第7話 交換条件
…そうしてアキラは、彼女に連れられて強制的にラグマ・アルタへと乗せられて、彼らが占拠している前線基地を飛び立っていた。因みに背中の損傷は治っていた。どれだけ乗っているアルヴァリエがへっぽこでも、訓練機の自然治癒は実に素晴らしかった。
まぁそれは良いとしてと、アキラは大空を飛びながら苦虫を噛み潰したような顔をしていた。何が何か分からない為、前を行く彼女の後を黙って付いて行くしかない。
因みにアキラは彼女から監禁部屋へと一人押し込まれた後、着ているパワード・スーツやコントロール・サークレットを非常に窮屈に感じた為「取っちゃえ!」と、さっさと外して寛いでいたのである。
しかしパワード・スーツは上半身まで難なく脱げたのだが、頭のサークレットを外そうとした時に問題が起きた。…まぁ早い話が、これを外す方法を忘れてしまったのである。
その為「ま、いっか」とアキラは考えて、力に物言わせて頭から毟り取ってしまったのである。そうして上半身だけを肌蹴させて、そして左腕の傷痕はきちんとカバーで覆ったまま、無駄にだだっ広い部屋の床に手足を投げ出して寛いでいたのである。
するとそこへ戦闘服姿をした彼女が突然現れて「さっさとサークレットを装着しろっ!」と怒鳴ってきて、タンクトップ姿になっていたアキラの胸元を掴んで持ち上げて「…貴様、貴様のっ」と、呪いのような言葉を吐いて射殺すような眼でアキラを睨み付けてきた。
そうして彼女に蹴りを入れられつつ、アキラは渋々パワード・スーツを着直していって、その辺りに放置していたコントロール・サークレットを再び装着する事を余儀無くされた。
無理やりサクラから部屋を連れ出されつつ「…一体何処へ行くのやら」と思っていたら、彼女が向かったのは彼女が自室として使用している部屋だった。
…いや~、あの時は流石に驚いた。何といっても、突然彼女が目の前でパワード・スーツに着替え始めたのだから。…まぁ男の子としては「眼福、眼福」といった気分だったが。
そしてパワード・スーツへと着替えた彼女と共に格納庫である工場へと向かい、そのまま訓練機のコックピットに蹴り落とされてしまった。だがアキラが訓練機を起動させる前に彼女のラグマ・アルタが起動してしまい「遅いっ!」と彼女に叱られつつ、無理やり彼女に腕を引っ張られながら基地を後にしたのである。
それにしても、見えるのは平原やら森やらばかりだ。…まぁ学園都市セグヴァは大海原のど真ん中にあるので、こういった光景を見る機会には恵まれていないので別に良いのだが。
だがそれにしてもと、アキラは苦い顔をして前を飛行する桃色のラグマ・アルタへと眼を向けていた。…因みに言うと、まだ彼女から右腕(訓練機の)を引っ張られたままだ。未だに離してくれないのである。
基地を飛び立ってから、彼女は何も話してくれない。アキラも彼女の機嫌が最悪と言っていいほど悪い事には気付いていた為、何か喋って叱られても損だと思って自ら話し掛けようとはしなかった。しかしこのままという訳にもいかず、アキラは彼女の顔色を窺うように見つめつつ、恐る恐る自らの疑問を彼女へと投げ掛ける事にした。
『…なぁ、何かあったのか? それにこっちの方向って――』
確か深緑の大海ではなかっただろうか。そう思って訊ねてみたのだが、どうやら質問したこと自体が既に彼女の地雷を踏む行為に他ならなかったようだ。
『何かあったのか…だと?』
彼女は低い声でぴくりと反応して、見る間に険悪な雰囲気を漂わせ出す。そして移動速度をそのままに、彼女はアキラの訓練機を振り返りつつ呪詛に満ちた言葉を吐き出してきた。
『…やはりそうか。やはり貴様、わざとだったのだな。…そうに違いない。絶対にそうだ! そうか、そうか。流石に優秀なだけはある。一年生なのに最上級生に交じってチームに組み込まれ、そのうえ戦場のど真ん中に突っ込んで来るだけはあるな。こうすればスクールから救助が来ると、貴様はそう踏んだのだろう。優秀なだけあって着眼点は悪くない。…それは認めてやろう。しかしな、そう上手く行くと思うなよ。貴様の目論見、私が阻止して見せる。その後で貴様にはたっぷり罰をくれてやる。覚悟しろっ!』
だがアキラには彼女が何に対して憤慨しているのか判らず、彼女に引っ張られている腕をそのままに、首を傾げながら彼女へと言っていった。
『あのさ、何を言ってるのかさっぱり分かんねぇんだけど。もっと分かり易く喋ってくれよ。それに俺のこと優秀とか言ってるけどさ、俺が良いのはラグマとの適合率だけだ! 他はさっぱりなんだからな。…だからさぁ、むしろ助けてって感じ? 俺さ、赤点ばっかなんだ。このままだとヤバくて、折角だから教えてくんない? そうしたら俺、凄く嬉しんだけど』
『~~っ。知るか、この大馬鹿者が~っ!』
まさに落第寸前な台詞を吐かれて、思わずサクラは声を荒げて怒鳴り付けていた。そしてサクラはやはりなと納得していた。…やはりこの男、馬鹿の部類だったのである。
偶に居るのだ。異常な程の適合率を誇るが故にスキップさせられる哀れな学生が。しかし大抵の学生が座学の方が付いて来ず、実戦訓練で死ぬほど苦労する羽目になる。
まぁ苦労すれば埋まる範囲だから問題ないというのがスクール側の理論ではあるのだが、アキラのような輩を見る度に疑問が大きくなる。本当にそうか? …と。
確かに適合率が高い学生は、習うより慣れろの方が上手く行くのは事実だ。現にサクラもそうやって人よりも早くスクールを卒業したのだから。
スクール側としては少しでも早く優秀な人材を育成して、その学生を何処かの部隊へと売り付けて早々と利益を得ようという魂胆だろうが、流石に今回は失敗したと見える。
最低でもアルヴァリエとしての常識を備えてからにするべきだったのだ。…間違いなくこいつは馬鹿の類だ。しかも唯の馬鹿では無い。致命的な大馬鹿の部類である。
…このような人間が軍隊などに就職すれば、確実にその部隊を全滅へと追い遣るだろう。今回のように部隊の潜伏先を敵部隊へと知らせるような大失敗を犯すか、はたまた、味方を巻き込むような常識外の行動に走るか。
どちらにせよ冗談では無い。巻き込まれる方の身にもなれと言いたい話である。
サクラは眉尻をひくつかせながら、その視線を視界の片隅に表示しているレーダーへと向けていた。…東の海から急速に接近して来る五つの飛行物体。やはり気付かれたのだ。
仕方ないとサクラはその場で停止して、そこでようやく引っ張っていたアキラの右腕を解放してゆく。そして急速接近して来る物体を待つ様に東の空を見やり、静かに時を待つ。
『…へ? ちょ…おい』
一体どうしたのだとアキラが声を上げるが、サクラはそれを無視して只管と待ち続ける。すると彼らは幾許もせず二人の前に現れた。…やはりそれはスクールの機体で、灰色をした五機の訓練機が二人の前を遮るように立ち塞がる。
しかし何故か、彼らはそのまま動かなかった。そんな灰色の機体を見て、サクラの後ろに立っていたアキラは嬉々とした表情を浮かべて声を上げていく。
『…まさか、セグヴァのっ!』
だがそれをサクラから左腕で制されて「彼らの命が惜しければ動くな」と言われてしまうと、アキラは悔しげな顔をして引き下がるしかなかった。
しかしそれにしてもと、サクラは何も言って来ない相手に苛立ちを浮かべていき、小さく舌打ちして「…屑が。怖気付いたのか?」と漏らしながら止む無く先に口を開いていった。
『どうした。指を銜えているだけでは事態は動かんぞ。まさか迷子の子猫のようにこいつをすぐに返して貰えると、そう思って来た訳ではあるまい? …さぁ、交渉を始めようか』
『『…っ』』
すると彼らは一様に息を呑んでいき、楽しげな雰囲気すら滲ませるサクラの声に苛立ちを隠せず拳を握り締めるしかなかった。
だがそんな中で、右肩にナンバー・Ⅱと書かれた機体が身を乗り出してきて、周囲の反対を押し切る様に前へ進み出ながらアキラへと言ってくる。
『アキラ、アキラだよね。…アキラっ!』
『っ! …その声』
もしやと、アキラは瞳を潤ませていた。…間違いない。この声はカイスだ。彼は一年生にも拘らず訓練機へと乗り込み、上級生に交じってこんな場所まで駆け付けてくれたのだ。
『カイス――』
『おっと』
だがそこで、サクラから右腕を捕らえられてしまう。ナンバー・Ⅱに乗るカイスへと駆け寄り掛けたアキラだったが、サクラの存在を思い出して歯切りしていく。
『…っ』
そんなアキラの腕を捕らえながら、サクラは脅迫する様にアキラへと静かに言っていく。
『動くな。…貴様は人質なのだ。仲間の命が惜しいだろう? 貴様の行動次第でどうとでもなるぞ? その様子からすると彼は友人なのだろう? 良い友人ではないか。このような場所まで駆け付けてくれる友人などそうは居ない。大切にしなければな』
『…あんた』
あからさまなサクラの脅しに、アキラは込み上げる怒りを隠せなかった。…サクラの事は命を助けてくれた恩人だと思っていたのに。こんな事をするような人間ではないと信じていたのに。…それなのにっ!
アキラは裏切られたような気持ちになり、サクラを軽蔑するように言い返していた。
『成程な。所詮あんたも軍人って事かよ。…あんたはまともな人間だって信じていたのに。どうしてこんな事するんだよ。俺達は唯の学生じゃないかっ。あんたほど偉い軍人が相手にする価値なんて無いだろ! せめてこいつらには手を出すなっ! 俺だけで十分だろ!』
『それは私が決める事だ。…それに、だ』
サクラはそう言って周囲を見回していき、眼前で静止している五機の訓練機とアキラを見て凍て付いた声を発していく。
『ここはスクールの外だ。一度外に出れば貴様らが学生かなど関係ない。貴様らはスクール所属のアルヴァリエで、私はガイア諸国連合軍所属のアルヴァリエだ。それだけに過ぎない。互いの立ち位置が違えば時に相争うのは道理。違うか?』
『だから殺すのか。…俺はあいつらを釣る為の餌だった。そんな事の為に俺を助けたのか。スクールに所属しているアルヴァリエを誘き出す為に。そんな事の為に…俺をっ』
『……』
それにサクラは答えず、短い沈黙だけをアキラに返していく。そしてサクラは思っていた。果たしてアキラを助けた理由は何だったであろうかと。
…いいや、本当は覚えている。彼の声があの子と似ていたからだ。だから助けた。
多分私は、彼を助ける事によってあの日の過ちを償おうとしたのだろう。無意味な事だと判っていた筈なのに。それなのに咄嗟に彼を助けてしまった。
しかし、それをここで口にする訳にはいかない。…何よりも彼には何の関係も無い話だ。ここで説明すること自体が無意味なのだから。
だからとサクラは彼らを挑発する様に笑みを浮かべていき、空いている右手で腰に下げている長剣を引き抜いていき、それをアキラの訓練機の首元へと当てていった。
『貴様らがどれだけ阿呆でも知っていよう。機体の損傷は操縦しているアルヴァリエへとそのまま伝わる事を。…ここでこいつの首を落とせばどうなるかな? やって見せようか』
『…や、止めろっ!』
だがそこでついに耐え兼ねたのか、今度はナンバー・Ⅲと書かれた機体が声を上げてくる。それにサクラは楽しげに動きを止めていき、アキラはその声を聴いて眼を見開いていた。
そんな中、ナンバー・Ⅲの機体は一歩前へと進み出ていって懇願するように言っていく。
『頼むから止めてくれ。…そんな馬鹿でも俺達の友達なんだ。目の前で殺されるのを黙って見ている事は出来ないっ! 交渉には応じる。だから止めてくれっ!』
『…ほう?』
これは驚いた。そんな声がサクラから漏れていく。…その声はヴェインだった。ヴェインは座学こそ優秀だが、運動神経や操縦訓練は全くと言っていいほど駄目だった。
そんな彼がこんな所まで来てくれたのだ。…戦場にも等しい所まで、無茶を承知でだ。
捕まった自分を助ける為にカイスとヴェインが来てくれた。そう思うとアキラは激情を抑えられず、サクラに捕らえられているのも構わず声を張り上げていた。
『…ばっかやろうっ! 俺の為にこんなとこまで来やがって。無茶苦茶だろ、お前らっ!』
『お前にだけは言われたくないな。…アキラ、無事で良かった』
『…っ』
ヴェインらしくない優しげな声で言われて、アキラは自分の双眸に涙が滲むのを止められなかった。
そんなヴェインの隣では「当然、僕も忘れないでね?」とカイスが微笑んでおり、二人は優しげな眼差しでアキラを見つめた後、鋭い眼差しでサクラの機体を睨み付けていく。
二人のそんな様子を見て、中々骨があるではないかとサクラは感心していた。だがアキラへと押し当てている長剣はそのままに、楽しげな口調で学生達へと改めて言っていった。
『我らの戦場に土足で踏み入り、その為にこいつは我らの手中に落ちた。…これは貴様らが犯したミスだ。その為にこいつが殺されても文句は言えない筈。それに交渉に応じるだと? どうやって応じるつもりなのだ。貴様ら学生にそれだけの権限がある筈が無かろう。頼めば何でも応じて貰える。…それほど現実は甘くないぞ。ここはスクールの外だ。どんな非情もここでは罷り通ると思え。…まぁだが、交渉と云う言い方をしたのはこちらの方だからな』
だからとサクラが笑っていくと、学生達はその言葉に息を呑んでいく。固唾を呑んで次の言葉を待つ学生達の様子を見つめながら、サクラは楽しげに言葉を続けていった。
『次の卒業生を一人、こちらに貰おうか。そしてラグマ・アルタもだ。当然ラグマも資金もそちら持ちだ。…これが条件だ。それを呑めないのであればこいつは諦めるのだな』
『…っ! そ、それは――』
余りにも無茶な要求だ。そう感じてヴェインは言葉を濁していた。そんな要求を理事会が呑むとは思えない。…下手をするとアキラを見捨てられかねない要求である。
本来カイスとヴェインは訓練機には乗れない立場の人間だ。その操縦技術は上級生達と並んで飛ぶ事すら儘ならず、どうにかここに辿り着いたに過ぎないのだ。
二人は既に校則違反を犯している。…その上この要求とくれば――。
無理だ。二人にはそうとしか思えない要求だった。そして当然ながらサクラもまたそれは理解している事であり、更に学生達を挑発するように自らの後方を見やりながら言った。
『あぁ、別に構わないのだぞ? ここでこいつを無理やり奪ってみても。…だが、な』
そう言ってサクラは後方を見やりつつ、楽しげに笑いながら学生達に言葉を続けていく。
『そんな事をすれば、きっと全員が蜂の巣になるだろうな。我が部隊の戦闘機と腕比べでもしてみるか? さぞかし面白い見世物になるだろうな』
『『っ!』』
学生達はサクラに言われて、レーダーに映っている戦闘機の存在にようやく気が付いた。同じようにアキラも戦闘機の存在に気付きはしたが、何か違和感を覚えて首を傾げていた。
…確かに戦闘機は映っている。しかし、その照準が向けられているのは――。
『っ!』
それに気付いてしまうと、アキラは言葉を失って大人しくするしかなかった。その照準を向けられているのは他でも無い。サクラの機体だったのだ。
…一体何故? レーダーに映っている信号からするに、これは間違いなく第八遊撃部隊の戦闘機だ。だがそれなのに、何故サクラへと照準を向ける必要があるのか。
向けられているのは捕虜である自分でもなければ、迎えに来たスクールの機体でもない。何故か味方である筈の彼女に照準が合せられているのである。
当然彼女もそれには気付いているだろうに、何故か彼女はそれに動じている様子は無い。それは何故なのか。何故それほど余裕を浮かべていられるのか。
その理由は判らない。…でも間違いなく、その照準の先に居るのは彼女だっ!
気付いてしまうと居ても立っても居られなくなり、思わずアキラは口を開いていた。
『…あ、あんた――』
『煩い。下手な事を口走ってみろ。…冗談抜きで貴様の首を斬り落としてやる』
『で、でも――』
不安を滲ませながらアキラは言うが、もうサクラはそれに取り合わなかった。その代わりに学生達へと視線を向けていき、更に挑発するように彼らへと言っていく。
『まさか本当に気付いていなかったとはな。…再度告げるぞ。こいつを殺されたくなければこちらの要求を呑む事だ。それ以外の選択肢は無いものと思え。それとも本当に我が部隊の戦闘機と腕比べでもしてみるか? 貴様ら学生の腕でそれは無謀だと私は思うがな。再度貴様らに告げる。ここはスクールの外だ。ここで揉め事を起こせば、我らガイア諸国連合軍と貴様らスクールの間で全面戦争が始まるものと思え。…貴様らが仕掛けた戦争だ。それを絶対に忘れるな。貴様らが戦争を始める事になるのだ。その頭でよく考えろ、馬鹿共が』
『『…っ』』
全面戦争。それを聞いて全員の顔が青ざめていき、恐怖で誰一人動けなくなってしまった。それをサクラは見つめつつ、依然とアキラの腕を掴んだまま更に言葉を続けていった。
『再度こちらの要求を伝える。次の卒業生を一人、そしてラグマ・アルタを一機。そちらの全負担で我が部隊に差し出せ。良いな、必ず要求を理事会へと伝えるのだぞ。…まぁだが』
そう言ってサクラは彼らへと背を向けていき、無理やりアキラの訓練機を引っ張りつつ言葉を続けていった。
『こちらとしてはどちらでも構わないがな。…その時はこのままこいつを頂くだけだ』
『…っ』
それを聞いてナンバー・Ⅱに乗ったカイスは咄嗟に身を乗り出しており、しかし行く手を遮る勇気も無く、縋るような眼差しを向けながら叫ぶしかなかった。
『…ま、待って! せめてアキラと話をさせて! …アキラ、アキラっ!』
そう叫ばれて、アキラは困ったような顔をして思わず振り返っていた。…本当ならここで彼女の腕を振り払ってでも逃げるべきだ。彼女は先ほど敢えて全面戦争と口にしたが、それを避けたいのは何もこちらだけでは無い筈。彼女達だって全面戦争は避けたい筈だ。
だからここで逃げてしまっても問題は無い。多分彼女は追って来ないだろう。
でも、それはあくまで彼女だけの話。…後方で待機している戦闘機までは定かでは無い。それにと、アキラは苦々しい顔をして俯きながら思っていた。
ここで自分が逃げてしまえば、おそらく彼女には何らかの処罰が下されるだろう。そしてそれは、多分アキラが思っている以上に重たいものだ。
何故かそれを、自分は嫌だと感じている。…ここで逃げてしまえば、多分彼女は――。
そう思ってしまうとアキラは彼女の腕を振り払う事が出来ず、未だに縋るような眼差しを向けているカイスに向かって言うしかなかった。
『大丈夫だって! だから変な声を出すなよ。ちゃんと聞こえてますって! 何度も言うけどな、俺はそんなに爺さんじゃないぞ? 髪は白いがまだ花の十八歳だ! …だからさ』
アキラは一呼吸置いてから、困ったように笑いつつカイスへと言葉を続けていく。
『俺は大丈夫だから。…ここで逃げちまうほど俺も馬鹿じゃない。俺だってスクールが戦争を始めるなんて嫌だからさ。…待ってるよ、お前らの事をさ』
『…アキラ。で、でも無理だよ。理事会がそんな――』
そう言いつつ、カイスはアキラの「待っている」という言葉を聞いて何も言えなくなってしまっていた。そして上級生の何人かもまた気付いていた。サクラが口にしている戦闘機の照準が何処へ合せられているのか。
通常ならば敵機にロックオンされれば、コックピット内が赤く点滅して警報が鳴り響く。でもそれは、こちらの機体には一切起きていない。アキラも然りだ。つまり、それは――。
複雑な状況が見え隠れする中、上級生達は不用意な判断を下せずにいた。何も分からない中で軽々しい行動に出れば、冗談抜きでスクール全体を巻き込む事になり兼ねない。
それだけは避けなければと、上級生達は一年生である二人を無言で制するしかなかった。その中でヴェインは苦々しく顔を歪めつつ、サクラに向かって悲痛な声で訴えるのだった。
『あなたの要求は間違いなく理事会へと伝える。…だから頼む。要求が理事会に受理されるまでの間、そいつには手を出さないでくれ。この通りだっ!』
『…ヴェイン、お前』
こんなに悲痛な彼の声を聴いたのは初めてだ。普段はあれほどアキラに素っ気無いのに、こんなにも必死になって頭を下げてくれるなんて――。
しかしそんなヴェインの想いなどサクラにはどうでも良いらしく、興味なさげに溜息を付いた後で冷めた声をヴェインへと向けていった。
『知らんな。…悪いが、私はこいつの生殺与奪を握っていないんだ。まぁ神にでも祈る事だ。無事に理事会へ要求が通れば、その時こそこいつを解放してやる。卒業生と引き換えにな。だが、五体満足で返して貰えるとは思わない事だ。…腕の一本や二本は覚悟しておけ。私もそこまでこいつを守ってやる謂れは無い。でも安心しろ。死体くらいは返してやるさ』
『…なっ』
余りに酷い言い草に驚愕するヴェインを無視して、サクラは背中越しに彼らを一瞥してから「無駄話はこれまでだ」と言い捨てていって、アキラを引っ張ってその場を後にする。
そんな二人の後を追おうとヴェインとカイスは動き掛けるが、それを上級生達が慌てて引き留めているのが見える。
二人が何かを叫んでいる。…駄目だ、行くなと。ここでアキラを取り戻さなければ、二度と逢えないかも知れない。
そんな悲鳴が聞こえるが、アキラは振り返る事も許されず二人に背を向けて飛び去って行くしかなかった。
やがて彼らの姿が完全に見えなくなると、アキラは双眸に涙を滲ませて俯いてしまった。それにサクラは気付いたのだろう。苦々しい様子でアキラへと言葉を投げ掛けてくる。
『先ほどの言葉、撤回はしないぞ。…事実私には貴様の生殺与奪を自由にする権利は無い。だから貴様の身に何かあっても守ってやる謂れは無い。…だからその、すまないな』
『…何だよ、それ』
何故か彼女から小さく謝罪されて、アキラは声を上ずらせながら笑い返していた。しかしサクラは、申し訳なさそうな声で更なる言葉を投げ掛けてきた。
『何故逃げなかった。もしかしたら、本当にこれが最期になるやも知れんのだぞ。友人達の元に帰れる最期の機会だったかも知れない。…もう一度生きて逢える保証は何処にも無い。それなのに何故だ』
『……』
それに対してアキラは短い沈黙を向けていき、少し考えた後に彼女へと答えていた。
『さぁな。…でもさ、逃げない方が良かったんだろ? ほら、あんたも言ってたじゃんか。スクールとあんた達の間で全面戦争が始まるかも知れないって』
『馬鹿な。そんな言葉を真に受けて――』
小さく告げられたアキラの言葉を聞いて、サクラは絶句しながら頭を振っていた。確かにあの言葉は嘘では無かった。…しかし、あくまでも可能性の話だ。たったそれだけなのに。
そんな風に会話をしながら飛ぶ二人を置いて、先ほどまでレーダーに映っていた戦闘機はいつの間にか姿を消していた。おそらく先に基地へ戻ったのだろう。
先ほどヴェインと彼女の間で交わされた会話と戦闘機の照準。…そのどちらもが、所詮は彼女も一介の兵士に過ぎないのだと暗に伝えていた。そしておそらく、アキラの生殺与奪の権利を握っているのは彼女の上官だ。
確かに彼女の地位は少佐と高いが、どうやら彼女は部隊長では無いようだった。おそらく彼女の地位は名誉職に近く、その実質は全く伴っていないのだろう。
だから彼女はあんな物言いをした。そうして現在、こうやってアキラへと謝罪している。アキラは今更になって胸を撫で下ろしていた。…彼女を置いて逃げなくて良かった、と。
もしあそこでアキラが逃げていれば、戦闘機に撃ち落されていたのはどちらだったのか。そう考えると恐ろしく、やはり逃げなかったのが正解だったとしか思えなかった。
あの場に居た全員が殺される可能性があった。アキラの行動次第では、あの場に居た全員が殺されていたかも知れないのである。…そしてそれは、サクラもまた例外では無かった。
逃げなくて良かった。そう改めて実感しながら、アキラは前を行く桃色のラグマ・アルタを見つめつつ思わず漏らすのだった。
『人間同士の戦争って陰湿だな。…俺は嫌いだ』
『そうか』
それに対して彼女は短く答えた後、やや考える様に間を置いてアキラへと言ってくる。
『私も嫌いだ。…人を人と思わない。ただ命令に従うだけの自分が嫌でならんよ』
『…え』
その驚くべき言葉にアキラが短く声を上げるが、それきり彼女は口を閉ざしてしまった。アキラはそんな彼女の言葉を少しだけ嬉しく思い、今は黙って付いて行こうと決意する。
戦争を嫌いだと言った彼女の言葉を信じよう。…それにきっと、ヴェインとカイスが迎えに来てくれる。今はそう信じよう。二人の友人と、目の前を行く彼女の事を信じてみよう。
あの二人ならきっとどうにかしてくれる。それに彼女も居るのだ。きっとそう悪い事にはならない。だって彼女は先ほどアキラに謝罪してくれたのだから。
きっと悪いようにはならない。…そう思うと、少しだけ心が落ち着くアキラなのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます