Ⅰ 病室にて

 衝撃に暗転ブラックアウトした視界いしきに、光が差し込んだ。緩々と、光に誘われて開いていく。

「ひとしきぃーーっ!」

 最初に見たのは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった親友のドアップ

「落ち着いて、敷波さん。痛むところはないかな?」

 次に視界に映り込んだのは、やや呆れの色濃い白衣の女性。

「………」

「大丈夫? 此処は病院で―――君の名前は分かるかい?」

 僅かに怪訝な、真剣な色味が増した声に、ゆらゆらと定まらなかった意識が輪郭を取り戻していく。

 ―――そうだ、オレは。

「……、はい。大丈夫です」

 指を動かし、腕を上げ、瞬きを一度。自分という―――昏喰弌色こんじき ひとしきという器を確かめる。不調も、痛みも、軋みも、苦しみもない。健常な器、血と肉で構成された形、爪の先ほどの毀れもない身体。

 嗅ぎなれない臭いが鼻を擽った。身構えさせるような、染みる臭いは保健室と同じで、さっきまで気付かなかった仕切りのカーテンや白っぽい内装に記憶が触発される。横たわっているのは寝台ベッドで、固く清潔なシーツの感触に苦笑してしまいそうになり、堪えた。

 どうやら、気絶している間に一騒動あったらしい。予感は、周りにあるすべてによって確信へと変えた。

「アヤカ」

 名を呼ばれた拍子に涙も鼻水も止まった親友の、柔らかく癖の強い頭髪に指を通すように、力強く頭を撫でた。

「おはよ」

 次の瞬間、限界を迎えた敷波紋加しきなみ あやかによって、弌色の気に入りの一張羅はその胸元付近を重点的に、べったりと名状しがたい湿り気の洗礼を受けることになる。


「君の頑強さは敬服に値するね。骨折どころか内臓や筋さえ痛めてさえいない。はい、帰っていいよ」

 ―――以上が、弌色が気を失っている間に行われたであろう、検査のデータが記載されていると思わしき紙とパソコンの画面から目を離し、ひらひらと蝶のように手を振った白衣の女性、もとい、担当医の談である。

 事故によって緊急搬送された人間への言葉とは思えぬほど軽い。だが、それを気にする人間はいなかった。否、正確には誰も文句を言わなかった。事実弌色はぴんしゃんしていたし、怪我を負うような事態は慣れっこだということを、弌色はもとより診察室まで引っ付いてきた紋加もよくよく理解しているからだ。紋加が一人、うう、と小さく唸るが、それ以上はない。

「念のため、また明日も受診するように。頭を打っていると怖いからね。それと、頭痛がしたら何時でもすぐに連絡して下さい」

「はい、お世話になりました」

「もうこんなコトないようにねー」

 一礼して立ち上がる。その足取りに不安はなかった。表情も落ち着いていて、傍から見れば健常者以外の何者でもない。隣に控えて離れない紋加の方がよほど患者らしかった。

 踵を返して引き戸の取っ手に手を伸ばす。

「よかったね、何もなくて。……ほんとうに、よかったぁ」

「はい、ティッシュ。アヤカは泣き過ぎなんだって。オレは大丈夫だから」

 ポケットからポケットティッシュを引き抜きながら、さんざ泣かせてしまった敷波の気を持ち直すためにも、弌色は頭の中で何処かへ出かけようかと予定を練った。

(―――そうだ、今日は駅前の喫茶店に行く予定だった)

 衝撃で記憶の一部が吹き飛んでいたらしい。新作メニューができたとかで、一緒に食べに行くはずだったのだ。

 現在、弌色が居る病院は、街で最も賑わう駅周囲から少し遠い。徒歩で行くならば、1時間近くは掛かることを覚悟する必要があるだろう。壁に掛かっている時計が示す時刻は二時半を少し過ぎた頃。記憶にあった時間は一時手前で―――そこからは記憶になかった。

 折角の休みであるのにと肩を落としそうになるも、すぐさま頭を切り替えた。何時までもうだうだと悩むのは、弌色の性には合わない。

(確か、途中でバス停があったから)

 頭の中で算段する。

「アヤカ、ケーキを食べに行こう。もう腹が減って減って」

「……駅前は、もう遠いし」

「バスあったろ? それで、どっか店を冷かしてさ。ちょうどイイ時間になるって」

 ―――聴覚。嗅覚。第六感。其々の感覚器が捉えたモノを、脳が瞬時に想定シミュレーションする。

(あ)

 閃くものがある。実感というよりは感覚。予測に近い感性に、延髄反射で身体が動く。

 体幹がずれる。重心は前から後ろへ。

 そして―――予感の通り。

 弌色が手を掛けるよりも先に、引き戸が開く。

「………。君が、昏喰弌色さんだね」

 独りでに開いた―――というわけではない戸の向こう側に立っていたのは、三十路手前といった風貌の男が一人。片手は戸に触れていて、だから開けたのはこの男なのだろう。皺の寄った草臥れたスーツに、胡乱な灰色の虹彩が印象に残る。

 視線が一度弌色から逸れ、紋加に、そして二人の背後の女医へと向けられ、そして再び弌色へと戻る。その眼には確信があり、きっと後ろの女医が肯定したのだろうと弌色は察した。

「少し話を聞かせて貰いたいんだが」

 こういう者だと目の前に提示されたのは、テレビ画面でよく見る真黒な―――草臥れた男と同じ顔、金色に輝くバッチ―――

「刑事さんですか……」

 警察手帳を懐に仕舞い込み、男は是と頷いた。



「―――はい。ご協力、有難うございました」

 病院の一室で、最後まで平坦な声音で男は―――宮森と名乗った刑事が言った。質問内容は形式張ったもので、終始淡々とした声からは興奮の色合いはまったく感じ取れない。

 黒い手帳が閉じられ、宮森が一礼する。その動作に合わせて淡い色合いの頭髪がさらりと揺れた。

 出逢った当初から思っていたのだが、やはりその色素の薄さは年齢やストレスとは関係ないらしい。白髪は混じっておらず、染髪で見られるような斑のない、均一な淡い色をしている。虹彩まで灰色だから、一見すれば異国の血が混じっているのかと思ってしまうのだが、よくよく観察すれば顔立ちはアジア、日本人のそれであった。

「あ、いえ、そんな」

「市民の義務ですから。第一、当事者ですし」

 一回り以上年上の男に頭を下げられるなんて、形式であっても滅多にある事ではない。畏まってしまった紋加に対し、内心、かわいいなあ、なんて思っていることなんておくびにも出さず弌色はお行儀よく対応した。

 結局まともに言葉を紡げず、紋加は縮こまってもごもごと呟いたきり黙ってしまった。癖の強い黒髪から覗く耳が赤いことに気付いたが、弌色は見ない振りをする。

 紋加のこういった初心なところが可愛い反面、少し落ち着きを持った方が彼女のためだろうとも思う。もどかしさを覚えるのも本当ならば、このままの彼女でいてほしいと思ってしまうのも真実だった。

「アヤカ?」

「ふへっ」

 赤い耳など見なかった振りをして、伏せた紋加の顔を覗き込む。

 案の定、眉根が寄せられた顔は思い詰めた色があった―――きっと、余計な心配をしているのだろう。

 大丈夫といったところで、益々親友が落ち込むことを、弌色は知っている。そういう瑕疵だと、理解している。

 言葉を尽くしても、その心配を取り除くことができないと知っているからこそ、行動に移すことに迷う間も必要なかった。

「それでは、これでオレたちは失礼します。宮森刑事さん」

「はい。何か思い出した事があれば此方にご連絡下さい」

 差し出されたのは名刺で、少し意外に思う。刑事、という職業にこのようなものが必要なのだろうか。反面、警察が一日に対応する事件数を想像して納得もした。一々窓口から担当の刑事へと迂回する手間よりも、直通のルートを作っておく方が効率はいいのだろう。

「再度お聞きすることがあるかと思うので、携帯番号を伺ってもよろしいでしょうか」

「はい。構いません」

 言い切って、そのあとで逡巡する。電話番号を開示することではない。空メールを送るか紙に書くかを悩んだからだ。赤外線通信、という手段を選ばなかったのは心理的な距離感の問題である。

「弌色」

 紋加に袖を引かれ、すいと差し出された物に気付いた。

 生徒手帳の白紙の項の切れ端と小さなペン。タイミングから考えて、会話の最中に用意したに違いないセットに、無意識にくいと唇が持ち上がる。

「さっすがアヤカ。ちょっと待ってください。……と、はい。これがオレの番号です」

 さらさらと書き記した紙を手渡した。

「それでは、失礼します」

「ええ。お気をつけてお帰りください」

 薄く、刑事が笑う。

 その笑みに、―――



「どうした、宮森」

 朱色のくちびるは肉感的で、男ならば口付けてしまいそうな魅力があった。女医は己のその魅力を理解し、態とそう見えるようにくちびるを動かし、窓際へと問い掛ける。

 男が一人、窓辺の椅子に腰かけていた。その視線は窓の外へと固定されている。花も散った桜を見ていたのか。それとも囀る鳥が羽を休めている姿でも見付けたのか。はたまた、眼下の道路に行き交う人々を眺めているのか。

 春爛漫の過ぎ去った季節に副って、麗らかな午後の陽気が硝子越しに部屋へと差し込んでいる。それがどうにも男に似合っていて、昔から女医は日向ぼっこをしているこの男が、どうしてか植物が日光浴をしているように見えてしまうのだった。そして、それは今も変わっていない。

「いや」

 対する宮森―――先ほどまで高校生二人に事情聴取していた刑事の反応は坦々としたものだ。起伏のない声も、覇気のない表情も、何処か人形じみて詰まらないと常々女医は思っている。だからこそ、この男は面白いとも。

 黙することで先を促す。この男は坦々としていて、自分のペースを崩すことはない。会話をするコツは、相手にペースを握らせてうまく誘導することだ。

「最近の高校生は、ああいうのが多いのかと思っただけだ」

「いや、あれは彼女が特殊なだけだろう」

 ああいうの、という抽象的な表現は、けれど女医にも容易く伝わった。言いたいことはなんとなく分かる。彼女もまた、おやと眉を上げた側だからだ。

「そうか」

 それだけを宮森は返す。それ以上の言葉はなく、視線は窓の外へと向けられていた。

 男の見る世界に興味がない訳でもないが、それを理解できるとも思っておらず、自然と女医の興味は話題となった人物へ向けられた。

 思い返すのは、つるりとしたきれいな額と、短く整った釣り気味の眉と鋭角に跳ねた目尻。左右に前髪を別けたことで露わになった面には意思の強さが端々に伺えた。

「中々に険のある顔立ちだが、あれはあれでいい。将来、イイ女になるぞ」

 吐息に恍惚を混ぜ込んで、艶やかに笑う。

 反抗的な目付きも、屈服させる愉しみを助長させる一つだ。反骨精神の塊みたいな態度で、とても愉しませてくれるに違いない。

「そういえば、彼女の虹彩も変わっていたな。髪も灰色がかっていたし、何かの血が混じっているのやもしれん」

「……それより、本当に在ったんだな」

 会話を断ち切るように、宮森が女医に問う。

 その問いに対し、女医は朱いくちびるの両端を蠱惑的に持ち上げ、口を開いた。ちろり、紅い舌が玉のような白い歯の間から覗く。

「勿論。ああ在ったよ。完治寸前だったがね、間違いなく在った。見間違えるものか」

 飛び切りの笑みを湛えて、彼女は断言する。

「あれは、銃創だ」



「あの刑事さん、あんなふうに笑うんだね」

 鉄仮面がやわらかくなった、と評する紋加に対し、そうかな、とだけ返す。

「どうしたの、弌色」

「……アヤカ、さっきの刑事に見惚れてただろ」

「? えぇー?」

 何それ、紋加の明るい声がリノリウムに反射する。その声に笑みをこぼしながら、弌色は鳩尾に触れた予感に内心怯えていた。

 先ほどの光景が、どうしようもなく網膜に焼き付いて離れない。

 つい数分前の出来事。何気ない仕草。他の誰かならば肩の力を抜くような一瞬は、弌色にとって重く息苦しい苦行だった。

 その笑みに、どうしようもない違和感が在った。

 袖の下、皮膚がざわりと粟立った感覚は今も薄れず、そっと左前腕を撫でる。

 ちりりと左肩甲骨に走る痺れ。

 痛みと痒みの中間点に触発されるように、一昨日の深夜が回顧され、記憶は更に遠くへと溯ってゆく―――

 本当に、掻き乱される視線だった。

「ふふ。弌色、もしかして、さっきの人好きになっちゃった? 一目惚れとか?」

 おかしいの。

 笑う紋加に対し、苦みを隠し切れずに言い切った。

「……一目惚れな訳ないだろう」

 あの笑み、あの視線を思い返すだけで、ざらざらとした舌触りが蘇る。

(―――あの目、狩人みたいだった)



「……そうか」

 ただ一言。

 たった一言、宮森は呟いた。

 独語とも取れる声に対し、女医は笑いながら、もっと言葉があっていいんじゃあないか、と笑い返す。

「また来る」

「まて、宮森」

 端的に告げ立ち去ろうとした宮森の進路を女医は遮った。くちびるには、変わらず笑みがある。しかし眼は異なった。笑っているようで、その実真剣そのものだ。一度視線を合わせれば、逸らすことさえ許さぬ眼圧が在る。

「なあ、一つ聞かせろ」

「…………」

 沈黙は長く続かなかった。やがて観念したように、宮森が女医へ視線を投げる。

「本当に人狼だったら、まさか狩る気か? お前の独断で? なあ、宮森特務」

「トラックと正面衝突して運ばれてきたんだろう。なのに傷一つない。少なくとも、人間じゃあない」

 窓の外には穏やかな春の陽射しが満ちている。桜は散り、芽吹く若葉は瑞々しい生命に満ちている。

 硝子一つ遮られた室内は、感情の行き交いから冬のように寒々としていた。

「質問を変えるぞ。あの女子高生を、私の患者を、殺そうというのか?」

 沈黙が落ちる。

 ―――そしてやはり、それは長くは続かなかった。

「連続殺人犯の、……連続殺人鬼の可能性があるなら、見逃すべきじゃあない」

 それは、鉄のように重々しい声だった。

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