-Ⅰ 魔狼/或いは前日譚 ②

 西区は国道を中心として発展した地区だ。

 この発展の波は、数十年前に突如として発生した開発ラッシュが根元らしい。調子に乗って土地を買収、開発したはいいが、肝心の買い手が見つからない、なんてことに陥ったのだとか。

 結果、うまく軌道に乗った国道沿いところは良かったが、中心から外れた郊外は、現在も人の流入がないままに放置されている―――というのが、市民図書館で読んだ郷土資料に纏められていた藤露市の歴史、その一端だ。まあ、どこまで真実かは分からないが、すべてがデタラメということもないだろう。

 とはいえ、西区でも東区同様、場所によってはそれ以上に、寂れていたり開発されていない場所も多い。

 弌色がいるのは、買い手の付かなかった区域のひとつだ。

 そもそもの始まりは一週間以上前に遡る。

 夜の散歩の最中、気の悪くなるようなにおいが何処かでたなびいたのだ。腐った屍肉と、濃密な血の入り混じった臭い。結局、出所は発見できず、暫くすればにおいは消えた。

 そのあとも日を跨いで数度においを知覚することはあったが、腐臭だけは変わらず、ただ血臭だけは薄れ続けていた。

 変化があったのは三日前の未明のことだった。

 突如、においは悪臭と言っても過言ではない密度へと変貌した。変化はそれだけに留まらず、日に一度か二度だった回数も増加し、夜から未明までに限っていた時間帯までもが、今では午後にまで広がっている。

 三日前の未明。心当たりは殺人事件ぐらいだ。

 当日の夜に訪れてみたが、現場そこも人気のない場所だった。路地裏の奥まった場所で、表通りからは見えない位置だ。その時は見張りの警官とブルーシートで目立っていたが、昼間ならまだしも、夜に態々訪れる人物など皆無だろう。目撃者もいないと聞く。また、被害者が何故そこに居合わせたのかは不明とされていて、被害者は連れ去りにあった末に捨て置かれたのでは、なんて推測も飛んでいる。

(たぶん、連れ去られたのまでは合っている)

 現場を確認したとき、弌色は違和感を覚えた。

 被害者の肉体、その“飛び散り方”がおかしかったのだ。

 当然だが、疾うに警察の手により、アスファルトと壁に飛び散った肉片や骨の破片などはすべて回収されていた。しかし、匂いまでは刮ぎ落とせない。

 それらの臭い、それ以外のにおい、通り抜ける風、周囲の音の反響。耳と目から得た情報から、弌色は二百メートル離れた位置で、現場を知覚した。

 弌色の聴覚と嗅覚の鋭敏さ、識別能力は常人のそれを優に超える。例え視界を遮られていても、四方百メートルぐらいならば視覚や触覚以上に精密に捉えることができた。精度はやや劣るが、二百メートルなら充分知覚の範囲内であるし、鼻につく血や死肉の痕跡ならば尚更だった。

 肉が飛び散った範囲と、動脈から噴き上げたであろう血。そこに齟齬を感じて、何故、と首を捻ったのは少しの間だった。答えはすぐに思い付いた。

 肉を食い散らかした時点で、血の総量が減っていた。そう考えれば違和感は簡単に取り外せた。

 恐らくは―――事件かりの概要を推察する。

 最初に、犯人おおかみは別の場所で被害者えものを襲い、骨を折った。

 被害者は抵抗したに違いない。だが相手は人狼だ、両者の膂力など比べるべくもなく、簡単に押さえ込まれ、そしてはらわたを噛み破られた。

 このとき被害者は息絶えていなかったのはずだ。死体を移動させただけなら、今の科学技術なら判別つくと聞いたことがあった。非公開というだけかも知れないが、血の飛び散り方してその可能性は低く思えた。

 腸と共に血が流れ出るのをまざまざと感じて、恐慌に陥った被害者を、犯人はねぐらにしていた現場に引き摺り込んだ。

 そして、殺した。

「………」

 遺体の大部分を食べたのか、或いは放置したのか。そこまではニュースで報じていなかった。

 だが、嗅ぎ取った物体の総量からして、殆どが手付かずだろう。

 あれは、殺すための殺しだった。

 食欲ではない。ただただ、悪意だけがあそこには在った。

(においが強くなった)

 二年前から、この街では嗅覚はなが鈍るようになった。それは、怪異や同族の発する独特の匂いに限ってだ。父親も同様であると言うから、この現象は人狼という血統全般に及んでいるのだろう。そも、その“匂い”が本当に匂い物質を感知してのものなのか、弌色はいまいち自信がないのだが。なんとはなくだが、特有の感覚を、嗅覚として認識している気がする。

 人狼の匂いが識別できない以上、鼻で追うことはできない。

 なのでこの数日、弌色は、現場に残っていた人狼以外のにおいを追っていた。

 あれほどの惨状を起こした以上、返り血は免れない。人間の感覚からすれば血などすぐに落としたいものだが、幸か不幸か、犯人にはその感覚は当て嵌まらなかったらしい。

 悪臭は、今も街の何処からか立ちのぼっている。

 時には夕暮れの公園、時には真夜中の雑木林、時には未明の道路のど真ん中。現れる場所は不規則で、範囲は西区全域に及んでいる。古い地図で確認しても共通項は見付けられなかった。精々が、取り壊された廃社や廃寺だった場所が二、三箇所在ったくらいだ。共通点とするには、正直弱すぎる。ちらりと地脈のことが過ったが、しかし何の資料も調べる当てもない。

 においの他に手掛かりもなく、仕方なしに、この三日間は虱潰しににおい立つ場所を飛び回っている。

 だが、分かったことは、におい立つ場所は限られていることと、におい立つ時に特定の人物が顕れるという二点だ。

 その人物について分かっていることも少ない。目撃情報はほぼなし、精々が腐臭と血臭を纏った人物というぐらいで、容姿も年齢も性別も、判然としていない。

 正直言って出たとこ勝負も良いところだ。非効率だなと自信を詰っていたが、しかし、これも中々に馬鹿にできなかったらしい。

 今も、バスに揺られてにおいが流れてこないかと当て所なく探し回っていて、漸くにおいを嗅ぎ取ってその根元へと向かっている最中だった。

(……妙だな)

 今までとの差異に、無意識に眉根が寄っていた。

 においは、何時も一時間もしない内に消えてしまう。はっきりと認識できるのは初めの数分から十数分で、それ以降は次第に掠れて、最後にはうっすらとした痕跡だけしか残っていない。認識できるのも一キロ圏内に限ってのことで、この統計が正しいかは不明だ。だが、そう逸脱したものでもないとも考えていた。

 なのに、今日は―――今回は違う。

 もうにおいを知覚してから四十分以上が経過しているのに、においは薄まるどころか、次第に濃度を増しているようにも思えた。錯覚かもしれない。だが違うのなら、相手が“表”に出現し続けているということで、あまつ、その場に留まり続けている可能性もある。

(強くなってる)

 酷いにおいだった。腐った肉に、静脈から垂らした血潮をぶちまければ、こんな悪臭になるのではないだろうか。喉の奥が枯れたように痛む。吐き気がした。

 においの立ち上る地点へ向かって走る。

 その最中だった。

 親しんだ匂いを嗅ぎ取った。なんと言っていいかもわからない間柄になった、あの少年の横顔が浮かぶ。

 何故此処に、とは思わなかった。ただ、此処なのだ、という確信だけが胸を突く。この機会を逃せば、次はない。もう、回避する手段はない。

 速度を上げる。

 時間はない。ないと分かっていて、どちらに向かうべきかを迷った。優先順位で考えれば分かりきったことで、しかし負い目が邪魔をする。

 決断を下せないままに、目指す場所に近づいていく。

 においが近い。屍臭も、弟の匂いも。そして―――

(人間?)

 街に染み付いたものではない、現在を生きている人間の匂いだ。日本人、男性。恐らく三十代半ばほど。場所は。

「―――マズい」

 加速する。

 男性の匂いが漂ってくる先と、屍臭が濃い場所。その二点が重なっている。正確には微妙にずれがあるが、それもほんの数メートル程度だ。しかも、そのずれは徐々に重なるように接近していっている。

 最短距離を選び、建物を飛び越える。

 そして、目視した。

 二百メートル先、歩道に立つ男がいる。建物を見詰める彼は、戸惑うように一歩を踏み出していた。その先から、建物の影から、腐臭が流れ出ている。

 強く踏み込む。その間に呼吸を切り替え、身体の造りを適応させる。

 一歩。男性の三メートル手前に右足が着く。

 二歩。殺しきれなかった慣性を左足で吸収し、身体を捻る。

 三歩。右足に身体の支軸を乗せ、そのタイミングで男性の腕を掴んだ。腐臭が躍動する音。無意識下が演算し、直感として出力される。間に合わない、という思考を挟む間もなく、右手を引くと同時に左の拳を突き出した。

 宙に浮いた彼の身体が弌色の後ろへ移動するのと、四足の獣が路地から飛び出してくるのは同時だった。振り抜いた左拳に手応えは、ない。

 軽やかに、男性に襲いかかった獣が着地する。

 それは、巨大なオオカミだった。

 その体軀は人間を優に超えており、四肢はしなやか且つ強靱に発達している。人間はおろか、熊さえ仕留めるに足るだろう。艶やかな金色の体毛はそれ自体が光を放っているようで。だからこそ、全体に散った灰色も斑模様の醜悪さが際立っている。

 その、金色と灰色の奇妙な対比をはっきりと視認して。

 妙に、ぞっとした。

「ひ、あ、な、何が? 何なんだ、その動物は、いや、さっきまで子供で……」

 背後の声に気が逸れる。

 混乱しきった声は悲鳴に近い。

「おっさん、立てるなら逃げろ。そんで警察に連絡しろ」

「え? あ、け、警察?」

 舌を打つ。完全に恐慌パニックを起こしている。正常な判断を期待できない上、足が震えているような有り様では逃げることもできないだろう。

 どうするか、と考える―――羽音めいた地面を蹴る音が聴覚を刺激して、弌色は自身の失態を悟った。

「! 待て!」

 視界の端で、路地裏の奥へと金色が翻ったのを捉えた。

 堪らず声を張り上げるが、無論、それで止まるはずもない。分かっていて、だから弌色は全力で駆け出した。

 路地裏へ飛び込めば、狼はすさまじい速度で遠ざかる最中だった。一瞬の空白が致命的になる、と本能が悟る。

 だから。

 躊躇無く、弌色は薄暗い細道へ飛び込んだ。

 相手の侮りの結果か、開いた距離は瞬きの間に詰まる。

 一瞬後には接敵する、というタイミングと同時に、相手が反転した。

 相手の視線と弌色の視線がかち合った。敵意、殺意、害意の籠もったきんいろの双眸だった。何もかもを恨み妬む絶望けものの色に、意識が向いてしまう。まずい、と反射で思った。彼我の実力差というのも理解してしまった。

 鋭利な牙が見えた―――自分の腕が捥ぎ取られる三秒先さまを幻視する。脇が汗で泥濘むのを自覚するより早く、更に一歩、顎が閉じるよりも速く、踏み込んだ。

 指先にやわい感覚が届き、知覚する。その知覚と連動して、身体を捻り、慣性、脚力と腕力、それらを繋ぐ体幹で以て、相手を投げ飛ばす。

 壁に巨体が叩き付けられる。上がった悲鳴には、苦痛よりも当惑が混ざっている。大したダメージはないな、と判断した。

 指先に意識の一割を割く。ぬるついた感触があるだけで、痛みも、血のにおいもない。

(傷は、ない)

 背中一面から汗が噴き出す。

 万が一でも噛まれていれば、その時点で終わっていたのは間違いない。綱渡りをしたという自覚はある。腐臭に紛れて、胸の悪くなるようなにおいが鼻先に引っ掛かる。恐らくは、牙同様に爪に引っ掻かれても感染しかねない。

 不利な材料が次々出てくるのは、想定内ではあっても気を重くさせられる。

「―――」

 身体を起こした獣が、のっそりと身動ぎする。

 相手の一挙手一投足に神経が張り詰める。飛び掛かる愚は冒せない。身体能力も反射速度も段違いに相手が上だろう。先の投げ技は相手の慢心で成立したのだと、弌色は正しく理解していた。

「!」

 咆哮が走る。大気に轟き、震わせ、揺らす。

 肌が泡立つ。恐怖にではない、文字通り空気が、環境が、性質が変容したことに、肉体が生理的反射で拒絶したのだ。

(汚染、いや異界化か!?)

 全身の皮膚がひりついた。呼吸器に異音が混じる。筋肉が意志を無視して硬直する。

 だが、自身の異常に気を払う余裕はない。

 五感で得た情報を意識上にまで持ち上げる、というコンマ以下の間隔シーケンスさえ省略し、直感として出力された情報かんかくに従い、習性と気力で身体を動かす。

 突進してきた相手の初手を半身で回避。内臓が軋むのを無視する。

 後退は不可能、左右は困難。下は本能が危険を察知。追撃を、相手の“腕”を支点に前転するかたちで、上空へと逃げて避ける。

 上下が逆転した視界で、金色が高速で動いた。一つ一つの挙動は埒外の速度で、息つく間もない。行動の起こりが異様に遅いから躱せているだけで、一撃でも当たればそれで勝負は決するだろう。いわんや、ただの人間など、水風船のように爆ぜて終わるに違いない。

(あっぶな、下だったら死んでたぞ!?)

 おざなりな、しかし鉄筋を貫通しかねない蹴りを躱し、なんとか距離を取る。たぶん一息で土手っ腹に風穴を開けられかねない距離だが、一息分あるだけマシだ。

「分かってたが、金色かよ」

 見間違いか、ただ色合いが似ているか、はたまた人狼に似た別種の何かか。そうであればという期待は、想定通りに風化した。気の重さが増してくる。

 呼吸器の痛みが和らぐ。荒い息と共に吐き出した声に、異音は混ざっていない。同じ人狼の原理であるからだろう、予想以上に肉体の適応が早かった。

 改めて、相手を観察する。

 獣は、初手の段階で既に二足歩行へと形態を変貌させ終えていた。獣の時よりも筋力の厚みは増しているが、それにしたって物理法則を逸脱した運動能力だ。

(しかしこいつ、本当に何なんだ?)

 外側の処理とは、別系統の思考回路を巡らせる。

 三つの形態を行き来する変身能力。

 人狼の中でも上位の身体能力と反射速度。

 身の内から爛れ漂う腐臭。

 格下ひとしきの動きに対応し切れていない、ちぐはぐな印象を受ける、動作のぎこちなさ。

 何より、人間とは異なる原理を外界に拡張させる、という規格外。

 ―――その総括から予測される、相手の“正体”。

(マジで、なんでこんなものが結界を超えて街に来たんだ?)

 視覚情報と他の感覚器官が捉える情報とのすり合わせもうまく捗らない。その事実が、胸の内に更なる陰鬱を誘う。

 今、弌色の眼には、相手は二足歩行の獣が見えている。灰斑が散った金色の毛並みは変わらず、その下で隆起する筋肉は分厚く発達している。その肉体は変わらず鑑賞に堪え得るものではあるが、それよりも先に獲物を竦み上がらせる意味合いのほうが遙かに強い。

 だが、それが偽りだ。

 爛れた腐臭は屍臭に他ならない。そんなものを発するのは、死体以外に存在しない。

 ならば、弌色の目の前に在る怪物は―――

「!」

 身体が動く。

 胸部を貫かれる、という悪寒。

 半歩斜めに移動し、“点”からずらす。そのまま相手の腕と壁との隙間に身体を捻じ込んだ。

 相手の軸足が踏み込み側に移動スイッチしたのを空気の流れで察知。悪寒に従って、腕を相手の肘の上に押し当てた。

「―――っ」

 衝撃が腕から胴へ突き抜ける。殺しきれなかった振動に、空気が肺から漏れ、肋骨が折れる寸前まで軋んだ。

 衝撃を流すための緩衝剤たてとなった右腕は、激痛に痺れている。ミンチにはなっていない。正直骨が粉砕されたと思ったが。

 骨も、肉も、神経も繋がっている以上、動く。

 故に、一息も置かず、相手に絡めるように動かす。

「ちっ」

 指先が腕を捉えるより速く、相手が動く。筋と骨の音。上空に空気が巻き上げられるにおい。咄嗟で、掴みから逃れる方向へ動作を切り替えた。空気が手のひらを掻く感覚に、紙一重で爪を回避したことを理解し、冷や汗が出る。

 その場から一メートル移動したのち、頭上を見上げる。

 爛々と、きんいろの双眸が弌色を見下ろしている。

 その瞳の奥に、敵意が、悪意が、憎悪が、殺意が犇めいている。最悪の気分だった。

 相手が動く気配はない。怪訝さに、思わず眉根が寄る。

 先ほどまで悠々と動き回っていた相手が、急に此方を伺うというのに、脈絡のなさを感じた。まさか、仕留め損なっている相手えものに警戒を覚えだしたのだろうか。

「三日前、人間を喰ったのはお前か?」

「………」

 試しに口を開いてみるが、反応はない。

「俺はその犯人を捜している。とはいえ、人間を襲ったアンタを見逃すつもりもない。だが初犯であるなら、此方としても対処を考える。穏便に済ませたいんだ」

 淡々とした声色ではあるが、しかし内容は本心からだった。

 別段、弌色にこの人狼への殺意はない。同様に同情するつもりもないが、だからといって、立場上、知らぬ存ぜぬもできないことを理解していた。

「……、何を」

「殺し合いは望んでいないんだ。できれば同行してくれないか」

 落ちてきたのは罅割れた声だった。

 一過性の肉をかぶった幻らしい、生命の瑞々しさに欠けた音程は、舌足らずではあるが知性が潜んでいる。

「……、返答を要求する」

 返答はない。

 問い掛ける声は、自然と冷えていく。

 そして、もう一度だけ、と口を開いた時だった。

「ウソツキ」

 降ってきたその声に。

 滴るような憎悪が、罅割れからあふれ出たさまを幻視した。

「!」

 頭上から飛び掛かってきた獣の一撃を、辛うじて回避する。前髪が数本、宙を舞うのが見えた。

 距離を取る間もなく、巨体は跳ね鞠のように跳躍する。巴投げの要領で跳ね飛ばすが、相手が上手だった。

「いっ?!」

 左腕を掴まれ、体勢が崩れる。あまつ、壁を足場にして再度飛び掛かってこられる。

 今度は回避できなかった。

 乱杭歯が眼前に迫る。

 足では遅い、遠ざける暇はない―――汗ばんだ手で、相手の喉と顎の境をわし掴んだ。

「ふっぐぐ、ぐ……っ」

「………っ」

 あと一センチというところで、牙の前進が止まった。

 だが、それだけだ。

 これ以上、昏喰弌色という人間に、撥ね除けるだけの力はない。膂力では圧倒的に相手が上で、更にマウントを取られたとなれば、あとはもうまな板の鯉同然だ。右手を乗せられた胸は軋みを上げている。胸腔を踏み抜かれるまでそれほど時間は掛かるまい。それよりも先に、相手の牙が弌色の顔に食い込むだろうけれども。

 だから、この膠着はあと数秒で終わり。その後は悠々と咀嚼される運命にある。

「ぐぉ、お……あ、あ!」

 ―――なんて無様、認められるはずもない。

 食いしばる。

 垂れた唾液が頬を伝った。生臭さが鼻につく。不快さで吐き気がする。

 四肢の痺れはない。

 呼吸は落ち着いている。

 内臓は、まあ追々でどうにかなるだろう。

 神経は、根性でどうにでも。

 必要なのは、感染する前に覚悟を決めるだけ。

 鋭い爪が胸骨の裏に食い込む。右手首が拉げる寸前の音を立てる。腹の底がざわめいて苦しい。その全てを押し退けて沸き立つのは全能感だ。

 その後押ししょうどうのままに、がら空きの脇腹に膝を打ち込んだ。次いで、ガリガリと胸部に痛痒が走る。けれどそれだけ。服を破かれたが、皮膚に爪は届いていない。

 古びて枯れた爪などで、弌色は傷付かない。

「……っ、がひゅっ、けほ」

 抑制されていた肺が活動を再開して、反動で過呼吸が起こる。その反射さえ鬱陶しく、無理矢理に身体を稼働させる。

 一呼吸ごとに胸部全体が痛み、自然と呼吸が浅くなる。これは肋骨が折れたな、と冷静な部分が判断した。だが、幸いにして出血はない。

 間に合ったことにだけ安堵するが、状況はまったく安心できるものではない。頭の一部が痺れていて現実感が遠いが、毎秒ごとに死にかけていると言っても過言ではないのだ。

(まずい、まずいから起きろ!)

 浮ついた意識を叱咤し、歯を食いしばって立ち上がる。

 驚いたことに、立ち上がるまで、どころか立ち上がった後も、獣からの攻撃はなかった。

 嘔吐きながらも気力で視線を上げると、明々としたきんいろの瞳と視線がかち合った。

 瞠目した双眸は、月が二つ浮かんでいるように真ん丸だ。不可思議なことに、獣は弌色に飛び掛からず、呆然と立ち尽くしていた。先ほどまで有った、敵意も害意も殺意も、悪意も、その瞳に映っていない。

 何故、という疑念は、相手の口からまろびでた言葉で霧散した。

「―――銀?」

 銀。

 その色がどういう意味合いを持つのかを、弌色はかつて書物で知った。

 先祖返り、という言葉が脳裏を過った。誰にも問い質せなかったが、この答えが最も現実に即していると思えた。

 銀色。

 人狼は毛色でその階級を定める。色合いが淡く薄いほど、白に近しいほど、その血は濃く、神秘を帯び、貴いとされる。

 現代では、その殆どは黒かあかがね、よくて赫色だ。金色こんじきなんて旧い時代ぐらいで語られるような存在で、神代に遡ってようやく銀と白が散見される。

 目の前の存在が、狼狽え、記憶が錯綜しているらしいこの“取り憑いた死者”が、弌色が想定するままの存在だとすれば。

 たぶん。

 “彼女”は今、彼女の純白かみさまを幻視している。

「―――あ」

 無防備に晒された腹を貫くのは簡単だった。

 生ぬるい感触が右肘までを覆う。真っ黒な血はタールのように粘ついて、噴き出ることはなかった。生きながら腐りかけたはらわたのにおいが鼻孔を刺す。液化しかけた肉片が体毛に付着したのが目の端に映り込む。吐き戻さなかったのはいっそ奇跡的だ。

 嫌悪感と吐き気を気力で捩じ伏せて、尻餅をついた獣を見下ろす。

 獣の瞳を見た。そこには歓喜が見て取れた。

 西日に照らされた姿は、何時の間にか人狼のそれではなく、金色の髪をした少女へと転じていた。同様に空気も変わっていて、異界が解けたのだと気付く。

 少女は。

 内臓をこぼして、血をあふれさせて。

 一片の曇りもなく、あどけなく笑っていた。

 その微笑む姿はうつくしくて、幸福を目にした者そのものだ。

 その酸鼻極まる姿を。

 弌色は冷めた目で見下ろした。

 砂糖菓子のような表情で、何事かを囀る少女のくちびるは、何の音も紡がない。声の代わりに、笛のような甲高い音が腐敗の進んだ喉からこぼれている。くちびるから覗く粘膜の色までもが斑模様をしていた。髪の色も、先ほどまでの艶やかさからは遠く、くすみ、褪せている。下半身の皮膚は目に映る限りが剥げ落ちていて、内部の筋肉はなんとも言えない色だった。

 どこを切り取っても、その有り様は死体と大差ない。見るに堪えないとはこのことだろう。動いていることだけが、彼女を生者の枠に留めている。

 虚飾の剥がれた少女は、生きながら腐敗している少女は、それでも尚、わらっていた。

 その狂気に、ぞっとする。

 この少女けものが何を思って微笑んでいるのかを、弌色は知らない。如何なる欲望と願望がその内側に渦巻いているのかを、察する術はない。

 今までこの有り様を視認できなかったのは、ただ彼女が自身をそのようなものと定めていたからなのだろう。それが、外部にも共有されていた。ともすれば、弌色以外は、嗅覚も誤魔化されていた可能性もある。

 悪夢のような話だった。

 事実、悪夢なのだろう。

 これは、この少女と、少女の内側に在る何かが見ている、末期の夢に他ならない。

「あんたをこのままにするわけにはいかない」

 自然とこぼれたのは、冷え切った声音だった。

 必要のない言葉を掛けたのは、微かに湧いた同族への情けだったのか。弌色自身も判断できなかった。

 弌色がこの獣を殺す理由は、至極単純だ。

 今この場で殺すことが最適解だからだ。

 もしこの獣をこの場で見逃せば、と仮定する。

 その場合、この獣は人を殺すだろう。弌色の見知らぬ他人を、弌色の見ていない場所で。或いは、弌色が見知った誰かを、弌色の目と鼻の先で。

 少なくとも。

 誰も害さないということだけはないだろう。

 そして、それを。

 弌色は許せない。許すわけにはいかない。

 弌色の手で彼女を殺す必要性は微塵もないが―――此処で見逃す理由も、また、ない。

「悪いけど、死んでくれ」

 変わらず、恍惚を浮かべる少女へ告げる。その頬は、元々白い色を尚々青ざめさせて、それでも微笑みを刻んでいる。死への恐怖も、痛苦の色も、一切ない。

 生物であれば死んでいるような怪我でも、この少女を活動停止にまで追い遣るには不十分かもしれない。

 獣のそれへと変貌した腕を、ゆっくりと持ち上げた。

 流石に、頭を潰せば終わるだろう。

 拳を握り、そして。

「―――?」

 耳慣れない音の直後。肩甲骨と肩の境目に、激痛が走った。

 反射で悲鳴を噛み殺す。だから、困惑の声を上げたのは少女のほうだった。声と言うには、やはり笛のような音だったけれど。

 衝撃に反して、痛覚の及ぶ範囲は狭い。アイスピックが突き刺さった感覚、とでも言えば良いのか。

(肩に何か埋まって―――まさか、弾丸、銃!?)

 一瞬、気に食わない顔が脳裏を過るが、すぐさま否定する。彼が弌色を撃つ理由がない。

 いや、そもそも。

 問題視するべきはそこではない。

(確かに、異界化は解けてる、けど―――それはついさっきの話だぞ!?)

 人間がこの場に来られる道理はない。

 弌色はそう認識していた。

 何故ならば、この近辺一帯は、既に人間の道理が通用しない異法則が押し付けられているからだ。

 人間と交じることのできた人狼であるから、踏み込めば即人体が四散するようなことはない、というかそもそも現代でその強度は有り得ないが、それでも神経系をかき乱すには充分だ。それらは恐怖というカタチでフィードバックされ、或いは心身への不調のろいとして叩きのめす。

 故に、異界から人は遠ざかるより他ない。

 それは防衛本能の域で、ならば人間が立ち入れるはずがない。

 振り返る。

 背後から肩を撃った相手を、弌色は見た。

「………」

 人間だった。

 灰色の髪に、淀んだ瞳。草臥れたジャケット姿の、中年男性だった。

 構えているのは拳銃で、銃口は弌色に真っ直ぐ向けられている。鼻血を垂らし、顔も青白く、ただ眼だけは皓々と燃え立っている。その眼に、沼に灯る燐火を連想した。

 死にかけの少女を見る。

 その目に怯えが走ったのを見抜き、決断した。

「! 待て!」

 跳躍し、屋根の上へと移動する。

 銃声が一度、弾丸が踵を掠めた。二度目の発砲はない。

(血は……マズい、あの場に残ってる。すぐに隠滅しないと問題になるぞ、これは)

 自分の立ち位置を思う。

 弌色が殺人事件の容疑者となれば、父親が被る悪意はどれだけのものになるのだろうか。

 正確に言えば未遂で、相手は人間でもなければそもそも生物からも外れているが。

 そこまで考えて、失笑した。この件はこれ以上表面化することはない。それは確定事項だ。なにせ、それを許容するだけの整備がなされていない上に、元々この街は箱庭なのだ。某かの取引は起きるかもしれないが、それは弌色とは関係のない場所での出来事だ。

 そのことに安堵するべきか否か、その複雑さを素直に表情に滲ませた。見ている者がいない以上、無理に隠す理由がない。隠すことに慣れて、それが慣習に成ってしまうのは避けたかった。

 相手の視界から切れるよう、三百メートルほどの距離を立体的に移動する。

 人気のない建物の屋上で足を止める頃には、発砲者の気配は遠く離れていた。弌色を探している様子は、ない。

(追跡なし。最初さっきの場所からは……うわ、一キロは離れてるな、これは。もう夕方、というより夜に近いし、時間軸も滅茶苦茶……次元単位でズレが生じてたのか?)

 肩を確認する。出血は止まっているが、銃弾は埋まったままだ。仕方なく、爪を弾痕に突っ込んで異物を摘出する。

(当然とは言え、やっぱ装甲弾か……撃ってきたのは玄人だな)

 摘まんで観察すると、ただの銃弾ではないことが見て取れた。

 弾丸の側面には装飾が施されている。そして、先端を覆うのは銀色だ。嗅げば、鉛や合金ではなく、銀だと分かる。術式加工だけでなく、聖別も為された特殊仕様と見るべきだろう。

 そもそも、人狼の体毛は生半可なことでは衝撃も熱も通用しない。術式加工していない銃弾など雨粒と大差ないので、弌色の身体を傷付けた弾丸が普通でないのは当然ではあった。

 とはいえ、これであの獣を殺しきることが可能かは、不明だが。

 血を拭ってから、弾丸を潰し、丸めて、屋上の隅へ放る。

 気が付けば、指先は人間のそれへと戻っていた。気付いてから、ようやく吐き気と異様な全能感が治まる。安堵の息がこぼれた。

(そもそも、異界に侵入するって、よっぽどな命知らずかよっぽどな玄人だよな……)

 異界はその外側とは異なる法則によって運用される空間だ。幽世とか神域とも言い換えられる場所は、法則の基盤は大地と同じだが、その発展は運用する種々で異なってくる。

 種族の根幹を成す設定デザインは、種族ごとに異なっている。

 妖精には妖精の。

 竜には竜の。

 魔獣には魔獣の。

 そして、人には人の、原理デザインが存在する。

 異界とは、生命を運用する上で基盤となる原理が生命の外側にまで及んだ時の、その領域を示す言葉だ。異界は基本的に集団で運用され、集団の大きさと力に依存している。

 異なる原理で営まれる異界に何の備えもなく突入したとして、死ぬことはない。だが、間違いなく、そこは常識は通用しないし、敗者であることを決定づけられる。

 人間が英華を誇る現代で、大規模且つ強力な異界が展開うわがきされることもないが、しかし危険であることに変わりない。

 異界への対処法は様々だが、一番は近づかないことだ。本能で刻まれたの嫌悪感に打ち勝てる生命を弌色は識らないし、想像もできない。

 もし、その嫌悪を回避できる生命ものがあるとすれば―――

「考えても仕方が無い、か」

 ぽつりと呟いた声は、自分自身でもやけに寒々しかった。

 意識を切り替える。

 全身を検めるが、傷は肩のものだけで、それ以外は擦り傷一つない。その事実に、安堵から力が抜ける。

(感染してたら、死んでたもんな……)

 無茶をしたものだと思うと同時、無茶をしただけの成果がないことに落胆する。

 病堕ちは、人狼にとって最悪の“死に様”と言われている。

 病気だと定義されているが、正確には、精神が死滅した際に発生する暴走状態だ。

 精神という端境を失って尚も活動する肉体は、魂と乖離するしかない。魂を失った肉体は壊死し、死へ転落する。死を回避するために、暴走する肉体はあらゆる手段を試みる。

 強靱すぎる肉体が徒となった、未練がましさの極致とも言うべき末路。人狼にとっては最も忌諱する死後の一つ。

 本能のみで動く狂人グール

 それが、病堕ちの正体だ。

 そして。

 更に厄介なのが、高位の存在が罹患した場合、この病は爪と牙を介した感染症に変異するという点だ。

 一秒でも長く、人狼という情報を世界に残し続けようとする、肉体ではなく種の保存を優先した結果、そのような事象へ至るのだと推測されている。

 人間なら、狂った人狼に。

 人狼なら、狂ったけだものに。

 どちらにしても、病に侵された者は、個としての死は免れない。

(……あの子供)

 自分が殺そうとして、殺し損ねた少女を思う。

 精神が死ぬということは、自意識を崩壊させるということだ。会話はおろか、意思の疎通など不可能ということだ。

 なのに、言葉を発した。

 意志があった。

 自立、していた。

「………」

 精神が死んでいる。

 精神がない。

 その空白に、何かが潜り込む、ということは間々ある。

 あの少女も、その類いだったのだろう。

 周囲にとって殊更に不幸だったのは、入り込んだのが人を呪った“幻獣”であったということで。

 何にせよ、あの少女の破滅は免れようがなく、救えなかった。

 少女は疾っくに破滅していて、後はその肉と魂が朽ちるだけだった。

「………」

 弌色のできることは何もない。

 嗅覚と聴覚が、離れた場所の出来事を捉える。

 弌色を撃った男は、どうやら無事に表通りへと抜けたようだ。

 少女はあの場からは予測通り移動したようだが、さして遠ざかることもできず、蹲っている。

 少女の傍に、誰かが近づいているのを、弌色の五感は感知した。その誰かは、弌色がよく知る少年だ。彼は鉄とプラスチックの物体を身に付けている。

 距離は遠い。弌色がどれほどの速度で掛けても、引き金に掛かった指を止めることは叶わない。

「……馬鹿野郎」

 目を閉じる。

 遠くで、極小に抑えた銃声がした。

 その音は、無力で無様な愚か者を責め立てているように、夜が迫った空で、掠れて響いた。

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