第6話 記憶の闇



 ――誰にも渡さない。


 脳髄のうずいが悲鳴を上げていた。その音はディートハルトの頭蓋内部で反響し、こめかみに刻まれた傷口を疼かせる。じんわりと皮膚の奥から脂汗が浸み出してくる。

 傷が刻まれた頃から、慢性的に頭痛に悩まされるようになっていた。

 大抵は意識しなければ、やり過ごせるものだったが、近頃は日増しに痛みが酷くなり、頭を抱えて寝台に逃げ込みたくなる。

 逃げた先に、安息が待っているとは限らないから、厄介だった。

 顔をしかめるディートハルトに気づいて、近づいてきたのは赤毛の将校アルベルトだ。

 雪崩に巻き込まれ、瀕死からがら雪から這い出た彼の赤毛はいまだに乱れていた。他の者たちを助けるのに手間取って、髪を直す暇がなかったのだろう。

 もっとも、その苦労をねぎらってやる気は、ディートハルトにはない。

 フィオレンティーナの到着を待てず、ディートハルトが数名の供を連れて数日前に城から迎えに出てみれば、雪の中に埋もれたこの巨漢を助け出す羽目に陥った。逆に、こちらの労をねぎらって欲しいくらいだ。

 その辺りのばつの悪さを感じているのだろうか、アルベルトは「あー」と、低く唸りながら、

「――例の頭痛か?」

 と、問う。

 簒奪者であるとしても、現在シュヴァーン国王であるディートハルトに対して気安い態度で接してくるのは、アルベルトが彼の幼馴染みという立場にあるからだろう。そうして、周りに誰の目もないからか。

 ディートハルトが近年、頭痛に悩まされているのは周知の事実だった。その頭痛が酷い時、彼の機嫌は暴君さながらになる。周りとしては、ご機嫌斜めの主人には近づきたくないらしい。

 低く問いかけてくるそれに、ディートハルトは不機嫌に首を頷かせた。そんな小さな動きにも痛みは増す。

 くっと奥歯を噛み締める彼に、アルベルトが気遣うように眉をひそめて問う。

「休むか? すぐに出立するという話だったから、いつでも出られるように準備しているが」

 どうする? という問いかけを前に、蒼い瞳は今しがた自分が出てきた部屋を振り返った。

 粗末な戸板の向こうでは――それでもこの宿では、暖炉が付いていて一番いい部屋らしい――フィオレンティーナが眠っている。

 一刻ばかりひたすら泣き続けていたフィオレンティーナは疲れたのだろう、再び寝入った。ディートハルト自身、頭痛が波のように押し寄せてきていたので、そのまま寝かせてやった。

「雪崩に巻き込まれて潰れた馬車の調達にも手間取っているから、一晩、ここに泊るか?」

 アルベルトの声を片側に聞く。

「…………」

 フィオレンティーナを叩き起こすのに躊躇する心が、ディートハルトの声を詰まらせた。

 彼女の涙を見てから、頭痛が酷くなった。それまでは、今まで頭痛に悩まされていたのが嘘みたいに、治まっていたのだ。

 ……あれが、きっかけか?

「ディートハルト?」

 アルベルトの声に、ディートハルトは現実に立ち返った。しつこく付きまとう頭痛を前にすれば、どうあっても動く気がしない。

 だからとアルベルトに傍にいられるのは、ディートハルトとしては御免だった。

「――お前たちは先に帰れ。あの女は俺が連れて帰る」

「冗談だろっ?」

 アルベルトはそう口にして、ディートハルトが投げた剣呑な視線を前に片頬を引きつらせた。

 幼馴染である彼の馴れ馴れしさにも、苛立ちを覚えるようになったのはいつ頃からか。

「何が冗談だ?」

 ディートハルトの刺すような鋭い眼光にやや気圧されながらも、アルベルトは反論してきた。

「国王が一人で行動するっていうのが、だ。……幾ら、カナーリオの皇女だからって、お前がそこまで欲しがる女か? 何で、あの女なんだよ。お前なら、選り取り見取りだろうが」

 不貞腐れたように言うのは、アルベルトが女に相手にされない妬みからか。

 ディートハルトの端麗な容姿を前にすると、女の視線はいつだってアルベルトから外れる。それでいて、ディートハルトがアルベルト好みの女を無視すれば、お前は贅沢過ぎると膨れるのだから、面倒臭い。

 ディートハルトは馬鹿馬鹿しいと嘆息を吐きつつ、

「欲しがるに値しないと?」

 目を眇め問い返せば、アルベルトは熟考するように沈黙した。

「……まあ、カナーリオの皇女という立場を差し引いても、いい女だと思うが……」

 脳裏にフィオレンティーナの姿を思い浮かべているのか、アルベルトの目が一瞬、遠くなった。

 それを目の当たりにして、ディートハルトは舌打ちを鳴らす。

 蜂蜜色の長い髪、真珠のように白く艶やかな肌、翡翠の瞳。十九歳を迎えたフィオレンティーナの肢体はすらりと伸び、艶めかしく色気のあるまろやかな曲線を描いていた。

 半年間の籠城戦と捕縛された後の軟禁に――ディートハルトが戦後処理と、ヴァローナ王国との協定確認に手間取っている間――フィオレンティーナの面差しはやつれた。しかしそれによって彼女に落ちたかげが、同年代より大人びた印象を与える。

 年下には興味がないと常日頃から口癖のアルベルトに「いい女」と言わしめる色香を、フィオレンティーナは持ち備えていた。

 ――いつの間に……。

 ディートハルトは彼女の変化を苦々しく思う。

 帝都陥落時に捕えられたフィオレンティーナを遠くから見たときは、兄である皇太子の背に怯え隠れているような、小娘にしか見えなかった。

 捕虜の身となったのに凛然と背筋を伸ばしていた皇太子が目を惹いただけに、逃げ腰のフィオレンティーナに対しては失望を感じたほどだ。

 その後、ディートハルトは新たに手に入れた領土を統治するにあたっての調整のために、シュヴァーンへの帰還を迫られ、直接フィオレンティーナと対面することが叶わず、今日に至った。

 しかし、泣くだけかと思われた彼女が、ディートハルトを前に『私は、あなたのものにはならない』と、抗って見せたところは、兄であった皇太子と同じ血を感じさせた。思うほどに弱くはないのかも知れない。

 ユリウスから奪い手に入れた彼女が、自分以外の男たちの好色の目に晒されることが、ディートハルトを堪らなく苛立たせた。

「あの女は、俺のものだ」

 独占欲が喉を突いて出る。

 ――誰にも渡さない。あの憎たらしいユリウスから奪ったものは、すべて自分のものだ。

 ディートハルトの炯眼けいがんを前に、

「あー、はいはい」

 アルベルトはわかったというように、軽く肩をすくめた。

「それでも、国王が一人で行動っていうのは」

 懲りずに忠告しようとしてくる発言を、最後まで言わせる優しさはディートハルトの中には存在しない。アルベルトを冷たく見やる。

「命の恩人に対して、言葉がなっていないようだな。もう一度、雪に埋もれて、死ぬか?」

「――――っ」

「足手まといは要らない」

 きっぱりと言い切れば、アルベルトは傷ついたような顔を見せた。

 雪崩に関しては、いかな一軍を担う上級将校でも事前に察知、回避できるものではない。相手は天災だ。人間がどうこうできるものではないだろう。

 だが、その言い訳をディートハルトの耳は聞かない。

「すぐに追う、先行していろ」

 吐き捨てた命令に苦虫を噛み潰したような顔を見せ、

「――御意」

 普段使わない言葉遣いでアルベルトが応えるのは不服の現れだろう。それを軽く聞き流して、ディートハルトは「行け」と命じるように顎をしゃくる。

 怒ったように靴音を鳴らして立ち去るアルベルトが生み出した振動に、頭蓋が軋んだ。

 脳天へと突き抜ける激痛に、ディートハルトは息を荒げ、壁に背中を預けた。こめかみに感じた痛みを紛らわせるように、患部に指を当て擦った。

 目を瞑り、痛みをやり過ごしながら、頭痛の原因を探る。

 医者は心理的なものだろうと言っていたが……。

 ――あの時に、落石を受けてからか……頭痛がするようになったのは。

 記憶を手繰り、ディートハルトは舌打ちした。

 二年前に兵を上げ玉座を簒奪、その勢いで隣国カナーリオ帝国のエスターテ城内に攻め入った時、味方が間違えて城に向かって大砲を打ち込んだ。

 率先して城内の敵を狩っていた――彼の目的は、最上階に囚われたユリウスだったが――ディートハルトは崩壊する城に生き埋めとなった。

 幸いに、直ぐ助け出され、軍医の元に運ばれたので命に係わることはなかった。

 しかし、頭部を強打した影響でディートハルトの記憶は混乱した。すぐに立ち直ったディートハルトだったが、彼以外の誰もが青ざめることとなった。

 何故ならディートハルトは、己とユリウスに係わること以外の細かい過去の記憶を失っていたのだ。

 自分の血族、立場やそのために施された教育による知識は残っているが、実在の顔と名前が結びつかなかった。幼馴染みだというアルベルトのことも、忘れていた。

 誰かが作為的に記憶を奪ったのではないかと思うほど、ユリウスに関する過去しか覚えていなかった。

 そして、記憶の喪失を自覚してから頭痛が付きまとうようになっていた。

 特に、過去を思い出そうとすればするほど、頭痛の酷さが増すような気がする。

 ディートハルトが過去に拘るのは大概において、ユリウスにあった。

 従兄弟である彼のことをだけは、記憶も鮮やかだ。残された記憶はユリウスに対する憎悪だけと言っても過言ではないほど、憎たらしい思い出ばかりがある。

 それらの記憶が鮮やかであるが故に、あやふやな部分が無性に気になる。失われた記憶を気にすれば、痛みが増す。

 ユリウスに対する憎悪が収まりきれなくて、頭蓋にひびでも入ったのだろうか。

 不思議なことに、フィオレンティーナを抱いていたときは頭痛が引いていた。

 ユリウスから彼女を奪った充足感が痛みを癒したのか。その真偽は定かではないが、彼女の温もりを思い出せば、頭痛が僅かに和らいだような気がした。

 落ち着いてきた鈍痛に、ひっそりと息を吐きながら、ディートハルトは部屋へと踵を返す。

 いっそ、全ての記憶を失くしてしまえば、楽になれたのかも知れない。

 だが……。

 自分が抱えているこの闇がある限り、ユリウスが存在するなら、何度でも彼を殺すだろう。


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