人食い

 ―――彼女わたしは、人間が怖かったのだ。


 いったいいつの話なのか、正確に記憶していない。

 未だ年若い私が更に小さかった頃の記憶であるから、ぼやけていても当然ではあるのだが。

 私は―――確か、古い森に棲んでいた。

 古い、ふるい森だった。太古から連綿と続く森は、昼に夜にと分け隔て無く仄暗く、いつもひんやりと冷たい空気を含んでいた。起伏はあれども一望できるような場所はなかったように思う。太陽が燦々と照り、月光が煌々と光り、天上から地上に明りが落とされていても、森の深淵に光りが届くことはなかった。

 当時、私は独りではなかった。いつだって傍に暖かなぬくもりがあったことを憶えている。

 鬱蒼とした森の中は、様々な生き物たちが暮らしていた。それぞれに縄張りがあり、強弱があり、食い食われの関係があった。

 私たちは、森の中ではいっとう強い群れであったという記録きおくがある。

 よく子兎を追い駆けて、時には甘い肉を食んでいた―――そう、私は狩りが下手で、いつも仲間たちに笑われていたのだ。それが悔しくて、見かければすぐさま、すばしっこい野鼠や子兎を追い駆けていた。野鼠は狩りの練習に丁度良かったし、子兎は傍にいた誰かにあげるととても喜ばれたから。

 穏やかで、刺激があって、営みの循環の中で生きていた日々。

 幾度となく死の試練を乗り越えながらも、それが平常であった過去。

 ―――きっと、もっとも幸福であった、まほろばの如き、陽光と木陰に彩られた記憶。


 古い森。深く大きな原初の異郷こきょう。古来、確かに森は異界であったのだと思い知る―――


 途切れる。頭の中に砂嵐エラーが走る感覚。

 嗚呼―――頭が痛い。ここから先は、思い出すことが出来ない。

 瑕が付いている。此処は、これ以上は検索できない。

 残っている記録を巻き上げてみた。

 殆どが雑音ノイズ塗り潰しノイズ残骸ノイズ

 残っているのは―――朱色だ。


 深い緑彩の濃淡は、瞬く間に紅蓮に浸食されてゆく。取るに足りぬ筈だった人間たちの声が、同胞たちを脅かす狩人の威嚇に。やさしかった温もりが、固く冷たい塊になっていく。

 そう、そして、確か―――わたしたちは何処かへと逃げ去ろうとして。

 逃げて、逃げて、逃げて。別の場所へと―――嗚呼、けれど、何処に。

 だって文明ニンゲン自然わたしたちを淘汰しようと、鈍色を掲げて吠え立てた。

 誰かが嘆く声。愚かなと誰かが嘆いている。それは一体、どちらをだったのだろう。私たちは常に逃げ続けるだけで、彼らに立ち向かったことはなかった。

 逃げて、追われて、傷付けられて、疵付いて。

 小太刀が喉笛に迫って―――殺されそうになった、その瞬間に。

 わたしの目の前に、あかい、あかい。

 一面のあかが―――泡沫の胎動へと続く袋が。


 それで終わり。

 そこで彼女わたし自我いしき途絶えしんでてしまった。

 後は、死に至る末期の途が残されているだけだ。

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