その先に。

@gintonic

その先に。









「おめでとうございます。」




























































最悪。











 アサコは時計を見るでもなく、時間を見た。〈あいつ、1時間半も待たせた挙句に、おめでとう。とか云ってやがった。どこがおめでとうだっつーんだよ。マジ、ありえねぇー。〉

もうお昼すぎだとはいえ、火曜日とあって駅に向って小走りに行く人をアサコは何人かやりすごす。その時、ニュースキャスターが傘はいらないと云っていたのを思い出した。明け方降ったはずの雨はもうすっかり気配さえ消していて、澄み切った青い空は、心なしか暖かささえ帯びていた。

〈クソっ!空が青い…。〉



[アサコちゃん、どうしていつも空の色を白く塗るの?]毎回気になっていたことだったのだが、今日こそはと思い、思い切って聞いてみたのだった。アサコは、彼女の考えを読み取ろうとしてか、アサコの顔を覗き込むように尋ねた彼女の先生には見向きもせずに、手の中の白色のクレヨンを嬉しそうに小刻みに動かしていた。[なんで?]そんなことを云われるとは思ってもいなかったために、彼女は少し困惑しながら、[なんでって、だって、先生には空の色は青く見えるから…。]そう云っておきながら、彼女は自分のあまりの滑稽さにがっかりしてしまった。見るとアサコは、まるで神を見たかのように、驚きというよりはむしろ、恐怖に近い瞳で彼女を見ていた。[先生、青って?]少し考えてから、アサコは青という色がどんな色なのかまるで知らない、といった顔で彼女の視線に縋っていた。彼女はアサコの考えを探ろうと、アサコの視線に向ってみたが、アサコの視線がせがむので、近くに青がないかとあたりを見渡した。[アサコちゃん、青って、これ。]彼女がそう云ってアサコに見せたのは、まだ一度も使われたことのない、アサコの青色のクレヨンだった。



 「いらっしゃいませっ。ご注文は何にいたしますか?」「ブラック。」「はい、ブラックですね。」サイフを持ったアサコの手が一瞬はっとしたように止まり、そのとき初めてアサコは店員の顔を見た。「270円になります。」店員のオンナはごく自然な作り笑顔をアサコに向けていた。「やっぱり、ベーグルサンドとミネラルウォーターにして。」「え?あっ、…はい。かしこまりました。ベーグルサンドとミネラルウォーターですね。690円になります。」アサコは自分を納得させるかのように頷くと、店員のオンナにシワひとつない5千円札を手渡した。「はい、5千円お預かりいたします。…4310円お返しいたします。」気味が悪いほどの笑顔と共に返されたおつりを、同じく恭しく差し出されたレシートと一緒にサイフにしまった。「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ。」店員が商品の出されるカウンターに手でアサコを促したので、アサコは大人しくそれに従った。

「お待たせいたしました、ベーグルサンドとミネラルウォーターになります。」オトコの店員が、子供にプレゼントを渡すサンタクロースさながらに、アサコにトレーを突き出した。「どうも。」「ごゆっくりどうぞー。」ぶっきらぼうに云ったアサコだったが、内心では少し、バカバカしいほどの徹底振りに、笑いと尊敬の念すら抱いていた。カウンター横に積まれていた灰皿を無造作にトレーに載せ、アサコは1階の禁煙席にはまるで興味を示さずに、喫煙席のある2階へと階段を上っていった。

2階は思っていたよりも明るく開放的だった。なによりもまだ日の高い時間だったということがその要因のひとつだった。アサコは奥のほうに座っているサラリーマンや、いかにもヒマを持て余しているようなオバさん達を避けるように、解放的な大きな窓に面したカウンターに腰を落ち着けた。     

〈はぁー。やっとタバコ吸える。〉カバンの中からタバコを探し出し、火を点け、ゆっくりと吸い込んだ。「……ごほっ。…ごほっごほっごほっ。」右手の中にあったタバコがカウンターに落ちた。〈あっぶねっ!〉アサコは慌ててタバコを掴むと、まだ一口しか吸ってないそのタバコを灰皿に押し付けた。〈…咽た…。〉ミネラルウォーターのビンを開け、中身をグラスに注ぐと、一気に飲みほし、もう一度グラスを満たしてから、ベーグルサンドを一口食べた。〈ウマいじゃん。〉アサコはミネラルウォーターとベーグルサンドをたっぷりの時間をかけて味わって食べた。



 [お前、飯食わねーの?…ってまさか、またコーヒーだけかよっ?!][ほっといてってばっ。][体壊すぞ、いい加減。コーヒーとタバコだけじゃ…。]アサコはあからさまにウンザリだと目で云って、タバコに火を点けた。[せめて、そのブラックだけでもなんとかしろよったくっ。]〈ブラックじゃなきゃコーヒーじゃなぃし。〉[あんただってバカみたいに酒飲むでしょーがっ。][いいんだよ、酒は。]アサコは銜えてたタバコを灰皿に押し付けると、まだ熱いコーヒーを一息に流し込み、立ち上がった。[もぅ行くのかよっ?]チリソースのたっぷりかかったホットドックを口いっぱいに頬張りながら、ビールのジョッキを手に持った目の前のオトコに、理解できないっといった表情で首を振り、溜め息混じりになにかを呟くと、アサコはそのままその場を去って行った。

 アサコは酒が強かった。アサコ自身がそう思っているというよりも、酔ったコトがなかったのだ。〈あんなもん飲むなんてありえねぇーよ。脳ミソが死んでくってのにっ。〉



 窓の外の空気がやわらかくなってきた。〈3時かぁー…。〉ミネラルウォーターの空のビンを乗せたトレーを返却口に返し、アサコは店を出た。「ありがとうございましたー。」

 店を出てしばらく行くと右手に本屋が見えた。アサコはなんの気なしに店に入って行った。すばやくレジにいる店員を盗み見ると、店員の視線を意識しつつ店の奥へと向った。〈そぅ云や、あいつが云ってた本なんだったっけかなぁー…。〉考えるわけでもなくアサコは考えた。ふと顔を上げたアサコが立っていたのは児童文学のフロアだった。〈まさかね。〉一瞬わざと皮肉な笑みを浮かべると、近くにいた店員が、整然と本を陳列していく様子をしばらく黙って見ていた。「ねー、あの。」「はい?」店員は顔も上げずに、いかにも煩わしそうな返事をした。「……手帳が……欲しいんだけど…。」「はい?」ぴたりと手を止め、アサコを見た店員は、間違いを責める先生のようだった。「手帳は…」「手帳は入り口横のレジ脇にございます。」アサコの言葉を遮り、再び仕事に取り掛かったその店員は、最後まで間違いを責める先生さながらだった。アサコは、その店員の背中を不思議な想いで見守っていた。「…どうも。」

 手帳が置いてある場所はすぐに分かった。相変わらず店員の目線はアサコに対して、警戒心剥き出しだった。〈やっぱ、黒にしょうかな…。〉「お次のお客様、お預かりします。」疑うような目で見る店員にアサコが渡したのは、オレンジ色の手帳だった。



 〈えっ、なにっ。〉アサコは目の前の光景に目を見張った。[ちょっとっ。どう云うコトっ、これはっ。]いきなり大声を出したので、アサコ自身も驚いてしまった。それまで見つめ合っていたオトコとオンナの視線が、同時にアサコの姿を捕らえた。(なんか云えよっ。)[…。][え?何?知り合いなの?]白いブラウスと淡いピンクのスカートが云った。オンナはあからさまにアサコを軽蔑していた。[人違いだろ。][…人…違い…。]アサコは自分で云ったコトバを自分の中から消し去ろうと努めた。[だよねー。こんな上から下まで真っ黒な、冴えないオンナと知り合いなわけないよね。魔女みたい。あはははは。行こう?][あ、あぁ。そうだなっ。じゃあなっ。魔女っ。][きゃはははははは。]〈待ってよ。〉立ち去っていくオトコとオンナの背中を黙って見つめながら、アサコは吐き気がするほどの香水の匂いを全身で浴びていた。



 「おかぁーさーんっ。」アサコを追い抜くように赤いランドセルを背負ったオンナのコが、公園の中に走っていった。〈びっくりした…。〉オンナのコは母親に抱きしめられ、嬉しそうにケタケタと笑っている。アサコもオンナのコの後を追うように公園の中に入ると、真っ白なベンチに腰を下ろした。

「ねー、お母さん。見てみてっ。」オンナのコは赤いランドセルからキラキラ光る何かを、母親に見せていた。〈宝箱だね…。〉そっと笑ったはずのアサコに気付いて、オンナのコが手を振った。アサコは今度はオンナのコに対して笑いかけると、オンナのコと同じように手を振り返した。オンナのコはまたも母親に何かを見せながら嬉しそうに笑っていた。

ふと、目を向けた先にピンク色の小さな花が咲いていた。ベンチの足の脇に遠慮がちに咲くそのピンク色の花は、アサコが今まで見たどのピンクよりも、やわらかかった。



 アサコは買ったばっかりのオレンジ色の手帳を袋から出した。今日の日付のページを開き膝の上にのせると、カバンからお気に入りの黒色のボールペンを取り出した。

 ついさっきまで楽しそうに、はしゃぎながら遊んでいたコドモ達は、母親達に促され、名残惜しそうに帰り支度を始めていた。「困ったわねー。」と言った母親も心から楽しそうだった。いつの間にか空の色は、優しいオレンジ色から赤色になる前の、濃いオレンジ色へと変わっていた。それぞれの帰るべき場所を知ってるかのように。




 決心したように、アサコは今日のページに何かを書き込むと、その自分で書いた文字を、自分自身に刻み込むかのように、手で追った。手帳とボールペンをカバンにしまうと、軽く目を閉じてから立ち上がり、そのままゆっくりと、静かに歩いて行った。





































その先に。









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