3 〈幕間〉魔弾

「………」

 時計を確認すると、針は午後の2時過ぎを指していた。

 スコープ越しに指定された場所、その周辺を見渡す。今のところではあるが異変は見当たらない。実に平穏だ。

 スコープから顔を遠ざけ、腹這いのまま上空を見上げる。

 六階建てビルの屋上から見上げる晴天は、薄い青色が突き抜けるような色彩で広がっている。もうすぐ初夏なのだと知らしめるようだというのに、吹き抜ける風は指先が冷え込むほど冷たい。これほどの高所なのだから当然とも言えるが。

「あー……」

 ぼんやりとした声を出す。

 水も摂らずに四時間、この屋上で張り込んでいる。昼食はパサパサに乾燥した携帯食というなんとも侘しい有り様だった。このまま何事もなければ夕食はジェルタイプの十秒チャージ系携帯食、夜食は板チョコだ。

 一昨日からは夕暮れにも活性化しているようなので、想定より早く動きがある可能性もある。しかし、夕食はこの侘しい献立で確定しそうだと予感していた。

 目頭を揉んでから、待機状態を再開する。

 スコープ越しの視界には、郊外にほど近い歩道だった。事前に調べたところ、テナント予定の空きビルと時代遅れのトタン製の小屋が乱立する場所で、更には平日とい間帯のためか、今のところ人影はない。

 開発の進んだ西区とはいえども、この区画は企業ビルディングやショッピングモールからやや離れており、また交通網の整備も遅れている、人の流れを取り込めずにいる一種の空白地帯だ。とはいえ、本格的に開発から取り残された市の西端とは違って人の手は入っているし、此処から少し外れた場所にだが住民も少なからず存在する。そのうちに人の賑わいが入り込んでくるのだろう。

 入り組んだ裏路地に視線スコープを向ける。当然ながら、高低差の激しい建物が犇めいるのですべてを見通すことはできない。最悪、ライフルを背負って屋根伝いに飛び跳ねることになりそうで、しみったれたため息を吐き出した。

 体感で一時間ほど経過した頃だろうか。

 いい加減唾液が重く、水で湿らすくらいは必要かとペットボトルに手を伸ばした時だった。

 車のエンジン音が、静まりかえった空気を震わせた。

 音の方に視線を向ければ、スコープ越しに人影を捉えた。

「………」

 駐車場に停まった車から、人が一人降車する。やや肥満気味の中年男性だ。スーツ姿、手には鞄を提げている。身なりからして会社員だろうと見当をつける。

 男の足が向かう先は、予想地点だ。

「………さて」

 くちびるを舐める。緊張か、はたまた強風に晒されていた所為か、乾ききった冷たい皮膚の感触がした。

 どうするべきかを思案する。

 時計に目をやれば針は三時十分を示している。まだ予想時刻には遠く、夕暮れが迫り出すには早すぎる時間帯だ。

 短く息を吸い、細く長く息を吐く。

 何時でも撃てるよう、人差し指を引き金に添わせた。

 男は鞄から紙を取り出し、何かを探すように周囲の建物を見回している。やがて一方向に顔が固定され、視線を向ける方へと移動しだした。

 やや早足なのは、この数日の事件を警戒ているが故なのだろう。表情にも緊張感が滲んでいる。

 そのまま、警戒域に踏み込む。

「………」

 数分ほどかけて、彼は目的地らしい場所に辿り着いた。紙と建物を見比べて、建物へと入っていく。少しだけくたびれた革靴の踵が、死角に入り込んで、見えなくなった。

 近辺の建物は午前中に調査済みで、これと言った痕跡は見付けられなかった。恐らくはという注釈は付くが、彼は五体満足であの建物から出てくるだろう。

 問題だったのは、建物の外だ。

 この地区の路地のそこかしこで、空間の撓みにも似た違和感が散見された。その違和感の名称や言語化できる語彙を持たないが、それが異常であることだけは確信が持てた。

 此処ばかりではない。裏路地や空き地、時には普段から人通りのない道路上。この地区に限らず、事件の起こった場所や鳥獣が殺された場所の周辺でも、そういった場所で、地脈に変容が視られた。

 そういった技術や知識を学んでいない身で確認が取れたのは、ひとえに神使という立場の“おかげ”だ。

 その亀裂じみた変容ひずみは、土地神の言葉を借りるなら、“異界”に出入りした痕跡らしい。

 無論、人間が、そもそも生き物が使用できるような類いではない。

 それを知った時は堪らずに、厄介なモノが招かれたものだ、と吐き捨てたのは記憶に新しい。

 男の入ったビルから視線をずらし、予測地点の観測を再開する。

 疲労で首の筋肉が引き攣れるのを感じながら、この行為が無駄に終わることを祈った。


 更に三十分は経過した頃、男がビルから出てきたのを目視した。後はもう帰るだけなのだろう、その表情には最初のような緊張感は消えている。見ようによっては弛緩さえしていた。

 警戒区域からあと一分で離脱できる地点にまで移動した時だ。男の足が止まった。

 背筋に緊張感が走る。自然、呼吸が切り替わった。

 彼は何かに気付いた素振りを見せて、一点を見詰め、あまつさえそちらへ足を向けた。

 何に気付いたのかを確認するため、スコープをずらす。

「………」

 眉間の筋肉が強張る。

 ―――灰哉の目には、先ほど確認した時と変化のない、裏路地の入り口しか映らなかった。

 庇もない裏路地は、薄暗くはあるが、けれど視認するには十分な光量が当たっている。しかしどれほど目を凝らしても、その奥に続くのは煤けた色のアスファルトだけで、それ以外を視認できない。

 灰哉からは男はその背中しか見えない。だが、その素振りは何かを気遣うかのようにも見える。

 距離はあるが、最悪の場合を鑑みれば一秒も躊躇していられなかった。

 狙いを男から少し離す。そのまま引き金に指を掛けた、その直前で。

「あの馬鹿……っ!」

 最悪を見付けてしまった。

 灰色がかった濃い銀髪の少女が男に駆け寄っている。同年代の同性と比べて骨格のしっかりとした体格、特徴的な髪の色。

 見間違うはずもない。

 この場に絶対に出てきてほしくない人物が、あわや死に瀕するところだった男の腕を掴んだのを確認して、とうとう灰哉の忍耐は限界を迎えた。

 素早くライフルを背負い、ビルの屋上から飛び降りる。

 屋根を、雨樋を、手すりを、壁を足場にして、パルクールの要領で最短距離で移動する。

 しかし。

(ああクソ、間に合わない!)

 視線を向ける。やはりと言うべきか、そこにはへたり込んだ男しか居ない。彼の視線の先は、奇妙な揺らぎの在る路地裏だった。

 閉じたのだ、と理解する。

 即座に組み立て直す。

 トタン屋根を踏みしめて、高台になり得る建物へと方向転換した。

 こうなった以上、灰哉の装備では直接的な介入は不可能だ。

(大した加護だよ、疫病神)

 ひずみが目視できたからといって、相手を目視できるとは限らない。確認が間に合わなかったのは灰哉の不手際だ。理解して、胸中で毒突いた。

 神使とはいえ、所詮は分霊にも満たないささやかな検閲権しか与えられていない身だ。

 そもそもの話。男が近づいた時点で対処していれば済んだことだ。もっと言えば、人が近づいてこない確証などなかったのだから、初めからあの女のように自分の身を撒餌にしていれば―――

(違うだろう。分をわきまえろ、犠牲これぐらいは想定内だろう!)

 飛び移ったビルの三階踊り場から裏路地を見下ろす。距離にして百メートル弱。路地の出入口とその四方を俯瞰できる位置だ。例えこの一分弱でどれだけ移動しても、路地全体を俯瞰できる以上、絶対に発見できる位置取りだ。

 だというのに。

 見慣れた銀灰色も灰斑の金色も、どちらも見つけられない。死角にいるのだとしても、あの女のことだ、何某かの音は絶対に届く。

 なのに、どれだけ耳を澄ましても、静かな街中の音しか拾えない。

(異界に入られたか)

 生理的な嫌悪を堪え、目を凝らす。

 じっとりとした汗が米神から伝い落ちる。

 違和がかげろう路地は、灰哉の目には常時と何ら変わりない街の一角として映っている。それは灰哉以外の多くの人間も同様だろう。そしてその多くの人間もまた、灰哉と同じくこの一帯に強い生理的嫌悪を抱くはずだ。

 即ち、目に入れたくない、足を運びたくない、遠くへ離れたいと強く思わせる何かが、この場に沈殿し、広がり、覆っている。

「………」

 屋上に落ちていた石塊を投げ込む。緩やかな弧を描いた小石は、路地上空に到達すると同時に軌道が不自然に変化した。そのまま壁にぶつかって跳ね返り、表通りのアスファルトに墜落して砕ける。

(中には入れない、か)

 今は物理的にだったが、灰哉が侵入を試みた場合、恐らくは踏み込むと同時に恐慌を起こすかして、暫く行動不能になるだろう。それがどれほどの時間かは推し量ることもできないが、しかし抵抗もできずに狩られるか逃げられるに違いない。

(となると……“出入り口”を押さえるしかないか)

 介入できない以上、その後を予測して対応するしかない。

 舌打ちしかけ、辛うじて噛み殺す。

 最悪な気分だ。しかし最適解と分かっている以上、手段を放棄することは不可能に近い。

 耳を傾ける。

 土地神とは契約で繋がっているが、それは約定の上でのこと。灰哉と土地神は感覚的な器官を共有しているわけではない。

 だから、聴くのは形而下で発せられるこえにではない。言葉にするなら、与えられた情報を閲覧きかさせられる、が近いか。気持ちの良いものではなかったが、アレの声など聞かずに済むならそれに越したことはなかった。

 提示された情報を整理して。

「………ちっ」

 今度こそ舌を打った。

 次の出現箇所とあの二人の現在位置を求めれば、瞬時に適していると判断されたのだろう情報が返ってきた。

 一つは、出現箇所の代わりに、藤露市西区の全域に散らばる複数の出入り口。

 一つは、地表に置き換えた二人の現在位置、という形で。

 後者は兎も角、問題は前者に関してだ。そんな危険な場所が市の半分に張り巡らされているなど、灰哉は初めて知らされた。

 普通、異界は地表と地続きだ。だというのに、通常法則で運行している場所を“跨いで”出入り口が存在しているという。この情報は即ち、異界と地表が重なっていない、という馬鹿げた証明に他ならない。

 伏せられていた情報に苛立ち、やはり信用ならないという考えを新たにする。

 立ち消えた二人の現在地と移動速度、点在する異界の入り口から逆算し、次の出現箇所の当たりをつける。此処から一キロ以上離れた場所が該当した。居住区から離れた地点だが、この場ではあまりにも遠い。

 予め候補に挙げていた狙撃ポイントを想起し、最適なものを選択する。

 人目に付かない移動ルートを演算する。もうすぐ西日が強く差す頃合いだ。連日を鑑みれば、外を出歩く人はどんどんと少なくなるだろう。しかし、それでも皆無ではなく、そもそも住宅街を横切るルートは排除するしかない。

 一秒の熟考の末、ライフルを解体してスコープ以外を専用のバックにしまう。

 そのまま、バックを背負い、そのまま屋上から最短距離で駆け下りた。

 兎に角、狙撃ポイントに辿り着かなければ話にならない。だが、人並み以上であっても人の域を出ない程度の身体能力しかない灰哉では、愚直に駆けようとも、間違いなく間に合わない。

 なので、人間らしく道具を使う。

 予測地点から二百メートル離れた場所。そこに逃走ねんのために用意しておいたスクーターに跨がり、ヘルメットを装着する。警官の多いこの時期である。見咎めでもされれば厄介ごとは確実だった。荷物は勿論、無免許なので。

 法定速度限界で車道を、時には裏路地の他に細道、見通しの悪い畦道を抜ける。タイヤが巻き上げた砂粒が、剥き出しのくるぶしを細かく掻くのが煩わしい。

 一分弱で、目的地に到着する。

 見当をつけていたビルの脇に滑り込むようにスクーターを停車させ、裏通りへ回る。監視カメラの有無は早朝に確認してあるので、迷わず雨樋に足を掛けた。外階段の二階踊り場へ、そのまま最上階へ移動する。

 鞄からスコープを取り出して、三百メートル先の地点とその周囲を確認する。

 どうやら、決着はついていないらしい。今のところという前置きはあるが、異常は見当たらなかった。

(恐らく数分でまた変化はある。……間に合ったか)

 眦を緩めることはない。だが、微かな安堵めいたものが吐息に混じっているのを、自覚せざるを得なかった。但し、それがどういった類いの安堵かは忘却した。

「………」

 人の気配を探る。

 周囲はしんと静まり返っていた。此処は複数の会社に階ごとに貸し出しすビルらしく、人の出入りはそれほど多くはない。逆説、長時間人が留まるという意味でもあるのだが。幸いにして、この階は現在借り手がいないらしく、無人状態だ。

 階の哨戒を済ませてから、ライフルを組み立て、窓の隙間から狙いを定める。後はひたすら待つだけだ。

 そう構えてから二十分後。

「………………」

 遅い、と灰哉は不審に思った。

 双方の戦闘能力を鑑みて、長時間の小競り合いはない、と踏んでいた。だが、現実として両対象は未だ異界から出てきていない。或いは異界が解除されていない。

 死に体の現象モドキとはいえ、紛うことなく幻獣の端くれ。ならば大なり小なりの予測外が起こっても何ら不思議ではないが―――

(空間だけでなく時流まで狂っている、か?)

 予測を立てる。

(……いや、予断は禁物だ。兎に角待つしかない)

 神使の閲覧権限により、対象の現在地は常に把握できている。ならば、外部からできるのは、状況の変化を待つしか無い。

 そして、その五分後。

 事態は動いた。

 但し、灰哉が想定いなかった方向から。

 違和感は音からだった。

 路面を激しく擦るタイヤの摩擦音とサイレン音が、遠方から鼓膜を震わせる。

 厭な連想で心臓が跳ねるが、サイレン音が遠ざかっていくことに気付く。恐らくは、腰を抜かしていた男の通報で“現場”に向かった警察車両だろう。

 同時に、摩擦音が大きくなっていることにも気付いた。

 徐々に大きく―――近づいてきている。

 音の方向を確認すると、一台の車が向かってきているのが見えた。かなりの速度だ。百五十メートルほど離れた路肩に駐車して、一人の男が降りてくる。燃え尽きた灰のような頭髪の、スーツ姿の中年男性だった。姿勢がよく、身体が引き締まっているのがよく分かる。横顔は緊張が張り付いていて、目との落差が引き立ち浮き上がる。

(何だ、あの男)

 見慣れない人間だった。

 警察だとはすぐに分かった。車に取り付けられた無線機と何やら会話をしたあと、懐から銃を取り出したのが見えたからだ。

 男は銃を構えて、路地へと入っていく。

「………」

 その姿を、灰哉は見送った。指先を引き金から外し、沿わせる。

 胸中に在るのは、僅かな驚きと焦り、何より事態が急激に変動するかもしれないという緊張だった。

 あの男が何を考えてあの裏路地を進んだのかを、灰哉は知らない。

 だが、あの路地―――異界の出入り口周辺は、認識するだけで本能に嫌悪感と忌諱感を植え付ける、真っ当な人間であれば絶対に近づきたいと思わない場所だ。そこに踏み込んだ時点で、あの男は“真っ当”の枠組みから逸脱している。

 ならば、某かの対処は心得ているのだろう。

 もしただ素養が有るだけの素人だったとして、その時は、男の死体か、はたまた庇った女の死に体が晒されるに過ぎない。前者はやむなし。後者の場合、死者はでない以上は同様で、やはり灰哉としては機を待つ他ない。

 男があの女と敵対行為を働く、その可能性が脳裏を過ったのは確かだ。だが、その可能性だけで、やたらに事態を拡大することは避けねばならない。

 更に一時間以上が経過した。

 黄昏が強くなる。西日は陰りだし、夜が空の端から深みを増していた。

 五分おきに位置情報は更新しているが、大きな移動はない。

 時流が異なっているとしても、対象の状態を加味すれば、極端なものではないはずだ。

 じ、とスコープ越しに観察する。

「―――!」

 一瞬息が詰まるのを、反射で深い呼吸に切り替える。

 見えた。

 視認と同時に、思考が走った。

 沿わせていた指を引き金に掛ける。艶やかな金と、病んだ灰色が入り混じった少女に照準を合わせる。

 幸運にも、少女と女は向かい合っている場面で、その上、灰哉から見えるのは彼女の横顔だった。ならば今この時、射線に女が割り込むことはない。

 今度は威嚇射撃ではなく、殺傷を目的として、金色の頭部に照準を合わせ。

 引き金を、絞る。

 ―――黄昏の空に、銃声が響いた。

「………」

 引き金は、まだ、絞りきっていない。

 誤射のないよう、ゆっくりと指を引き金から離す。

 スコープの向きを、ほんの少しだけ、ずらす。

「………」

 赤い色が散っていた。

 灰色がかった銀の毛並みは、通常ならば物理攻撃を通さない。高層ビルから落下した鉄骨を楽々と防ぎ、大型トラックが正面衝突しようとけろりとしているのが、昏喰弌色という化け物だ。人獣の形態すがたであれば、術式塗装されていようと、並の概念では体毛の一本さえ傷つけることも適わない。それが、灰哉の知る彼女だ。

 その、全身を覆う陰る銀色に、赤い色が散っていた。

 つかの間、停滞した心情こころを追い越して、脳髄しこうだけが事実を呑んで推測を立てる。

 弌色の後方で、影が一つ、立っているのを確認する。その輪郭シルエットから察するに、先ほど路地へ入った男だろう。構えからして、発砲したのは彼に違いない。

 もし、彼が事件の真相に迫っていたとして。事件の対処に当たるために装備を調えていたとすれば。

 金の人狼という、現代では幻想種に比肩する怪物を殺すための武装を備えていたとして。そんな超抜級の代物をどうやって用意できたのか、という疑念に目を瞑れば、なんらおかしな話ではない。

 発砲したのも、人間と変わりない金狼しょうじょでなく、異形の姿をした銀灰狼ひとしきの方が、異分子として認識しやすかったからに違いない。まして、少女に飛びかかる寸前だったのだから、尚のこと。

「………」

 事態の推移を見守る。

 灰哉が発砲しても、更なる混乱に陥るだけだ。

 それに、とも思う。

(うまくいけば、後腐れ無く、目的が果たしやすくなる)

 その方が、灰哉としては都合が良かった。

 最初に動いたのは、膝を突いていた弌色だった。

 近づいてくる男の対応と距離を音のみで測っていたのだろう。視線が少女に逸れた隙を突き、大跳躍ののち、外壁から屋根へと移動、逃走する。

 その超速且つ変則的な動きについていけなかった男は、蹲る少女に某かを告げると、即座に遁走した彼女を追いかけようとする。

 男が視線を外したのは、三秒ほどのこと。距離も数メートル離れただけだ。

 けれど、人外にはそれで十分だった。

 少女は、恐らくは音もなく、その場から離脱した。

 予測していた灰哉でさえ、その姿を数秒見失ったのだ。銀灰の狼に逃げられたことを悟り、諦め、少女の安否を慮って振り返った男には、肝心の少女が消失したようにしか思えなかっただろう。

 暫し逃走していた少女は、最後には力尽きたように動かなくなった。残念ながら、射線の通る位置ではない。

 その場所を頭にたたき込み、灰哉は立ち上がった。荷物をしまい、ガンホルダーの中身を確認する。

 仕事の仕上げだ。


     ◇◇◇


 もう異界に逃げ込むだけの余力もなかったらしい。追跡は楽なものだった。

 接近した灰哉に気付いて、横たわっていた少女は顔を上げた。幼い顔立ちには、年の頃に見合わない動揺が広がっている。

 匂い消しの有用性に感謝しつつ、灰哉は銃口を少女に向けた。

「……どうして」

 つたない口調だった。舌足らずで、本当に十歳かそこらの子供に見える。

 だが、それは見た目だけの話だ。

 本来の肉体の主は、確かに十歳ほどの子供だったのだろう。しかし現在主導権を持っているモノは違う。どういう経緯でそうなったかは知らないが、死に体の子供に憑依した、滅び去った幻獣魔狼の精神こそが主体なのだと灰哉は知っている。

 人間とは違うモノ。

 種の起源から異なる、疾うに滅び去った、幻想と化した獣たち。

 稀にあることだ、と土地神は語っていた。稀にある喜劇だと、あの神モドキは言った。

「人間? ……でも、あの銀狼と同じ匂いが」

 奇妙なものを見る目で、斑色の狼は疑問を口にする。

 問い掛けているというよりは、それは自問しているように思えた。向けられた銃口を気にすることさえなく、なぜ、とだけを口にしている。

 なぜ。

 何故―――同じ血脈同士の匂いが、目の前の人間からするのだろうか、と。

「………」

「同じ血のにおい……なんで、人間が」

 引き金を引く。

 聖別と術式塗装のなされた専用の弾丸シルバーブレットは、過つことなく、少女の形をした魔物の額を貫通し、脳漿を破壊した。

 くちびるが止まる。金色の目は、秒を追うごとに濁りを増していく。

 数秒もしないうちだった。だらりと伸ばされた指から肉が溶け落ちたのを切っ掛けに、小さな身体がぐずぐずに溶けていく。

 精神を繋ぎ止めていた肉体が失われたことで、精神によって形を保っていた肉体もまた、崩壊していく。

 腐臭が辺りに立ち籠めて、光景と相まって、どうしようもなく胸が悪くなった。嘔吐しなかったのが不思議なほどだ。

「……あいつは銀じゃない。銀灰だ」

 金狼の肉体が縮こまり、最後には淡い色の煙を細くたなびかせ、消失した。

 視線で煙の名残を辿り、空を見上げる。

 いつの間にか日が落ちきっていたらしい。真っ暗な夜空に、針の先よりも小さな星が瞬きだそうとしていた。


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