第23話 天母


 青く澄んだ空が黄金色に染まる。割り開かれた次元の彼方より現れたガルーダは一斉に世界中へと飛び立って行き、ガルーダの口から放たれる火の玉で世界が瞬く間に紅蓮の炎の中へと燃え墜ちていく。


 悪夢だと、誰かの漏らす声が聴こえてくる。だがそんな声に答える余裕がある者が居る筈も無く、全員がほぼ同時にガルーダへと照準を向けて銃弾を放っていた。


 誰かの絶叫が響き渡る。…先ほどまで隣に居た筈の仲間が、そして友人達が死んでいく。先ほどまで銃口を向けていた者達が死んでいく。救おうと差し伸べた手が空を切る。


 何故これほど虚しいのか。何故眼前の者達すら助けられないのか。…そして何故、もっと早く手を取り合えなかったのか。…もっと早く、こうなる前に。


 ガルーダなど取るに足りない存在だと思っていた。その結果どうだ。ガルーダは火の玉を吐きながら瞬く間に世界を焼いていき、自らの体を爆弾へと変えて大爆発を起こしている。


 余りにも多勢に無勢すぎた。どれだけ倒してもガルーダは次元の彼方より無尽蔵に現れ、既に空と海の境界線すら見えないほど世界を覆い尽くしている。


 最早敵味方などという悠長な事を論じている場合では無かった。ユーライア・スクールのラグマ・アルタが危機に陥ればガイア諸国連合軍の戦艦が援護射撃を一斉に放ち、多国籍軍の戦闘機が攻撃の的となっていればセグヴァ・スクールのラグマ・アルタが応援に回る。


 つい先ほどまで相争っていた者達が互いに手を取り合い、協力して眼前の脅威に抵抗を始めたのである。…何と皮肉な事かと、慙愧とも言える感情が湧き上る。


 そんな中にはカイスとヴェインの姿もあった。だが彼らに出来る事は皆無に等しく、少しでも皆の邪魔にならないよう近場を通った戦艦の甲板へと降り立ち、背負っていた機関銃を構えてガルーダに向けて放つしかなかった。


 だが彼らは知らなかった。…ガルーダ達が敢えて二人だけを避けている事に。現に彼らと行動を共にしていた筈のリィナはこの場におらず、ガルーダの攻撃を掻い潜りながら必死に長剣を振るって戦っている。何故か二人だけが攻撃されないのである。


 二人もまたそれに気付いてはいたが、このような状況でそんな事を論ずるほど愚かでは無い。現在は一人でも多くの味方を救えるよう援護するしかないのだ。


 本当はアキラを救いに行ってやりたい。…でも、現在アキラは天母の手に捕まっている。その天母は大量のガルーダに守られ、現在は姿すら見えない有様だ。


 半人前にも満たない自分達では、到底あそこまで辿り着けない。分かっているからこそ、二人は苦渋の想いで味方の援護に回るしかなかった。


 そんな中で、天母の手に包まれたアキラはようやく眼を覚ましていた。


「…? 俺――」


 一体何があったのかと記憶を巡らせて、そうだと直後に我に返る。…すると言い様の無い恐怖が再び込み上げてきて、全身を震わせながら恐怖に怯え始める。


 すると天母はそんなアキラに気付いたらしく、我が子の様子を憂えるように悲しげな顔をしていき、指の隙間から見つめながら柔らかく語り掛けていった。


 …愛しい子、お願いですから怖がらないで。大丈夫、母様が傍に居るのですもの。…もう何も心配は要らないのですよ? ガルーダ達が守ってくれます。だからもう大丈夫。


 そう天母が発するのは肉声では無く、まるで精神に直接語り掛けているかのようだった。だがアキラは周囲の状況が見えず不安が込み上げるばかりで、恐怖と不安が入り混じって逃げる気力を完全に削いでしまっていた。…だからと、アキラは涙交じりの顔で叫ぶ。


「何だよ、それ。俺の意思は無視かよっ! 俺はそんなこと望んでない。…誰が守ってくれだなんて言ったよ? 俺はおねえちゃんを守れればそれで良かった。俺自身がどうなっても別にどうでも良かったんだよっ! それなのにあんた、おねえちゃんに何をしたんだよ。さっきのおねえちゃん、誰かに操られてるみたいだった。…あれをやったの、あんただろ。おねえちゃんを元に戻せよ。あんなのおねえちゃんじゃないっ!」


 すると天母は小さく眉根を寄せていき、そんなアキラへと言っていく。


 …愛しい子。いいえ、アキラ。何ゆえにあのような卑しい人の子に心を砕くのです。そのような価値、あの卑しい人の子に在りますか? あの者は同族である人を殺し、大地を焼く。それだけでは足らず、あの者は嘗て人だったあなたに何をしたと思っているのですか。その所為でわたくしはあなたの記憶を操作し、当時の記憶を抹消するしかなかったのですよ? でも、その記憶の大半がどうやら戻ってしまったようですが――。


「…え?」


 残念そうに天母から語られて、アキラは小さく眼を瞬かせていた。だが天母は驚いているアキラに構わず、敢えて声の調子を明るく変えて語り続ける。


 …あの卑しい人の子の事はどうでも良いでしょう。それよりもアキラ。あなたのご友人である御二方は無事ですから安心なさい。あの御二方は何度もあなたを救おうとしてくれた。大変素晴らしいご友人方です。そんな御二方に下る天罰などある筈がありません。ですから安心してお眠りなさい。…愛しい子、全てが片付いたら母様と二人で暮らしましょうね? でも今は怪我を癒す事を優先しなければ。…ですから、アキラ。


 天母の視線は訓練機を通してアキラの左腕へと注がれており、どうやら天母はアキラが負っている左腕の怪我を気にしているようだった。


 アキラは思い出したように己の左腕を摩っていって、天母が語った話を聞いて、もしやと思ってそれを天母に訪ねていた。


「…あの、さ。…もしかしてあんた、ずっと俺の事を見守ってくれていたのか? この怪我の事も知ってるみたいだし、俺の記憶を操作したとか言ってるし。しかも俺が人じゃないみたいな言い方だしさ。…嘗て人だったって、それどういう意味だよ。だったら今の俺は?」


 ……。


 すると天母は短く沈黙した後、悲しげな顔をしてアキラへと語ってきた。


 …止むを得なかったのです。他に方法はありませんでした。本来のガルーダは地上に住む心清き者達を守るのが役目。わたくしたち神の一族にのみ使える存在。…そのガルーダから人間は心臓を刳り貫き、自らの欲を満たす為に利用した。…ですがガルーダの心臓は普通の人間にとって猛毒でしかありません。あの卑しき人の子はそれを知っておきながら、あなたをガルーダの心臓へと近付けて、殺した。…なんと非道な事か。わたくしはそれを見て絶望しました。人間とはこれほどに愚かなのだと。ですからわたくしは、あなたの命を我が子として掬い上げました。あなたは新たに生を受けたのです。今のあなたはわたくしの子です。その証拠に、現在のあなたはわたくしと同じ白き髪に黄金色の瞳ではありませんか。それは全てを超越した神の一族の証であり、この地上とは違う次元に存在する者の象徴なのです。あなたはわたくし達と同じ神の一族なのですよ、アキラ。


「…髪と、眼?」


 そう言われて、アキラはもしやと思い出して眼を見開いて驚愕していた。…そうだ。思い出した記憶の中の自分はどんな髪の色をしていた? 閉ざされていた眼の色は?


 どちらも黒だったではないか。…そうだ。生まれた時はこんな色ではなかった。アキラが生まれ育った陽呼は黒目黒髪の人間が多く暮らす国だった。そしてサクラもまた黒目黒髪な事から、彼女もまた同郷であろう事は見た目で大体想像できる。


 でも、現在のアキラは白髪に黄金色の瞳。…どう見ても陽呼の出身とは言えないだろう。だからこそサクラは、アキラと出会った当初こう訊ねて来たのだ。


 …貴様、その髪の色は地か。それとも染めているのか、と。


 それに気付いて、アキラはまさかと小さく震えていた。彼女と初めて出会った戦場で彼女が助けてくれたのは、嘗て彼女が殺した少年とアキラの声が似ていたからだったのかと。


 彼女は声だけで気付いたのだ。…八年前の少年とアキラが同一人物だということに。でもコックピットから現れたアキラの髪と眼の色が違っていたから、勘違いしたとでも思ったのだろう。だから彼女はそれ以上何も訊ねて来なかったのだ。


 彼女は一度アキラに問うていたのだ。…八年前に犯した自らの過ちを。助けた少年の事を。


 何故もっと早く気付けなかったのか。もっと早く思い出していれば何かが違っていたかも知れないのに。…彼女があのような姿になる事も無かったかも知れないのに。


 何故もっと早くに。そう思いながら、アキラはふと自らの心臓に手を当てて思っていた。この心臓は一度止まった。そして天母の子として新たに生を受けた。…ならば今の自分は?


 改めて考えてみて、そうだったのかと今更に泣きたい気持ちに駆られていた。こうなったのは必然だったのだ。全ては八年前から始まっていた。ナシア市が壊滅した時からこうなる事が定められていたのだ。…いずれサクラがああなる事も、アキラが天母の元へ戻るのも。


 何もかも定められていた。あの時から歯車は狂っていた。…こうなってしまった現在ではそうとしか思えず、アキラは一人悔し涙を浮かべるしかなかった。


「じゃあ俺達は、あんたの手の上で遊ばせられてただけだったのかよ。…だったら何で俺の命を助けた? あんたの目的は人間を皆殺しにする事だったんだろ? だったら何でっ!」


 すると天母は一瞬だけ悲しげな顔をした後、小さく頭を振りながら静かに言ってきた。


 …第二のあなたが生まれやしないか。そう思ったわたくしは、あなたを通して人間という種を見定める事にしたのです。あなたがスクールに通うようになって、あなたは日を追う毎に明るい表情を浮かべるようになりました。…その傍らには、常にあの御二方の姿があった。だからわたくしは安堵していたのです。わたくしの徒労だった。そう思っていたのですが。


「……」


 悲しげな天母の言葉をアキラは黙って聞いている。でも天母が語る話の続きが分かったような気がして、アキラはそっと顔を伏せながら天母へと告げていた。


「俺がおねえちゃんに捕まった。…そしておねえちゃんと一緒に戦場へ出るようになった。その先で俺が見たものをあんたも見ていた。そういう事か」


 静かにアキラが訊ねると天母は小さく頷いてきて、悲しげに話の続きを語り始める。


 …それまでは人間を遠目にしか見ていなかったわたくしが見たものはあまりにも酷く、そして非道な光景でした。ガルーダの心臓を抉り取り、その心臓を使って大地を焼く。人間の本性を知ったわたくしは絶望しました。…ですからわたくしは、あなたを――。


 地上から救い出したかった。そう天母から語られて、アキラは何も言えず俯いてしまった。天母の言葉に何一つ言い返せなかったからだ。…アキラもまた何度サクラに懇願しただろうか。何もしていない民間人を殺すのか。泣く事しか出来ない子供を殺すのか、と。


 彼女はそれをいとも簡単にして見せた。アキラの目の前で。造作も無くだ。


 どうにか子供だけは助けてくれたが、彼女は難民キャンプに居た多くの民間人を躊躇いもせず撃ち殺していった。…天母もまたあの光景を見ていたのだ。あの酷い光景を。


 天母の言わんとする意味を知ったアキラは何も言えず、ただ俯くしかない。だがそんな時、天母の指の隙間から見えた光景に気付いて、思わず声を上げて天母に訴えていた。


「…あれ、おねえちゃんじゃないか! なぁ、どうしておねえちゃんがガルーダに襲われてるんだよ。さっきのおねえちゃんはあんたの味方みたいだったじゃないか! それなのにどうしてだよ。どうしておねえちゃんがっ」


 止めさせてくれと叫びながら天母を見上げるが、そこにあった天母の表情を見て、アキラは怯えるように身を竦ませて口を噤んでしまった。


 天母は自らの表情を見せまいとアキラを改めて胸元で抱き締めていき、冷めた眼をして地上を見下ろしつつ、ガルーダと戦っている女神を見つめて言うのだった。


 …当然ではありませんか。あの者は人間達が作った紛い物の女神。わたくしに意思を操られる程度の存在です。…ああ、先ほどはわたくしがあの者の意思を操って喋らせたのです。あのような卑しい存在が味方などと…有り得ません。汚らわしい。なんと汚らわしい事か。


「汚らわしいって…でも、おねえちゃんは俺をっ」


 守ってくれるって、そう言ってくれたのに! そうアキラは必死に訴えるが、その言葉に天母が耳を傾ける事は無い。それどころか、更に凍て付いた声で言ってくる始末だ。


 …愛しい子、あのような者を見るのはお止めなさい。…あなたの眼が穢れてしまいます。アキラ、もうお眠りなさい。怪我を癒さなければ…ああ、それともう一つ。


 天母はそう言って両手に包むアキラを淡い光で覆っていき、その光に包まれたアキラは強烈な眠気に襲われて緩やかに瞼を閉じていく。


「…なんだよ、これ。…俺は、まだ――」


 どうにか眠気に負けまいと瞼を抉じ開けようとするが、異様に瞼が重く感じて開く事が出来ない。全身からも力が失われていき、何一つ抵抗出来ずその場に崩れ落ちてしまう。


 天母はアキラが眠りに落ちていくのを見守った後、アキラを更に強い光で覆っていって絞り出すように声を発するのだった。


 …安心なさい、アキラ。あなたの記憶はまた母様が封印してあげます。あのような記憶は無い方が良い。…そしてあの紛い物の女神との想い出も。


 ただアキラを傷付けるだけだ。そう天母は怒りに震えつつ、完全に眠りに付いてしまったアキラを愛おしそうに見つめていく。…もう二度と我が子を手放すものか。


 天母は傷付いたアキラの左腕に眼を落しつつ、苦渋に満ちた表情で静かに告げていく。


 …我が子を傷付けられて黙っている母親が何処に居るというのです。わたくし達の分身ともいえるガルーダが何をしたというのです。心優しい者達を救わんとしただけではありませんか。それなのに人間達は――。子を傷付けられて許す訳にはいきません。絶対に。


 だからと、天母は冷めた眼をして地上を見下ろす。…眠ってしまったアキラを大切そうに抱き締めながら。この子だけは守りたい。…何があろうとこの子だけは。


 我が子を傷付けられた怒りは収まる事を知らず、その矛先は地上に住まう全ての人間達へと向けられていた。我が子を傷付けたのだ。その代償を人間達に支払わせてやる。


 そう天母は怒りに震えながら、我が子であるアキラを抱き締め続ける。傷付いたアキラの左腕を見て地上を睨み付けていき、崩れ行く大地をいつまでも冷眼し続けていた。


 決して許すものか。全ての母たる天母の怒りを買い、地上は成す術無く崩れ行くしかない。我が子を傷付けられた怒りは余りにも強く、収まる兆しを見せる事は無かったのだった。

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