1 一週間前 噂話
こんな噂話がある。
夜、オオカミの遠吠えが聞こえる。
うすぐらい路地裏で、人を食べる怪物が居る。
魔都から逃げ出した実験体が、人間を恨んで夜な夜な目に付く誰かを殺して回っている。
数週間前から、或いはもっと最近から、ひっそりと、根を張るように広がっている噂話たちの共通点はひとつ。
―――実在する事件を
深夜の空気は冷たく澄んでいる。
めいいっぱい息を吸い込めば、肺が透き通って、きれいな空気を含んだ血流が末端まで流れ込んで、全身の汚れがぬぐい去られていくような心地になる。
弌色は夜の街が好きだ。特に朝がやってくる寸前の、あの薄もやがかったような空の仄明るさが好きだった。
一日が始まるという実感がある。世界が生まれ変わる瞬間を一個存在すべてで甘受する、その官能が脳を冴え渡らせる―――それはある種の全能感だ。世界との一体感と言ってもいい。
―――その快楽を阻害するような不快な臭いが街に沈殿するようになったのは、此処一ヶ月の話だ。
空が白むにつれて、一面に散っていた星光が針で突いた痕のように小さく明滅して、次第に薄れていく。月はやわらかな白い半円の輪郭を浮かび上がらせ、青ざめた空にぽつんと浮かんでいた。何とも居心地が悪そうで、きっとあのまま夜に取り残されて昼間まで浮かんでいるのだろう。
地平から忍び寄る陽の気配は、打ち切りの合図だった。
踵を返す。今日もまた、何も収獲はない。血の臭気を嗅ぎ取ることはなかった。
ごく最近の話である。
それも、二日、三日ほど前の話だ。
野鳥や野良猫の類いが、獣に食い散らかされたように殺されていたらしい。一度や二度ではなく、既に数は両手を越えていた。初めは雀や鳩が一羽程度だったそうだ。回数を重ねるごとに、その大きさも数も増しているのだという。増長する気配は、今のところ濃厚だった。
現状では、犯人は地元の人間ではと思われているらしい。そんな噂がちらほらと囁かれている。動物の死骸も、殺した現場も、どちらも街の中だと判明しているのだそうだ。死骸のいくつかは地面に埋められていたそうで、隠滅されたものも多いのではないかと言われている。掘り起こした犬の飼い主はさぞかし驚いたことだろう。
学校でも、ホームルームに教師から不審者に注意するようにと伝達されたばかりだ。何時動物から人へ飛び火しないか、親や学校は冷や冷やしているのだろうか。
―――そんな事件と同時期の事だった。
幾つもの噂話が街を駆け巡るようになったのは。
曰く、夜中に今までなかった犬の遠吠えがするらしい。
曰く、大きな獣が真っ暗な道を駆けていく姿を見たらしい。
曰く、市外から殺人鬼が迷い込んできたらしい。
曰く、何人もの惨殺体が街のそこかしこで発見されたらしい。
曰く、殺人鬼は化け物で、夜な夜な獲物を求めて街を彷徨っているらしい―――
噂は噂だ。実害もなければ真実味もない。誰某が殺されたなど、ニュースも新聞の一面も取り扱っていなかった。本当に無残に食い荒らされた死体が見付かれば、それは全国区で発信されることになるだろう。
だから、所詮は実のない噂に過ぎない―――その筈である。そうである筈なのに、噂は未だに収束、或いは霧散する気配を見せないでいた。
何もなければいい。切にそう願う。
或いは、真相が表沙汰にならないまま、この事件は幕を引く。
そのほうがまだ、きっといい。
無意味であると心のどこかで認めつつ、最後に周辺に異変がないかを確認する。血の臭いも、獣の臭気もない。弌色の知覚に覚えのない不快さは引っかからない。
そうして今日も夜の街の巡回は何事もなく終わる。
ねぐらへ帰る獣のように、弌色は足音もなく帰宅の路を進む。
―――その身体に、爪先に、獣の臭いを僅かに漂わせながら。
◇◇◇
宮森は一人、路地裏に立っていた。
先ほどまで鑑識が動き回り、刑事たちが話し合っていた場所には、今は宮森以外に誰もいない。精々が、路地裏の出入り口に配置されている見張りの警官ぐらいである。未だブルーシートで衆目から隠された路地の壁や道路には、血の痕跡が生々しく残っていた。
事件の発生は本日の未明と目されている。
その日の朝、ビルの関係者がへばりついた被害者を発見、通報。一時間で規制線が張られる運びとなった。半日掛かりの現場検証は、夜の9時を前にしてようやく一段落を迎えるに至った。
そこかしこに染みついた血や臓物の臭気に紛れて酸い臭いが鼻を突く。顔以外にまともな箇所のない相当な惨殺体であったそうで、捜査員の数人が吐いたらしい。捜査方針では、犯人はシリアルキラーという線が濃厚だそうだ。
このように伝聞の形でしか知らないのは、宮森の特殊な立場にある。
怪事件特別捜査班―――それが今の宮森の所属部署であり、特務というのが彼の立ち位置だった。
ふざけた話であるが、昔ながらに語られる怪談や伝承、魔性の類いは実在している。その存在が確立したのは1990年の始め。突如として〈次元の歪み〉なる現象が起こったことを契機としている。今や小学生の社会の授業でも取り上げられるようになった、一般常識と同列の歴史的大事件だ。
以後その現象の影響下は〈魔都〉と呼ばれるようになり、世界各地に点在するそれらは独自の文明を築いていった―――という訳ではない。
世界中の注目を集めた現象は、当然のように人々の興味を大いに誘い、大勢の人間が解明に乗り出した。何せ、魔都では常識外の生物が生息し、人間が超能力まがいの力を開花させたのだ。百年を経た現代でさえ超常現象の類いは珍しいのだから、当時の反応は言うに及ばずだろう。
何故、という好奇心を追求する過程で魔術なる技術が表舞台に登場し、追従するように御伽噺の住人たちが実在するのだと知れ渡るようになった。
〈魔都〉出現を境に、世界は変質したと言える。
それから百年。〈魔都〉を始め、超常現象を扱う世界機関〈CCA〉や能力者、土師の魔女などは世間の覚えも目出度く、現代社会に密接に関係している。いや、この言い方は正確では無く、魔術だ異能だ異種族だといった不可思議の住人たちの殆どが、現代社会に溶け込んでいるのが実情だった。
社会と接し続けていれば、必然そう言った類いが起こす事件というのも存在する。
窃盗、詐欺、傷害、殺人事件―――不可思議で不可解な事件は、特に昨今に於いて珍しくもなくなっていた。しかし、そういった怪事件にはそのための知識、技量が必要となってくる。
凶器や手法が―――言い方は悪いが常識的ならば、そんな特殊技能も知識も必要ない。
問題は、凶器が魔術という名の奇天烈であったり、手法が吸血鬼が霧になって侵入したのだいう超常現象であったりする場合だ。
そうなると、マトモな観点からの捜査はお手上げになってしまう。いくら不可思議の住人が実在するのだと分かっていても、その絶対数は少ないのだから実感としてはあやふやだ。まして魔術という技術体系を使った犯罪だと、容疑者は加速的に増殖する。何せ扱うのは稀少な異人や能力者ではなく、有り触れた人間なのだ。大げさに言えば、関与した人間全員を疑わなければならなくなる。そうなれば目撃情報さえ真偽も危うくなってしまうだろうし、聞き込みも張り込みもどれほどの効果があるのか。
そう言った"面倒事"を押し付ける民間団体が1990年代後期に立ち上がってからというもの、ブラックボックス宜しく怪事件は一切合切そちらへ流していたというが、近年になってそれを是正しようとする動きがあった。
そして様々ないざこざの末に設置されたのが、怪事件特別捜査班―――ほんの数人で構成された、要請があれば全国どこにでも飛んでいく"警察内部の怪事件専門集団"だ。
何故自分が配属されたのか、何故設置に至ったのか、誰が働きかけたのか―――宮森は、その一切を知らない。
知る必要もないと考えている。
ただ彼は、己が成すべき事を見据え、その為に必要な道筋を選んだだけに過ぎない。
だから―――今回も同じだった。宮森孝至という刑事は、あらゆる殺人犯を逮捕する。人間であれそれ以外であれ、構わずに。そのために全国行脚を積極的に行っている。
―――この藤露市には、幾つか噂話がある。
夜、オオカミの遠吠えが聞こえる。
うすぐらい路地裏で、人を食べる怪物が居る。
魔都から逃げ出した実験体が、人間を恨んで夜な夜な目に付く誰かを殺して回っている。
数日前から、ひっそりと、根を張るように広がっている噂話たちの共通点はひとつ。
実在する事件を
この事件は、発端は別の県が発端と思われている。
最初の事件では数人が獣に嬲り殺されたような有様で、それから数日後に今度はホームレスが獣に食い殺されるという事件が起きた。その後も類似の事件が一方向へ移動しながら発生。その進路で起きた類似の事件の地点が、この街だった。
本来ならば事故として片付けられる案件で、最終的には警察ではなく県の自治が動くべき事態であろう。
しかし、現実はそうはならなかった―――これが本当に"ただの獣の仕業であるのか"という疑念が残ったのである。
そも、一体どのような獣であればこのような怪事を起こせるのか―――まず上がったのはそれだ。
被害者たちの遺体は押し並べて惨たらしかった。写真越しであってもその凄惨さ、酸鼻に顔を顰める者が殆どである。以前、事故処理で熊に腸を食い荒らされた遺体を見たという刑事は、恐ろしく類似していたと呻きながら証言していた。同時に、これほどまでに人間性を失っていなかった、とも。
宮森がこの現場にいるのは、半分は偶然だった。
移動する殺人事件を追っているうちにこの市に辿り着き、そして偶さかかつての同僚に
煙草を取り出して、火を灯さないまま口に銜える。使い古されたジッポを手のひらで遊ばせる。思考を高める時の癖のようなものだ。
「……人狼か」
火の付いていない煙草を銜えたまま、ぽつりと呟く。
人狼。
ライカンスロープ、ワーウルフ、ルー=ガルー―――人と狼の姿を併せ持つ、古来より神話や伝承に存在する架空と思われていた存在の一つ。
より正確に言うなれば、人の姿を取ることができる狼の姿をした魔獣の一種―――と魔学では定義されている。現代ではその殆どは人の血に紛れ、純血種は絶滅したと言われている。その毛並みは大抵が黒く、または赫茶色い。高位になるにつれ色素が薄れていくと言われているが、血が薄れた現代では、赤みがかった毛並みであるだけで血が相当に濃いと判断される。最高位の色は金、いや、確か―――
ズボンのポケットに押し込めていた携帯が震えて、資料を記憶の抽斗から引っ張り出す作業が中断される。携帯を開けば、画面には見慣れてきた名前が表示されていた。
「………、宮森」
おもむろに通話ボタンを押して名乗れば、予想通り、表示名とは別人の声が耳に飛び込んだ。
『ヤあ、宮森君。殺人事件だそうだね。勤務ご苦労』
若い女性の声に、宮森は知らず眉根を寄せていた。陰鬱とした事件現場には不釣り合いなほど溌剌とした声に、僅かながらの不快感が募る。
「夜宮さん、説教は後で聞きますから、班長に変わってください」
『あらあらあら。単独行動が大好きでいっつも人のこと無視して仕事に行っちゃう不眠刑事さんがなんて愁傷な。明日は雨が降るのかしら?』
「……夜宮巡査」
『分かりましたよ』
女性の声が聞こえなくなり、暫し。
『宮森君、佳月だ』
今度は初老らしき男性の声だった。穏やかな口調ながら、活力に溢れている。瞼の裏に、穏やかな外装をした初老に差し掛かった刑事の姿が浮かび上がった。その仄暗い双眸と視線があったような気になって、宮森は灰色の瞳を細めた。
『早速だが仕事に入らせてもらうよ。明日の午前九時に捜査会議が始まる。君にはそれに参加してほしい。君の単独行動については後で言わせて貰うけど、今はおいておこう。夜宮君はまだ手が離せないから、残念だが到着は明後日の予定だ。くれぐれも危険な行動は控えるように』
「了解しました」
『宜しい。―――老人の詰まらない話はこれぐらいにしておきましょうか』
途端、声の調子ががらりと変わる。どこか好々爺然としたやわらかな口調だ。音にも成らない呼気を深く、ゆっくりと吐き出した。この二面性が、宮森はひどく苦手だった。
『君の追っていた事件ですが、どうやら同一犯とみて間違いはなさそうです。夜宮君の照合が今朝終わりました。やはり半獣―――それも人狼とのことです。詳細はメールに添付しますが、夜宮君から口頭で説明しておきたいことがあるというので変わります。……時間は大丈夫ですか?』
「はい。夜宮の長話を聞く分には問題なさそうですね」
『それは結構。―――』
男性の声が聞こえなくなり、雑音が回線を通して聞こえてくる。待つこと、およそ数秒。
『―――はぁい、変わりました。さっき班長が言われたけど、今回の犯人は人狼である可能性が高いわ。そこら辺はミーティングの時と同じね。……それで、問題は此処からなんだけども』
「問題?」
『そ、問題。新しく分かったことが、もうそのまま問題でね。―――宮森君、君、魔学にどれくらい明るい?』
「資料を少々齧った程度ですね」
魔学―――魔術を学問的に捉え、研究するための一派を指す、近年生まれた言葉だ。
発祥は日本に存在する唯一の〈魔都〉で、現在も"魔術"研究機関として最先端の一角となっている。如何なる取引か、忌々しいことにその〈魔都〉を治める魔女の領地は、あらゆる犯罪者が逃げ込もうと、或いは殺されようと、国家権力の手が届かない不可侵地帯でもある。
宮森は魔学に対して明るくない。ただ聞きかじった程度であるならば、魔学という言葉は近年生まれたが、その内容は実のところ魔術となんら変わりないということ。つまり、魔学そのものは大して目新しい
『宜しい。じゃあ簡単な講義と忠告をしておくわ。魔学―――魔術において、古き血筋や霊体、精霊はこの上ない研究対象なの。当然人狼もその一つで、まあ古くから色々研究してるんだけど。まあ例に漏れずというか、未だに分かってないことも多いのよねぇ。解剖録なんて大昔ぐらいのしかないし、最近じゃ〈CCA〉の規正がきっついから研究が進まないしで、資料探すのが大変で大変……ああこれは後ね後。で、ここからが本題。調査の結果、犯人と思しき人狼が―――実に厄介なコトに、病堕ちだと判明したの。混血ならただの狂った獣過ぎないけど、これが今回はただの灰狼ではなく疾病源である恐れが―――』
「待て。その前に病堕ちの説明を頼む」
立て板に水の夜宮に止めを入れる。此方の理解など関係なく、延々と語り続ける気配があった。
『あ、御免。でも有名な話でしょう? 人狼が感染源だなんて』
「感染?」
病原体であるかのような言い方に眉根を寄せた。嫌悪ではなく、感染という単語と人狼とを繋げることができなかったが故の疑念からだ。
『ええ。こっちはあんまり有名じゃないかもだけれど、吸血鬼はそもそも人狼から分化した存在よ。まあこれは伝承がそうであっただけで実際は云々と未だ討論されてるから真実かどうかはおいとくとして、詰まり、人狼に噛まれると人狼になってしまう、という伝承があるのよ。その伝承の元となったのが、病堕ちした狼だというわけ』
病堕ち、と口の中で反芻する。
『病堕ちは大別すると、混血の狂乱状態と純種の破綻状態の二つ。前者は誰彼かまわず襲いまくる暴走状態なんだけど、後者は極度の飢餓に陥ってる状態で、危険度は純種が圧倒的に高いわ。何せ、混血はただ死ぬまで暴れるだけに対し、純種は理性を保ったまま周囲の生物を食い尽くす上、牙から対象を汚染するのよ。この汚染ってのが、自分と同化させようとする働きがあって、結果汚染源の下位存在になっちゃうっていうモノなの。これは生命の危機的状況に対し、単一で繁殖を成そうとする機能の異常暴走だと言われていて―――端的に言うと、人狼に噛まれたら人狼になるのよ。それも、飛び切り狂ったのにね』
「だから病原体か」
『そ。言っとくけど吸血鬼より厄介よ。吸血鬼の飢餓衝動は対象を死に至らしめるけど、狂った人狼に噛まれれば生きたまま作り変えられてしまう。目に見えて拡大する
「待て。じゃあ今までの被害者たちは……」
『大丈夫よ。どうやら病堕ちになりきってないようでね、感染者は皆無事に殺されているわ。本格的な病堕ちなら、被害者たちは補食されようが恙なく人狼に変異して生き延びていた筈よ。予測するに、まだ穢れは三割未満。対話が十分に可能な深度よ』
「つまり、人間のやり方で殺せるという事か?」
『そ。……ただし、これが恐ろしく難しい。恐らくだけど、今回の犯人は―――』
その続きは宮森の意識に入ってこなかった。
不意に、何かの気配を察したような気がして振り返る。垂れたブルーシートにふさがれて、見通せる幅は狭い。青く阻まれた死角の先に違和感を覚えた。
「………、後で掛け直す」
『は』
返事も待たず、通話を遮断した。
―――見られている、という感覚。
「誰だ」
誰何の声は確信に満ちていた。
明確に何があった、という訳ではない。視線を感じたという言葉があるが、しかし受動的な器官である眼球が向けられた程度で物理的な作用が起こる筈もない。
言うなれば刑事の勘か。しかし、この手の勘には自信があった。長年鍛えてきたという自負がある。見張りの警官ではない、という確信があった。
耳を澄ましても、何の音も聞こえなかった。ただ、路地裏を通り抜ける生ぬるい夜風が髪先を擽った程度だ。
それでも神経を尖らせる。音もなくブルーシートの傍に寄り、青い垂れ幕に手を掛けた。
―――、
「!」
幕を振り切るように潜り抜ける。革靴とは異なる足音。素早く視線を巡らすが、それらしき人物は見当たらない。
「おい、さっきここに誰かいなかったか!」
見張りの警官に問いただす。年若い男だ。当惑しながら、しかし目上である宮森の問い掛けに答える。
「は、はい。先ほど男子学生が横切りましたが、それが―――」
「そいつはどっちに、特徴は!」
「あ、あちらです! 中肉中背、黒髪で短髪、学校指定らしい白い長袖のシャツと黒っぽいズボンを穿いていました」
「わかった、引き続き警備を頼む」
「はっ!」
敬礼を返す警官を横目に走る。
ただの通りすがりという可能性はあった。この通りは、夜間の往来はほとんどないが、しかし全くというわけでもない。事実、奇妙な音を聞いたと言う通報があったからこそ事件は早期発見されたのだ。夜遊びに耽った学生が、偶さかキナ臭さを嗅ぎ付けて近づいただけかもしれない。塾への近道に使う者もいると報告が上がっていたし、もしかすればその類かもしれなかった。
―――しかし。それでも。
「―――はっ」
息が僅かに上がる。
くちびるで遊ばされていた煙草は、気付けば無くなっていた。火は点いていなかったから、小火の恐れはないだろうが。
走れども警官が言ったような人物は見つからなかった。それどころか人影一つ見当たらない。どういうことかと思惟を巡らし、一つの閃きが走る。
数メートル逆走し、脇道に入り込む。変わらず人影はないが、数秒ほどすれば前方から人の気配がちらつき出していた―――大通りだ。
「うわっ」
「!」
大通りに抜け出た瞬間、人とぶつかりそうになってたたらを踏んだ。ふらつく身体に制動を掛ける。
見下ろした先で、相手が驚きもあらわに目を見開いているのが見えた。少しの茶色が混じった黒っぽい虹彩が広がり、真っ黒な瞳孔が針先のように絞られている。
よく見れば、相手は学生だった。白いシャツを羽織り、黒にほど近い学校指定らしきチェックのズボンを穿いている。
「……なんなんスか」
「―――いや、怪我はなかったようだね。済まなかった」
怪訝そうに歪められた表情から逃れるように、金色に染められた痛んだ頭髪から視線を流し、眼球の動きだけで周囲を窺った。通りには人が溢れ、幅広い年代の黒い短髪の男がそこかしこを通行している。ぶつかりかけた少年と同年代も数人見かけた。
そのうちの誰かが宮森が追い掛けた人物かもしれなかったし、違うのかもしれなかった。その判別を付けることはできない。
―――深く息を吐く。
視線を落とせば、金髪の少年は仲間のところへ駆けていくところだった。同年代の少年たちが彼を迎え入れ、迎え入れられた彼は何事かを呟いていた。妙な男に絡まれた、とでも言っているのだろう。何人かの少年たちがちらりと宮森に視線を走らせた。
彼らの視線を振り切るように、来た道を戻る。
もう一度往来に視線を巡らせた際に、七分袖のフードを被った少年と視線が絡まって、すぐに切れた。
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