3 四日前 刑事と魔狼

 意識が持ち上がる。

 眠りの最中、宮森の意識は常に浅瀬に在って、少し身じろぐだけで水面へと持ち上がる。

 この数年、眠りの浅さが苦になったことは一度もない。今回も覚醒は一瞬だった。眠りの名残も残らない。

「………」

 何をしているのだろうか、と考える。寝ぼけることがないとはいえ、頭の回転数が平時と同じというわけではない。

 暫く相手を眺めたあと、宮森は億劫さを隠さず、率直に問い掛けた。

「何をしてるんだ、夜宮」

「お。おはよう宮森君、今回は良く眠れた?」

 軽薄な声で、黒衣の女が答える。

 ソファから身を起こす。再度問い掛けるつもりはなかった。一度目で望む返答がなかった以上、重ねることは労力の無駄でしかないからだ。

 側めて、女を見遣る。

 夜宮やみやけい。宮森の同僚であり、怪異事件特別捜査班の先輩だ。小綺麗に整った容貌はかえって容姿の没個性を誘発し、翻って内面のみが印象に残る、という好例のような人物でもある。肩口まで伸びた茶髪が、しぐさに合わせて揺れるのを、気付けば視線で追っていた。

「到着は夜じゃないのか」

「何言ってるの、今朝、今から行くって電話したじゃない。相変わらず寝起きは最悪ね。ホラホラ、会議するよ」

「会議……」

 県警との合同捜査会議はとうに終わっている。

 掛け時計を見遣って、呟いた。

「……三時間前に終わったぞ」

「ん? 三時間……、ああ。いえ、そうじゃなく。あんなぐだぐだ合同会議じゃあなく、私たち特捜の特捜による特捜の為の特捜会議よ!」

 薄い身体を仰け反らせている夜宮から視線を切って、身を起こす。

 睡眠時間は凡そ一時間四十分。仮眠のつもりだったのだが、思いのほか寝入ってしまったらしい。枕代わりに丸めた上着(ジャケット)と、その傍に放置していた携帯を手探りで掴む。アラーム機能を確認して、そこで充電が切れていることに気付いた。見れば、充電のために差し込んでいたコードが外れている。

 そこで漸く、夜宮が態々この部屋まで足を運んだのか、その理由に思い至った。

「そうか。今からか?」

「此処でするつもりはないわ。部屋を借りたからそっちに移るわよ」

「分かった」

 上着を掴んで起き上がる。皺だらけのそれを羽織って、引っかける程度に緩めていたネクタイを締め直した。

 廊下へと出て、夜宮の背を追って右へ折れる。

 署内は思いの外に静かだった。昼時だということもあるのだろうが、それでも連日の様相と比べれば、閑散としている、とさえ思える。

 すれ違う人の表情も、昨日までと異なっていた。大半は素知らぬ顔をしているが、だからこそ、数名が浮かべる困惑、或いは嫌悪が目に付いた。そういった顔をした者は、今朝の会議に出席していたか、或いは人伝に聞いたのだろう。明日には署内全体に知れ渡るに違いなかった。

 彼らの反応に対し、当然か、と宮森は納得していた。

 今朝の捜査会議は、いつもの通り散々なものだった。何せ、犯人は人間ではない、という証拠を何処の誰とも知れぬ輩が持ち出してきたのだ。今朝速達で届いた書類には、犯人は人狼であるという事実とその裏付けが事細かに記されてあった。出鼻を挫かれた側からすれば、嫌みたらしいほどだっただろう。

 犯人像に対する反対意見は殆どなかった。

 皆、多かれ少なかれそうではないかと思っていた、ということだ。

 だが、捜査の主体が特捜班に―――即ち、部外者になるということには、出席していたほぼ全員が反発した。

 反発しなかった一部は、宮森と、命令を下した県警本部の人間のみである。

 とはいえ、命令を下した刑事もまた、不承不承、というのがよく見て取れた。何せ宮森も同意見だからだ。

 宮森でさえ、精々が捜査権を認められる程度、などと思っていたのだ。

 だと言うのに、いきなりこの大抜擢。指揮系統を蔑ろにしているにも程がある。

(あの狸爺め)

 態度に一切出さなかったが、この差配には相当苛立った。同時に、一体何が絡んでいるのだ、という懐疑も沸き立つ。

「あ、この部屋よ」

「………」

 開けっ広げになっている扉を見遣り、そして部屋の中へと視線を移す。

 果たして、予想通りの光景が広がっていた。

 まず視界に入ったのは紙だ。書類という書類が、机上のみならず床にまで散乱している。何故か膨張しきったコンビニ袋が幾つも段ボールに押し込まれているのを認めつつ、何とはなしに別の区画へ目を遣れば、段ボールが横倒しになって中身を晒していることに気付いてしまった。

 あまりにも見慣れた“内装”に、毎度ながら眩暈を覚える。

 誰かが家捜ししたのか、或いは超局所的な災害が発生したのか。予備知識がない者が見れば、そんな発想に至るような景観だった。当然、本当に誰かが荒らした訳ではない。若しかすれば第三者が入り込んだかもしれないが、それでもここまで“規則正しい”乱雑さを作ることは出来ないだろう。

 ある種の特技と言うべきか。

 彼女の、夜宮の知識量は凄まじい。特に魔術関連に於いて右に出る者はおらず、また、その空間把握能力と記憶力もずば抜けている。それは司書である≪夜宮≫が持って然るべき能力だ、と嘯く彼女がいてこそ、特捜班は成立していると言っても過言ではない。

 だが、何事も一長一短ということか。

 そのずば抜けた空間把握能力と記憶力、そして彼女の独特の感性は常人の理外で噛み合い、彼女独自の規則性を確立してしまったらしい。夜宮が居座ると、それが一時だろうと必ずこの惨状が勃発し、そして当人は素知らぬ顔で去って行く。悲しいことに彼女に常人の理解が及ぶ収納能力は絶無で、片付けは常に周囲の人間の役目だった。

 ゆっくりと部屋を見渡して、無数に貼り付けられた紙面で埋没寸前のホワイトボードを発見した。

「………そのボードか?」

「うんうん。ていうか宮森君、ちょっと端的すぎない? 何時も以上に無口じゃない? ……いやいつも通りか。でもテンション低いなぁ、もっと上げてきましょうよ」

 昂揚し通しの夜宮に辟易しつつ、端的に終わらせる為に本題に切り込んだ。

「それで。何か判ったんだろう、報告を頼む」

「……。判ってることは、昨日言った内容と変わらないわ」

 夜宮は僅かに眉尻を尖らせ、けれど一瞬で変貌した。

 声音は穏やかに、表情はやや無機へ。少女めいた空気は霧散し、機械のような怜悧さが横顔に宿る。

「犯人の行方は以前不明。十歳前後の少女、若しくはもっと幼い外観をしている。発生地域はヨーロッパ周辺、ドイツ南西部の可能性が高い。石川から三重北端へ移動し、以降は東へと蛇行。その過程で5件の傷害事件に関わっていると思われる。―――此処までは昨日の資料と同じ。で、こっちに来るまでに纏めた資料がコレ」

 手渡された数枚の資料に視線を落とす。ざっと読み込んでみるも、目新しい情報はないようだった。それでも情報を正しく理解するために目を通していく。

 そして。

 三枚目の紙を捲ったところで、宮森の指が止まった。

「……この、昏喰という人物は何者なんだ?」

「資料の通り、この街に住む唯一の人狼よ」

 人物像として添付された画像には、草臥れた印象の中年男性が写っていた。


    ◇◇◇


 この世に住まうのは人間だけではない。

 動植物という話ではなく。人間のスガタをしながら人間ではないモノが一定数存在している。

 伝承に語られる吸血鬼や人狼も、実在する人外だ。

 そして。

 この二種は、今や絶滅危惧種と認定されている―――らしい。

「教会に狩られたことも一因なんだけどね。で、これ以上の減衰を抑制するためにというお題目でCCAが首を突っ込んで、後はもうシッチャカメッチャカよ」

 夜宮が到着した翌日。

 二人は公用車を路駐させ、道路を歩いていた。

 訳知り顔で語る夜宮は、事細かに語るつもりはないようだった。彼女がこういった素振りをする場合、大概が過分か、短時間で語れないかの二択だ。ともあれ、今必要な知識ではない、ということには違いない。

「まあ背景は兎も角、現代ではCCAに登録するというのは、力ないモノが庇護を求めることに近いの。……とはいえそれも対教会用の、という側面のみであって、後は叶屋商会にすんなり登録できるぐらいしか意味の無い処置ではあるんだけれどね」

「………」

 この数年で幾度も耳にした単語に、三大組織か、と口には出さずに呟いた。

 西洋宗教から派生した、教会。国連下位組織、CCA。そして異形異能コミュニティの連携を担う、境界。

 この百年で表世界に台頭、或いは設立されたこの三組織は、三大組織と揶揄されるほどに、知ろうとすれば容易に知れるような著名なものだ。

 そして、民間企業である叶屋商会は、CCA、境界とある種の提携契約を結んだ派遣会社だった。一時は社会が見切った怪異事件ブラックボックスを一手に担っていた組織でもある。

「この人は商会には登録はしていなかったから、本当に教会から逃れたかっただけみたい。登録されていた住所は大雑把だったけど、それでもこの街在住だってことは簡単に判ったし、隠す気も隠れる気もあまりないようね」

 言葉と共に夜宮の足が止まったのと、宮森が立ち止まったのは同時だった。

 夜宮が拾い上げた情報に記載されていた住所は古ぼけた塀に囲われ、敷地には二階建てアパートメントが建築されていた。一目で、かなりの築年数を経ているのが見て取れた。防音どころか、耐震さえ不安になるくらいに古めかしい。少し眺めただけでも、どのドアも赤錆に取り付かれおり、庭とも呼べない面積の地面には苔と雑草が勢力を伸ばしている。数えるほどしか植えられていない低木は、伸びすぎた枝を剪定されているだけのなんとも不格好な姿をしている。

 手入れがされていない訳でないようだが、どう見ても追い付いていない。

 干された洗濯物や庭に放置された如雨露に視線を向ける。人が住んでいる気配はあるが、それらがなければ廃墟と見間違えても可笑しくはなかった。

 傾きだした日差しの下でさえこの有様なのだから、日暮れ時では廃墟そのものの威容となっているのだろう―――宮森はぼんやりと思う。

「まるで廃墟だな」

「……宮森君、結構失礼よね」

 敷地内に踏み込む。郵便受けの名前を一つ一つ確認し、軋む階段を登り、そうして二階の一番奥で足を止めた。

 夜宮と視線を交わし、インターホンを押す。耳障りなブザー音が鳴り止んでから少しの時間を経て、ドアが軋みながら開かれた。

 恐る恐る、といった様子で髭面の男がドアの隙間から顔を出す。外されていないチェーンから、彼の警戒心を察知した。

 写真と同じ顔の男であると確認してから、宮森は口を開いた。

「昏喰淑朗さんですね」

「……あの、どちら様ですか」

「警察です。少々お話を伺いたいのですが、宜しいですか」

 提示した警察手帳と宮森たちを暫し見比べ、怪訝そうな表情を強める。が、宮森の警察手帳を数秒見詰めていると、その表情が僅かに変化した。

「……此処じゃ何なんで、中へどうぞ」

 案内されたのは十畳にも満たないリビングルームだった。

 案内されたというより、上がり框に上った時点でリビングだった、というのが正しい。

 座卓と座椅子、窓際のソファベッドだけで部屋面積の三分の一を占有しており、雑然とした印象を受ける。ドアは玄関を除けば二つきりで、一方は風呂場かトイレに繋がっていると仮定すると、実質二部屋しかないらしい。

 資料に記載してあった義理の子供たちが活用しているのだろう部屋はドアが閉じられている。窺い知ることはできないが、人の居る気配はないようだった。時間帯から推測するに、今は学校だろう。外観から推測した構造上、あちらは六畳ほどの広さが精々だろうか。二人で使うには、それも異性同士では、狭すぎるだろうのではないだろうか。

 周囲に視線を巡らせる。

 雑然と思えたのは部屋の狭さに対して物が多すぎるためで、よくよく見れば棚の隅々まで整理整頓が行き届いているのが分かる。置いてあるのも一般家庭では極々普遍的な物ばかりだ。空間の狭さが圧迫感を招いているだけなのだろう。家具も、雑貨も、どれもが古びている。唯一、座卓上に置かれたパソコンだけが真新しい。

 向き直れば、昏喰はどこか暗い目を宮森と夜宮へ向けていた。

 目元まで垂れた前髪から覗いているのは、探るような、伺うような明るい茶色の目だ。見覚えのある色彩は、確か、梔色と言うのだったか。

「昏喰さん、三日前の夜のことでお伺いしたいのですが」

「え?」

 宮森が、慇懃な、しかし拒否を許さない声音で問う。

 すると何故か、彼は虚を突かれた表情を浮かべた。数秒間もごもごと言葉にならない音で呻いたあと、困惑を多分に含んだ萎びた声で返答しだす。

「ええと、あ、三日前、ですか……? 三日前、なら、家に居ましたが」

「失礼ですが、それを証明できる方はいますか」

「娘が、……娘と一緒にいました。夜の、11時には就寝しましたけど。あの、何を訊きたいんですか?」

「失礼、言っていませんでしたか。私たちは三日前の事件について捜査していまして。聞き覚えはありませんか? 三日前の深夜、市外で起きた事件を」

「……知っています。ニュースで連日取り扱われてますから」

 やや顔を青褪めさせ、昏喰が肯いた。宮森たちが何のために彼を訪ねたのかを理解したのだろう。理解した上で、彼は困惑している。何故自分を訪ねたのか、自分から何を聞き出したいのか。何を理由に、此処に居るのか。戸惑っているのがよく分かった。

 そのタイミングで、ずっと沈黙を貫いていた夜宮が口を開く。

「その犯人は人狼でした。―――この意味、お分かりですね」

 その一言は劇的な効果を齎した。

 昏喰の顔に食い付いていた困惑が一瞬で氷解し、驚愕、そして警戒へと変化する。口元が微かに動き、最後にはくちびるが固く引き結ばれた。

「俺は、何の関係もありません」

「ですが、この地域に人狼は貴方だけです。疑うなという方が難しいのでは」

「戯れ言は止めてください。……本当は、俺に、何を訊きたいんですか」

 先ほどまでとは一変した、固く醒めた声で返ってくる。

 変わったのは声音だけではない。表情から怯えに近い色が抜け落ちている。また、落ち着きのなかった両手はだらりと下げられ、膝が伸びきって重心が高い位置に移動していた。正中線も完全に晒されていて、この状態では何があっても即座の対応は困難だろう体勢だった。

 逃げ出したいという声なき声が表れたしぐさの一切が抜け落ちている。諦念とも受け取れる態度は、服従に似通っていた。

 これが彼の処世術なのだろう。抵抗はしない。此方から何もしない。だから何もしないでくれ。―――そんな声なき声が聞こえるようだ。

「ご不快にさせてしまったのならば申し訳ありません。ですが、貴方と同じ人狼である以上、この街で犯人が頼れるのは貴方以外にいないのではないですか」

「それこそ有り得ません。人狼は縄張り意識が強い。外から来た部外者の同族が自分の縄張りを荒らした以上、穏便に済むはずがないとはそちらもご理解しているでしょう」

 夜宮の言葉は、穏やかだが芯のある口調で否定される。今の彼から発せられるのは、不快感にも近い明確な拒絶だ。

 不味い、と思いながらも宮森は沈黙し続けた。

「そうですか。でしたら、この街に滞在する部外者の居場所を、貴方は把握されているのでは?」

「……CCAに探りを入れたんでしょう。公開されている情報を閲覧されたなら、俺の血が薄いことは理解されている筈では。俺は鼻も耳も利きません。厄介な性質以外、何もかもただの人間と同レベルだ。犯人が人狼なら、いや、犯人だとか関係なく、同族が傍に来たとしても俺が人狼だと気付くことはないでしょう」

「では、何もご存じないと?」

「ええ、心当たりはありません」

 にべもない返答だった。

「申し訳ありませんが、俺では力になれません。どうぞお帰り下さい」

「そうですか。それではご子息かご息女はどうでしょうか。お話を伺いたいのですが」

「……あの子たちが里子ということも知っているでしょう」

 そこで、顔色が僅かに変化した。沈痛、とでも言うべきか。微かな苦みも混じった表情は、直ぐに苛立ちに取って代わる。

「いい加減にしてください。何なんですか、俺を共謀者扱いするかと思えば、次は子供たちを? 巫山戯るのもいい加減にしてくれ。アンタたちが―――いや兎も角、嗚呼クソッ、さっさと出て行ってくれ」


    ◇◇◇


 夜宮が明るい声でこぼしたのは、追い出された後、マンションの目の前に駐車していた車に乗り込んだ直後だった。奇跡的に借り出せた公用車の助手席で、手狭であることも気に留めず、鞄の中から次々と物を引っ張り出している。

「うぅん、あそこまで典型的だったとは予想外だったわ」

「人外なんぞああいうもんじゃないのか」

 宮森の言うところの“ああ”とは、閉鎖的であるという意味だ。

 所詮、人狼や吸血鬼、魔性やそれに携わるモノは少数派だ。自然、そのコミュニティは限られたものとなり、閉鎖的になっていく。外部を弾くだけなら可愛いもので、属さない側を“劣っている”と見下し、時には暴君の如く振る舞うモノさえいる。

 彼の場合は逆―――絶対少数故に自らを力ないモノと見做しているようだが、しかし排他的であることに変わりない。

 外部からの助力を、干渉を良しとしない。

 その外部にどれだけ被害を齎しているのかを、全く自覚していないからこそ出来るあの態度。

「宮森君、落ち着いてきた?」

「……少し苛立っただけだ」

「そう。そういえば訊きたかったんだけど、宮森君、昏喰さんのこと知っていたの? 知り合いかなと思ったんだけど、そういう雰囲気でもなかったし」

「一方的に名前を知っていただけだ。人狼だということも今日知ったぐらいだな」

「ふうん?」

「それで」

 これ以上無駄話を続ける気になれず、夜宮の言葉に被さる勢いで声を発した。

 そも、犯人の足取りが追えない現状に於いて、時間の価値は黄金に勝る。

「何が分かったんだ。無駄な遣り取りを挟む気はないぞ」

 ちらと視線を側めれば、先手を打たれて夜宮はむくれた顔をしていた。だがそれも一秒ほどで引っ込める。

「人狼という人種に区分される以上、どれだけ血が薄かろうと、その性質はどうしたって影響を残すの。例えば吸血種が―――」

「簡潔に言ってくれ」

「……この情報、資料に載せてたんだけどなぁ?」

 しっとりとした視線が向けられる。

「悪いな、見ている時間が無かったんだ」

 宮森は後部座席に視線を流した。

 茶封筒を確認すると、中に突っ込んだままだった紙の束を取り出す。表紙には『人狼の歴史と生態』という文字が印字されている。

「今から見るよ」

「今から説明する流れじゃなかったっけ?!」

「夜宮さんは口頭だと纏まりがないからな」

 以前に鬼の説明を受けた際、彼女の持論や思い付きの推論混じりの論拠を定説だと信じた結果、顔面の皮膚を失いかけたことを宮森は忘れてはいなかった。

 垂れ流される文句を無視して資料に目を通す。

 『人狼の起源について』―――読みを飛ばす。紙を捲る。

 『獣人とシャーマニズムの関連』―――飛ばす。紙を捲る。

 『魔獣と獣人の違いと共通項』―――飛ばす。紙を捲る。

 『中世ヨーロッパでの人狼の人権』―――飛ばす。紙を捲る。

 『世界中に分布する変身譚と獣人の差異』―――飛ばす。紙を捲る。

 『現存する獣人の傾向、混血と純種とは』―――飛ばす。紙を捲る。

 『人狼の能力について』―――指を止める。

 読み通した内容曰く。

 人狼はコミューンを形成するにあたり、味方と外敵を区別するために特殊な器官を備えている。この器官は人狼同種以外にも有効で、原種に近い場合のみ、極めて近接であれば怪異の種類まで判別するという。

 識別能力はコミューンを形成する獣人の多くで共通しており、血の薄まりと同じく変身能力を失って久しい現代において、この識別能力を分水嶺に設定し、獣人の血統に属するか否かを判定する―――

「……人狼だと判定されている、イコール、この識別能力がある、ということか」

「そういうこと。まあ、血の濃さ薄さで、どれくらいの距離が有効かとか、どれくらい精密に識別できるかとか、結構ぶれがあるんだけれどね」

 とはいえ、と夜宮は続ける。

「あの言い分だと、わからないのが当たり前、と取れるんだけど……」

「取れるというか、俺にはそうとしか取れなかったが」

「だよねぇ。なんか齟齬があるというか……」

 昏喰がはっきりと『傍にいても判別できない』と断言していたのを思い返す。確かに、夜宮の言うとおり、この資料と昏喰の発言には食い違いがある。

「嘘を言っているという可能性もあるだろう」

「人狼が犯人だと言った時に浮かべた彼の表情、宮森君は嘘だと思う?」

「……いや、思えん」

 正直に口にする。

 血の気が引いた、まさか、と口にしないのが不思議なほどに驚愕と恐怖の滲んだ顔。あの瞬間に浮かんだ表情は真実であると宮森は感じた。あれが演技だとすれば相当に厄介な相手だが。

「………」

 思考が空転している気がする。

 兎も角、昏喰が事実を語っていないことが証明された。最後の悪態も、自身の失態に気付いたのだとすれば納得もいく。同時に、更なる失言を口にしかけたという可能性もある。

 可能性。

 所詮は可能性だ。証明がされても、それでも尚、導かれるのは“かもしれない”であって確証ではない。

 相手じんがいの言動。相手じんがいの利益。

 それを紐解くためには情報が―――相手の行動理念、判断基準が必要だ。資料からは読み取れなかった、人狼という種族に於ける主軸。人間とは違う精神構造と社会基盤。

 どれほど人間と似通っていても、彼らは人間とは決定的に違う。社会に溶け込むことが出来ていても、それでも混じりきれない部分がある。

 だからこその異物。だからこその異端。

 決して共感も理解も及ばない異質は、時として社会に致命的なエラーを起こす。それが全体からみれば極小の点だとしても、決して無ではない。

 絶対に、零ではない。

 ふ、と短く小さく息を吐く。沈み込みかけた思考を切り替える。

「何のために嘘を吐いているか予想は立つか?」

「或いは、嘘を吐いているという自覚が―――いえ、もしかすると嘘ではないのかも」

 予想外の夜宮の呟きに対して、反応が数秒遅れる。

「それはおかしくないか」

「ええ。でも、話してて思い付いたんだけど、条件さえ重なれば有り得ることなの。有り得るんだけど、でもだとすれば―――」

 そこで、夜宮は言い淀むように言葉を切った。考え込む仕草をしたのを目の端で視認する。

「かなり不味い状況ね。早急に確認しないとかなりヤバい。宮森君、ちょっと行って欲しいところがあるんだけど」

 鞄から取り出した地図に視線を落とし、夜宮がある一点を指さした。その場所を確認するため、彼女の手元を覗き込もうと身を寄せる。


『―――傷害事件が発生。男性より襲われたと通報あり。近隣の車両は現場へ急行せよ。場所は―――』


 直ぐさま後方をバックミラーで確認する。

 昏喰の部屋を見れば、窓越しに彼の姿が見えた。

 時刻は3時半を過ぎたばかりで、真夜中とはほど遠い。連日の事件は全て夜中に起こっていることを考慮すれば、別の事件だと判断するべきだった。

 しかし。

『男性を襲ったのは大型の獣に酷似した人間との目撃情報あり。犯人は居合わせた少女を連れて―――』

 大型の獣に酷似した人間。

 有り得ない形容は、しかし、だからこそ犯人を特定させた。

「夜宮」

「待って。……此処と、此処を経由してこの地点へ向かって。それで遭遇できなければ南下して、このルートを通って市内へ。外見は狼、或いは十代前後の人間、深度から考えて頭髪は金。人の通る道を通過するとは限らないわ」

 蛍光ペンでルートを書き込み、要所を丸で囲うと、夜宮はその地図を宮森に押し付けて降車した。

「別行動しましょう。私は行くところがあるから」

「……分かった。気を付けろよ」

「こっちの台詞よ。早く行きなさい」

 ドアが閉められたのを確認して、エンジンキーを回し、アクセルを踏む。

 小路を抜け、指定された経路に沿って車を飛ばす。

 一カ所目の経由地。開けた空き地のある街路だった。見渡すが何もない。

 二カ所目。降車する。指定された人気のない裏路地と入り込んだ。周囲を確認し、ビルの外壁に奇妙な傷を発見する。地上から五メートルの高さに二カ所、まるで鉄球をぶつけたような痕だ。しかしそれだけだ。血の跡も、人影も、生き物の気配はない。

 そして三カ所目。そこも二カ所目同様、車で入り込めない細い路地だ。コンクリートのビルとトタン壁の廃屋が乱立する場所で、人気は皆無だった。降車し、指定された経由地へ向かう。

「………」

 路地に入り込んで、数メートルの位置で立ち止まる。

 日常では決して感じることのない違和を知覚したからだ。

 凄まじい異臭だった。何故表通りに浸出していないのかと思わずにいられないほどの、濃密な血と動物の体臭が入り混じった、腐臭じみた饐えた臭い。

 吐き気を堪えながら、ホルスターから拳銃を抜く。

 人気のない裏路地を慎重に進む。両側の建物の群が壁となり、一メートル未満の道幅の路地は、当然ながら狭く暗い。

 奥は辻道になっており、前方左右のいずれも見通しが悪い。耳を澄まし、目を凝らすが、五感は臭気以外の異常を感知しない。異形も、呻き声も、悲鳴も―――生存者の気配は、何一つ。

 拳銃を構えたまま、臭気の濃い右に折れる。

 進むごとに臭気がどんどんと強くなる。

「………、ぐ、ぅ」

 堪らず、銃を握っていない腕で鼻を庇った。足が止まる。臭気がひと際強い。噎せ返る、などという範疇ではない。肺が爛れそうな濃度に、呼吸が詰まる。

 躊躇する心を抑えて、深く息を吐き、吸った。

 限度を超えた不快感に視界が明滅する―――錯覚だ。否、ある意味では正しいことだと識っている。だからこそ、知識に基づいて呼吸を深めていく。

 呼吸を繰り返す。意図的に深く、早く。積極的に空気を取り込んで、身体に循環させるために。緊張を解すため、こわばる身体から適度に力を抜く。

「………、はぁ―――。………、」

 吐いて、吸って、吐いて。深い呼吸を繰り返す。

 いつの間にか地面に落ちていた視線を、正面へと持ち上げる。視界には、変わらず異常は見られない。ただ、暗々とした路地が表通りへと伸びている。

 獣の声も、悲鳴も、嗚咽も、聞こえない。

 ただ遠く、町の喧噪が微かに耳朶に届くだけだ。

「………まさか」

 振り返り、来た道を遡る。

 十字路まで走り、そのまま直進する。即ち、入り込んだ表通りから見て、左折する方角へと向かって。

 宮森は、思考が明瞭になったことで、自身の失態に気づいた。

 何故、あの辻を右へ曲がったのか。何故、判断基準が嗅覚だけだったのか。何故、音にばかり気を取られていたのか。何故、明るい側へ、詰まりは人気のある右へと向かい、人気の薄い左を選ばなかったのか。

 直進の道―――選ばなかった左折の路地を数歩進んだところで、“空気”が一変した。肌がぴりつく。粘度を持ったかのように重苦しい。一歩ごと、一呼吸ごとに、先ほどの比ではない拒絶反応が肺を通過して全身を苛んでいく。

 前進するごとに増していく不快感に、この道が正しいのだと確信する。

 人間の生存本能を度外視して、腹の底から沸き立つ衝動に突き動かされて、薄暗い路地を駆ける。

 狭い路地は、走れども走れども変化がない。

 数百メートルを直進し続ける。それは、異臭以外の明確な異常だった。

 裏路地というのは、大抵が入り組んだ構造をしている。よほど入念な計画で開発、或いは大災害からの復興によって整備された街でもない限り、何百メートルも一直線なんてことは有り得ない。そもそも、事前に確認した地図ではこの路地は四方二百メートルほどだった。とっくに表通りに飛び出していなければ可笑しいのだ。

 走れども切りがない。自然、構えていた銃口が下がっている。

 息が乱れる。

 生理的な嫌悪、同じ空間を回り続けているという錯覚、それを起点として湧き上がる疑念と諸々の感情を捻じ伏せる。ブラフにしては、異法則が定着している。怪異の内側と大差がない。中心点に元凶がなければこれだけの影響は有り得ない。

「!」

 一秒にも満たないが、確かに、聴覚が微かな異音を捉えた。

 呻きとも悲鳴ともつかないが、ヒトの声音が聞こえたのだ。どちらのものか判別できないが、しかし、もし巻き込まれた少女のものだったとすれば―――

 異音を聞いてから五十メートルも駆けないうちに、宮森は急停止した。

 人影があった。

 影は二つ。数メートルの距離を置いて、対峙しているようだった。夕暮れ時が迫ったさなかでは、赤光に塗りつぶされてシルエットしか判別できない。

 片方は子供で、そして蹲っているのだと理解できた。恐らくは、通報にあった居合わせたという少女だろう。

 そして、もう片方は。

「―――」

 大柄な体軀だった。男かと思ったが、違うと気付く。

 人間では有り得ない輪郭は、まさしく二本足の獣そのもので。

 正しく、人外であり。人狼、であり。

 ―――そして。

 その巨軀が、蹲る子供へと飛びかかろうとする瞬間に居合わせたのだということも、同時に気が付いた。

 発見から認知までの間、コンマ三秒弱。

 異状に声を上げることもなく。異常に思考を停止させることもなく。

 流れるように。反復し続けた動作が、すべらかに駆動する。


 ―――誰彼の空に、銃声が響く。

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