2 数日前 日常 夜/夕
これは、奴の友人から聞いた話だ。
その日、
以前なら夜遊びで平然と街中を歩いていたような時間だ。何事もなければ気にも留めない時間だが、しかし二日前のニュースからそれも控えようとしていた矢先のことだった。
理由は、年上の彼女からの急な呼び出しだ。電話線から聞こえた引き攣った声に取るものも取らずに駆けつけてみれば、何の事は無い、ただのゴキブリである。幸いにして、飯綱はこの害虫に対して一般的な嫌悪感程度しか抱いていなかった。ので、急いで退治して、時間も時間だし、もしかすれば今晩はお楽しみかな―――なんて甘い考えは、玄関のドアが開いた瞬間、泡が弾けるように消え去った。
なんと、ダブルブッキングしてしまっていたのだ。
―――彼女の、もう一人のお相手との。
二股。本命と間男。この場合、どちらがどちらであったのか、飯綱は知らない。知りたくも無かった。
兎も角、その後の出来事は飯綱の名誉のために割愛するとして―――結果だけ言うと、彼はものの数分で元カノのアパートから飛び出した。背後から聞こえる修羅場らしき飛び交う罵声などに足を取られることもなく。一直線に夜の街へと走り出した。
走り、走り、走り―――そして諸々に疲れてしまった時、自分が見慣れた道を歩いていることに気付いた。週一度通っている塾の通り道で、仲間内で買い食いをする大通りだ。よく足を運ぶからか、無意識に入り込んでいたらしい。
周囲を見渡せば、人の往来があった。そのことに安堵する。
しかし、やはりと言うべきか、人影は記憶にあるよりもずっと疎らだ。飯綱と同年代は数えられそうなぐらいしか見当たらない。―――当然か、とは思った。何せ、あの衝撃的なニュースが藤露市を駆け巡ってから、まだ二日しか経っていない。
「―――何やってんだ、イヅナ?」
「あれ、カイヤ?」
耳慣れた声に反応して見遣れば、よく見知った人物がそこにはいた。
フードを目深く被った姿に一瞬困惑したが、背格好とフードの淵から覗いた真っ黒い大きな瞳と輪郭で、すぐさまフード姿と学友の姿が重なった。
ガードレールにもたれ掛かった姿は気怠そうで、それがいやに様になっている。それだけ見れば大人びた雰囲気なのだが、顔立ちは中学生と見間違える童顔だ。短く刈った髪はその意図と正反対にその幼さを強調しているのだが、今はフードで隠れて見えない。
そのギャップを忌々しく思っているのを何かにつけて周囲にアピールしているからか、集団から浮いているのに、周囲からのやっかみや敵視は驚くほど少ない。学友の中でも特に目立つ一人だった。
「何してんだよ、こんな時間に」
当然と言えば当然の、投げかけられた疑問に、体が強ばった。
いやあ実は彼女の家に呼ばれて害虫退治してたら彼女の彼氏が来て修羅ばった末に飛び出して来たんだよあははは―――などと言える筈もない。言えない。絶対に言いたくない。
「いや……まあちょっと野暮用がな! 親に頼まれ事されてさ、ほら家の近くだし此処。あ、それよかカイヤこそどうしたんだよ」
「んー。ちょっと家に居づらくてさ」
灰哉が頬を掻く仕草から、照れくささや居心地の悪さのようなモノを感じ取って、嗚呼、と納得する。
彼の両親は日本人ではない。確かスペイン人で日本に帰化し、その後灰哉を引き取った、ということを灰哉本人の口から聞いたことがあった。隠し立てしている様子も無く、彼自身血の繋がりに関して思うところがないのだろうと思っている。
そして、件の灰哉の両親だが、情熱の国の人間らしく非常にスキンシップが激しいのだ。こっちが居たたまれなくなるほど。喜怒哀楽も凄まじく、延いては夫婦間でのそういうあれやこれやがダダ漏れというか、隠す気もないというか。傍にいるだけで、思春期まっただ中な飯綱などもんどり打って悶えてしまう。
灰哉は慣れたといつもの無表情で語っていたが、その彼でさえも居心地の悪さを覚えるとなると―――そこまで考えて、思い至った事柄に、自然と頬が熱くなった。
「ああ、そういう……」
上擦りかけた声を隠すように顔を伏せた。高校生の身空では、少々刺激的な空想が思い浮かんだためだ。ただの空想と呼ぶには、容易に想像が付いたほど有り得そうな内容の。心なしか、などと誤魔化せないほどしっかりと、耳朶までが熱い。
気付いているのかいないのか、灰哉は飯綱の狼狽えなどないかのような素振りだ。相変わらず、感情は読み取れない。
「ま、俺はこのまま此処に居るけどさ―――用事が終わったんなら早く帰ったほうがいいんじゃないか。今ならまだ人通りもあるし。この調子じゃあ、あとと一時間もすれば帰り道、本当に一人で通る事になりそうだぞ」
「え」
「人。徐々にだが少なくなってる。多分だけど、一昨日の殺人事件が関係してるんじゃあないか。ほら、あのふざけたセンスの」
何だっただろうかという仕草を見せる灰哉に釣られるように、飯綱はこの二日間で街中で囁かれるようになった名前を思い返した。
それは飯綱が夜間の外出を控えようと思った理由で、そして多分、彼女の悲鳴のような声に過剰に反応してしまった原因だった。
「あ―――今日泊まってくか?」
「例のバラバラ事件? は、確か現場は市外だろ」
名前を思い出すことを放棄したらしい、端的な表現で灰哉が言う。
一昨日の未明に他殺体が発見されたという事件は、その日の夕方には報道番組で取り上げられ、街中を震撼させた。
殺人事件など、昨今では珍しいことではない。胸糞の悪くなる事件だって今の世の中ではよくある事だ。片手も満たしていない年齢の幼児が虐待の末に死んでしまう、なんてことさえ珍しくない昨今、大人なんて言わずもがな。きっと日本中で起こった事件をすべて読み上げていたら、それだけで報道番組は時間いっぱいになってしまうのではないだろうかなんて考えてしまう。
だから、きっとこの事件が同じ街中で起こっていなければ気にも留めなかっただろうし―――遺体がバラバラにされていた、なんて狂気的な要素がなければ、これほどまで街中を不安にさせなかっただろう。
「そうだ、思い出した。〈真夜中の噛みつき魔〉だったよな、犯人に付けられた呼び名」
本当にセンスがないよな―――やや弾んだ声は、街中をざわめかせる狂気的な犯罪者を指し示すには、不釣り合いだった。
しかしそのような声音で、面白おかしく語る愉快さで、飯綱は何度も口にしていた筈だ。教室で、或いは登下校、もしくは部活動の隙間で―――昼間の燦々と降り注ぐ陽光の下、暖かな日の光をたくさんふくませた空気の中、陰気さとは懸け離れた場所で。恐ろしいモノへの現実味が剥ぎ取られた空間では、〈噛みつき魔〉だなんて言葉はある種の嘲笑の対象で、非日常の象徴だった。しかし今は違う―――違うという事に内心で愕然とした。昼と夜、環境がほんの少し変わるだけで言葉への意識がこんなにも違ってしまうなんて、飯綱は想像さえしていなかった。
「いや、あと三十分もすれば帰れるだろうし、一緒に帰るって待ち合わせしてる奴がいるんだよ」
「……ほおぅ?」
「なんだよその目。会わせねえぞ?」
「ほっほう?」
身を乗り出してみれば、鬱陶しそうに灰哉は振って見せた。まるで犬猫を追い払うような仕草だが、不快感よりも好奇心が先に立っていて気にもならない。
「いやぁ、お前が送ってく子ってどんな子なんかなー? とか思っちゃったりしてねえよ?」
「何だったら送り狼してやろうか、ひろちゃん」
「いらんわ!」
気負い無く、
日常で繰り広げられるような、有り触れて、平凡な、たわいない遣り取りに違いなかった。灰哉という個人に焦点を当てた場合に於いては珍事に近い会話は、けれど、高校生男子としては在り来たりに違いない。背筋を撫で上げる薄ら寒さも消え去っている、という事実にも気づかないほど、飯縄は日常に立ち返っていた。彼は、暗がりを覗いていた己に気づかない。精神は安定を保とうとし、異常から意識は逸らされていく。
その
平常に立ち戻った彼は、しかし、そのままで良かったのだ。異常に直面することがないのであれば、そのほうが余程良い。狼狽えて、異常に踏み込むよりも。平常を保つことが大切であるに決まっている。
「それじゃあまた明日な」
「おう、気をつけろよ。あと今日のことはどんだけしつこく聞いても無駄だからな」
「なんだよつまんねー!」
有り触れて、平凡な、たわいない会話。
思い返した時も、彼は、その場面はそんなものだったと認識していた。その時を特別なものだと認識していなかった。
遠ざかる友人の姿を、明日も明後日も、その先もずっと変わらずに見ることができるのだと、彼は信じていた。それは確かにその通りで、彼らは明日も明後日も出会えたし、日常と呼べる日々は代わり映えすることなく連鎖していくこととなる。
代わり映えは、しない。
正確に言うならば。
代わり映えは、させなかった、というのが適切な表現なのだろう―――この話を聞いたとき、私が抱いた感情で、考察がそれだった。
そして、こうも考えた。否、真っ先に考えた。
この話を翌日、否、翌々日にでも聞くことができていたのなら。
そうであったならば。
間違いなく。事態は、もう少し早く進展していたことだろう。
◆◆
これは、奴の知人から訊いた話だ。
その日、
本来なら、もっと早い時間に家に着いている予定だったそうだ。この数日に渡って街を賑わせている事件の余波を受け、彼が身をおいている剣道部、どころか、部活及び委員会すべてが活動停止している。授業が終わり次第、全校生徒が集団下校することとなっていた。
本来なら、伯谷もまた集団下校に参加するはずだった。
だが、彼の友人が体調を崩してしまい、その付き添いを希望し、学校に残った。保護者が迎えに来るまで側に居た彼は、保護者の送迎の申し出を固辞し。そうして夕暮れ時を一人、帰路を歩いていた。
赤色が
ただ、見えづらいなと―――識別が模糊となるほどに強い赤光を、不快と捉えた。
通りかかった公園の景観を目の端で認識し、つ、と意識が引っ張られる。
何があったというわけでもない。その時の伯谷には違和を感じる要素はなく、違和を与える要因はなかった。
「………」
赤光に濡れた園内は、朱と黒とで切り分けられていた。黒い起伏は躍動的に、小刻みに伸縮し、景観を作り上げている。それは遊具の、欄干の、ベンチの、樹木の輪郭だ。有り触れた、何処にでもある公園の風景。
ただし、人はいない。街を震撼させている事件の影響で、夕暮れ時に出歩く人間は多くはない。こんな屯することを目的とした施設の利用者は、この数日で激減したと伯谷は感じていた。特に、夜の帳が近づいてくるほど顕著になる。近隣住民の憩いの場は、差し込まれた非日常によって、誰もいない空虚な場所に変じている―――
そう、思って。
だから。
(こども……?)
公園の中心に植えられた樹の、梢に。
小柄な影を見て取って、伯谷は驚いた。
シルエットだけでも判別できるほど、華奢な、といっていい矮躯は、どう見ても低学年の子供のものだ。性別はわからない。ただ、臀部にまで届く長髪から、女児である、と判断したという。
普段ならば、伯谷は通り過ぎていただろう。だが、状況が、何より義務感が、そうさせなかった。
進路を変えて、公園に踏み入れようと足先を園内へと向けようとし。
「おい。此処で何をしている」
「!」
適わなかった。
それよりも先に、伯谷の背後から、誰何の声が響いたからだ。
聞き覚えのある声に、伯谷は振り返り、そして顔を顰めた。想像通りの人物であったからだ。
反射的に険の籠もった声で返す。
「貴様こそ何をしている」
「聞いたのは俺だぞ、伯谷」
眼光の鋭さが特徴的な双眸は、今は眩しさで細められ、尚々に横柄な顔付きになっている。虹彩の色素が薄いから余計になのだろう。仕方が無い、と理解しつつも矢張り、気に入らない、という感情が先走るのを抑えることができそうになかった。いつも通りの流れだった。どうあっても相性の悪いモノ同士、ということだろう。
「俺は」
言って、視線を戻す。
そして、瞠目した。
「? 何かあるのか?」
怪訝そうな声色で問われる。伯谷は何も答えられなかった。
振り返った先には、誰もいなかった。
西日か更に傾いで赤光が緩み、公園は朱と黒以外の色を取り戻している。その景観の中に、特に目立つ物は見付けられなかった。人影など何処にもない。白昼夢でも見ていたかのようだ。
「……。最近物騒なんだ。さっさと帰れよ」
唯一女らしい要素である長い髪が翻った。視界の端で灰色がかった色彩が踊るのを意識しながら、伯谷は己の聴覚を疑った。
(この女、今―――)
迫り上がる感情のまま、叱咤のような声が口から突き出た。
「昏喰、貴様、何を企んでいる」
「………」
振り返った昏喰弌色の表情は無表情に近く、けれども苦みが滲んでいた。
「うるせえよ。俺だって言いたくないわ。……兎に角、さっさと帰れ」
今度こそ、彼女は立ち去った。直ぐ傍にあった細い路地に入り込んだために、視界から消え去るまでに十秒も掛からない。恐らくは、そこからやってきたのだろう。だから声を掛けられるまで気付かなかったのだな、とその時に考え至った。
伯谷は、視界から消え去るまで彼女を見詰めていた。
見詰め、見送った。
苦り切った顔で、宿敵が消え去った風景を強く睨んだ後、もう一度、園内に視線を戻した。
矢張り。
そこには誰もいなかった。
「………」
この時、追求こそしなかったが。
昏喰弌色の身体から、微かに、だが確かに、血の臭いが漂っていたことに、伯谷は気付いていた。
だからこそ、彼は後日、俺にその時の話をする。
決して口にせず、態度にも出さないが、気に掛かったから―――昏喰弌色という“友人”を心配して、という理由から。
そして、齎された情報によって、胡蝶の羽ばたきのように、結末は変化していく。
粘ついた粘液のように、黄昏の空に、夜が降りかかってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます