第25話 女神と天母


 …何故これほど腸が煮え繰り返るのか。何故こやつらは私の行く手を遮るのか。自分の中の何かが消えてゆく。でも一体何が消えていっているのか。分からない。もう何も――。


 血走った白目をした女神が戦場を翔ける。そこにはもう人としての感情は欠片も残っておらず、ただ何かを目指して女神は只管と黄金色の翼をはためかせている。


「邪魔だっ!」


 女神は己の進行を妨げるように戦っていたガルーダとラグマ・アルタを見て、腕を一振りして同時に葬っていき、更に密集して来た周囲に苛立ちながら全ての者を塵と変えてゆく。


 現在の彼女に敵味方など存在しなかった。…いいや、現在の彼女には相手の見分けは全く付いていなかった。おそらくもう誰も止められないだろう。たとえアーガマンでも、だ。


 たとえ相手がガイア諸国連合軍であっても、そして多国籍軍であっても同じ事。…女神と化した彼女には邪魔な障害物でしかなく、生きとし生ける物の全てを葬りながら進む。


 彼女が睨み付ける先に在るのは天母だった。大きく割り開いた次元の隙間から上半身を覗かせる天母。そして胸元に寄せて両手に包まれているそれ。


 あれは私の物だ。他の誰にも渡すものか。この世界を代償に差し出しても構わない。全てを差し出してでもあれを取る。…アキラ、お前は私のものだ。私の――。


 狂気としか言いようがない歪んだ愛情がそこに在った。しかし現在の彼女にはそれすら判断できず、血走った白目を大きく歪めて戦場の空を翔けて行く。


 もう現在の彼女には自分が何を失ってしまったのか分からなかった。現在の彼女に在るのはアキラへの歪んだ愛情。人としての大半を失い、本能だけで突き進む狂った女神。


 女神の進行を妨げるものは悉く葬り去られていき、またその中には女神を守る為に駆け付けたラグマ・アルタ達の姿も在った。…人が作った女神なのだから人間の味方だろうと、そう考えて彼女を守ろうとしたのに、その彼女に切り刻まれてしまったのである。


 あれは人間の味方ではない。ましてガルーダの味方でもない。あれは狂っている。


 皆がそう結論付けるのに時間は要さなかった。…ただ彼らはガルーダだけを相手にして女神は先に行かせて、その動向を遠くから見守るしかなかった。


 そうして女神は悠々と天母の元へと辿り着き、不気味な笑みを浮かべて天母へと告げる。


「天母よ。その者をこちらへ渡せ。…貴様、誰の許可を得て私の所有物に手を出した。それは私の物だ。貴様にくれてやった覚えは無いぞ」


 すると天母は両手に包むアキラから視線を上げていき、目の前に現れた女神を見て顔を大きく歪めて吐き捨てていく。


 …何と野蛮な。紛い物といえども女神でしょうに。個として自我を持つ存在を所有物扱いするなど…野蛮以外の何物でもありません。去りなさい、紛い物の女神よ。野蛮な女神などに大切な我が子を託す母が何処に居りましょうか。それに現在アキラは眠っているのです。少しは静かにしたらどうなのです。アキラを起こすつもりですか。


 だがそんな天母の言葉に女神は一笑するだけで、不気味な笑みをそのままに告げてくる。


「ふん、だから何だ。むしろさっさと起こせ。そうすれば話は簡単では無いか。…突然次元から現れた貴様と私。どちらをアキラが選ぶか見物だな。少なくとも私には自分が選ばれる自信があるぞ。…まさか貴様には無いのか?」


 ……。まことに野蛮ですね。それに女神よ、現在の自分を見ても尚それを言い切りますか。少しは現在の自分を見つめ直しなさい。それに現在だけでは無い。過去にあなたはどれだけの生命をその手で奪い、踏み躙って来たと思っているのですか。幾多もの戦場を翔け、その手は人々の血で真っ赤ではありませんか。…流石は数多くの人間の中から女神に選ばれただけはある。自我を破壊されても闘争本能だけは失わないとは。まことに悍ましい事。


 悲しげに天母は漏らしながら、自らの手の中で眠るアキラを愛おしそうに見る。だが女神はそれを見て何故か訝しく感じて、僅かに戻った己の正常な意識に気付かず問うていた。


「…そういえば聞いていなかったな。何故アキラは眠っている。このような戦場のど真ん中で眠るなどと…流石のアキラでも有り得ないだろう。貴様、アキラに何をした」


 女神の問いを聞いて天母は蔑むような眼をしていき、静かに女神を睨んで答えていく。


 …誰の所為だと思っているのです。あなたの所為でアキラの記憶は戻ってしまった。折角封印していた記憶が戻ってしまったのです。現在のこの子は心も体も酷く傷付いています。眠らせて癒してあげるのは母親として当然でしょう。違いますか。


「成程な。貴様の言い分は分かった。…だがな」


 そう女神は言いながら、近づいて来たガルーダに気付いて右腕を一振りして払っていく。そして改めて天母を見つめていき、汚れたと言わんばかりに右腕を払いながら言っていた。


「母親らしい、身勝手な言い分だ。傷付いたから強制的に眠らせて癒している。一体何処にアキラの意思があるというのだ。何処にも無いではないか。…私はな、天母よ。アキラ自身の意思を訊ねている。アキラ自身の意思で私の元へ戻ってくれると、そう信じているのだ。そしてその為ならば地上など幾らでもくれてやる。人間も地上もラグマ・アルタも、好きなだけ破壊していくが良い。でもアキラだけはくれてやらん。それは私の物だ。返して貰おう」


 だからと、女神は改めて血走った白目を天母へと向けていって、その黄金色の翼を大きく羽ばたかせて天母へと迫る。だが天母は眼には見えない虹色の膜で自身を覆っており、自身とアキラを守るように全てのものの接近を拒んでいた。


 ならばと女神は虹色の膜へと両手を掛けていき、その身が焼かれんばかりの高圧電流と消し炭と化しそうな灼熱の中、鬼のような形相を浮かべて必死にアキラへと手を伸ばす。


 しかしその手はアキラへは届かず、女神は虹色の膜をどうにか破らんと我が身を省みず前へと突き進み続ける。その度に周囲にはオーロラの波が発生し、大空を美しく染めていく。


 そして女神は我が身を焼きながら、狂ったように天母の手を目指しながら叫んでいた。


「貴様に分かるか? ただ戦うだけの日々を生き、虚しい世界に己を染めた女の気持ちが。誰かを助ける為に在るのだと信じて生きて来たのに、放り込まれた世界は真逆のもの。誰も助けられず殺すしかない。そんな世界で生きねばならん女の気持ちが貴様に分かるかっ! そんな中で見えた唯一の光なのだ。それを手放したくないと思って何が悪い。必要なら世界など幾らでもくれてやるっ! …これほどまでに腐った世界だ。どれだけ貴様に破壊されても私にはどうでも良い事。だがアキラだけは返して貰う! 私の傍に居てくれた唯一の存在なのだ。だから返せ。それだけは駄目だ。他の物なら幾らでもくれてやる。でもアキラだけは駄目だ。…返せ、返せ、返せ! それだけは誰にもくれてやらん。絶対にっ!」


 そんな女神の絶叫を聞き、天母は両手を更に胸元へと引き寄せつつ溜息を付いていた。


 …まことに身勝手な事。相手の意思を無視し、身勝手な理由で相手を振り回すとは。


 だが天母の言葉は途中で途切れ、その視線は遥か上空を見つめていた。初めは眼を見開いて驚いていた天母ではあったが、改めて苦い顔をして目の前に居る女神へと告げていた。


 …あなたが見捨てた地上は、あなたほど愚かでは無かったようですね。よく聞きなさい、人から成った女神よ。あなたの行動一つで地上の評価は如何様にも変わるのです。それでもあなたはアキラを優先しますか? 全を捨ててこの子だけを取ると、あなたはそう言うのですか。それほどにも、あなたは――。


 狂ってしまったのですか。そう悲しげに告げてくる天母の言葉に、女神は口角だけを僅かに持ち上げて笑うに留める。…そんな事は当然ではないか。そう女神の眼は語っていた。


 彼女を救済する事は不可能なのだと、そう天母は悟った瞬間だった。そんな彼女らの視界の端には上空を覆い尽くすほど巨大な浮遊都市が現れており、そこから次々と海上で戦う者達の元へと降下して行くのが見える。


 突然現れた空母のような形をした浮遊都市に気付き、誰もが上空を見上げて嬉々とした表情をして口々に叫んでいく。


 ―…アースガルズ・スクールだ! …と。


 それは浮遊都市アースガルズであった。世界の中で唯一ラグマの巨大化に成功した都市であり、イグニスと呼ばれる巨大結晶をエネルギー源として都市を支えている。空に浮かぶ大地にも見えるそれにはビル群や公園があり、要塞ではなく都市なのだと暗に伝えている。


 そして最後まで沈黙を保っていたスクール。それこそアースガルズの正体だった。彼らが都市ごと応援に駆け付けてくれたのだ。三校最大と謳われるスクールが駆け付けてくれた。


 アースガルズは艦底から幾つもの砲台を出して、四方へと向かってエネルギー砲を放つ。その間を縫って多くのラグマ・アルタが海上へと降下してガルーダに攻撃を仕掛けていく。


 突然現れた思い掛けない助勢に、やや劣勢に陥っていた人類側に光が灯る。そして一気に戦況を巻き返そうといきり立ち、咆哮を上げて次々とガルーダへと立ち向かっていく。だがそんな中で同様に戦っていたアーガマンは苦い顔をしていき、僅か二機だけとなった部下を引き連れてアースガルズのラグマ・アルタへと近づいていって、素早く無線をオープンにして叫んでいった。


「おいっ! …応援に来てくれたのは涙が出るほど有り難いがな、ガルーダは他の所にも飛んで行ったんだぞ。ここは俺らがどうにかする。だからそっちをどうにかしてくれ!」


 我ながらとんでもない要請だとアーガマンは苦笑する。しかしこの場だけ切り抜けても意味が無い。他の地域が全てガルーダに焼き尽くされ、残された大地が焦土では意味が無いのだ。…だからと、アーガマンは自身の発言をらしくないと思いつつ顔を強張らせる。


 するとアーガマンの呼び掛けに応えるように灰色の訓練機もまた無線をオープンにしてきて、機関銃を連射しながら男性のアルヴァリエが楽しげな口調で答えてきた。


『大丈夫だって。僕達もそこまで馬鹿じゃないからさ。…まぁ本当の所さ、僕達が動き出した時にはもうドンパチ始めてたんだよ。いや~、みんなピンチの時は動くの早いね。馬鹿な上官に怒鳴り散らしながらアルヴァリエ達が戦ってるのよ。中には本国からの要請も無視してる奴が居てね。緊急時の対応はパーフェクトだったよ。いや~、素晴らしい事です』


 何とも飄々とした口調の人物ではあるが、その口調の裏には硬く緊張した声も見え隠れしている。そんな男性の言葉にアーガマンは胸を撫で下ろしていって「そうか」と、相手に短く返してから操縦桿を大きく傾けていく。


 誰もが必死になってガルーダと戦う中、それでも女神は天母を包む虹色の膜を破ろうと躍起になっていた。女神からすれば世界など消滅しても関係ない。どうでも良いのだから。


 そんな狂気に染まった女神の双眸には何も無く、瞳を失った白目だけが不気味に光っていた。元は人間である筈の女神が人間の味方をせず、アキラ一人を求めて狂い戦う。


 だがしかしと、天母は憐れむ様に女神を見つめていた。…これこそが地上に住まう人間を示す象徴なのだと。力だけを追い求めた結果が彼女なのだ。だから――。


 天母は諦めるように溜息を付き、自らを包む虹色の膜を更に厚くしていく。そして自らの両手の中で眠るアキラを見つめていき、悲しげに小さく漏らすのだった。


 …アキラ、ごめんなさい。でもね、これが一番良いのです。人間は過ちを犯した。そしてそれは一度の善行では拭えないほど大きなものだったのです。だから、母様は――。


 人間の為にも地上を滅ぼしましょう。そう天母は悲しげに呟く。我が子が安らかに住める場所でない時点で地上は既に腐っているのだ。もうどうにもならない。…もうどうにも。


 天母は寂しげな顔をして一度だけ瞼を伏せ、再び緩やかに開いていく。すると天母の瞳は黄金色に輝いていき、一瞬にして世界を黄金色の炎に染めていった。


 黄金色の衝撃波を受けて、地上は一瞬にして黄金色の炎の中に燃え墜ちていく。…その中には地上を逃げ惑っていた民間人、そしてラグマ・アルタ。戦艦や戦闘機。有りと有らゆる人類と関わるものが燃え墜ち、草木や動物だけは何事も無かったかの様に行き過ぎていく。


 多くの人間が一瞬にして炎の中へと消えたというのに、それでも女神の行動は変わらなかった。…本来であれば人類を守護すべき筈の女神が人類を助けようとしないのである。


 そんな女神を見て天母は思っていた。…これこそ人類が選んだ末路なのだ、と。


 ならば自分も手加減をすまい。そう天母は思い、ただ一人アキラだけを両手に抱いて炎に燃え墜ちる地上を見下ろす。未だ虹色の膜を破ろうと躍起になっている女神を捨て置いて。


 まるで血に飢えた獣のようだと、天母は女神を横目にしつつ思っていた。血走った女神の眼はまさに獣のようで、そこに彼女の自我が残っているとは到底思えなかった。


 疾うに狂っているのだ。確かに彼女は語り掛ければ応じては来る。でもそれだけだ。彼女の返答は明らかに異常で正気とは思えず、ただ遮二無二アキラだけを求めて行動している。


 天母は嘆息しながらアキラだけを両手で守り、憐れむように女神を見つめる。個としての存在理由をほとんど失い、アキラだけを求めて暴れる哀れな女神を。


 このような哀れな姿をアキラに見せてはならない。余りにも哀れ過ぎる。だから――。


 そう天母は諦める様に苦い顔を浮かべながら、鋭い眼光を女神に向けていく。するとそれまで暴れていた女神が一瞬にして大人しくなり、幾度か小さく痙攣して動かなくなった。


 天母はそんな女神を黄金色の膜で覆っていき、自らの視線まで持ち上げながら凍て付いた眼で女神を見る。…たったこれしきの事で動けなくなるとは。


 所詮は紛い物の女神。この地上とは異なる高次元に存在する我らに敵う筈が無いのだ。


 だからと、天母は静かに女神を見つめ続ける。天母に見つめられた女神は視線を外す事も叶わず、ただ虚ろな眼をして天母を見つめ続けるしかなかった。


 アキラが目覚める前に消してやるのが慈悲というもの。そう天母は悲しげに顔を歪めながら痙攣し始めた女神を見つめ続ける。このまま内から壊してやれば――。


 幾ら肉体が不滅に近いとは云え、心臓ともいえる彼女本来の肉体は別の筈。ならば彼女の本体を破壊してしまえば良いのだ。それで全てが終わる。終わるのだから。


 やがて女神は口から泡を吹き始め、苦しげに表情を歪め始める。…だがそんな女神を助けようとする人間は誰一人として存在しなかった。


 それも当然かと、そう天母は思って静かに顔を伏せる。人から成った女神は人を助けず、人もまた女神を助けようとしない。これこそが彼らの選んだ答えなのだから。


 わたくしはそれに答えるだけ。彼らの意志を尊重するしかない。…無いのだから。


 それでも悲しいものだ。…そう天母は一人思い、ただ溜息を付くしかなかったのだった。そうして女神もまた己が内から壊されていく中、ふと正常な意識を取り戻して思っていた。


 …私は一体何の為に。何の為に戦ってきたのだ。こんな最期を送る為に…私は――。


 悲しみに満ちた彼女の内なる悲鳴は誰の耳にも届かず、ごぽっと口から大量の血を吐き出しながら彼女は意識を閉ざしていく。これで死ねる。ようやく死ねるのだ。


 喜ぶべき事ではないか。そう彼女は涙しながら意識を手放していく。…だが完全に意識が失われる直前、彼女は無意識に手を伸ばして声を漏らしていた。


 …アキラ、と。


 その声が眠っているアキラに届く事は無く、女神は冷たくなっていく自身を感じながら緩やかに意識を手放していく。そんな彼女を見つめながら天母は思っていた。


 本来であれば彼女もまた憐れむべき存在。それなのに――。


 それでも己が犯した罪は償わなければ。そう天母は己に言い聞かせて自らの心を氷へと変えて彼女を見つめ続ける。これこそ最善なのだと己に言い聞かせて。


 でも他に方法は無かったのか。…他にもっと、もっと良い方法があるのではないのか。


 天母は女神を見つめ続けながら、無意識にそんな事を考えていた。…他に何かある筈だ。きっと何かある筈。そう思考を巡らせ始めていたのだ。


 そんな己の思考に気付かないのだから天母も面白いものだ。…どうにか彼女を救おうと思考する己に気付かないのだから。だがそれは、本来であれば慈悲深い天母ゆえであろう。


 だからこそアキラを我が子として蘇らせ、こうして再びアキラを救わんと手を差し伸べたのだから。でも滅びの道を選んだのは人間だ。人間と彼女が選んだ道なのだから。


 そう自らに言い聞かせつつ、天母は相反する己の思考に気付いて困惑し始めていた。


 …もっと他に方法があるのではないか。そう独りでいつまでも、いつまでも――。

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