第22話 女神の手


 …ふと意識が浮上して、アキラは自分が意識を手放していた事を知った。誰かの訓練機がアキラの訓練機を支えて俊敏な動きで何かを回避し、別の訓練機が長剣を振り上げて何かに向かって振り下ろす。そして申し訳程度に機関銃を撃っている後方の訓練機。


 おそらくアキラの訓練機を支えてくれているのはカイスだ。そして長剣を手に何かへと斬り掛かっているのはリィナだろう。そうすると機関銃を撃っているのはヴェインか。


 彼らは何と戦っているのだろうか。…何かの動きが早すぎて良く分からない。でも大きさからするにラグマ・アルタだろうか。でも、背中に見えるのは黄金色の翼のように見える。おかしい。ラグマ・アルタの背中にある翼は眼には見えず、触れる事も出来ない代物だ。


 だからこそ、アルヴァリエ達はこれを心の翼と称するのだ。しかし、一つだけ翼を具現化させる方法がある。…それは自らの肉体に翼を生やす事。これはスクールに入学したらすぐに教えられる事であり、アルヴァリエにとっては基本中の基本だった。


 しかしこれはラグマ・アルタに乗っていては不可能な事であり、相手の背中に黄金色の翼が生えている理由にはならない。…それなら一体何故?


『…っ』


 その時、何かが自分達から距離を取って動きを止める。…そしてその何かを見てアキラは眼を見開いていき、吐き気を堪えるように己の口を右手で覆っていた。


 突然様子がおかしくなったアキラに気付き、カイスが「アキラ?」と心配そうに呼び掛けてくるが今のアキラに答える余裕は無く、今にも泣きそうな声で呟くしかなかった。


『…お、おねえちゃん』


『『『っ!』』』


 それを聞いて、三人が一斉に息を呑む。…彼らの前に立ち塞がっているのは一人の女神。ラグマ・アルタと変わらぬ体躯を持ち、薄桃色の衣を纏って黄金色の翼を羽ばたかせている。そして女神の顔貌。癖の無い美しい黒髪に黒い瞳。まだ少女と女性の中間を思わせる顔立ちは凛々しく、どうしても年齢不詳な感は否めない。…間違いない、この女神はサクラだ。


 何故とアキラは頬に涙を伝わせる。彼女の双眸は何も映しておらず、不気味な白目だけを湛えていたからだ。その表情はまるで獣のようで、荒い息を付いて歯を剥き出している。


 余りにも信じられない光景にアキラは身を乗り出そうとするが、カイスはアキラを押し留めるように「アキラっ!」と鋭く言ってくる。それでもアキラは止まろうとせず、カイスを押し退けてどうにか一人で飛んで体勢を保ち、緩々と女神へと近づきながら問うていた。


『…何してんだよ、あんた。一体どうしたんだ。…なぁ、俺のこと判るだろ? 何か言えよ』


 しかし、女神は何も言おうとしない。やはりアキラの事を認識できていないのだろうか。そしてそれを黙って見つめている三人は、自らの判断ミスに顔を僅かに歪めていた。


 まさかこんな事になっているとは思わなかったのだ。…ここ深緑の大海はクェリス国の領海ではあるが、ここだけは危険区域に指定されていない。つまりスクールの学生でも立ち入りは許可されているのである。そんなもあって安易に経路を選んでしまったのである。


 現在の戦況は…いいや、戦況というのは正しくないだろう。既に戦場は女神による一方的な虐殺で多国籍軍の第一陣は壊滅状態に陥っていた。応援に駆け付けた部隊もまた半数が沈められ、女神の後方に待機しているガイア諸国連合軍の本陣には程遠いのが現状だ。


 それなのに女神の傍には常に一機の戦闘機が寄り添い続けている。…明らかに何かあると踏んで、多国籍軍の部隊は何度も戦闘機を叩こうとした。だが、女神に邪魔されて近づく事も儘ならない。そんな中には灰色のラグマ・アルタも数多く存在した。


 ユーライア・スクールの訓練機である。理事会が買収されて多国籍軍の一員として戦う事を余儀無くされた学生達。彼らもまた女神と戦い、その命を戦場で散らしているのである。


 既に多くの訓練機が海の藻屑と化し、幾人ものアルヴァリエ達がコックピットから脱出して拳銃を構え、その背に黄金色の翼を生やして戦うと云った暴挙に出ているのが見える。


 そしてアキラを連れた三人もまた、深緑の大海が戦場と化している事に千キロ以上手前から気付いていた。…初めは避けて通るべきだと、そうカイスとヴェインは言った。しかしリィナが断固として首を縦に振らなかったのだ。


 この先に同じスクールの仲間が居る。せめて少しだけでも見てみたい、と。


 だが繰り広げられていた戦いは彼らが想像していた以上に酷く、余りにも一方的な虐殺だったのである。そんな悲惨な光景を前にしてリィナは堪え切れず飛び出し、女神へと飛び掛かっていって現在に至ってしまったのだ。


 涙ぐんで女神と相対するアキラ。そんなアキラに申し訳ないとは思いつつ、リィナはどうしても堪え切れず女神を責めるように叫んでいた。


『…なんでや。なんでユーライアのラグマ・アルタを沈めた。戦場やからっていうのは判る。でもな、まだ学生やったんやぞ? あんたかてセグヴァの子を助けたんやんか。それなのにどうしてユーライアのラグマ・アルタを沈めた? …それもこんな一方的な遣り方でっ』


『…アスタロトさん』


 静かな怒りを湛えて叫ぶリィナに、弱ったような声でカイスが漏らす。そんな遣り取りを後方に居るヴェインは何も言わず、ただ聞くに留めて事態の成り行きを見守っている。


 アキラは目の前の信じ難い光景に言葉が出ず、心の動揺が収まらず泣き続けるしかない。しかし彼女の傍を飛んでいる戦闘機に気付いて、もしやとアキラは涙を呑み込んでいく。


 そしてそれに願いを託すように身を乗り出し、懸命に女神へと呼び掛けていった。


『…なぁ、聞こえてるんだろ? 聞こえない振りなんてするなよ。…あんたとしての意識、ちゃんと残ってるんだろ? だからその戦闘機には手を出さないんだろ? 答えてくれよ』


 だが、そう必死に呼び掛ける声に女神は答えない。代わりにその様子を遠巻きにしていたユーライアの学生達が見兼ねたと言わんばかりに、口々に絶叫のような声を上げてくる。


『もう止せ! …お前達はセグヴァだろう。早く離脱しろっ! …逃げろ、早く!』


『お前達のスクールまで巻き込まれるぞっ! それに呼び掛けても無駄だ。その女神はっ』


 アキラはそう叫んでくるユーライアの学生達に頭を振り、ただ女神を睨み付ける。しかしそんな学生達に向かって、リィナが「あんたらかて同じやろ! スクールに帰れっ!」と、悲痛な声を上げて彼らを説得しようとしているのが聞こえてくる。


 そんなリィナの声を遠くに聞きながら、アキラは改めて女神へと呼び掛けていた。


『頼むから何か応えてくれよ。…どうして今回は俺を基地に置いて行ったりしたんだ。俺が怪我してるからか? だから連れて行ってくれなかったのか? …頼むから答えてくれよ。確かに俺は弱いよ。何も出来ない。…でもさ、あんた守ってくれるって言ったじゃないか。あれは嘘だったのかよ。…なぁ、答えてくれよ!』


『……』


 だが女神はそれに答えず、ただ黙ってアキラを見つめるだけだ。…そうして、戦況は一見硬直状態に陥ったように思えたが、この隙を多国籍軍側が黙っている筈が無かった。


 女神の足が止まったのを見て、女神の攻撃が及ばない遥か後方で待機していた多国籍軍の戦艦が一斉に戦闘機を発進させて、その主砲の照準を女神へと合わせていく。


 だが女神の動きが制止したのを見て、同様に後方待機していたガイア諸侯連合軍の部隊もまた動いていた。…主戦力である女神を落とされては事だと判断したのだ。


 動きを止めた女神を囲って完全に停止しているラグマ・アルタ達を置いて、双方の部隊がほぼ同時にミサイルを放っていた。そうして始まったミサイルの応酬。


 行き交う砲弾や銃弾の中を戦闘機が飛ぶ。幾つもの戦闘機が火の玉と化して海へ落ちていき、一気に戦場が本来あるべき姿へと変わっていく。…そうだ。これこそ正しい姿なのだ。


 ラグマ・アルタとは未確認生物ガルーダの核から作られた兵器であり、元はこの地上には存在しない筈の代物だ。…あんなものが存在するからいけないのだ。


「…へっ、面白くなったじゃねぇか。でも、あの野郎――」


 楽しげに笑った後、アーガマンは苦々しい顔でアキラを見て漏らしていた。そして後方に待機させていた自らの部下を率いて自らもまた戦いへと参加していく。通常戦闘へと切り替わった以上、このまま女神の傍に引っ付いている訳にはいくまい。


 アーガマンは部下の戦闘機を左右に従えて戦場の大空を翔けながら、思い掛けない所で戦場に乱入して来たアキラを忌々しげに睨んで漏らしていく。


「本人様にご登場されたんじゃ、もうあいつを騙し続けられないだろ。…第一、俺があいつを装うなんて無理も良い所だ。自分より半分も年齢がいってないガキの真似だぞ? あ~、恥ずかしかった。俺としちゃ清々したって気分だがな」


 いや、そんな事を思ってはいけないのだとは思う。何と言っても作戦の一環だ。本当ならアキラに登場されて怒りを覚えなければならない所だ。


 でも、恥ずかしかったのだ。…何よりも、あんな状態になったサクラがアーガマンの言葉を快く聞いてくれていたのは、偏にアーガマンの事をアキラだと思い込んでいたからだ。


 そうでなければ切り刻まれていただろう。…それはもう気持ち良く、バラバラにである。


 だがそれにしてもと、アーガマンは新たに現れた灰色のラグマ・アルタを見て思っていた。アキラを連れているという事は、おそらく彼らがアキラを救出したのだろう。そうなると、あの機体はセグヴァ・スクールの所属と見るべきだ。…しかし、そうなると――。


「面倒だな。…上は何も言ってこねぇし。どうなっても知らんぞ」


 セグヴァ・スクールに所属するガイア諸国連合軍側の理事会メンバーに何か働き掛けたらしいが、その後どうなったか知らせを受けていない。


 まさか失敗したのだろうか。どちらにせよ、現時点でセグヴァ・スクールの機体を戦場で沈めるのはリスクが高すぎる。…尤もあいつらが自ら戦場に突っ込んで来たのだから、特に問題にはならないとは思うが楽観視するのは余りにも危険だ。


 …何故ならば、アルヴァリエ・スクールは全部で三校。多国籍軍に加担したユーライア、そしてアキラ達が所属するセグヴァ。つまり、もう一校存在するのである。


 未だに沈黙を守り続けているスクールが存在する。しかも性質の悪い事に、そのスクールは外部から理事会メンバーを入れないのである。挙句に選出方法すら公開されていない。


 不気味な沈黙を保ち続けるスクール。その一校がどう動くか判らないからこそ、両軍ともセグヴァの機体に手を出さないのである。


 そんな時、硬直状態に陥っていたラグマ・アルタ達に変化が起きた。彼らは突然北の空を見上げて指差していき、口々に「セグヴァだ!」と叫び始めたのである。


「…なに言ってんだ、あいつら。そんな訳――」


 あるかとアーガマンは言いつつ徐にレーダーを見て、大慌てで北の空へと視線を向けていた。…青空を一面に覆い尽くす灰色の機体。そして機体が現れた方角。


 アーガマンはラグマ・アルタ達の周辺を回りながら、その光景に唖然とした後に戦慄していき、短く舌打ちしながら不満げに漏らしていた。


「マジかよ。洒落になんねぇぞ」


 レーダーが示すのはセグヴァ・スクールの機体。…もう間違いあるまい。あれはセグヴァ・スクールだ。セグヴァのアルヴァリエが戦場に現れたのである。


 しかし、未だに軍司令部からは何の知らせも入っていない。そうすると――。


「失敗したって事か。…俺らに味方する為に駆け付けてくれた訳じゃねぇんだろうな」


 そうであったら嬉しいのだが。そうアーガマンは漏らしながら、彼らが纏う雰囲気を見て違うと直感で気付いていた。…彼らは敵でも味方でも無い。作戦は失敗したのだ、と。


「…畜生っ!」


 アーガマンは短く吠えつつ、部下を率いて多国籍軍の戦闘機を次々と葬っていく。次第にアーガマンもまた乱戦へと突入していき、悠長に戦況を見守るような余裕を失ってしまい、ミサイルや戦闘機が入り乱れた戦場の中へと突入していく。


 北の空から現れたセグヴァ・スクールの訓練機は真っ直ぐにアキラ達の機体を目指して飛んできて、同じスクールの仲間を守るように皆で囲って背に庇っていく。


 だが彼らは手に何も持っておらず、自らが非武装であることを示すように両腕を広げて、自らの後輩であるアキラ達を守りながら、まるで宣言するように高らかと言っていった。


『我らはセグヴァ・スクールのアルヴァリエ! …ユーライアのアルヴァリエ達よ、これはどういう事だ。何故このような戦に手を貸す。我らはアルヴァリエだ。このような戦に手を貸す為に在るのではない。我らの敵は別に在る筈。このような事をする為に在るのではない。我らアルヴァリエは地上を守る為に在るのだぞっ!』


『言われなくても判ってる! …俺達だって本当は、本当は――』


 反射的にユーライアの学生がそう叫ぶが、それ以上は言い返せず閉口するしかなかった。セグヴァの機体が北の空から現れた時は気付かなかったが、この近距離まで来てようやくそれに気付いたのだ。…彼らの機体に付着した夥しい鮮血。機体に刻まれた幾つもの弾痕。余りにも少ない機体の数。おそらくスクールに所属する半数にも満たないだろう。


 それを見て、ユーライアの学生達は胸を打たれて打ち沈むしかなかった。…情けなかった。余りにも自分達が情けなかったのだ。


 彼らセグヴァは、既に血みどろの戦場を潜り抜けて来たのだろう。そんな彼らに一体何が言えるというのだ。抵抗一つせず理事会の命令に従い、ここまで来てしまった自分達が。


 自分達ユーライアは抵抗どころか、多国籍軍に味方すると満場一致した理事会の命令に黙って従う道を選んだ。…当然ながら全員が黙って従った訳では無い。中には抵抗した者も居た。だがそういった者は同じ学生に悉く密告され、スクール内を我が物顔で闊歩するようになった多国籍軍の兵士に連行されていった。


 多くの同級生が公開処刑にされた。中にはリィナのように逃げ果せた者も居たが、大抵は捕らえられて処刑された。完全に多国籍軍によって掌握された中では黙って従うしかなく、誰もが己の命惜しさに従う道を選んだのだ。…でも、セグヴァは違った。


 彼らは戦う道を選んだのだ。彼らは自分の命よりもアルヴァリエとしての誇りを取った。これがどれほど大きな違いなのか、判らないほどユーライアの学生達も愚かではない。


 歴然とした差を痛感してしまい、ユーライアの学生達はただ項垂れるしかない。…そんな学生達の遣り取りを女神は黙って聞いていたが、突然何を思ったのか、腹を抱えながら声を上げて笑い始め、口角を不気味に持ち上げながら凍て付いた声を発していった。


「面白い話をしているではないか。…地上を守る為に在る? …はっ、冗談だろう。夢物語も甚だしい。…折角だから教えてやろうではないか。貴様らアルヴァリエはな、この地上を燃やす為に在るのだ。だってその筈だろう? 思い出してみろ。貴様らが額に装着しているサークレットに付いている紫の宝玉は何だ。そしてラグマ・アルタを動かしている心臓部とも云えるエネルギー源は何だ。…全てはラグマと呼ばれるガルーダの核ではないか。それを貴様らは人類を守るという名目の下、何もしていないガルーダから捥ぎ取って不当に使用しているに過ぎない。だったら私は問おう。ガルーダは貴様ら人類に何かしたか? 少なくとも私は聞いた事が無いがな。…ガルーダが街を襲った。ガルーダが人を殺した。そんな話を貴様らは聞いた事があるのか? 聞いた事があるとすれば、それは貴様ら人間の妄想か。もしくは都合の良いでっち上げであろう。我らガルーダはそんな事をせぬ。貴様らとは違うのだからな。…ふ、存在しない敵を相手にご苦労な事だ。…被害妄想も甚だしい」


『『…なっ』』


 余りの言い草に学生達は驚き、その双眸に怒気が滲む。しかし女神の正体を知るアキラは再び涙を溢れさせていき、それを右手の甲で拭ってから彼女に向かって叫び出す。


『馬鹿言うなっ! …我らガルーダって何だよ。あんたは俺達と同じ人間だろう。…なぁ、一体どうしちまったんだよ。俺のこと忘れちまったのか? …いいや、気付いてないのか? 俺だよ。…まぁそうは言っても、髪の色も眼の色も変わっちまってるけどな』


 寂しげに言いつつ、成程だからかとアキラは納得していた。同時に髪や眼の色が変わってしまった理由が気になって首を傾げたが、今はそれどころではないと再び語り始める。


『俺さ。…八年前までナシアって街で生活していたんだ。でも空から突然ラグマ・アルタがやって来て、何もかも燃やし尽くしていった。そんな中で、俺を助けてくれたアルヴァリエのおねえちゃんが居た。…あんたの事だよ。あの時のおねえちゃん、あんただったんだろ? あの時のあんたはアルヴァリエとしての誇りに満ちてたじゃないか。それなのにどうしてだよ。あの時のあんたはこんな事しなかったっ! 俺の事だって身を挺して守ってくれたじゃないか。それなのにどうして? 頼むから何か言ってくれよ。…おねえちゃんっ!』


 そんな思い掛けないアキラの告白に、傍で聞いていたカイスとヴェインが閉口していく。


『…アキラ』


『……』


 余りにも驚くべき告白だった。アキラの左腕を始めて見た時、彼が戦争の被害者であろう事は大よその見当は付いていた。だが彼の口から聞かされたのは初めてだったのだ。


 アキラは「ナシア」と口にした。…そこは市民が皆殺しにされた事で非常に有名な都市であり、嘗ては「陽呼(ようこ)」という名の島国の中にある都市の一つだった。


 ラグマ・アルタによる襲撃は突然だったという。そしてサクラが所属している紅焔の狼。その母体とも言うべき部隊は当時ナシア市の防衛に当たっていた。…だが現在とは違って、当時の紅焔の狼にはサクラのラグマ・アルタ以外の戦力は無いに等しい脆弱な部隊だった。


 陽呼は反戦派の国で小国だった事もあって、ラグマ・アルタの導入には尻込みしていた。だが戦争の波は確実に陽呼へと迫っており、眼前に迫った時には既に手遅れだった。


 結果、ナシアの市民は成す術も無く皆殺しにされた。生き残った市民もまた悉く殺されていき、生存者は皆無だと当時のマスコミから再三に亘って報道されたものだ。


 現在陽呼はガイア諸国連合軍に加担して後方支援に当たっており、依然ナシア市の復興には着手できていないという。おそらく復興する気など初めから無いのだろう。


 アキラはその都市唯一とも言える生き残りだったのだ。…前々から戦争の被害者だろうとは思っていたが、まさかナシア市の生き残りだったとは。


 余りにも重い真実を聞かされて、カイスとヴェインは何も言う事が出来ない。…その内容が内容なだけあって、本人の口から直接聞かされると一層重く感じるものだ。


 だが、そんな話は女神には通用しなかった。女神は依然と不気味な笑みを崩しておらず、そんなアキラに向かって笑いながら小さく漏らしてくる。


「…くだらん昔話だ。興味は無いな。話はそれで終わりか?」


『なっ』


 女神から素っ気無い言葉を返されて、アキラは絶句していく。だがアキラは諦め切れず、どうにか元の彼女を取り戻そうと呼び掛けようとした時だった。


『…か、回避ーーっ!』


『『『…っ』』』


 悲鳴染みた誰かの絶叫が響き渡る。突然の事に学生達は状況を判断できず棒立ちとなり、狼狽えつつも自らのレーダーに映り込んだ大量の飛来物に気付いて一斉に動き出す。


 ミサイル群だ。急げ。もう間近に迫っている。…そんな悲鳴が迸る中、アキラだけは皆と違う方向へと動いていた。


 咄嗟にヴェインが手を伸ばし掛けるが、カイスがその腕を掴んで「もう間に合わない!」と叫んで二機連れ立ってその場から離れていく。


 しかし、アキラの行動に誰よりも驚いたのは女神だった。女神は突然覆われた自らの視界に何度も眼を瞬かせていき、混乱するように灰色の機体を見て声を漏らしていた。


「…貴様、何をしている」


 するとアキラは小さく微笑んでいき、更に女神を抱き締めながら言うのだった。


『だってさ、あんたはこうやって助けてくれたから。…俺の頭上から降って来るミサイルに背を向けて俺を懐に抱え込んで。折角の機会だし恩を返そうかと思って。良いだろ?』


 まさに冗談のような言葉だった。そして女神はアキラに抱き締められているうちに、胸の中から何かが溢れ出てくるのを感じた。…鉄鎖に縛られていた自らの心が戻って来る。


 鎖が断ち切られる音がして、半分以上消え掛けていた自らの心が息を吹き返し、自らの体を取り戻そうと暗闇を食い破ろうとしているのが分かる。鉄鎖に縛られて精神の奥底へと沈むばかりだった自分の心が息を吹き返し、自らの体である女神の胸を圧迫して内側から食い破ろうとしている。別たれていた肉体と心が鬩ぎ合う。肉体が心に奪われていく。


「息が? …っ、…っ! …あ、ぁ――」


 制御不能な胸部の圧迫感に負けて、ついに女神は頭を後ろへ反らして一瞬意識を手放してしまう。それと共に閉ざされた双眸はすぐに意識を取り戻し、緩やかに開かれていく。


「…え?」


 そこに浮かんでいたのは黒曜石の瞳。彼女は緩やかに頭を持ち上げて不思議そうな顔をして周囲を見回していき、その表情を見る見る濃い動揺へと変えていく。


「…私は一体? …っ、ミサイル? おい、アキラッ!」


 女神は自らが置かれた現状に気付いて声を上げるが、アキラはそんな女神の変化を気にする余裕は無く、とにかく女神を庇おうと抱き締めながら告げていた。


『少しの間だけだから我慢してくれよ。…だってあのミサイル、あんたを狙って真っ直ぐに飛んできてる感じがするしさ。今のあんた、装甲の一つも着けてないだろ?』


 そんな驚くべき言葉に女神は顔を青ざめさせていき、懇願するように小さく呟いていた。


「…いや、止めて。このままではお前が――。止めて、お願いっ」


 余りにも彼女らしくない懇願であった。しかしミサイルは既に間近まで迫っており、もう避ける事も叩き落す事も不可能だった。


 弱々しく頭を振る女神をアキラは抱き締めるばかりで、彼女が何かに動揺している事に気付いていなかった。それでも女神は必死に抵抗しつつ、そんなアキラへと懇願し続ける。


「お願い、止めて。…私を庇えば、お前の方がっ――」


 お前こそ装甲を着けていないではないか。そう女神は叫ぶが、眼前に迫り来るミサイルに女神の双眸が見る見る見開かれていく。そして迸る女神の悲鳴。


「いやーーっ!」


『…っ』


 そんな彼女の悲鳴を聞きながら、アキラはぐっと女神を抱き締めていた。でも装甲が皆無に等しい訓練機に乗っている自分では、おそらく全てのミサイルを受け止めるのは難しい。分かっていても退くつもりは無かった。…彼女だけは守りたい。ただそれだけだった。


 だが一秒、二秒と経ってもその瞬間は訪れない。流石のアキラもそれを訝しく思い、緩々と顔を上げていく。…すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。


『…もしかして、助けてくれたのか?』


 女神に向けて放たれたミサイルは全て、何千羽ものガルーダが障壁を張って防いでいた。もしや女神を守ったのか。一瞬そう思ったアキラではあったが、直後に違うと気付いた。


 何故ならば、突然現れたガルーダの群れの中には彼女の姿もあったからだ。いつの間にか彼女はアキラの腕から抜け出しており、ガルーダを先導する様に両手を広げて佇んでいる。


 そんな彼女が背に庇っているのは他でも無いアキラであり、何千羽にも上るガルーダが守っているのも、またアキラであった。


『…なんで』


 驚愕してアキラは漏らしつつ、女神の様子が再び変化している事に困惑を隠せなかった。先ほどまではサクラとしての表情を覗かせていたのに、現在の彼女にはそれが微塵も無い。しかも双眸は再び瞳を失って白目に戻っており、怒りに満ちた眼で広い戦場を見回す。


 そして緩やかに右腕を横へと払っていって、双方の部隊を一喝するように衝撃波を放つ。直後に静まり返った戦場を改めて見回していき、女神は静かな怒りを湛えて喋り始めた。


「我らが母である天母がお怒りになっています。天母は全ての者を慈しみ、等しく見守ってくださる。…その天母がお怒りになってらっしゃる。我が子を深く傷付けられ、挙句に人の手によって殺められようとした事。…何故この子を傷付けたのです。何故この子を殺めようとしたのです。この子はあなた方に何かしましたか? ただ人の世で生きようとしていただけではありませんか。それをあなた方は殺めようとした。天母の子たるアキラの事をっ」


『…へ?』


 突然自分の名前が出て来て、アキラは驚きのあまり眼を白黒させていた。…とてもサクラとは思えない口調もだが、それ以上に彼女が発した内容が余りにも奇天烈だ。


 そう感じる自分が馬鹿なのだろうか。…いいや、今回ばかりは絶対に違うと思う。そうであってくれと願いつつ、アキラは腰を引かせながら思わず漏らしていた。


『…そのアキラって、やっぱ俺? え~っとさ、他にもアキラさんが居たりとかしない? 俺には身に覚えが無いんですけど――。天母の子って何の事? 俺が馬鹿だから知らない訳じゃないよね? 多分さ、違うよね? …いや、俺としてはそっちの方が――』


 有り難いんですけど。そうアキラが小さく漏らすが、とても残念な事に誰一人としてその訴えを聞いている者は居なかった。…まぁ当然ではあるのだが。


 既に戦場は完全に静まり返っており、双方とも攻撃を開始しようとしない。誰もが女神の言葉に耳を傾けており、スクールの訓練機達は突然現れたガルーダによって引き離されたアキラに食い入るように視線を向けている。その中にはカイスとヴェインの姿も見える。


 まるで人類の全てを敵に回したような気分だった。…ガルーダや女神から守られ、状況を全く掴めない自分。一体何がどうなっているのか。何も分からない。何も――。


 自分が天母の子などと云った存在である筈が無い。何と言っても自分にはナシアという故郷があるし、そこにはちゃんと家族も居た。ずっと人間として生きて来たのだ。


 一人混乱するアキラを捨て置いて、戦場に居た者達からざわめきが起きていた。…彼らは一様に大空を見上げて指差し、小さな悲鳴を上げて恐れ戦いている。


 一体どうしたのだろう。アキラはそう首を傾げて空を見上げる。…そして、


『…ヒッ』


 天を覆い尽くすほど巨大な女性の顔がそこに在った。それはアルヴァリエ達が「女神」と呼ぶ存在であり、その女性は多くの女神を従える大いなる母。天母であった。


 恐怖で硬直するアキラの元へ向かうかのように、巨大な女性の顔―天母は緩やかに次元を引き裂いて己の長い白髪を海へと垂らしつつ、自らのしなやかな両腕を伸ばしていく。


 天母は黄金色の瞳をしていた。天母は黄金色の双眸で人間達を一瞥した後、愛おしそうにアキラが乗る機体へと腕を伸ばして微笑みを浮かべていく。


 そんな非常識な光景を見せつけられて、アルヴァリエの誰かが呟いていた。


 …世の終わりだ。あれこそ「女神の手」の主。ガルーダの主なのだ、と。


 天母はアキラの機体を両手で掬い上げると、そのまま自らの胸元に抱えて人間から守るように両手で覆い隠してしまう。だがアキラが天母に捕まったのを見て、カイスとヴェインは反射的に助け出そうと動いていた。しかし寸前でリィナに阻まれてしまい「…でもっ」とカイスが悲痛な声を上げているのが微かに聴こえた。


 だが天母に捕らえられたアキラはそれどころではなく、一人天母の手の中で恐怖に震えていた。…そこへ指の隙間から巨大な眼が覗き込んできて、その黄金色の眼に見つめられた瞬間、アキラの恐怖は頂点に達して何も考えられなくなってしまった。


『…っ!』


 びくっと震え上がった後、やがてアキラは動かなくなった。…天母はそんなアキラに満足したのか、指の隙間から覗き込むのを止めて、改めて両手で大切そうに包み込んでいく。


 その後、外で何があったのか。もうアキラには何も分からなかった。いつの間にかアキラは意識を手放してしまっており、天母もまたアキラに外を見せようとしなかったからだ。


 天母の手に包まれながら、アキラは意識の片隅で天母らしき穏やかな声を聴いていた。


 …愛しい子、よく頑張りましたね。もう何も心配いりませんよ。


 とても安心する声だ。アキラはその声を聴いて意識を更に深い場所へと沈めていき、まるで幼子のように体を丸めて眠りに付いていく。


 もう大丈夫。だって母様が傍に居るのだから。だからもう大丈夫。もう何の心配も無い。後は母様がどうにかしてくれる。…だから大丈夫だ。もう心配は要らない。


 だって母様が傍に居るのだから。だから大丈夫。だから…もう、心配なんて――。

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