Ⅲ 灰と灰と

 弌色がいっとう四季を体感するのは、いつも、この下校時に通るこの山際の道でだ。

 神社の持ち物であるからか、その神社の社が在るからか。人の手で整えられながらも自然が尊重されたこの山は、当然ながら緑豊かだ。山肌を覆う広葉樹は、春は新緑を芽吹かせ、夏は噎せ返るほど緑を深め、秋は紅葉のうつくしさを主張し、冬は寒さに凍えて葉を落とす。その移り変わっていく様は見るモノを楽しませるが、それだけではなく、弌色はこの斜面から漂い落ちる花々の薫りもまた好んでいた。

 春めいた空気はこの数日で潜まり、代わりに五月らしい爽やかな風がうなじを通り過ぎた。花の薫りを鼻腔を刺激する。嗅ぎ覚えのある匂いだ。皐の甘ったるい薫りと、盛りを過ぎた藤の残り香。あとは、微かに混じる、恐らくは矢車の花。碧いとげとげとした花弁が連なる様が特徴的なあの花は、弌色にとってこの季節の風物詩だった。

「今年もあの花、ドライフラワーにするのか?」

「あのって、……あ、矢車菊のこと? うまく出来たらまたお裾分けするね。後、今年は他にも色々挑戦しようと思ってるんだ」

「色々……ポプリ以外にもあるのか?」

 乾燥させた花の臭いを思い返しながら、はて、と疑問を口にする。薫りを楽しむ以外の花の利用方法など思い付かなかった。

「うん。アロマオイルとか、香水も手作り出来るみたい。他にもお茶や化粧水とか、色々挑戦してみようと思ってるんだ」

「そんなのも手作り出来るのか……」

 小さな感嘆と共に目を瞬かせる。

 確かに花の中には生薬として扱えるものも在るのだから、そういった加工ことも可能だろう。だが、それを特殊な設備を持たない素人が作成できる、とは考えもしなかった。

「試作品の感想お願いします。それでね」

 紋加のくちびるが綻んだ。

「今度、お母さんとお菓子を作ることになったんだ」

「そっか」

「うん。クッキーをね。一緒に焼くんだ。上手くいったら、次は……次は、もっと」

 紋加のまろくなった頬が紅潮していく様を、髪の影から燦めく眦のやわらかな曲線を見て、弌色は目を細めた。臭いが一際深く鼻腔へと入り込む。

「そうだな。で、そっちのお裾分けは期待しても良いのか?」

「勿論!」

 引き千切るような心地で視線を切って、道の先へと向けた。弾む気持ちのままにくちびるを開く。

「よし。じゃあ今日の予定は―――」

 そこで、声が止まった。

 くちびるが動かない。

 くちびるだけではなく、両足も、視線も固定される。

 弌色は目の端で、不思議そうだった紋加の表情が、一瞬で驚きに、直ぐさまに得心したものへと移り変わっていくのを捉えた。彼女のくちびるが動くのもまた。

「こんにちは、灰哉君」

「こんにちは、敷浪さん」

 紋加に合わせ、見慣れた学生服姿の青年が軽く会釈をする。

 黒い髪は短く切り揃えられ、なのに、癖の強さの所為で彼方此方へ猫のように跳ねている。真っ黒い目はどこか少女めいていて、その肌の白さと合わせて中性的な容姿だ。だが、その眼力の強さと立ち振る舞いは秩序を重んじる青年そのもので、弱々しく見える素養を軒並み打ち払っていた。

 変わらない、と思った。直近に見たのが半月前なのだから、当然であるのだが。

 待ち伏せていたのだろう。開けた並木道であったのにも関わらず、弌色は数メートルまで距離を詰めなければ彼の存在を認識できなかった。僅か数メートル。弌色の五感の鋭さからすれば有り得ない距離だ。今も彼特有の匂いが感じられない。ただ、強く、花の臭いだけが鼻腔を刺激している。

「弌色、先に行くね」

「………」

 引き留めるべきだ、と思った。

 だが、くちびるは変わらず動かない。

「大丈夫、すぐそこなんだよ? 心配し過ぎだって」

「……、ごめん」

 ようやっと、それだけを口にできた。

 目を離すべきでない。解っていて、それでも視線は彼女から逸れたままだ。

 肩にやわらかい感触が当たる。紋加の手だ、と彼女の動きで理解した。途端、狭まっていた気管がすこしだけ楽になる。

「それじゃあね、灰哉君」

「……さようなら」

 一度だけ弌色を見遣ってから、紋加は立ち去った。

 細い背中を、言うべき言葉も見失ったままに見送る。山際に沿ってくねる道は、左に家屋、右に樹木の群れを抱え、数十メートル先を行く人々は一様に視界から消え失せる。その例に漏れず、小走りに去って行った紋加の姿は三十秒ほどで見えなくなった。

 否。

 それよりも前に、弌色の視界から彼女は外れていた―――彼女から視線を外したままだった。

 どうしようもなく。

 数メートル先の彼から視線を、五感を、意識を、外すことができないでいる。

 くちびるを二度、三度、開閉させる。呼気が微かに漏れるだけで、音声は一音も零れることはない。

「久しぶりだな」

 彼は。

 灰哉は、何もかも変わりない声で、会話を切り出した。此処で待ち伏せると決めた時点で腹は据わっていたのだろう、言葉に淀みはない。

 そのそつの無さに、反射的に言い返す。

「神域の花を手折ったのか」

 解りやすいよう、顔ごと視線を灰哉の左手へと向ける。彼の左手には一輪の花を付けた茎が握られていた。瑞々しい淡い藍色の花には見覚えがある。紋加が一入に手入れをしていた、本社の傍に植えられた花壇で咲いていた一輪のはずだ。

「押し付けられたんだよ。……まだあの女とつるんでるのか」

「紋加は“私”の友人だ。掛け替えのない親友だ。そもそも、お前に交友関係に口出しされる謂われなどない」

 言ってから、失態に舌を打った。とうに捨て置いた筈のモノを未だ捨てられていないという事実に苛立つ。そして、言うべきこと以外を口にし、判りきったことをわざわざ指摘する自分自身の間抜けさに腹が立つ。

 弌色と彼の視線が交わった。

 それだけで、互いに、相手が次の言葉を探しているのが理解できた。理解し合っていることを、相手の目を見て理解した。

 何を言いたいか、何を言うべきかは分かっている。言うべき言葉は一週間以上も前から決まっている。恐らくは、お互いに。だから灰哉の言葉は直裁で無駄がない。なのに弌色はそのように振る舞えない。

 分かっているのだ。

 分かっていながら、口にすることをどうしても戸惑ってしまう。戸惑う理由など、何処にもない筈なのに。

「怪我はないのか」

「してない。毎日何かあるわけじゃあない。お前の方こそどうなんだ」

「………先週、病院に運び込まれたって聞いたがな」

 一瞬、父親の姿が脳裏を過った。

 数日前から妙に落ち着きがなかったが、こういうことか、と腑に落ちる。

 溜息が出そうになる。

 弌色の知らないところで、一方通行の遣り取りがあったらしい。心配性と言うべきか、人が良いと言うべきか―――未練がましい、愚かしいと切って捨てるのは、父親の心情を理解している分だけ戸惑われた。

「この通りぴんぴんしてるよ。他に何かないなら俺は行くぞ」

 視線を逸らして灰哉の脇を通り抜けようとした。無論、通り抜けられるとは思っていない。やり過ごせばお互いに楽かもしれないが、しかし、それでは何も得られない。何も変わらない、どころか、現状維持は消耗戦に他ならないことなど、互いに痛感している。

 案の定。

「屍体は処理した」

「―――」

 突き放すような声音で、端的な事実だけを告げてきた。

「このまま、噛み付き魔なんていう下らん呼び名は消え去るだろうよ」

「……そう」

 事実、あれから殺人事件は一度も起こっていない。もう、あんな獣の所業が起こることはないだろう。

 新しく生まれてゆく噂話によって、そんな話もあったな、という程度で終わってしまう。そんなものだ。どれだけ世間が賑わっても、悪辣でも奇怪でも、人は不思議なほどに忘れていく。そんなものなのだ。

「次はもっと巧くやるよ。……俺の尻拭いなんてさせて悪かったな」

「そう思うんなら、あの男をどうにかするんだな」

 あの男。

 その言葉で思い描いた人物は、冷たい目をしていた。冷たくて空虚な瞳は、何処か、目の前の少年こどもに良く似ている。

 ―――嗚呼、と、胸の底から吐息めいた声がする。

「あの男に合ったんだろう。」

「………」

 灰哉は。

 険の乗せた黒々とした目で、弌色の顔を見遣り―――

 その目を見て。

 心臓が引き絞れるのにも似た、かつての痛みがぶり返す。

 黙れ、と。

 くちびるが動く寸前で叫びそうになった。そうならなかったのは、弌色と灰哉の間に横たわる複雑さと、何よりも弌色の気位の高さ故に他ならない。

 それでも。

 止めてくれ、と言いたかった。

 こんな目をする時の灰哉は、弌色が一番嫌な意見を突き立ててくる。

 そして。

 検分するような間の後に、忌ま忌ましさを隠すことなく顔を顰めて、苦々しく吐き捨てた。

「判ってるだろ。あんな死にたがり、関われば碌なことにならないぞ」

 出来るならば止めている―――そう返すことは、終ぞできずに終わった。

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