第19話 狂乱する女神


 そこにあるのは大切な者を愛おしむ心か、或いは絶望に狂わされた女の成れの果てか。


 美しい青空と大海原の狭間でそれは起きていた。セグヴァ・スクールが在る聖護の海より南方、深緑の大海は大部分がクェリス国の領海であり、その為に防衛に当たっている部隊もまた多国籍軍の戦艦やラグマ・アルタ達であった。


 だが眼前の存在に多国籍軍の兵士達は戦慄していた。…あれは一体何なのだ、と。


 ふわりと風に靡く豊かな黒髪、そして古代ギリシャを思わせる薄桃色の衣。その背中には黄金に輝く一組の翼があり、静かに開かれた眼には瞳は無く、不気味な白目を動かしながら自らに相対する者達を見つめていた。


 相対する者達の中には灰色の訓練機の姿もあり、おそらくはユーライア・スクールの物であろうと窺える。…そんな学生である彼らを交えた多国籍軍は現在、突然この深緑の大海に現れた正体不明の女神を相手に苦戦を強いられていた。


 女神はラグマ・アルタと変わらぬ肉体を持ち、その額には紫色の宝玉が嵌った金冠を巻いている。三十一メートルもあるラグマ・アルタと同じ背丈で、額に巻かれた金冠。


 まさかと、学生を含めたアルヴァリエ達は巧みにラグマ・アルタを操りつつ思っていた。あれは我らアルヴァリエ本来の姿そのものではないか、と。


 実はアルヴァリエの背中には黄金の翼がある。普段は具現化していないが、止むを得ない状況に陥った場合にのみ翼を具現化させる。コントロール・サークレットさえ着けていれば翼の具現化は可能なのである。…つまり、あの女神が額に巻いている金冠は――。


 有り得ないと、彼らは女神の爪に引き裂かれながら思っていた。この女神は美しい女の姿こそしているが、しなやかな指の爪はラグマ・アルタだけでは無く海上を移動する戦艦をも切り裂く。そして灼熱の息を吐いて、大空を飛ぶ戦闘機を一息で墜落させるのである。


 …この化け物め。そうアルヴァリエ達は戦慄する。


 そんな女神の頭上を、一機の戦闘機が旋回していた。だがあれは多国籍軍の物では無い。ガイア諸国連合軍の戦闘機だ。


 戦闘機は無線をオープンにしたまま幾度となく女神に語り掛け、その度に女神の表情が変わる。だがそれは険しいものではなく、相手を愛おしむものに他ならなかった。


 あの戦闘機が女神を操り、我らに嗾けているのだ。そう判断した多国籍軍の者達は、何度も戦闘機を撃ち落そうとした。しかしその度に女神が邪魔をして戦闘機を庇うのだ。


 女神は十数機目となる戦闘機を爪で切り裂いた後、自らの頭上を旋回し続ける戦闘機を見上げて心配そうな声を上げていく。


「アキラ、大丈夫か。やはり貴様は――」


『大丈夫だって。そんなに心配すんなよ。俺は平気だからさ』


「…しかし」


 そう相手から言われても女神は不満そうだ。だがそう受け答えした声の主は、女神に聞かれないようマイクを手で覆いながら「ゲェ~」と漏らして、嫌そうに顔を顰めていた。


 因みに戦闘機は一人用で後部座席は付いていない。…そして戦闘機を操縦している男は顎鬚を生やした中年で、口が裂けても十代とは言えない風貌だ。


 ナイア・アーガマン。それが戦闘機のパイロットの名前だった。


 アーガマンはどうして自分がこんな事をと嘆息しながら、まぁ仕方ないかと改めて眼下を睨み付けていく。


 …黄金色の繭が孵化した時、そこに佇んでいたのはあの女神だった。だが彼女は不安そうに視線を彷徨わせるばかりで誰が呼び掛けても応えようとせず、止むを得ずアーガマンがアキラを装って話し掛けたのである。


 すると彼女は見事に反応して、嬉しそうに顔を綻ばせて呼び掛けに応えたのだ。


 その時アキラは昏睡状態に陥っていた為、あの時は心から安堵したものだ。そして思った。…恋をした女とは、こうも扱い易いものなのだな、と。


 だがしかしと、アーガマンは唇を噛み締める。…あの後、彼女は基地を破壊して同じ部隊の仲間を次々と手に掛けていった。彼女は既に狂っていたのだ。あの時は必死で彼女に呼び掛けたが、彼女は一切耳を傾けず目に留まった者を全て引き裂いていった。


 そして視界に入った者を全て葬り去った後、彼女はアーガマンに向かって微笑んだのだ。


 …アキラ、もう心配ないぞ。貴様を傷付ける者は誰も居ない。私が全て殺してやった。


 もしかしたら今の彼女には、もう本物のアキラも判らないかも知れない。…彼女がそんな状態なのに、軍司令部は作戦を強行するよう命じてきたのだ。


 そうしてガイア諸国連合軍は敵部隊を深緑の大海へ誘き寄せる事に成功し、アーガマンと女神を置いて後方へと引っ込み、高みの見物を決め込んでいるのである。


 お前らを守るよう女神を誘導する身にもなれ。…そう文句を言いたい気分である。


 だが、女神は確実に敵部隊を葬っている。この調子なら何も問題ないだろう。…しかし、


『…ゲ』


 そんな声がアーガマンから漏れる。視線の先では女神が苦しげに自らを掻き抱いており、一度だけ激しく痙攣したかと思えば動かなくなった。


 その隙にと多国籍軍は集中砲火を浴びせるが、直後に翼を大きく広げた女神が光の如く戦場を翔け、次々と相手を葬り去っていく。


『まだ安定しねぇか。…今のあいつは、俺以外の奴は見境なく引き裂いていくからなぁ』


 だからこそ他の部隊は後方に引っ込んでしまった訳なのだか。…そんな事を漏らしつつ、アーガマンは慎重に女神の後を付いて行く。彼女を誘導しなければならないからだ。


 荒れ狂うように戦場を翔ける中、サクラは未だ暗闇の中で鉄鎖に縛られていた。更に暗い場所まで落ち、彼女が発狂し始めると更に暗い場所へと落とされていく。


 そんな中でサクラは勘付いていた。…自分に最期の時が迫っているのだ、と。


 鉄鎖に体が縛り上げられる度、狂気が自分の中に染み込んでくる。だが狂気に心を食われまいと耐えても、それを許すまいと鉄鎖が全身を縛り上げていく。


「…うぐっ」

 短く喘いだ後、前後不覚に陥ったのは一度や二度では無い。その度に体が暗闇へと沈んでいく。更に深い場所へと引き摺り込まれていくのだ。


 一条の光も差さない闇の中、サクラは闇を見上げて一筋の涙を零していた。


「アキラ、助けてくれ。…このままでは私は、私は――」


 完全に狂ってしまう。そう涙している間にも彼女は口から泡を吹き始めて、白目を剥いて意識を手放していた。体の形が変わるほど縛り上げられた鉄鎖に耐え切れなかったのだ。


 そうして彼女は更に深い場所へと落ちていく。暗闇に落ちながら彼女は涙し続けるしかなく、ただ救済の手が差し伸べられるのを待つしかなかった。


 暗闇の中でも、彼女は現在自分が何をしているのか理解していた。…瞼の奥に映る戦場。多くのラグマ・アルタや戦闘機に囲まれて、それを一瞬にして爪で切り裂いていく自分。


 大半のラグマ・アルタが灰色をしており、彼らが未熟な学生である事を示していた。学生である彼らを手に掛ける必要など無いではないか。…そう彼女は心の中で絶叫し続ける。


 彼らはアキラと同じで未熟な学生だ。まだ戦場に立つべきでは無い。殺す必要は無い筈だ。


 だが、絶叫しながら自らの都合の良さに呆れ果てていた。少し前までは相手が誰であろうと葬っていた自分が、まさか相手が学生だからと擁護するとは。変われば変わるものだ。


 だって好きになった相手がまだ学生なのだ。それも当然であろう。


「…アキラ」


 私はお前に顔向けできないような真似はしたくない。お前は子供を殺す事を嫌った。お前は戦えない相手を殺す事を酷く嫌っていた。だから私はそれに従う。お前が好きだからだ。


 だからと、彼女は涙し続ける。きっとアキラが助けに来てくれる。…そう信じて。


 しかし彼女は既に深層の底まで落ちており、彼女の足元に広がるのは虚無であった。もう下は無いのである。ここから落ちれば、おそらくもう――。


 彼女は光を失った眼で暗闇を見上げ続ける。…その先に在るだろう光を求めて、その先に居るだろう愛おしい存在を求めて。


 全身を容赦なく縛り上げてくる鉄鎖に意識を朦朧とさせながら、彼女はそれを口にする。自らが発した言葉の意味すら理解出来なくなった意識の中、不気味な笑みを浮かべながら。


 ――全てを壊してしまえば、きっと彼は振り向いてくれる。…そうだ。そうすれば良い。


 年上で、しかも穢れ切った軍人である自分。そんな自分が彼に振り向いてもらうにはどうすれば良いか。…そうだ。何もかも壊してしまえば良いのだ。そうしたら振り向いてくれる。


 この世界に二人だけが残されれば、彼は自分を振り向くしかない。きっと気付いてくれる。そうだ。それが良い。そうしよう。…だから――。


 朦朧とした意識の中で彼女は笑い続ける。ただ一人、アキラだけを想って。


 だがその想いは狂気としか言いようが無く、鉄鎖による責め苦と光が差さない暗闇の中で正気を失った哀れな女が居るだけであった。


 …笑い続ける彼女の頬には相変わらず涙が伝っていた。それは彼女に残された心の欠片であり、彼女にとって最後の希望とも言うべきものだった。


 きっと彼が助けに来てくれる。そう願って彼女は涙を流し続ける。ずっと、ずっと――。

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