Ⅱ 日常 昼

 籐露市ふじろしは東西に婉曲しながら伸びた形をしている。

 地図で確認すれば、その形は大雑把に捉えるならちょっといびつなバナナにも見える。東南は海に接し、北には県境をまたぐ大きな山が聳えている。国道は市の西側を通っており、そこから経済は発展している。

 西側にはビルが建ち並び、商業施設が林立し、人の賑わいが集約している。対し、東はどこかのんびりとした風情を残していた。夏になれば海水浴客が目立つ海岸線は、スキューバダイビングの名所でもあるため冬場でも人影が消えることはない。弌色にダイビングの趣味はないが、友人曰く、ダイビングは一年中楽しめるものだと熱弁された。特に九月から真冬までがベストシーズンなのだとか。逆に梅雨や夏場は、透明度と海水温度の関係上あまりおすすめではないらしい。

 そういった理由から海岸線はダイバーやサーファーで一年中賑やかだが、しかし東の内陸に広がるのは市街地である。また畑が延々と続く場所もちらほらとあり、広がる風景は忙しなさとは縁遠い。付け足せば、東側には海以外のレジャースポットは皆無である。

 しかしながら、賑わいが皆無というわけでもない。学生候補となる青少年が多く在住する住宅街ゆえか。西よりも東の方に多くの学校施設が散在しているのだ。

 小学校はもとより、中学、高校、大学に大学院までが在り―――弌色が在学している高校も東側、そのど真ん中に在った。

 暦は五月。初夏の風が心地よく、降り注ぐ陽光がまどろみを誘う季節である。

 梅雨の到来にはまだ早く、台風なんかはまず来ない。からりと晴れた天候が続くこの時期は、絶好の昼寝日和だとしみじみ思う。

 特に、今日のような日は屋上なんかが最高だろう。レジャーシートを敷いて、その上でまどろんでいる―――想像するだけで至福と思える瞬間だった。

「おら、余所見しない」

 特に今日のような、居残りじごくでなければ尚更のこと。想像は至福を越えてむしろ猛毒だった。

 嗚呼、世界は今日も美しい。

 窓の外では、小鳥が囀り、初夏の光を浴びて若葉が気持ちよさげに風にそよいでいる。窓から届く微風は未だに春の残滓を含んで少しばかり涼やかだ。対比するような、ぬくそうな夏の気配を含んだ日差しは、暗闇に馴染んだ眼には眩しい。

 ―――既に日暮れに差し掛かる時間なのだから、鳥は鳥でも烏の鳴き声だ。囀りというよりも濁声か。若葉を照らすのは西日で、揺らすのは夜気を孕んだ冷たい風。窓は西向きにあるのだから、外を眺めると陽光を正面に見据えることになるわけで、眩しいのは当たり前だった。

 この時間帯に屋外で昼寝でもしようものなら体調を崩しかねないはずだが、弌色の頭はきれいに都合の良いカタチに編集されていた。彼女が外を昼間と思うなら、彼女にとっての世界はまだ昼間に適した時間ののままなのだ。

「こら昏喰、ぼうっとしてないでさっさと書け」

 スパン、小気味良い音を立てて丸めた紙束が机を叩く。否、叩いたのは弌色の前に立つ教師で、紙束は叩かれた側なのだが。

 湿気った空気でもよく響く。こんなのが頭に振り下ろされたら大層痛いだろう。

 そう思っていれば、隣から鼻で笑う気配が。すぐさま狙いを定め、隣の机の脚をガンと蹴る。即座に定規が鋭く弌色の喉元を狙ったのを、彼女は身を逸らす事で回避する。

「なにすんだてめえ」

「ほう、やるのかチンピラ崩れめ」

「……わかった。お前ら揃って俺の話聞いてないだろう」

 今にも取っ組み合いをはじめそうな受け持ち生徒二人に、教師が長く深い溜息を吐く。

「とにかく! 反省文を書かん限り帰宅も部活もなしだ! 伯谷、お前大会近いんだろう! 昏喰も、敷浪を待たせたくないならさっさと書け! 彼氏彼女かお前らは!?」

「先生、最後は余計だと思いまーす」

「榎乃先生、横暴ではないですか? 反省文はこいつだけでよいのではないですか」

「校内で竹刀振り回すのが今月七回目の時点で問題だよ伯谷。あと昏喰、そう思うならお前らももうちょっと青春しなさい。校内じゃお前ら付き合ってるって噂で持ちきりだぞ」

「え、マジ?」

「マジマジ。だから早く書け。書くまで一緒に居てやるからなー。この通り俺も仕事溜まってるからな、夜になっても大丈夫だぜ」

 積まれた紙の束とノートパソコンを乗せた教壇を叩いて長期戦の構えを見せる担任に、弌色は隣席の天敵に目を向けた。伯谷慶もまた、同じような内心だったのだろう。双方の視線が合う。

「………」

「………」

 無言のまま、互いに互いの意と了承を汲み取り合う―――面倒事の前には一時休戦もやむなし。

 双方憮然とした表情で、宛がわれた席に着く。ざっと二十枚はあろうかという紙束の一枚目には、やる気のない文字列が似たり寄ったりの意味を繰り返して綴られている。なんとか用紙の半分まで書き込まれた文字を睨み付け、どう始末を付けようかと眉間に皺を寄せた。



「懲りないなぁ、二人とも」

「あいつは前世からの仇敵なんだよ。絶対そうだ」

 ふてる弌色に紋加は苦笑した。

 教室に差し込む夕日は勢力を弱めつつあった。反省文を書き終わった弌色を迎えに来たのだが、燃え尽きたように机にじゃれる弌色に付き合うことにしたのだ。ちょうど読みかけの本があったため鞄から取り出して文字を目で追いだしてから、きっと数分も経っていなかっただろう。思わず零れた笑い混じりの苦言が先ほどの一言だった。

 拳と竹刀を交える仲ではあるが、そう悪いものにも思えない、というのが彼女の見解である。以前それを弌色に言ったところ、女子としてあり得ない顔をして以来、あまり触れずにいようと心に決めているが。

 そう言えば。紋加はページを捲る手を止めて、前々から気になっていることを弌色にぶつけてみた。

「弌色って好きな人いないの?」

「ぶっほぉ!」

「あ、こら、汚い!」

「げほぼふごほふほ……ごほっ……いやあのアヤナミさん? あやかさん? いきなりなんでそんな方向に飛ぶ訳かな?」

 本当に訳が分からない。そう表情全面に押し出す弌色を前に、紋加は小首を傾げ。

「女子高生らしい会話がしてみたかったから?」

「うおぉおおお……! 納得できるようなできないようなしたくないようなぁ……!」

 可愛いけどさあ、と机にじゃれつく弌色こそが紋加には理解不能の生物に思える。

 この友人、本当に女子高生かと疑う言動が日常なのだ。手足どころか顔に傷を作ってもへっちゃら、売られた喧嘩は買うもの、面倒事に首を突っ込み物理で解決に奔走するのが当たり前なのである。

 化粧っ気はまるでなし、髪は長いが適当に一纏めにひっつめているだけという有様だ。眉は整えてあるが短すぎで、どうにもそれが彼女の顔立ちを鋭いモノにしているのではと紋加は睨んでいる。しかし鋭い三白眼であるのも事実なので、実際はあまり関係ないかもしれない。

 男女問わずに友人関係を築くさっぱりとした気風ではあるが、それが彼女を異性と見なされない原因にしている節もあった。早い話、浮いた話がひとつもないのだ、この友人は。

(まあ、周囲が周囲、っていう可能性もあるけど……)

 自身と弌色の交友関係を思い起こし、苦笑した。

 類は友を呼ぶと言うべきか、二人の周囲は大変に"濃い"。

 弌色が天敵と呼ぶ伯谷慶然り、紋加の天敵であり伯谷の親友である志士郷然り。学校の裏番長とも呼ばれる共通の友人や彼女の恋人、そして彼女の義弟に彼と親しいとある画家。一年生の身で生徒会長としてこの学校を掌握する美貌の少女や、その彼女のお気に入りの―――

「………」

「アヤカ?」

「―――弌色って初恋したことあるの?」

「ごふぉっ」

 心配そうに顔を覗き込んできた友人に、何気ない素振りで問い掛けた。直後、予想通りに強烈なブローを浴びたような奇天烈な悲鳴が弌色のくちびるから噴出する。本当に苦しそうに腹部を抱えだしたから、かなり心配になってきた。

「大丈夫?」

「心の籠もってない心配でも嬉しいです……」

「うぅん。だって弌色、本当に浮いた話がないから」

「……オレの交友関係を知って、尚も恋に幻想を抱けると思えるアヤカがすごいと思う」

「恋に幻想は不要なんじゃないかなあ」

 思ったことを言ってみる。

 確かに周囲のアレやソレやらはある種常軌を逸しているが。正気さえ疑うが。けれど、彼女彼らをそうまで狂わせる恋というのは素晴らしく、同時に恐ろしいと紋加は心底思っている。

 恋というのは、堕ちた時点で正常ではなくなるのではないだろうか。

 天に昇る気持ちも。相手を引きずり下ろしたくなる心も。苦しいや悲しいや嬉しいや楽しいは、それだけ振り回されている証なのではないか。あんなしっちゃかめっちゃかに踊り狂っているなんて、きっと正気ではできないだろう。

「あれだけ自分以外の誰かに全力になれるんだから、綺麗とか醜いとか、たぶん恋ってそういうんじゃないよ」

 それだけではない、とも言うかもしれないが。

「………、そうかな」

(あれ)

 珍しくこの手の話題で思い悩む友人に、紋加は内心で驚く。

 何時もは周囲の問題の多い恋愛観と恋愛模様に思い悩んでいるばかりで、自分自身に関してはどうでも良いと言わんばかりのスタンスを貫いているのが、弌色の常だ。

 しかし、今は違う。

 弌色は今、自分自身の恋愛観、延いては自分自身の恋愛感情に多少なりとも関心を寄せているように、紋加の目には映った。一体どういう心変わりなのだろうかと不思議に思う。

(もしかして、考えさせられるような出来事があったのかな?)

 とても好い恋を見たか、或いは―――

「……アヤカって、どういうやつが好みなわけ?」

「………」

 予想外の返しに、人知れず拳を握る。手のひらはいつの間にか湿っていた。

(これは、もしや―――)

 浮き立つ心を全力で押さえ込み、唾を飲み込んだ。

「そうだね、優しい人かなぁ。あと……あたしのこと、引っ張ってくれる人」

「………ふぅん」

 少々気恥ずかしいながらも真面目に答えてみれば、気のないような言葉をえらく低い声で返された。どうやらかなり真剣に検討されているらしい。

「じゃあ意地悪してくるようなのはアウトだな? 志士郷とか」

「え、礼乃あやのはないよ」

 何故その名が出るのか。不審に思いながらもすぐさま否定した。ついでに顔の前で否定の意味を込めて手を振ってみせる。世界がひっくり返ろうと有り得ない設問だった。紋加のみならず、それは礼乃にとってもそうだろう。

 紋加の返答に弌色は、だよなあ、と何度も頷いているが。ならば何故その名を出したのだろうか。

「うん。アヤカは絶対に倖せにするからな、安心して志士郷には見向きもするなよ」

「それはないよ……」

 思いながら、昔の約束が記憶の淵から浮かび上がる。

 朧な記憶と掠れた記録。数え上げることも億劫になるような、昔話のような話。ずっとずっと前に交された約束があったような気がするが、それが何なのかは分からない。以前礼乃に聞こうとしたが、碌な返答がなかったことから相手も記憶にないのだろう。

 何にせよ、現状において彼の態度は友好とは対極に在るのだから、実在さえ曖昧な約束など無効だろう。

「そういう弌色は、どんな人が好みなの?」

 前々から思っていたことだ。恋人というものが影さえ存在しなかった弌色が、一体どのような相手を望むのか。紋加は幾度も想像し、そして失敗してきた。

 勉強はそこそこ出来て運動神経は抜群の友人は、男女ともに平等だった。誰に対しても好きか嫌いかの二択で、優先順位は絶対で、そうでなければどんな相手でも分け隔て無い態度を見せる。例外は彼女が敵と見なした相手ぐらいで、それだけは徹底して排除を望む苛烈さを持つ。

 弌色の優先順位の上位は彼女の家族と紋加であり、その次が友人だ。その同列に彼女が居る。

 どこか獣めいたこの友人が、優先順位を違えたことを紋加は一度も見たことがなかった。

 誰かに恋い焦がれるということが想像できない。

 彼女が絶対としている優先順位を崩せるような存在が夢想できない。

 昏喰弌色という少女が何よりも幸せにしたいと願い、彼女が誰よりも幸せにして欲しいと願うような他人あいてが、紋加には思い描く事ができなかった。

「………」

 紋加の問いに、弌色は考える素振りを見せなかった。

 やや躊躇しながらも友人の口が開かれるのを、紋加は言葉に出来ない心持ちで見詰めた。

 考える余地などないということなのだろうか。それは、つまり。彼女にとっての理想像とは、遙か前から用意されていたという事で。

「オレを投げ飛ばせるような人」

「…………」

 紋加は天を仰いだ。

 しばしそのままの体勢で衝撃を受け流す努力をする。乱れ掛けた呼吸を懸命に正し、素数を数えた。心の中で十時を切って手を合わせ、この世の全ての神仏に救いを求めて一心に祈りを捧げた。

「……、それは。弌色、それって一体……」

 無心になれと己に言い聞かせる。

 最悪の回答を聞く心構えを整え、紋加はゆっくりとした口調で弌色に尋ねた。

「そのまんま。私を投げられるぐらい強い人じゃないとさ、抱きしめられないだろ」

「―――」

 呼吸が止まる。

「……そっか」

 それは予想外で、そして当然の回答だった。

(取り敢えず、恋をする気はあるんだ)

 自分より強い相手でなければ認めないなどと言い出したらどうしようかと思った―――紋加はそっと胸を撫で下ろし、一先ずの結論に安堵した。

 万が一にも紋加が懸念したような条件であった場合、相手がヒトガタである可能性はかなり低下する。例えそんな人類がいたとして、それが人間的な精神の持ち主とは思えなかった。

 なので、"己を投げ飛ばせる"とは、生涯恋人は要らないの遠回しな宣言でもではなかったという事実と合わせ、紋加の懸念を払拭させるに足る返答であったと言える。

 少し考えれば、思い至るようなことだった。彼女が相手に強さを求めるのは、弌色にとっても相手にとっても必要不可欠な要素と言えた。

 弌色は人智を超える頑強で、人並みならぬ強力ごうりきだ。

 トラックに撥ね飛ばされてもぴんしゃんしているし、鉄筋コンクリートの群れが十五メートル上空から落ちてきても片手で捌いてしまう。人間として規格外だが、彼女が純血でないことを知っている紋加からすれば大して驚くようなことではない。そう言った人間はこの世界には割とよく居て、人間でないモノもかなり有り触れているのだと理解していた。それらに端を発した怪事も、人間が起こした異状も。

 世界は人間以外にもたくさんの知的生命体がいる―――その認識が世界に広まったのは、もう何十年も昔のことだ。

 紋加にとって、人間もそれ以外も変わらぬ隣人だ。人間同士が憎み合うこともあれば、異種同士で仲良くなることもある。その逆も同様に。だから、弌色と初めて会ったときから、彼女が紋加と違う種族であるということは友人関係を築くに当たって垣根を作る理由たぐいには成り得なかった。寧ろ、だからこそ友達に、親友になれたと言える。

 弌色が人間でない、という現実ことは、紋加の視点ではそれは彼女を形成する要素のひとつであり、それ以上ではなかった。

 しかし、弌色本人にとってはそうではないのだ。

 並々ならぬ強力ごうりきは、即ち力加減を少しでも誤れば他者を容易く傷つけてしまうことと同意だ。心から愛するというのは、時には理性の制御から外れると言うことで。弌色にとって、それはつまり相手を害してしまう事と同意義だった。

 加減を誤れば、最悪。

 彼女は相手を殺しかねない。

 ―――それは、とても恐ろしいことだ。

 紋加は垂れ下がった友人の手を握った。温かい手だった。

 この手は、守る事の出来る手だと紋加は知っている。

 敷浪紋加が傷付け続け、敷浪紋加を守り続け、敷浪紋加を苦しめ続け、敷浪紋加が守りたいと願う、誰よりも純粋な人の手のひらだった。

「見付かるといいね、弌色」

「ありがとな、アヤカ」

 握り返された手の優しい温度を感じて。

 心から不器用な友人の幸福を掴めるよう、神様に祈った。

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