-Ⅰ 魔狼/或いは前日譚 ①

 目が覚める。

 起床時は何時も爽快で、眠りの名残など欠片もない。どれほど睡眠時間が短くても、この瞬間を苦に思ったことは一度も無かった。

 慣れ親しんだ習慣ルーティン通り、横たわったまま、窓に目を向けて耳を澄ました。カーテンで仕切られているから外を見ることはできないが、隙間から光がこぼれている。鼓膜に雀の鳴き声が届いて、今日は快晴なのだな、と理解した。

 五分くらい、布団の中で外の音に耳を傾ける。

「……おはよう」

 自分自身に言い聞かせる形で、声を出した。

 寝起きの声は少し掠れている。今日は何時もより少し低くて、口を開けたまま寝ていたのだな、とぼんやりと推測した。

 布団を畳んで部屋の隅に寄せる。時計を確認してから起動三分前のアラームを停止させた。

 カーテンを開けて、窓を開く。

 予想通りの快晴だった。今日は良い日になるといいのだが。

 制服に着替え、リビング兼キッチン兼ダイニング兼ベッドルームに通ずる扉を開くと、布団に包まった人間大の蓑虫がいるのが見えた。恐らくは、何時も通りに力尽きて寝入ったのだろう。呆れの息を寸前で飲み込む。いい加減、ベッド上で眠るということを覚えてほしいものだ。

 軽く肩と思しい場所を叩いて声を掛ける。

「親父、朝だよ」

「……」

「朝だ、起きろ」

「……」

「起、き、ろ!」

「……ぅー」

 屍よろしく唸り声を絞り出す蓑虫に、今度こそ容赦なく布団を剥ぎ取った。

 ころりと出てきた父親に、弌色は再度声を掛ける。

「おはよう、親父」

「……おはよぅ、ひとしき」

 のろのろと身体を起こす父親を尻目に、身支度を調えてエプロンを纏うと、朝食の準備に取りかかる。とはいえ殆ど前日に下拵えを終わらせているので、やることは火を通すのと盛り付けぐらいのものだ。

 冷蔵庫から、個包装された納豆二個と出汁と具材の入った鍋、そして昨夜のうちに皿に盛っておいたぬか漬けを取り出す。水を張った小鍋と冷蔵庫から取り出した鍋をそれぞれ火に掛け、納豆とぬか漬けはご飯をよそった茶碗と一緒にテーブルへ配膳した。その際、放置されたパソコンを棚へ移動させ、コンロの前へ戻る。

 一人分の鮭と大根をそれぞれ冷蔵庫と野菜室から取り出す。予め振りかけておいた酒と滲出した水分をキッチンペーパーで拭ってから切り身に塩を振り、アルミを皿代わりにしてグリルに突っ込んだ。

 ふつふつと鍋の蓋が揺れているのを確認し、小皿で味を確認する。

「………」

 顆粒だしをひとつまみ加えて、菜箸で具材に火が通っているか確認する。もう一度味見をしたあと、火を止めて味噌を溶かし加えた。

 沸騰している小鍋の火も止める。冷めすぎないように蓋をして、あとはこのまま放置だ。

 卸し金で大根おろしを作る。弌色の膂力に掛かれば、一分もせずに小山が出来上がった。軽く絞ってからグリルの中を見る。鮭はほどよく焼けていた。生焼けでないことを確認してから、皿に移し、隅っこに大根おろしを添える。

 味噌汁を味見して、椀に盛り付ける。

 使用済みのアルミホイルはゴミ箱へ。空の鍋、菜箸、小皿を手早く洗って水切りかごに立て掛ける。ガスの元栓を切る。

 出来上がった物をすべてテーブルへ運ぶ頃には、父親も朝の身支度を終えていた。

「あ、麦茶入れてくれたんだ。ありがと」

「これぐらいはなあ。いやしかし、朝から多くないか? 米も倍ぐらい多いし……」

「親父は少なすぎるんだよ、もっと食べて体力つけたほうがいいって。昼だって少ないのに」

「父さんは夜に食べる派なんだよ」

「太るぞ」

「うぐ……、じゃあ冷めないうちに食べようか」

「それもそうだ。いただきます」

「いただきます」

 無言のまま食事を摂る。

 昏喰家では昔からで、食事中に食べ物以外に気を向けるのは失礼だ、というのが家訓のようなものになっていた。

 ちら、と父親の顔を見る。口の端がほぐれ、目尻にはやわらかい色を差していた。一口ごとに咀嚼し、丁寧に味わっているのがよく分かる。

「……、ごちそうさまでした」

 掛け時計を確認する。登校まで、あと二十分はある。

 食器をシンクに片付ける。そして、急須に茶葉を入れ、やや冷めたお湯をコップへ、コップから急須へ移動させる。蒸らす間に小鍋と蓋を水洗いしてかごへ。抽出が終わったのを確認して、コップに緑茶を注いだ。

「はいどうぞ」

「……ん」

 食事中の父親が、動作でのみ礼を伝えた。これも何時ものことだ。

 緑茶を啜りながら父親が食事を終えるのを待つ。

「ごちそうさま。美味しかった」

「お粗末様。テレビ点けるね」

 リモコンを弄り、朝のニュースがリビングに流れる。その音声を聞きながら、父親が食器と急須を片付ける音に耳を傾けた。朝食の用意が弌色で、片付けは父親が。昏喰家の、何時の間にか定まった習慣ルールの一つだ。

 アナウンサーが、最近の出来事や話題を読み上げている。その中には、藤露市で起こった事件に関することもあった。

「………」

 胸の奥に小さな穴が空いて、そこを空風に吹かれたような心地になる。

「今日は学校に行くのか?」

「うん、二日連続で自主休校はちょっとマズいからさ」

「そうか。……早く帰ってこいよ」

「分かった」

 父親の背中を見る。

 その背中に疑念をぶつけたくなった。果たして、貴方はこの犯人が“まっとう”だとお思っているのか―――

「………」

 目を瞑る。

 父親は妙に鈍感なところがある。悪意、好意、はては予感や連想の類いにもあまり気付かない人だ。それが意図してか無意識か、はたまた生来の性質ものか、弌色には判断が付かない。しかし、そうである方が都合の良いことが世に多すぎるのは、理解ができた。

 そういう性質にならねば生きづらいことを、弌色も分かりだしている。そして、それこそを父親が望んでいないことも。

 思考を切り替える。

 父親が気付いていようといまいと、それらは既に、弌色が行動を変える理由にはならない。その心情を鑑みて、その後の行動を予測するならば、何も尋ねないのが適切だとも思っている。

 時計を見遣れば、もう家を出なければならない時間だった。

「じゃあ行くね」

「ああ、気をつけてな」

 穏やかな声を背に受けて、弌色は靴を履いた。下駄箱の上に置いていた鞄を手にして、ドアを開ける。

 夏の気配を含んだ空気が頬を撫でた。



 校門を潜る前から、学生のざわめきが其処彼処で波打っている。

 聞き分ければ、話題は一様に三日前の事件のことだ。微かな恐怖と好奇心、そして非日常への憧憬が彼らの声には満ちている。自分たちには関係がない、という思いを前提とした、平穏の証。

(何考えてるんだ)

 思ってから、自分で驚いた。まるでひがんだような思考だ。少しだけ気鬱になる。

 深く考えるとますます気落ちしそうな気がして、敢えて周囲を見回してみる。見知った顔がないかと考えていると、思い掛けない人物が視界に止まった。

 驚き、そして現状を思えば当然かとすぐに得心した。校門へ向かう足を速める。

「おはよ、先生」

「おはよう―――て、昏喰か。なんだ、もう大丈夫なのか?」

「別に私が体調崩したわけじゃないって。親御さん、今日は一日一緒にいるって言ってたからさ」

「そっか。こんな時期だし、小さい子を一人にってのは不安だわなあ」

 体調を崩したシッターに突如辞退されて途方に暮れていた近所の男性に、弌色が一日一緒に過ごすと申し込んだのは昨日の話だ。自身の父親に弌色が押し付けなかったのは、彼が件の子供に舐められ切っているためだったりする。

 事情は当日の朝に学校に連絡しているので、無断欠席は免れている。

「あとで寄ってくれるか? 渡しときたいもんがあるんだが」

「……、え。また反省文?」

「あははは」

「ちょっと待って先生、なんで笑ってるだけなんだよ? え、嘘でしょ?」



 四限目が終わると、弌色は教室を後にした。

 本来ならあと二十分ほどで五限目が始まるが、今日は授業短縮となっているのでそのまま下校となる。今日に限らず、連休を挟んで来週もこの予定だ。多くの生徒は諸手を挙げているが、弌色からすれば事件の影響とあって素直に喜べる状況ものではなかった。

 目的の場所に着くと、扉をノックする。握る拳に、僅かながら余分な力が入った。

 少しの間をおいて、どうぞ、と男の声が部屋の内から発せられた。

「こんにちは、アキハ先生」

「ちゃんと榎乃先生って呼べ、昏喰」

 資料室の扉を閉める。念のため鍵を閉めた。スライド式の扉に塡め込まれているのは磨りガラスなので、これで簡易の密室が完成する。

「敷浪は先に帰ったのか?」

「いや、呼び出し食らったからちょっと待っててくれって言ってある。で、何の用だよ」

「……お前、本当にガラが悪くなるな」

 呆れた隠さない返しを、鼻息ひとつで流す。

 指定時刻と場所が記入された紙切れを指だけで握りつぶす。丸まった紙屑を備え付けのゴミ箱へ投げ入れた。

「まあ仕方ないか、一応お前らのお目付頼まれてる人間だもんなぁ」

「………」

「そんな顔……うん、するわなぁ」

「別に、あんたのことは嫌ってるわけじゃない」

 苦笑し、教師―――榎乃秋葉は、深く座っていた椅子オフィスチェアをぐるりと回して弌色に向き合った。

「で。まだ本題には入らないのか」

「そうだな、あんまり長居させるのも気が引ける。それでその本題なんだが―――昏喰、俺が言いたいこと、実は予想ついてるんじゃないのか?」

「………」

 口元を引き結ぶ。

 態々言わせようとする性悪さと対比するかのように、榎乃が弌色に向ける眼差しは穏やかなものだ。見守る、と言っても差し支えないくらいにはぬくもりもある。

 だからこそ、今の彼に対して苦手意識が拭えない。

 ただの教員ではなく、彼が慕う人に目付を頼まれた男というだけでもなく。多分、大人と子供としての距離感で、彼は弌色に言い聞かせるつもりでいるのだ。高圧的ではない物言いで、選択を尊ぶ姿勢を崩すことなく。その上で、取り返しが付かない事態だけは避けようと苦心している。

 この呼び出しも、だからその一環なのだろう。

 彼の視点から見れば、今の弌色は危うい状況にいるのだ、と推測する。この推測は、恐らく外れてはいない。

「三日前の事件に関わろうとするな、とか?」

「ああ。なんで俺がそう言いたいのかも分かってるんだろ?」

「……危ないからか」

「それもある。でもそれだけじゃない。犯人が人狼だからだ。万が一お前に疑惑が向けば、あの人に対してだけじゃない、俺はお前の親父さんに顔向けできなくなる」

 予想通りの返答だった。

 それでも、父親へも言及されると動揺する自分がいた。その心情を悟られぬよう、態と悪態を吐くような物言いをする。

「それ、灰哉にも言ったのか?」

「敷浪にもな。二人には昨日のうちに言ってある」

「そっか。―――ところで、今日灰哉が登校してないと俺は聞いたんだけどなあ?」

 偶々聞き咎めた、灰哉の友人が呟いていた内容を突きつければ、榎乃は視線をそっと逸らした。

 その様を、弌色は白けた面持ちで相手を見下ろした。誤魔化しが下手すぎる。

「………、あー……」

「………まあ、言って聞く奴でもないしな」

 それに、と続く言葉は飲み込んだ。榎乃は二年前の春に赴任してきた教師だ。それより前の冬を彼は知らない。

 彼が敷浪と灰哉を気にしているのは、前者は白雲神社関係者であることとその体質で、後者は目付対象だからだ。それ以上の事情を、特に灰哉の現状を正しく判断するだけの材料を、きっと彼は持ち得ていない。

 事実、弌色の周囲の誰もが、灰哉の変容を表立った部分にしか注目していなかった。彼の現状を察しているのは、二年前より後に関わった内の、極々少数の人々だけだ。

 誰かに話すべきかと悩んだこともあった。だが、話すには踏み込む事柄が多すぎて、自然と弌色の口は重くなる。人間のやわい部分を語るのに躊躇しているうち、口が動くことを放棄する。

 沈黙が横たわる。

 沈黙を構成する気まずさに、視線を榎乃から部屋の壁へと移動させた。弌色が棚に押し込まれたファイルや本の背表紙へ焦点を彷徨わせていると、榎乃は仕切り直すように口を開いた。

「兎も角、事件の調査と解決はこっちでなんとかする。お前の師匠にも手を貸してもらえるから、今週末には大体は片付く手筈だ」

「師匠にも?」

「ああ。伝手で外部から専門業者を呼んでくれるらしい。明日には到着するそうだから、見知らない人間がいても攻撃するなよ」

「んな誰彼構わず問題起こすか。……それも灰哉に言ったのか?」

「外部の人間が来るってことぐらいはな。俺は嫌われているみたいだから、あんまり聞いてもらえそうにはないが」

 曖昧な苦笑は、彼自身へと向けられていた。灰哉への悪感情は欠片も見付けられない。それが体面でないことを、弌色はこの二年で理解していた。

 榎乃秋葉の人となりを一言で表すなら、人が良い、で完結する。

 それは他人に深入りしないがために可能な立ち回りスタンスでもあるのだろうが、この人は多分、必要とあれば本当に深い場所まで飛び込んでいける無鉄砲さもある。根本的に人好きでお人好しなのだ。

 彼が態々無関係の殺人事件への対処に動いている事実からして、弌色の所感は間違ってはいないのだろう。身近で殺人事件が起こったとして、そこに親しい人物が関わっていたとしても、切実な損得が働かない限り、解決に乗り出す人間はまずいない。それが現実だ。

 立場を考慮すれば、彼には“損失を未然に防ぐ”という利益はある。だが、それが損害ろうりょくと釣り合うかと言えば、そんなことは全くない。

 そういった美点を見付けるたび、弌色は口の中に苦いモノが広がるのを感じた。

 人となりと関係なく、彼と利害を分かち合えないという事実が突き刺さる。

「灰哉には明日もう一度言わせてもらうつもりだ。悪いが昏喰、敷浪にはお前からも注意を払ってもらえないか?」

「まあ、学校以外でもよく会ってるけどさ。始終じゃないし、そもそも神社にまで入り浸ってないぞ、俺」

「え。……あ、うんそうだよな。あいつも忙しいだろうし。気の配れる範囲でいいからさ、頼むわ」

「誤魔化し下手か」

 思わず口を突いて出た。

 確か数えて二十四歳になるはずだが、この腹芸の出来なさはどうしたものかと弌色でさえ思う。

「はあー……。分かったよ、紋加が巻き込まれるのは不本意だし、目を離さないようにするわ」

 肩の力が抜けていることに気付く。

 会話の内容はそれほど愉快でもおかしなものではないのに、不思議と脱力させられる。それはいつものことで、榎乃の軽薄に因る侮られやすさも関係しているのだろう。

「ちょい待て、昏喰。これ持って帰れよ」

 立ち去ろうとしたタイミングで何かを押し付けられた。その勢いに、咄嗟に受け取ってしまう。

 そして何であるかを確認してから、弌色はくちびるの端が引き攣ったのを自覚した。

「……あの、この紙の束は?」

 気のせいではなく、親指の幅ほどの分厚さがある。

「休みに関する申請書類と、授業短縮の関係で増えた宿題、その他諸々だな。安心しろ、受け持ち全員、これの半分は渡してあるからな!」

「うっそだろ」

「来週には提出しろよー」

「いや流すなよ何で俺だけ多いんだよ!」

「今日の十分休憩、三階廊下の消化器が破裂したことに何か言い分はあるか?」

「来週提出ですね。いただいていきます、アキハ先生」

「榎乃先生な。気をつけて帰れよー」

 資料室を後に階段を登っていると、耳に馴染んだ電子音ベルが聞こえた。

 授業が始まることはないので、これはいい加減帰れ、という催促なのだろう。

 擦れ違級友に軽く挨拶をしながら教室へ向かえば、手持ち無沙汰にしている友人が教室のドアに背を預けて立っているのが見えた。その周囲には誰もいない。紋加の表情も穏やかで、陰険な男に絡まれなかったようだな、と胸を撫で下ろす。

「アヤカお待たせ」

「あ、お帰り弌色。……ああ、結構量が多いね」

「来週までだからなんとかなる、筈……」

「弌色、頭いいもんねぇ」

「勉強ができるのと頭が良いのはまた別な気が……? まあいいや、ほら早く帰ろう」

 促せば、何故か微苦笑している紋加は首肯する。

 教室に置きっぱなしにしていた鞄に、薄っぺらいファイルに無理矢理挟んだ紙の束を突っ込む。膨らみきった手提げ鞄は、振り回せばそれだけで凶器の役割を果たしそうだ。実際、提げてみればずしりと重い。

「今日も家に帰るんだろう?」

「ううん。実は神社に泊まろうと思ってて。それに、連日はね」

「……そっか。じゃあ、今日はうちに泊まらないか? 親父も賑やかなほうが好きだしさ」

「ゴメンね。神社の仕事、溜まってきてて片付けたいっていうのもあるんだ。明日でもいいかな?」

「わかった。じゃあ、明日は帰り際、一緒に夕飯の材料買わない?」

 取り留めも無く、留まることなく、会話は続く。

 明日の予定から畦道に生えた花、明日の天気、空の色、雲の形、献立の内容、お菓子、目の前に迫ったゴールデンウィークの予定について。思い付いた先から内容は転じて、それは神社の前に着くまで続いた。

 紋加の背が、高い石段の先端で見えなくなるまで見送る。

「よし」

 気合いを入れる。

 白雲神社は東区でも随分と北西寄りに在る。対して、弌色の家は東区の中でも南部で、だだっ広い畑と田圃が其処彼処に広がっている。同じ市内だが、そもそもこの藤露市そのものがかなり広いので、徒歩で向かうには難儀する距離だ。大抵の学生は自転車かバス、ごく稀に電車を活用している。紋加は片道徒歩で十五分と近いため、弌色は生活費を切り詰めたいため、いずれも活用していない。

 腕時計を確認すれば、針は13時40分を示していた。

 空を見上げる。

 晴れ渡る空は、茜色からさえも遠い。この数日、活動は夕暮れにまで食い込んできている。それが弱ってきているのか強まってきているからかは判別できないが、この調子では活動時間が長くなる可能性は無視できない。

 ―――『俺はお前の親父さんに顔向けできなくなる』

 脳裏に担任かのの忠告が過る。

 真摯な声を、静かに振り払う。彼の指示に従うのは犯人を放置するということで、その選択肢は弌色の中にはない。

 忠告を無碍にする理由は様々だ。弌色の心情や事情もあれば、そもそも榎乃を信用していないという事実も、判断に含んでいる。

 けれども、もっとも我慢のならない理由が有った。

 少年の影法師よこがおが、瞼の裏でひらめく。

 ―――『顔向けが出来ない』

 反芻リフレインする声に蓋をする。

「行くか!」

 西区へと足を向ける。バスを利用すれば然程時間も掛からないだろう。躊躇いはない。それぐらいの出費ならば、懐も痛まないので。

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