第19話 涙の雫
――泣くな……。
思わずこぼれそうになった呟きを、ディートハルトは喉の奥に押し込めた。
会議から戻り、いつもの寝椅子にいない彼女を探せば、フィオレンティーナは寝台の中で頭から毛布を被り泣き伏せっていた。
毛布を引き剥がしても、彼女は顔を上げずに肩を震わせている。
目の前で小さく震え泣いているフィオレンティーナを見下ろすと、ディートハルトのこめかみにズキリと鋭い痛みが走った。
褥を濡らした大量の涙が、いつ頃から翡翠の瞳から溢れだしたのか。何を思って泣いているのか。
問い質したいことは山ほどあるが、頭蓋の内側をじわりと侵食してくる痛みに声は言葉を失った。
伸ばした手で、フィオレンティーナの髪をかき分け肩を抱くと、手のひらの内側で小さな肩がびくりと震えた。嗚咽の反動ではなく、明らかな拒絶。
ユリウスを想うフィオレンティーナはいまだに、ディートハルトに心を許さない。
眠るとき、寝台の上で抱きしめても逃げない癖に、不意に触れると身体は明らかに彼を拒絶していた。
視線が合えば、目を逸らす。
あの日のように、憎しみでもいい。自分を真っ直ぐに睨み返せばいいものを、彼女は何かを恐れるように視線を外す。
憎しみに染まれば、彼女の心はディートハルトの色に染まる。それをフィオレンティーナは自覚しているようだった。
だから、逃れようとするのか。夢を見るのか。
――ユリウス様……、と。
腕に抱いた彼女が、眠りの狭間でその名を呼べば、ディートハルトはフィオレンティーナの細い首筋を握り潰したくなる衝動に毎度、駆られた。
――奴は死んだ。その名を呼ぶなっ!
奪うために生かした彼女を衝撃的に殺したくなるほど、彼の中のユリウスへの憎悪は深い。
だが、ユリウスを憎む原因になったのは他ならぬフィオレンティーナ自身にあったことを知らしめるように、脳が疼けば、彼の手は解ける。
憎まれても構わないほど、彼女を欲しているのに、暴走しそうになる。
そんな彼に警鐘を鳴らすように、頭蓋に激痛を響かせる。
失った過去が見失った恋心を告げるのか。
ユリウスへの憎しみしか残っていないと思っていた自分の中に、別の感情があることに戸惑いつつ、ディートハルトはフィオレンティーナを両腕に抱き上げ、隣の居間へと運んだ。
腕の中で、緊張に身体を強張らせながら、こちらを窺う翡翠の瞳を敢えて無視し、寝椅子に腰をおろした。
ディートハルトが腕を解けば、フィオレンティーナが起き上がろうとするので、彼女の頭を自分の膝に押し付けた。
……泣きたければ、泣け。
それで気が済むなら、泣けばいい。ただ、泣き顔を見せるな――と。
強い力で頭の位置を固定すれば、抵抗する気力を失くしたように、フィオレンティーナの頭がディートハルトの膝の上に沈んだ。
やがて、小さな嗚咽が響き始める。ズボンに涙が染みてきたが、どうでも良かった。少しだけ疼く頭痛を紛らわせるように、ディートハルトは蜂蜜色の髪を掬って、毛先を弄んだ。
『そんなに皇女はいいのか?』
政務以外の時間を自室に入り浸るディートハルトに、アルベルトが揶揄するように問いかけた言葉を思い出した。
『お前が相手にしているような女よりは、ましだろうな』
くだらないと思いながら、突き放すようにディートハルトは返す。
『お前、俺がどんな女と付き合っているのか、知っているのかよっ?』
むくれるアルベルトに対して、鼻を鳴らした。
『尻の軽い女だろ』
『あのな、俺はお前を心配してやっているんだぞ? それを何だよ、その言い草はっ! わかっているのか、皇女にとってお前は仇なんだぞっ?』
吠えるアルベルトをうるさいと、無視する。
どんな女であっても、ディートハルトを苦しめる頭痛から救ってくれるのは、フィオレンティーナただ一人なら、他の女と比べる必要などない。
周りが何と言っているのか、お節介な幼馴染みは、ディートハルトが聞く気もないのに逐一報告してくる。
無神経な発言は、根っからの軍人だからだろう。言葉を選ぶ繊細さを持ち合わせていないらしい。
一応、謀反という大罪を犯して、お前を王に立てたのだから、それに相応しい態度をとってくれ、と。
アルベルトは苦虫を噛み潰したような表情で、フェリクスは厭味を言葉の端々に忍ばせて、口々に言う。
奴らは俺に、何を求めているのだ?
ユリウスへの憎悪がディートハルトを突き動かした。玉座が端から目的だったわけではない。ユリウスからフィオレンティーナを奪うために、ディートハルトは乱を起こしたのだ。それを知っているくせに。
『国を動かしたければ、フェリクス、お前が動かせばいい』
そうすべてを放棄しようとすれば、
『生憎と、わたくしにはヴァローナ王室の血は流れておりません』
ぴしゃりと言い返してきた。
ディートハルトの謀反が成功したのは、他でもない。彼の母がヴァローナ王国国王の妹であったことによるところが大きい。
伯父であるヴァローナ国王レオニードは、血の繋がった甥が玉座に就いた方が何かと都合がいいと、資金面を工面してくれたらしい。記憶を失ったディートハルトは、フェリクスからそう説明を受けた。
おかげで帝国に骨抜きにされたシュヴァーンの国王軍――正規軍は簡単にねじ伏せることができ、ディートハルトは王冠を手に入れることができた。それから傭兵をかき集め、帝国への侵攻したのだという。
そしてエスターテ城で、ディートハルトは城の崩壊に巻き込まれ、頭を打ち負傷し、ユリウスに関連する記憶以外を失った。基本的な知識などは残っていたので、さして不便を覚えなかったが。
その後ディートハルトは、軍の直接指揮はアルベルトなどに任せ、彼自身は後方の陣営で味方の軍が帝都を落とすのを待った。フィオレンティーナがこの手に落ちるのをひたすら待った。
シュヴァーンの政変を知る間もなかったカナーリオ帝国は、両隣の国から側面を突かれ、防戦一方だった。
カナーリオの帝国軍は大陸でも指折りの強軍だったがしかし、平和主義の皇帝の元、抑止力のために鍛え上げられた軍は、実際の戦場を知らないようだった。
騎士道を重んじる帝国軍は、背後からでも容赦なく敵を斬る傭兵主体のシュヴァーン軍勢の前に倒れ、じりじりと前線を帝国内に引き入れていくこととなり、一年弱の抵抗の後、帝都は陥落した。
そうして、共同戦線を張ったシュヴァーン王国とヴァローナ王国の同盟の基本は、ディートハルトの中に流れる血だ。
ヴァローナの国王はディートハルトが自分の甥だから、多大な軍事費を出資した。
ディートハルトが玉座から退けば、同盟の結束は緩み、崩壊するだろう。六年に及ぶ帝国支配とこの二年の戦争で、シュヴァーンの財政は
帝国領土の半分を手に入れ、雪に埋まらない土地を手に入れることができた。税を帝国の国民から徴収することで、今よりシュヴァーンの国庫の懐は暖かくなるだろうが、それが軌道に乗るのは、まだ数年掛る。
フェリクスとしては、数年後、ヴァローナと手を切ってもいいと考えているようだった。
『皇女との間に子がなせれば、その子はシュヴァーンの後継者だけではなく、帝国領土の正当な地権者だ』
ヴァローナが獲った帝国のもう半分返せと主張できる――フェリクスは細い眼の奥で、色々と算段をしている様子。まったく、抜け目のない男だと思う。
ディートハルトとしては、記憶を失くした今、息子に関心のない己の母親にも、一国を支配するヴァローナ王である伯父レオニードにも興味はないし、義理立てするような気も起らない。
だから、国を動かしたければ、フェリクスの好きに動かせばいいのだ。
投げやりに言い放ったディートハルトに、フェリクスは爽やかに、それが彼にとっての最大限の厭味である笑顔を浮かべ、
『ヴァローナと袂を別つまでは、形なりともディートハルト、お前に玉座について貰わなければならないんだよ』
そう言い放った。
『それに忠告しておこう。王ではない者に、皇女の存在は手に余る。お前が皇女を手元に置いておきたいのなら、王でいろ。黙らせられる力を持っていなければ、皇女の存在は重すぎる』
――現に、と。
フェリクスが差し出してきた文書を思い出して、ディートハルトは唇を噛んだ。
ヴァローナ王国の紋章が入った親書には、ディートハルトへの結婚話が持ちかけられていた。
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