第20話 王の花嫁
――俺の正室は、フィオレンティーナだ。
ディートハルトの口から自身の名前を聞いて、フィオレンティーナは何事かと目を見張る。
荒々しい足取りで会議から戻ってきたディートハルトは、側近のアルベルトと宰相フェリクスを伴っていた。伴っていたというより、二人が勝手に付いてきた様子だった。
幼馴染みという関係からか、臣下よりずっと近しい気安さを二人はディートハルトに対してとっていた。
そうして彼らは、フィオレンティーナを国王の妃として見ていなかった。
ディートハルトの情婦として見なしているのだろうか、部屋に彼女がいても一瞥を寄こすだけで、それ以上の干渉はなく、ただディートハルトに臣下とは思えない、気心の知れた友人のような口ぶりで国王に話しかける。
ただし、フィオレンティーナが観察する限り、気安さは一方通行で、ディートハルトの幼馴染みたちに対する態度は、フィオレンティーナに対する態度と似ていた。
……いえ……。
ディートハルトの冷たい、無機質な視線は相変わらずであるが、フィオレンティーナの存在を否定するような態度はない。
湯浴みの時間や食事の際など、ジュリア以外の者たちと接触する機会はあったが、その者たちは総じて、彼女を無機質な存在として扱った。
背中を洗う手の乱暴さ、石鹸の泡を流すのに冷や水を浴びせる女官の悪意。給仕に立つ者の冷ややかな視線はやがて、無視を始める。
すべてが彼女の居場所はここにはないと、物語っていた。
誰もがフィオレンティーナをまるで意思のないモノと扱う中で、侍女のジュリアとディートハルトだけが、このシュヴァーン王国でフィオレンティーナの存在を容認していた。
ディートハルトにとって、彼女はユリウスへの復讐を果たすための材料。そのために生かした存在であるから、否定などできやしないのだろう。
……だから、何も言わなかったの?
数日前、大量の涙でシーツを濡らし寝床を台無しにした彼女を、ディートハルトは何も言わず冷たく見下ろした後、フィオレンティーナを両腕に抱くと、彼の私室にある寝椅子に運び、彼の膝を枕に寝かしつけた。
泣き疲れていたこともあり、フィオレンティーナはなされるままに彼の膝の上で眠った。 蜂蜜色の髪を撫でるディートハルトの指先が、ユリウスを思わせて、彼女の涙を余計に誘ってしまったけれど。
ディートハルトはユリウスを憎んで、彼の元へ逝かせないために自分を生かした。生きていればそれだけでいいのか。飼殺して、やがてこちらの心を腐らせていくつもりだろうかと、フィオレンティーナは疑う。
ディートハルトにユリウスの面影を重ねて、優しさを求めた瞬間、その違いを突き付けることで、彼女の中の憎しみをあおるつもりなのだろうか。
フィオレンティーナの心をディートハルトへの憎悪で黒く染め上げ、ユリウスを塗り潰すつもりなのか。
……だから、優しくするの?
優しいと感じてしまう、それを屈辱と感じてしまう心も端にはあるのだが、ユリウスそっくりの面差しを前に、弱くなった心が崩れてしまう。
ユリウスとディートハルトは別人だ。何度も言い聞かせたはずなのに、惑う。見誤る。指先に温もりを求めてしまう。
見分けがつかなくなっている時点で、もう自分は正常じゃないと、フィオレンティーナには思えてならなかった。
きっと、精神が狂い出している。だから、幻影に惑わされ、それでいいと感じ始めているのではないか。
いっそ、ディートハルトを憎んで憎み倒せば、楽なのだろう。でも、黒く染まればユリウスを忘れてしまう。
ユリウスを求めるから、ディートハルトに影を重ねて、影が重なることを厭えば、ユリウスが消える――堂々巡りの行きつく先を見つけられず、フィオレンティーナは途方に暮れて、壊れるのだ。
そうして、やる気もなく壁際に置かれた寝椅子に腰かけて、花瓶に飾られていた温室育ちの花を眺めていたところで、三人が乱入してきた。
静寂が途端にぶち壊され、急速にフィオレンティーナの意識は現実へ引き戻された。
耳の奥で反響した言葉が、衝撃だった。
「何度も言っているだろ。俺の正室は、フィオレンティーナだ」
と、ユリウスと同じ声で、もう二度と口にされることはないだろうと思っていた名を耳にして、フィオレンティーナは息を止めた。心臓が止まるかと思った。
実際に止まっていれば、そのままユリウスのところに逝けたのだろう。
逝けたら良かった、と――心に刻んだ誓願やジュリアに対する責任など、色々なことが頭の中から抜け落ちるほど、彼女の名前を口にしたディートハルトの声はユリウスを思い出させた。
フィオレンティーナは懐かしい声を求めて、翡翠の瞳を彷徨わせた。
重臣たちが集まる会議であるからか、普段彼女の前で見せる楽な格好とは違い、堅苦しそうな衣装に身を固めたディートハルトは、フィオレンティーナの前で上着を乱暴に脱ぐと、八つ当たりするように後に続いてきたアルベルトに放り投げた。
硬い金ボタンでも当たったのか、顔をしかめてうずくまる赤毛の将校。そんなアルベルトを横目に眺めたフェリクスの流れるような視線は、呆然とするフィオレンティーナを掠めて、ご機嫌斜めな主君へと向かう。
「――お前の皇女に対する執着は知っている。だからと、国王の結婚が本人の意思だけで成立するとは、幾ら記憶を失くしたからって、知らぬとは言わせんぞ」
初対面の際に見せていた柔和さはどこへ行ったのか、フェリクスは脅すようなことを、ディートハルトの背中に言い放った。
……記憶を失くした?
引っかかった単語に、目を瞬かせるフィオレンティーナの存在は全く黙殺されているようで、ディートハルトはフェリクスに鋭い視線を返して、一喝した。
「うるさいぞ、フェリクス。俺をお前の思惑で動かそうと思うなっ!」
声に宿った怒りは、距離を置いたフィオレンティーナの鼓膜を叩くほど、激情をはらんでいた。
眉間に寄せられた皺とつり上がった
「ヴァローナも、女をあてがって、俺を牛耳るつもりかっ!」
「同盟をより堅固にしたいのだろう、ヴァローナは。お前の記憶喪失は、既にあちらに伝わっている。お前が取り交わした契約がどこまで守られるのか、わからない以上、お前の首を押さえておきたいのだろうな」
「女一人で何ができる?」
飛び交う会話から、ヴァローナ王国が政略結婚をディートハルトに持ちかけたらしいと、フィオレンティーナは推測した。
ともにカナーリオ帝国を襲撃した二国間の同盟は、確かディートハルトの母がヴァローナ王室の出であったことに発足していた事実を彼女は思い出した。
さらに結びつきを強固にせんと、政略に結婚を利用するのは、王侯貴族にとって、特別珍しいことではない。
フィオレンティーナとユリウスの婚約も元を質せば、政略結婚だった。世に聞く政略結婚と、自分たちの婚約に違いがあるというのなら、フィオレンティーナがユリウスを真実愛したことだろう。
王族に生まれたディートハルトならば、同盟強化の結婚に異を唱えることが、どれだけ理に適わぬものか承知しているだろうに。
何故、拒むのか、フィオレンティーナにはわからなかった。
「実際に、女一人にかまけている男が言うせりふじゃない」
不意に、フェリクスの目がフィオレンティーナを振り返った。
蛇のような視線は、ディートハルトのユリウスへの憎悪を承知し、それに対するフィオレンティーナへの執着を疎んでいた。
宰相が差し向けてくる軽蔑交じりの琥珀色の瞳から、彼女は慌てて目を逸らす。
存在を否定する瞳は、弱くなった彼女の魂を荒々しく削って、心に血を流させる。とても耐えられない。
「美しき姫は国を傾ける――女で滅んだ王の話は数多だぞ。お前もその仲間入りをする気じゃないだろうな?」
「それほどに言うのなら、お前が国を預かればいいだろう、フェリクスっ! 俺はいつでも、お前に玉座をくれてやるぞ」
売り言葉に買い言葉なのか、ディートハルトの口から漏れ出たそれに、フィオレンティーナは目を剥いた。
……どういうこと? だって、ユリウス様から……。
国を、玉座を奪うために、ディートハルトは乱を起こしたのではなかったのか?
今の発言には、ディートハルトの王位への執着は感じられない。
奪ってしまえば、復讐さえ果たせば、後はどうなっても構わなかったということなのだろうか? それに、記憶喪失とは、どういうことなのだろうか。
戸惑うフィオレンティーナを知ってか知らずか、ディートハルトは二人の臣下を睨み返して断言した。
「――覚えていろ。俺の正室はフィオレンティーナ、ただ一人だ。他の女なんか必要ないっ!」
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