第24話 薄れ行く記憶


 ―…ほら。行くよ、アキラ!


 そう二人の姉から手を差し伸べられて、十歳のアキラは大慌てでランドセルを背負って家から出て行く。


 ―…待ってよ、お姉ちゃん達っ!


 毎朝変わる事の無い光景に、両親や祖父母が穏やかな眼で見守る。そんな何気ない毎日は突如として破られた。…それまで平和だったナシア市上空にラグマ・アルタが現れたのだ。


 でも後で考えてみれば、情報番組等では連日のように陽呼の防衛体制には問題があると報道されていた。他国がラグマ・アルタを導入して防衛を強化しているのに、陽呼は未だにラグマ・アルタを一機も導入していなかったのである。


 そうして、ようやく導入された一機のラグマ・アルタ。操縦者であるアルヴァリエはまだ年若い少女で、陽呼人らしい容姿やラグマ・アルタの色などが酷くメディア受けしていたのを覚えている。これで陽呼も安泰だ。そう報じられていた。


 しかし、十歳のアキラからすればどうでも良い事だった。連日のように報道される情報は遠い世界の話でしかなく、アキラにとっては自分に与えられた日々が全てだった。


 あの日も同じように二人の姉と共に玄関へと向かい、急いで靴を履いて外へ出ようとしていた時だった。


 …ドゥンッと地響きのような音が響き渡り、立て続けに爆発音が聞こえて来たのである。


 二人の姉はすぐ家の中へ戻ろうとした。だが直後に彼らの家にも爆弾が投下され、爆発。寸前で二番目の姉が家から姉弟を引っ張り出し、どうにか一撃目は逃れる事が出来た。でも二撃目が来た。アキラの目の前で二人の姉が爆風に弾き飛ばされたのである。


 アキラが助かったのは運だった。…ただそれだけだと、アキラは燃え盛る炎の中に呆然と座り込みながら空を仰ぐ。ナシア市の空はこんなにも黒かっただろうか。


 今日は晴天だと言っていたのに。そう思いながら、アキラはぼんやりと座り続ける。


 …どうして自分はこんな所に居るのだろうか。左腕が痛い。…ああ、怪我をしたのか。


 何かが変だと分かっているのに、アキラは薄れゆく記憶の中を呆然と座り続けるだけだ。何かが消えていく。自分の中にあった何かが。


 そうだ。これは自分の記憶だ。全てを失った八年前のあの日。そして全てが始まった日。この日にサクラと出会ったのだ。そうして何かが狂い始めた。


 狂った歯車を修正出来ぬまま八年という歳月を送り、いま人類は最悪の結末を迎えようとしている。…おそらく天母は人類を滅ぼすつもりなのだろう。そうとしか思えない。


 サクラは軍の手によって女神へと変えられて、挙句にアキラが彼女と共に殺されそうになったのを見て天母は怒り狂った。もう怒りを鎮める方法は何処にも無いだろう。


 何がいけなかったのだろう。そう思いつつ、アキラは頭上で戦い続けるラグマ・アルタを静かに見つめ続ける。…片方はサクラだ。そうすると相対しているのは侵略者か。


 やがて鼓膜を破るほどの銃撃音が響き渡ると、桃色の機体が地面に蹲っているアキラを懐に抱え込んで背中を丸めていく。そうして訊ねて来るサクラ。…少年、大事ないか。と。


 過去の記憶が繰り返される。そして繰り返された記憶から順に消えてゆく。…天母が記憶を奪っているのだろう。そうアキラは気付いて悲しげに顔を俯かせる。しかし、


「何度だって言おう。貴様は私が守る。…たとえ私がどうなろうとも。だって私は――」


 そう告げて身を起こして来たのは、何と桃色のラグマ・アルタでは無かった。そこに居たのは黄金色の翼を生やした女神で、その黒髪を前に垂らして彼女の顔を陰らせている。


 いつの間にか侵略者のラグマ・アルタは消えていた。炎の中に女神となった彼女とアキラだけが残されて、彼女は少年のアキラを懐に抱え込んだまま告げてくる。


「愛しているのだ。…貴様の事を愛している。私などに好かれても嬉しくはないだろうが、私が貴様を想うのは許して欲しい。…いつからだろうな。こんなにも貴様の事を愛おしいと想うようになったのは。私にもこんな感情があったとは驚きだ。私自身が驚いているよ」


 我ながら変わるものだ。そう彼女は漏らしながらアキラを見下ろし続ける。だがアキラはそれに答えられず、呆然と座り込んで彼女を見上げるばかりだ。


 そんなアキラの様子に彼女も気付いたのだろう。…何の感情も浮かべていないアキラを見て、彼女は見る見る悲痛な表情へと変えていく。そして悲しげに顔を伏せた時だった。


「…あぐぅっ!」


 苦しげな彼女の悲鳴を聞いて、アキラは大慌てで顔を上げていく。するとそこには複数のガルーダが現れており、自らの尾羽で女神の首を締め上げ、全身を搦め捕っている所だった。


 女神は首に巻き付いた尾羽を取り払おうにも四肢を搦め捕られて、身動き一つ出来ない。その間にも女神の顔は見る間に赤く変わっていき、その抵抗も徐々に弱くなっていく。


 一体何が起きているのか。こんな事は過去に無かった筈。…そう思いながらも、アキラは無意識に右手を女神へと伸ばして声を発していた。


「…おねえちゃん」


 アキラが小さく呼ぶと、女神の表情が嬉しそうに緩む。しかし微笑んだ直後に女神の首にガルーダの尾羽が深く食い込み、女神は苦しげに全身を硬直させた後に動かなくなった。


「…お、おねえちゃんっ!」


 そんな彼女をアキラが必死に呼ぶが、首や四肢を搦め捕っている尾羽が彼女の体に更に食い込んでいき、ぐっぐっと嫌な音を立てて彼女を締め上げているのが判る。


 二度と彼女が目覚めないよう縊り殺すつもりなのだ。現在の彼女は何度でも蘇る。だから二度と目覚めないよう、ガルーダは永久に彼女の体を締め上げ続けるつもりなのだ。


 現在の彼女はラグマ・アルタと一体化した女神だ。現在の彼女はラグマ・アルタそのものであり、痛みも苦しみも彼女自身のものだ。だが感覚が伝わるだけで実際の彼女は無事だ。そして彼女は優秀なアルヴァリエだった。彼女は痛みだけでは死なない。何度でも蘇るのだ。


 そんな恐ろしい光景を間近で見つめながら、アキラはふと疑問に思って首を傾げていた。


 …おねえちゃんの名前は何だっただろうか、と。


 どれだけ考えても思い出せない。確かに知っていた筈なのに、どうしても思い出せない。一度だけ彼女の名前を呼んだ時、彼女は素っ気無くこう返して来た筈だ。


 …○○○○○○少佐と呼べ。貴様には罰をくれてやると言っただろう、と。

 やはり思い出せない。どうして思い出せないのだろう。そうアキラが疑問に思っている間に周囲の光景は一変しており、真っ白で何も無い空間へと変わっていた。


 一人残されたアキラは呆然とするばかりで、一体何が起きているのか困惑するしかない。だがそこに一人の女性が何も無い空間から現れてきて、そんなアキラを幼子にするように両腕で抱き上げていき、純白の美しい髪を揺らしながら言うのだった。


 …愛おしい子、もう大丈夫。何も憂える事はありません。だって、あなたを悩ませるものはもう無いのですから。母様が綺麗に消してあげましたから、もう心配ありませんよ。


 まるで子守唄のように響く彼女の声は酷く心地よく、アキラを穏やかな眠りへと誘っていく。もう眠りたい。何も考えたくない。


 そんなアキラに気付いたのだろう。女性は改めてアキラを抱き直していき、何も無い空間に腰掛けて穏やかに微笑むのだった。


 …ゆっくりお休みなさい。次にあなたが目覚める時、きっと美しい世界が広がっています。だからそれまでお眠りなさい。ずっと母様が傍に居てあげますからね。いつまでも、ずっと。


 だがその声を聴いた時、何故かアキラは背中が総毛立つのを感じた。しかし既に半分近く意識が眠りに落ちている状態では意識を浮上させる事も出来ず、アキラはそのまま眠りに付いてしまう。眠ってはいけない。分かっていても体がいう事を利かなかった。


 やがて眠ってしまったアキラを抱き、女性は静かに立ち上がる。そして無の空間と化した周囲を見回していき、安堵するように微笑んで小さく漏らすのだった。


 …アキラ、これで安心ですよ。あなたを悩ませる者はもう居ない。…そう、もう何も。


 そこに在るのは母性愛か。それとも行き過ぎた子への愛情か。それが判る者は無かった。おそらく判る者など居はしないのだろう。


 女性は眠ったアキラを抱えて嬉しそうに微笑み続ける。いつまでも、いつまでも――。

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