第21話 矛盾
――お前には、関係ない。
拒絶の言葉を吐いてから、ディートハルトの胸に後悔が湧いた。
フィオレンティーナが宮廷に身を置いて、ひと月ばかり。
その間初めて、彼女の方から、
「宰相殿が話していたお話は……どういうことなのですか?」
と、話しかけてきた。
こちらが投げた言葉に時折反応するものの、言葉らしい言葉を口にすることなかった彼女が、初めて会話を求めてきた。
それなのにディートハルトは、
「お前には、関係ない」
視線を逸らして、切り捨ててしまった。
心を欲しいと思っている相手を拒絶して、どうするんだ?
自分の浅慮に舌打ちすれば、彼の視界の端で、びくりと蜂蜜色の髪が揺れた。
目を戻せば、フィオレンティーナが薔薇色の唇を噛んでいた。今にも真珠色の歯が、唇を噛み切らんばかりだ。
自分から折れたことが、悔しいのだろうか。素気無く返された態度に傷ついているのだろうか。
どちらでも、この一瞬は間違いなく彼女の心は自分に向いている。暗い喜びにディートハルトの胸の内が満たされた。
「――お前だけだ……」
ディートハルトは無意識にフィオレンティーナに手を伸ばしていた。ふくよかな唇に指先を当てれば、彼女はハッと目を見開き、
完全に心を許さない距離が、そのまま二人の間に溝を作る。
空を掻いた指先を引き戻しながら、ディートハルトは冷淡に告げた。
「他に
「……私は……別に……そんなことを聞きたいわけじゃ……」
かすれた小声で反論して、彼女は首を振る。それを見て、彼は眉間に皺を寄せた。
ヴァローナ国王が彼に持ちかけてきた縁談話は、一応、ディートハルトの妃になるフィオレンティーナとしても無視できない話のはずだ。
式を挙げたわけでもなく、その予定らしいものも知らされていない。
ただ、ディートハルトの意志があるだけだ。彼女を傍から手放さない、彼の態度だけがフィオレンティーナの宮廷での立場を決めていた。
――敗戦国の皇女は、国王のお情けで生かされ夜の相手として選ばれた、言わば情婦。
貶められた名誉は、彼女がディートハルトの隣で花嫁衣装をまとったところで、消えやしないだろう。
寝所を共にしていても実際に何もなかったことを、ディートハルトは一言も洩らさなかった。
淫らな情事を勝手に詮索し、言いたい奴には――アルベルトがその輩の筆頭だろう。心配して忠告してみせるその態度が、噂を増長させていると気づかないところが、軍人気質の奴らしい――言わせて置いた。
穢された噂を聞き、フィオレンティーナがこちらを憎むようになれば、それで構わないと考えていた。
憎むことで、心からユリウスの存在を追い払えれば、復讐は果たされるのだと信じていた。
だが、彼女が涙を流し、それに対して頭痛を覚えれば、秘かに唇を噛む以外、ディートハルトとしては何をしてよいのかわからなかった。
優しくする術なんて、知らない。女を喜ばす術なんて、覚えていない。
記憶を失ってからこちら、ディートハルト自身が胸に秘めていたのであろう恋心も消失していた。
彼の中に残っていたのは、ユリウスに関連するものだけ。
エスターテ城でユリウスに対してフィオレンティーナへの想いを――執着を語った過去の自分のその言葉を、反芻して、他人事のようにその感情を眺めてみた。
想いの強さは理解できたが、やはり自分の感情ではないよう気がした。だから、幾らでもフィオレンティーナに対して冷たい言葉を吐けた。力任せに押し倒すこともした。
少しずつ彼女の温もりに癒される事実が、恋心が本物だったと自覚させるけれど、ユリウスへの憎悪が先立ち、いまだフィオレンティーナに対する感情を整理することが出来ない。
傷つけること、憎まれることすら厭わないと考える半面で、震える彼女を目にすれば、締め付けられるような頭痛に、自分の行いを後悔する。
俺は一体、何がしたい?
自問自答すれば、答えは迷うことなく出てくる。
ただ、フィオレンティーナの心が欲しい。黒く染めてもいい、彼女の心からユリウスを追い払いたい。
なのに、追い詰めれば追い詰めるほど、彼女の心は夢へ逃れ、自分から遠ざけることばかりしているような気がする。
否、違う――俺が望むのは、ユリウスに復讐を果たすことだと、ディートハルトは思い直した。
初恋の彼女を易々と奪っていったユリウスが、憎かった。
そのために、玉座に手を伸ばしたのだ。
カナーリオ帝国とシュヴァーン王国の二国間で交わされたフィオレンティーナとユリウスの婚約。それをぶち壊すとなれば、二つの国を滅ぼすしかなかった。
だから……。
そこまで思い至って、ディートハルトは自らの思考の違和に突き当たった。
フィオレンティーナの心をユリウスから奪いたい。取り戻したい――その一念は、どこか似ているようで、矛盾していた。
ユリウスへの復讐のために、フィオレンティーナが欲しいのか。
フィオレンティーナを奪ったユリウスから、彼女を取り戻すことが、復讐なのか。
答えは歴然としているのに、どこか一貫しない思考が、ディートハルトの行動にすら矛盾を生む。
優しくしたり、冷たくしたり、何がしたいのか、自分でもわからない。
フィオレンティーナをこの腕に抱くまで、彼女は復讐の道具にすぎなかったはずなのに。
記憶がないのが原因なのか……。
ユリウスへの憎悪が原因の頭痛は、フィオレンティーナを手に入れることで、治まる。だからこそ、彼女の心を欲して――なのに、追い詰め傷つけている。
この矛盾は、フィオレンティーナへの恋心を見失ったことによるものなのか。
ディートハルトは自身の脳の頼りなさを忌々しく感じた。
――本当に心を手に入れなければ、復讐は終わらないのか?
「では、何が聞きたい?」
ディートハルトはフィオレンティーナとの距離を一歩縮めた。
不意に近づいた彼に、彼女はドレスの下に着込んだペチコートのレースの裾をひらめかせ、大きく揺らして、逃れるように一歩引く。
その距離をまた彼が詰めれば、彼女は壁際に追い詰められた。
ディートハルトは両腕を壁に付いて、彼女が逃れられないように檻を作った。
息が掛るほどの近さに彼女を閉じ込め、彼はフィオレンティーナの真意を求めて切り込んだ。
「――俺の女関係には興味はないか」
「そんなこと、あなたの好きにすれば……」
ディートハルトの保護がなければ、彼女は行き場所を失う。
それを恐れないのは、ユリウスを追って、まだ死ぬ気でいるのか?
だから、自分を拒むのか。
それほど、ユリウスを愛しているというのか?
――奴の元には逝かせない。
怒りにも似た感情に突き動かされ、フィオレンティーナの肩を強く掴んだ。
ビロードの厚手の布地の下、手のひらに収まる小さな肩。華奢な骨。その脆さを知りながら、ディートハルトはフィオレンティーナを壁にぶつけるように押し当てた。花びらのような唇からもれ出た小さな悲鳴が、鼓膜を打つ。
「ならば、ここでお前の純潔を奪っても?」
挑発するように放った言葉に、絶望の色を浮かべて見かえしてくる翡翠の瞳。それを前にすれば、ディートハルトの脳の奥が悲鳴を上げ、激痛の波が襲ってきた。
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