第16話 狂気へと染まる世界


 このような事が起こり得るのか。…まさにそれは、現実を超越した光景であった。


 紅焔の狼が拠点を置くジュード市へと戻ったアキラではあったが、工場にラグマ・アルタを収容してコックピットを出て、自らの隣に収容したサクラの機体を見て驚愕していた。


「な…んだよ、これ」


 そこには巨大な黄金色の繭が発生しており、場所や大きさからしてサクラが乗っていたラグマ・アルタであろう事は言われずとも判った。…でも、先ほどまでは普通だった筈だ。だってここまで彼女の腕を引いて戻って来たのだ。こんなである筈が無い。


 そう驚愕しながら、アキラは反射的に黄金色の繭へと手を伸ばしていく。…だが、


「お~っと! ジルバード君、ちょっと軽率じゃないかな? そう簡単に何でも触ったりしたら駄目じゃないか。何が起きるか分からない。危ないだろ?」


「…っ、あんた――」


 突然横から何者かに腕を掴み上げられて、アキラは思わず相手を睨み付ける。するとそこにはアーガマンが立っており、不気味な笑みを浮かべてアキラを見下ろしていた。


 そしてアキラを自らの方へと引っ張りながら、アーガマンは楽しそうな口調で続ける。


「あいつから話を聞かなかったか? これは訓練の一環だ。ただ第二段階に移行しただけだから、そんなに心配しなくても大丈夫だって。何も死ぬ訳じゃないんだから」


 アーガマンはそう言いつつ、小さな声で「…まぁ、あいつの自我は保証せんがな」と付け加えていく。それを聞いてアキラの顔が怒りで染まり、相手を殴ろうと掴まれていない方の腕を振り上げていた。…しかし、


「…ぐっ」


 その腕まで掴まれてしまい、アキラは堪らず痛みに顔を歪めていた。しかも最悪な事に、そちらの腕は左腕だったのだ。まだ怪我は完治には程遠い。それなのに――。


 激痛で動きを止めたアキラを見て、アーガマンは「ほれ見ろ」と呆れ顔をして言ってくる。


「無理するからだ。お前さんの怪我は治ってないんだぞ。それに言い訳がましいと思われるかも知れないが、今回の出撃、俺は許可してねぇぞ。…大方、何も知らないオペレーターが出撃命令を出しちまったんだろ。ああいうのは流れ作業だからな。深く考えなかったんだ。まぁ済んだ事をねちねち言っても始まらねぇ。…ほら、大人しく部屋に戻れ。傷に触る」


 そうアーガマンから諭されて、アキラは一向に振り解けない腕を忌々しそうに見る。だが幾ら暴れても振り解けないと判り、悔しげに相手を睨み付けながら言うしかなかった。


「ふざけんな。なに俺を心配してるみたいな言い方してんだよ。気持ち悪いっての!」


「…お~、嫌われたもんだな」


 嫌われるような事をした覚えはない。そうアーガマンは言い掛けて、まぁ良いかと深くは考えない事にした。部隊長なんてしているのだ。何処で嫌われても不思議は無い。


 それに相手は学生だ。言い争う価値も無い相手なのだ。だからとアーガマンは溜息を付くに留めて、掴んでいるアキラの左腕を見てやれやれと呆れ顔のまま言葉を続けた。


「言っとくがな。そう何度も薬は出してやれねぇんだ。…後はお前さんの体力に掛かってるんだぞ。怪我をして苦しんでるのは何もお前さんだけじゃない。多くの兵士が苦しんでる。幾らアルヴァリエが特別待遇される嫌いがあるって言っても限界があるんだ。だから寝ろ。後は寝て治せ。…サクラを作戦に取られた以上、もう紅焔の狼にはお前さんしか居ないんだ。だから死なれちゃ困るんだよ。こっちの事情も察してくれ。頼むから大人しく寝てくれよ」


「…なに勝手な事を並べてんだよ。俺がいつ――」


 この部隊の人間になったと云うのか。アキラはそう言い掛けたが、後ろから現れた兵士に身柄を移されて拘束されて、そのまま元の独房へと連れて行かれる。


 そして寝台へと乱暴に放り投げられて、その際に打ち付けた左腕の激痛で一瞬眼の中に火花が散って何も考えられなくなってしまう。


 アキラが痛みに悶え苦しんでいる間に兵士は独房を出て行って、扉を何重にも施錠してから規則正しい足音を立てて遠ざかっていく。


 その音を痛みの中で聞きながら、アキラはどうにか上体を起こして思わず怒鳴っていた。


「…っくしょう。好き勝手言いやがって。俺しか居ない? …だったらあいつは、サクラはどうなるってんだよ。あんな必死になって戦ってるあいつはどうなるんだ。こんなの――」


 彼女は自分が保てない状態であるにも拘らず、まるで本能に身を任せる様に戦って敵を葬っていた。そして自ら守ると誓ったアキラさえも殺そうとした。あんな状態になってまで戦っていたというのに。それなのに――。


 そこまでして彼女を戦わせておいて、作戦が終了したら用済みと言わんばかりに捨てるのか。これが大人の…軍の遣り方なのか。あんまりではないか。こんなのは絶対に変だ。


 だがと、アキラは再び寝台に横たわりながら思っていた。…だったら自分に何が出来るというのか。何も出来ないではないかと。


「女の人があんなになってまで戦ってるのに、俺は守ってる事も出来ないんだな。…あんな仕打ちまで受けて戦ってるのに、俺は守ってやる事も出来ない。…畜生、本当に最低なのは俺じゃないかっ! あいつはずっと俺を守ってくれてた。それなのにっ」


 確かに彼女は根っからの軍人で、それを性別だけで見るのは失礼な事かも知れない。でも彼女は女性としての一面も見せてくれた。彼女は「守る」と、そう言ってくれたのだ。


 …彼女が守ると、そうアキラに言ってくれた時。あの時に彼女が浮かべていたのは軍人としての冷たい表情では無く、血の通った温もりのある女性としての表情だった。…あの時は突然様変わりした彼女の態度に狼狽えるばかりだったが、今にして思えば彼女もまた女性だったのだと、そう思わせる一面だった。…彼女は血の通わない軍人では無かったのだ。


「…あ、れ?」


 そう考えている内に、アキラは自らの意識が徐々に定まらなくなっている事に気付いた。左腕が熱を持っている。そう気付いた時は既に遅く、抗う事すら叶わず瞼を閉じていた。


 おそらく鎮痛剤と解熱剤の効力が切れたのだろう。本当は休んでいる場合では無いのに。こうしている間にも、彼女は訓練とやらの犠牲になっているかも知れないのに。


 でも今はと、アキラは薄れ始めた意識に抵抗出来ず瞼を閉じていく。左腕が焼けるように痛い。痛みで気が狂いそうだ。もう意識を保っていたくない。


 だからと、アキラは体が欲求するままに意識を閉ざしていく。次に目覚めた時、少しでも傷の痛みが和らいでいる事を願いつつ。


 そうして薄れゆく意識の中で瞼の奥に浮かんだのは、鉄鎖に縛られたサクラの姿だった。両腕は何かを受け入れるように左右へ大きく開かれており、その為に自然と広がった胸が酷く不気味で嫌な印象を受ける。立ったままの姿勢で縛られた全身とは裏腹に頭は後ろへ反り、長く艶やかな黒髪を力無く揺らしてその意識が無い事を暗に伝えていた。


 薄れゆく意識の中でアキラは彼女へ手を伸ばし掛けるが、その手は途中で止まっていた。


「…っ」


 ギョロッと彼女の眼が開き、不自然な方へと首を傾けてアキラを睨んでいたのだ。そこでアキラの意識は途切れ、そのまま暗闇へと落ちていく。


 最後に見た彼女は自分の妄想だと信じながら。…信じる以外に無かったからだ。


 そんなアキラを嘲笑うかのように、鉄鎖に囚われたサクラの笑い声がいつまでも暗闇の中に木霊していた。それは到底人とは思えず、まるで怪鳥の鳴き声のように思えた。


 やがてサクラもまた暗闇へと消えてゆく。残されたのは何も無い空間。常闇だけであった。だが闇の中へと消える直前、彼女の顔は今にも泣きそうなほど大きく歪められていく。


 しかしすぐに虚ろな表情へと変わり、開かれていた目玉がぐるりと一回転して白い眼で世界を見つめたまま動かなくなった。


 緩やかに暗闇へと消えてゆく我が身を知らず、白目を剥いて鉄鎖に縛られた様はまさに罪人そのものだった。…それほどに彼女が犯してきた罪業は深すぎた。


 それでもと、サクラは微かに残った自我の中で叫ぶ。アキラを守ると私は誓ったのだと。そして彼の事が好きなのだと。その感情だけは奪わないでくれ。お願いだから――。


 だが、そんな叫びが通じる筈も無い。やがて消え始めた自我の中、ただ彼女は暗闇の中に溶ける恐怖に怯えるしかない。…いいや、もう恐怖する感情すら残されていなかった。


 そんな彼女が最後に想ったのは、愚かな我が身への嘆きか。それとも神への懺悔か。


 だが彼女の思考に一瞬だけ浮かんだものを、確かに暗闇は映していた。それは自らと同じアルヴァリエ。灰色のパワード・スーツを着た年若い青年だった。


 アキラと、サクラの口から言葉が紡がれる。そうしてついに全てが闇へと帰り、紡がれた言葉すら闇に溶けて音を発する事は無かった。


 残された虚無には何も残らず、絶対的な無が広がるばかりであった。…そんな中、暗闇に水滴が落ちるようなぴちょんという音が響く。


 それはサクラの頬から流れ落ちた滴。だが、それすら暗闇の中に溶けて消えてゆく。


 …涙すら残らない暗闇。絶対的な絶望の中、涙する事さえ許されない現実があった。それでも彼女は涙を流し続ける。ただ一人、アキラを想って。


 アキラを守る。そう彼と約束したのだから――。


 だからと強く想う心さえ暗闇へと溶けていき、やがて狂気に染まったサクラの笑い声が響き始める。完全に狂って正気を失った哀れな女の姿がそこに在った。


 それでも暗闇へと落ちる滴の音は響き続ける。滴の音はいつまでも響き続けた。…暗闇が何も映さなくなっても、いつまでも、いつまでも――。


 音が聞こえなくなる時、それが最期の時だと暗闇が告げる。哀れな女を内包し、救いの手が差し伸ばされるまで。…ずっと、ずっと。


 早く見つけてくれと、暗闇は叫び続ける。その叫びが向けられた先、きっとそれは――。

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