第7話 白き雪原



 ――行くぞ。


 目覚めたフィオレンティーナは、毛皮の襟巻を巻かれた。その上に分厚い毛皮のコートを着せられ、厚手の手袋と重装備を整えさせられると、宿から引っ張り出され馬に乗せられた。

 赤毛の将校を筆頭にした、他の従者たちは先に王宮へと向かったという。

 馬車は雪崩に潰されていたので、徒歩で向かったのだろうか?

 疑問に思うフィオレンティーナの後ろに、外套を着込んだディートハルトが乗り、腕を回して彼女の腰を抱く。

 落ちないようにという配慮からか、逃げないようにとの束縛か。

 片方の手で手綱を捌き、黙々と馬を走らせる。カナーリオ帝国で見る馬とは違い、寒冷地育ちの馬は足が短い分、逞しい足取りで、白く凍った大地を踏みしめて緩やかに雪道を駆けた。

 逗留していた宿を出、町を離れ街道へと出れば、目の前には白銀の雪原。いつの間にか、山を越えていたらしい――山越えして、宿をとったのか。

 フィオレンティーナは翡翠の瞳に映る白に、瞠目どうもくした。

 馬が歩みを進める先、地平線までも続いているような、白銀世界はすべてを真白に染め、生きる者など存在していないようだ。

 死後の世界というものがあるのなら、この虚無のような世界ではなかろうか。そんな考えがちらと、脳裏を過る。

 白く凍りついたシュヴァーン王国は、九年前、死滅しそうになったとユリウスから聞いていた。

 いつもより早く訪れた冬に、収穫が終わっていなかった実りは雪の下で腐り、備蓄していた食料が尽き、シュヴァーン王国内で国民は餓えたのだと。その話が現実味を帯びて、目の前に広がっていた。

 雪は深く、街を白に覆っている。白く冷たく大地を凍らせて――。

 先代のシュヴァーン王マーリウスは、同盟国であるヴァローナ王国に救援を求めた使者を出したが、その使者はヴァローナに辿り着けなかったらしい。

 道中、刺客に襲われ息絶えたという情報だけが、シュヴァーンの宮廷に舞い戻ってきた。

 その刺客はカナーリオ帝国の差し金だと、シュヴァーンの宮廷人達は考えたようだ。

 戦に負け、裁判に引き出された皇帝でありフィオレンティーナの父アーネリオは、使者を殺した罪に問われた。

 皇帝は、そんなことはしていないと叫んだ。

 シュヴァーンの侵略戦争を早期に治め――追い詰められるようにったシュヴァーンの軍勢は脆かった故に早々と決着がついた――降伏させると、シュヴァーンへ食料援助を行ったことを見ても、父の言葉に偽りはなかっただろうと、フィオレンティーナは思う。

 皇帝は何よりも争いを嫌う平和主義者で、皇太子リカルドもまた、その意思を継いでいた。フィオレンティーナはそんな二人を誇らしく感じていたのだ。

 ユリウスを人質とすることで――シュヴァーン王の罪を問わず――無血降伏により、シュヴァーン王国を手中に収めた手際の良さが、カナーリオに猜疑さいぎを向けさせたのかのかもしれない。

 帝国側からしてみれば、今回の敗戦でシュヴァーンと手を結び、帝国領土の半分を手に入れたヴァローナの陰謀だったようにも思えるのだが、真相は知れない。

 滅びの淵から生還したシュヴァーン王国。

 支配されていた六年という雌伏の時を経て、ディートハルトを王に掲げたその国は、帝国をのみこんだ。

 雪に深く沈めば死の世界のように見える、この国のどこに帝国に牙を剥く余力があったのかと驚かされる。

 恐らく、ディートハルトの伯父であるヴァローナ国王の支援があったからだろうが。

 何もかもを白に塗りつぶした、この凍りついた虚無の世界。

 それでも、背中越しに感じるディートハルトの体温が、フィオレンティーナに生を確認させた。

 叩きつける寒風のつぶてが肉を削ぎ、吸い込んだ息に肺が凍りつきそうな極寒の地では、本来なら縋りたい温もりであるが、その主は紛れもなく仇と呼ぶものであろう。

 父を、兄を殺し、彼女から国を奪い、愛する人を奪った男。憎んでも余りある存在だ。

 彼に身体を奪われる未来を思えば、今すぐにでも舌を噛み切りたい。雪に身を投げて、心臓を凍らせたい。この身を粉々に砕いてしまいたい。

 そんな衝動に心が逸るが、頭は冷静だった。

 ……死ねない。

 フィオレンティーナは漠然と確信した。

 ……私は死んではいけない。

 ディートハルトの存在を知らなければ、死ぬことに躊躇することはなかったと、彼女は思う。

 亡国への、そしてユリウスへの恋に殉じる終焉への旅路に、迷いもなく踏み出せた。

 だけど、ユリウスを憎むディートハルトの存在を知ってしまった現在、彼女が選ぶ死は彼への意趣返しになってしまうことを悟っていた。

 フィオレンティーナの自死は、ユリウスに純潔を捧げるためではなく、ディートハルトの恥辱から逃れるための死と、まことしやかに囁かれるだろう。

 それでディートハルトが汚名に傷つこうと、彼は些事と歯牙にもかけないだろう。何故なら、謀反に手を染めた男なのだ。

 結果、彼女の自殺が意味するところは、フィオレンティーナの死をディートハルトが支配するということだ。

 ユリウスから、彼女の魂を奪うということだ。

 ディートハルトはユリウスを憎み、彼からすべてを奪おうとしている。

 王位を、婚約者を――そうして実際に、ディートハルトはユリウスを殺し奪った。

 それでも飽き足らぬ欲望は、彼の憎悪は、フィオレンティーナの身体を奪うだろう。その次は心を壊し、壊された心は死を求め、ディートハルトはフィオレンティーナの魂を支配する。

 ――心はユリウス様に……。

 そう胸に刻んだフィオレンティーナの誓いは、脆くも崩れることになる。それだけはあってはならない。

 さすれば、ユリウスの存在はあまりにも無残だ。

 何一つ得ることなく、何一つ遺すことなく、彼の存在は歴史から消されるだろう。せめて、自分だけでも彼の存在があったことをこの世に繋ぎ留めておかなければ。

 フィオレンティーナは暗い絶望の淵で、決意する。

 ……私は死なない。

 例え、ディートハルトに身体を奪われても、心はユリウス様に捧げるのだと、意を固める。

 俯いていた姿勢から、くいっと顎を上げ、背筋を伸ばしたフィオレンティーナに感じるものがあったのか、ディートハルトが馬の歩みを止めて口を開いた。

「何を考えた」

 肩越しに耳朶を打った声は深淵の奥から聞こえてくるようだ。

 フィオレンティーナを引きずり込もうとするのは、憎悪の沼か。絶望の底か。

「……あなたを憎んでもいいと言った」

 フィオレンティーナはディートハルトを振り返った。

 蒼い瞳が静かに、だけど鋭くフィオレンティーナを刺す。

「――俺を殺すか?」

 面白いと嗤う声は、どろりとした怨念を感じさせる暗い愉悦を含んでいた。腰にまわされた腕に僅かに力が入れば、近づいた唇が誘惑するように、囁く。

「――殺したければ、殺せばいい」

 殺せるものなら、と言外に語るディートハルトに、フィオレンティーナは唇を噛む。

 ユリウスと同じ姿を前にするだけで、目の奥が熱くなる。

 別人だと言い聞かせても、淡く深い蒼の瞳に、心が震える。

 耳朶を撫でる声に、息が詰まる。

 そんな自分に、ディートハルトを殺せやしないだろう。

 フィオレンティーナは己の弱さを呪った。

「私はあなたを生涯憎み、ユリウス様を一生愛します」

「その名は口にするなと言っただろう」

「心は奪わせない」

「大口を叩いていられるのも、今のうちかもしれないぞ。奴と出会ったことを後悔したくなるやも知れぬ」

「私を壊したければ、壊せばいい」

 ディートハルトのセリフをなぞる様に、フィオレンティーナは告げた。

 ただ、自分はすべてを受け入れよう。この先にどれだけの苦しみが待っていようと。

 国のために、ユリウスがすべてを受け入れ、捕囚になったように……。

 フィオレンティーナはディートハルトの憎悪の捕囚になるだけのこと。

 ユリウスと同じ道を辿るのなら、その先に彼が待っているかもしれない。

 ようやくユリウスの立場を理解し、彼に近づけた。そう思う一方で、フィオレンティーナはユリウスの心を遠く、見失った気がした。

 幼き婚約者に微笑んだユリウスの心が真実、どこにあったのか。フィオレンティーナは知らなかったから。


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