後半
一旦、途中で再生を停止する。
イヤホンで男の声を聞き続けるのって、けっこうしんどい。
闇夜の声は、中性的で美しい声だから何時間でもいくらでも聞けるけれど。
「あれっ? 聞こえなくなりました?」
タツヤさんが手を伸ばしてきたので、俺は慌てて首を横に振った。
「いやいや! ちょっと休憩して」
タイミング良くコーヒーが運ばれて来た。
せっかくなので、色々訊いてみることにする。
「この山ノ内という男は、タツヤさんとどういう関係で?」
「どういう関係って……僕は彼を取材したんだ。話を聞きたくて」
「えっ!? タツヤさんが、山ノ内さんに取材を申し込んだんですか?」
「うん……え? 変?」
「いや、てっきり山ノ内さんが、タツヤさんに話をしに来たのかと」
俺が録音機片手に言うと、タツヤさんは唇を噛んだ。
まずい、気分を悪くさせたかな……ヒヤリとしながら俺もこれ以上の失言をしないよう口を閉ざして、コーヒーを飲む。
いつもは美味しく感じる苦みが、いやに苦々しく感じる。
しばらく黙ってから、タツヤさんは取り繕うように言った。
「話を持ち掛けてきたのは、彼から……山ノ内が話をしたいと言ってきて」
「それで話を……いや取材を?」
「そう。僕が、取材をしたんだよ」
なんかおかしいと思いつつも、俺は頷きながらイヤホンを再び耳にはめた。
再生ボタンを押す前に、俺は言葉を選びつつ訊いた。
「あの、タツヤさん?」
「ん?」
「今更ですけれど、この話……ちゃんと完結してますよね?」
「あぁ、それは、はい。もちろん」
タツヤさんが微笑んだのを見て、俺は安心して録音の続きを再生した。
山ノ内
≪美夜子ちゃん達の会話を立ち聞きした日……鏡を覗くのが怖くて家中に大小ところどころ鏡があるので、大変困ったことをよく覚えてます。
年が離れた高校生の兄に聞いた話をしたら笑い飛ばされて、鏡がどうして映るのか詳しく教えて貰い、ようやく落ち着けました。
その翌日……僕はいつも通りに学校に行って、隣に座る美夜子ちゃんに、立ち聞きした事を謝罪する意味も込めて明るく挨拶をしました。そうしたら。
『おはよう、ヤマノウチくん』
美夜子ちゃんは僕に向き直って、にっこり笑いながら挨拶を返したんです。
その光景に僕だけじゃなくて、他のクラスメートもびっくりしました。
さっきも言いましたけれど……美夜子ちゃんは寡黙で、全く話さなくて、挨拶だって返さない子だったんですよ。それが一晩で別人のようになってしまって。
笑顔の美夜子ちゃんを見て、僕は嬉しいよりも不気味に思いました。
美夜子ちゃんとは、それからよく会話するようになりました。
話題は、他愛もない世間話とか本の話とか。
仲良くなった……というより、美夜子ちゃんの視界に僕がきちんと映るようになったというか。
今までは、姿も声も認知して貰えなかったのが通常になったというか。
それは僕だけじゃなくて他のクラスメート達も同じく……美夜子ちゃんは、今までが嘘のようにコミュニケーションをとるようになりました。
皆は普通に受け入れたみたいですけれど、僕個人はとても複雑でした。
だって――――あの話を立ち聞きしてしまった後ですから。
僕の隣の席に当たり前のように座る〝彼女〟は……実は《あちらの世界》から来た存在じゃないかって。
次第に、そう信じざるえない証拠を見せつけるように、美夜子ちゃんの変化は目につきました。
昼休みは自分の席で愛読書を読んだり、図書室で借りる本を探したり……この二択しかなかったはずなのに、懐っこくなった美夜子ちゃんは外に遊ぶ子達から誘われるようになって……毎日のように外に遊びに行きました。
それに彼女は右利きだったはずなのに、いつの間にか左手で字を書いていました。
美夜子ちゃんの変化は、僕しか気付いていないようでした。
いや、明らかに様子が変わったことはクラスメートも担任の先生も気づいていましたけれど、別に悪い事じゃないので気にも留めていませんでした。
友人にそれとなく訊いてみたら、相手が女子なので『好きなんだろー』とからかわれて終わりました。担任の先生はとても真面目な人で、子供も好きみたいで優しい先生でしたけれど、いくらなんでも『鏡の世界の存在と入れ換わったかもしれない』なんて言ったら良くて諭されるだけか、悪くて親に連絡が行くかもしれませんでした。『山ノ内 悠君が、このような話をしていました』……両親は、兄のように滑稽だと笑い飛ばしてはくれません、特に母は取り乱して僕を病院へ連れて行きかねません。
ロクに相談する事が出来ず、悩みながら日々を過ごしました。
美夜子ちゃんが変わってから一週間過ぎた頃……。
元々、美夜子ちゃんは明るくて活発な女の子だったんじゃないかと思うほど、周囲の空気は変わってしまいました。
あの、無口で誰とも話さず本を相手にしていた……大人しい美夜子ちゃんなど存在しないかのような空気に徐々に変わっていくのが、僕は恐ろしかったです。
昼休み、元気に教室を飛び出していく美夜子ちゃんの後ろ姿を見た時。
僕は〝彼女〟の言葉を鮮明に思い出しました。
『いつか〝彼女〟と換わってしまうかもしれない。それは別にいいの』
『えっ、いいのって……入れ換わってもいいのですか?』
『いいよ。ただね、入れ換わった事に、誰にも気づいて貰えないかもしれない』
僕は、心底ぞっとしました。
もし……一週間前に、美夜子ちゃんは入れ換わってしまっていたら。
その可能性を疑っているのは、きっと僕だけ。あの親友の女の子さえ、わかると断言していたあの子でさえ、可能性を疑うことすらしていない。
入れ換わったことに誰にも未来永劫気づかれないまま……それがどんなに恐ろしいことか。
一週間前に確かに《こちらの世界》いた、あの寡黙な少女は《あちらの世界》で、どう過ごしているのか……そんな事を考えていたら僕はいつの間にか、あの大きな鏡のある踊り場に来ていました。
鏡に映る自分の姿が、いつになく不気味に見えて目を閉じた。
『何しているの?』
その声に目を開けると、鏡に美夜子ちゃんが映っていました。
僕は凄くびっくりして、すぐに振り返りました。
……目を閉じる前、確かに自分の背後には誰もいなかったはずなのに。
まるで、鏡の中からあらわれたかのように、美夜子ちゃんは出現しました。
『おっ、お……驚かさないでくれるかな?』
『驚いた? ごめんね。
鏡の前に立っているのに、目を閉じているから……変だなぁと思ってね』
ごく自然に会話が成り立つ。別におかしい事じゃない。
……いいや、おかしい。この美夜子ちゃんは……おかしい。
もはや強迫観念に取り憑かれた僕は、目の前の存在を睨みつけていた。
僕の視線など痒くもないようすで、彼女は美しい黒髪を手櫛でとかしながら、何気ない様子で話し始めた。
『あのさ、ヤマノウチくん。
君は《あちらの世界》のヤマノウチくんと話したことあるの?』
『――――え』
『あるの?』
『な……ないよ』
『そうなんだ?』
『あ、当たり前じゃないか!!』
彼女は、僕が入れ換わった事を疑っている事に気づいている?
だから、そんな話をして僕を動揺させようとしているんだ!?
『ワタシね、昨日の夜中に話したんだよ〝彼女〟と』
最後まで聞いてはいけない気がする。急いで教室に戻らないと!
でも僕の足は、僕の言うことを全く聞いてはくれませんでした。
『〝彼女〟がね、ワタシになりたいって。戻りたいって言うの』
美夜子ちゃんが向き直り、鏡の中の美夜子ちゃんとも目があいました。
笑顔と泣き顔。二つの表情をそれぞれ浮かべる、二人の美夜子ちゃん。
僕は、教室まで駆け戻りました。
賑やかな教室に戻っても僕は、恐怖に震えていました。
次第に具合が悪くなったので保健室へ直行して、その日は早退しました。
高熱を出して、死ぬような苦しい思いを三日三晩して、体調が戻った時は恐怖体験そのものを完全に忘れていました≫
タツヤさん
≪えっ、忘れていた?≫
山ノ内
≪――――ええ、あなたから取材の話が≫
タツヤさんが、俺の耳からイヤホンを取ったので、最後まで聞けなかった。
「大体、話は終わっただろ?」
「えっと……はい」
「《未完結の話》とは全然、違っただろ?」
「そうですね」
タツヤさんがイヤホンごと録音機を鞄にしまうのを、じっと見据えた。
《美夜子》という不可思議な存在は、確かに実在したことは間違いない。
でも、それだけだ。まだ求めている《完結》は、見えない。
「……タツヤさん」
「ん?」
「山ノ内という男は、恐怖体験を忘れていたって言っていたんですけれど」
「ああ。ある日ふと思い出したみたい。
そんで、オカルト雑誌ファクティスの読者の怖い話募集の見出しを見て、電話を掛けて来たんだ。それで僕が取材を行ったわけ」
「……そうなんですか」
嘘だ。俺は、確かに聞いた。
『あなたから取材の話が』
山ノ内さんは、忌まわしい恐怖体験を心の奥底に封じ込めていた。
その封印を解いたのは……タツヤさんだ。
タツヤさんからの取材の申し込みがきっかけで、彼は全てを思い出してしまった。
そのことを、タツヤさんは俺に隠そうとした。
急にイヤホンを取ったのは、肝心な言葉を聞かせないためだ。
一体、どうして? 一体、何を隠しているんだ?
その湧き上がる好奇心そのままに質問するほど、俺は子供じゃない。
《美夜子》についての話を追い求めていくには、彼の力を借りるしかない。
ここでいらぬ質問をして関係にひびが入るのは避けたい。
もしかしたら、いずれ話してくれるかもしれない。
そうやって自分を納得させ、俺はタツヤさんと別れた。
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