何だ、これは。どうしてガルーダ達が母様を囲い守り、母様の目の前には見知らぬ女神が居るのだ。しかもその女神は――。


「…や、止めて。母様、止めてっ! 何をしてるんだよ。女神様が死んじゃうっ!」


 その女神は口から大量の血を垂れ流して、全身を弛緩させて虚ろな眼で天母を見ていた。いいや、天母が無理やり自分と眼を合わさせているのだ。あれは女神の意思では無い。


 だが天母は止めようとせず、更に眼光を強めながら声だけをアキラへと向けていく。


 …これは唯の紛い物です。だから処分しているだけ。…これはね、アキラ。地上に住まう人間という生き物が作り上げたものなのです。そしてこの紛い物は我ら女神と変わらぬ姿で地上を焼き払い、何の罪も無い者達を殺めていったのです。…あなたが心を砕いてあげる必要は何処にも無いのですよ? これは処分せねばならない紛い物なのです。


「でも…処分って、そんな――」


 あの優しい天母とは思えない無慈悲な言葉だった。…普段の天母はあれほど慈愛に満ち、数多の者を見守り優しく包んでくれるというのに。


 何故と、アキラは顔を青ざめさせる。何が天母を恐ろしい狂気へと染めたのか。


 そんな時、虚ろな眼をしていた女神の双眸に微かな光が灯る。そして天母の指の隙間から顔を出しているアキラの訓練機に気付いたのか、柔らかく微笑んで手を伸ばしてくる。


「アキラ、良かった。…眼が――っ」


 穏やかに喋る女神の表情は途中で硬く強張っていき、瞳の無い白目を大きく開いて驚愕に染めて突然天母の束縛から逃れようと暴れ始める。


 …一体何をっ!


 突然の事に慌てる天母だったが、その天母の眼もまた直後に大きく見開かれていた。天母の気が逸れた瞬間女神の束縛は緩み、女神は獣のような咆哮を上げながら飛び立っていく。


「うおぉぉぉぉっ!」


 一体何が起きているのか。呆然としたアキラの視線の先では女神が天母やアキラに背を向けて立ちはだかり、その翼と両腕を広げて眼前に迫り来る物体に体当たりしていった。


「…なっ」


 驚くアキラの視線の先では女神が巨大な物体を受け止めており、食い縛った歯が砕けて口から更なる血が流れ出ている。


「させはしない。…いま天母の手の中にはアキラが居るのだ。絶対にさせはしないっ!」


「…え?」


 悲痛な女神の叫びを聞き、アキラは眼を瞬かせていた。…女神が受け止めた巨大な物体は何と浮遊都市アースガルズそのものだった。


 アースガルズは夥しいガルーダに囲まれて大爆発を起こし、最後の力を振り絞って天母に体当たりを仕掛けて来たのだ。都市を守るべきラグマ・アルタの姿は無く、都市の砲台は大半が沈黙してしまっている。…最早アースガルズには他に術が無かったのだ。


 巨大な都市を一人で受け止める女神。だが女神の体は限界を訴えるように全身から血が溢れ出ており、憤怒に満ちた形相には既に死相が浮かんでいる。


 そんな恐ろしい光景に耐え切れず、知らずアキラは声を漏らしていた。


「…い、嫌だ」


 …アキラ?


 震える声で小さく漏らす我が子の様子に気付いて天母は我に返り、慌てて自らの視線を女神からアキラへと向けていた。…すると、


 …ア、アキラッ!


 悲痛な声が天母から漏れる。固く閉ざしていた筈の手の中から強い光が溢れたと思えば、そこから生身のアキラが飛び出して来たのだ。乗っていた筈の訓練機では無く、パワード・スーツ姿で飛び出して行ったのである。


 その背中には黄金色に輝く六枚の翼があった。だがその翼は誰よりも大きく、そして強い光を発して女神が受け止めているアースガルズへと向かっていく。


 女神は突然ふわりと全身の負担が軽くなり、何があったのかと眼を瞬かせる。


「一体何が――。…っ、な!」


 だが女神はその理由を知り、驚愕して言葉を失っていた。…女神の横から掻き攫うようにアキラがアースガルズを受け止めていたのだ。その背中に六枚の翼を生やして。


 通常アルヴァリエには一組の翼しか生えない。それが六枚も…三組もの翼が生えるなど絶対に有り得ない事だ。…つまりこの翼は――。


 そう思考する女神ではあったが、知らぬうちに自身の頭が後ろへ傾いていると気付いた。


「…?」


 自覚した直後に、かくんと頭が後ろへ傾いて意識が途切れる。…すぐ我に返りはしたが、朦朧とした意識は正常には戻らず視界が徐々に狭まっていくのを感じる。


 そして女神は翼をはためかせたまま意識を閉ざしていき、その翼は羽ばたく力を徐々に失っていって緩やかに海上へと落ちていく。


 しかし寸前で天母が手を伸ばして、落ち行く女神を何故か受け止めていた。次にアキラを助けようと反対側の手を伸ばし掛けたが、見計らったかのように迫って来たミサイル群を見てそれを素早く手で振り払っていく。


 …邪魔立てするなどっ! …アキラ、アキラッ! 止めてぇっ!


 そうして再びアキラへと手を差し伸べた時、アキラは墜ち行くアースガルズを海へ着水させている所で、その背中で輝いていた六枚の翼は光を失って消え掛かっている所だった。


 …ああっ! …そ、そんな。何故このような事にっ!


 悲痛な声が天母から漏れる。そして女神と同様に落ちていくアキラを慌てて受け止めていって、自らの掌に力無く横たわる我が子を見て涙を流し始める。


 …何故、何故このような無茶をしたのですか。…アキラ。アキラ、返事をなさい。もっとちゃんと話して聞かせるべきでした。今のあなたは母であるわたくしの事だけしか憶えていなかったというのに。疾うに気付いていると、そう思ってしまった。わたくしの失態です。ちゃんと話して聞かせるべきだったのです。…ああ、でも…でもっ!


 このような戦場の真っ只中で悠長に話して聞かせるなど、果たして可能だっただろうか。そう考えると天母は零れ落ちる涙を呑むしかなく、ただ己の失態に顔を歪めるしかない。


 天母が悲しんでいると、そこへアキラが緩やかに顔を上げて弱々しい声で言ってくる。


「…なぁ、母様。女神様…おねえちゃんは?」


 …っ!


 天母はアキラの問い掛けに息を呑み、アキラの記憶が戻ってしまった事を知った。そして唇を噛み締めて涙を堪えた後、反対側の手に乗せている女神をアキラの傍に寄せていって、憐れむように告げるのだった。


 …事切れたようです。あなたを救う為に最期に力を振り絞ったのでしょう。ごめんなさい、アキラ。たとえわたくしが天母でも、女神となった者を蘇らせる事は――。


 出来ないのだと天母が告げると、アキラは目の前で横たわっている女神の様を見て眼を見開いていく。そして右腕だけで掌の上を這って行き、そっと女神の頬へと身を寄せていく。


「おねえちゃん? …何だよ。俺の体が縮んじゃったみたいじゃないか。…おねえちゃん、どうして俺を守ってくれたんだ? こんなになってまでさ。どうしてだよ。どうしてっ」


 …アキラ、ごめんなさい。わたくしは…わたくしは――。


 女神の頬に寄り添って泣き崩れるアキラを見て、天母は謝罪する事も出来ず視線を逸らすしかない。女神は疾うに狂っていた。彼女が認識出来ていたのはアキラ一人だけ。


 仕方が無かったのだ。そう言い訳するのは簡単だろう。だがそうではない。


 ようやく天母は自らの行いの誤りに気付き、緩やかに地上を見回していた。…ガルーダの炎に焼き殺される人間、そして地上。一人でも多くの者を救わんと戦うアルヴァリエ達。


 確かに人間は女神と共にアキラまで葬ろうとした。…でも、ならば自分は?


 今にも殺されそうな我が子を見て逆上し、正常な思考が出来なくなっていた。ただ我が子を救おうと、そして我が子を通して観ていた人間達の残虐さに呆れ、怒りに身を任せて地上から人間を消滅させようとしてしまった。…何が正しいのかなど分からない。…しかし、


 …わたくしは天母失格です。全てを慈しみ、守る事がわたくしの務めだと云うのに。地上に住まうもの全てがわたくしの子。…だからこそガルーダを地上に遣わせて力無き者達を守っていたと云うのに。アキラという我が子を得てわたくしの瞳は曇ってしまった。なんと情けない事か。わたくしは…わたくしはっ!


 何処かでボタンを掛け違えてしまったのだ。その結果地上は火の海と化し、多くの人々がガルーダの炎に焼かれて命を落としている。…全ては遅いのだ。後悔など何の意味も無い。


 そう一人で涙する天母の掌には息絶えた女神とそれに寄り添うアキラの姿があり、天母は二人の痛ましさに涙し続けるしかない。…だがそうしているうちにアキラの体が徐々に小さくなっていき、仕舞いには額のサークレットが外れてパワード・スーツが脱げてしまう。


 …ア…キラ? …お、お願い。もう少し待って。母様の力をっ――。


 天母は悲痛な声でそう告げるが、既にアキラの体は縮んで赤ん坊に成り果てていた。次に聞こえたのは産声のような赤ん坊の泣き声で、自らの力を使い果たして赤ん坊へと戻ってしまったアキラの姿だった。


 恐れていた事が現実となってしまい、天母は悲しみに沈んで一人涙を流し続ける。


 …ああ、ああっ! アキラ…アキラッ!


 八年前、アキラは天母の子として蘇ったのではない。本当は生まれ変わったのだ。天母といえども死した魂を蘇生するのは禁忌に触れる。だから天母はアキラを我が子として転生させ、神の一族として新たな生を歩ませる事にした。…あの瞬間、アキラは天母と同じ次元の存在となったのである。つまりそれは、アキラの過去・現在・未来と全ての次元が地上とは異なってしまった事を意味する。…だから、もう――。


 そこまで考えて、天母は眼を見開いて我に返っていた。…そうだ。あの瞬間、あの瞬間に何もかも決まってしまったのだ。ならば――。


 天母は改めて涙を流しながら、息絶えた女神と赤ん坊となったアキラを乗せた掌を胸元へと寄せていき、思いの丈を込めて泣き叫ぶのだった。


 …―っ!


 その声は虹色のオーロラとなって一瞬にして世界を包み込んでいき、天母の声に合わせてガルーダもまた喉を震わせて歌い始める。…人々は一体何が起きているのかと訝る暇も無く、そのオーロラに包まれた瞬間に蛍火となって消えてゆく。


 生きとし生ける物の全てが消えてゆく。…人間も、動物も、植物も。やがて大地が消えて海が消え、最後には空が消えて世界そのものが消えてゆく。


 やがて天母の中で時間が刻まれ始める。その時間は急速に針を進めていき、凄まじい勢いで針を動かし、再び穏やかな音を立てて元の時を刻み始める。


 暗闇の中に一人座る天母は緩りと立ち上がっていき、何も無い己の掌を静かに見つめて悲しげに微笑むのだった。


 …これで良い。これできっと大丈夫。もう何も心配は要らない。だから、きっと――。


 天母は自らの前に一つの球体を浮かべていき、青く輝く美しい球体を見て仄かに笑みを浮かべていく。…これで大丈夫。きっと大丈夫だから。


 そう天母は微笑みながら、一人その球体を眺め続ける。いつの間にか暗闇には満天の星が輝いており、美しい星々に囲まれて天母は一人その球体を眺め続ける。


 全てがゼロになる訳では無い。…だからきっと、また歩き出せる筈だ。


 ただここで見守っていれば良い。自分の役目はそれだけ。それだけなのだから――。

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