第11話 伊勢から纏向に、行き先は変更されてしまった
(吐く!)
丈琉は握っていた八真斗の手を離し、手で口をおさえた。しかし胃から酸っぱい空気が、上がってきただけだった。大きく息を吐いた。
(なんか、安定感がある……)
と思った時、八真斗の声が聞こえた。
「ここ、どこや」
ひどく戸惑った声。ようやく丈琉の瞳に、八真斗が映った。その後ろに壁がある。
「壁?」
丈琉は起き上がった。船の上でもない、海の中でもない。家の中にいた。丈琉は床に横たわっていたのだ。しかし全身はずぶ濡れ。頭から塩辛い水が顔を伝って流れ、口の中に入ってくる。
隣では八真斗とオトタチバナヒメが、肩を組んで座っていた。
「なんで、家ん中におるんや」
丈琉は頭の中に霧がかかっており、考えることができなかった。
「また、移動したんやろな。いったい、ここはどこで、どれ位時間を超えたんやろ。三殊はいないんか?」
丈琉は慌てて、部屋の中を見渡した。この部屋には自分と八真斗、オトタチバナヒメの3人しかいない事に、やっと気が付いた。
「みぃ! どこや。みぃ」
丈琉は船酔いも忘れて立ち上がり、部屋の中を歩き回った。
ゴチャゴチャと物が乱雑に置かれている。部屋の端には薪や木くず。木の箱も数個、転がっている。壁際には布で藁を巻いた、大きな枕の様な物。その脇には布団が敷かれてある。誰かが起きだした後の様に、乱れていた。部屋の真ん中には囲炉裏があるが、火は入っていない。八真斗は火をつけた。最近、木で火を起こすことができるようになったのだ。八真斗は茫然自失となっているオトタチバナヒメを、囲炉裏の傍に連れてきた。オトタチバナヒメは丸い目を、さらに丸くしているが、その瞳には何も映っていないようだった。
部屋を歩きまわっていた丈琉が、ふと、立ち止まった。
「ここ、熱い。熱を感じる」
丈琉は部屋の隅に、導かれる様に歩いて行った。薪や木材が、ゴチャゴチャに重ねられている所。丈琉はなんの迷いもなく、それらをどかした。最後に細長い箱が出てきた。
「この箱から感じるんや」
丈琉は箱を開けようとしたが、蓋が見あたらない。不意に箱が持ち上がった。箱はひっくり返されて、置いてあったのだ。
「クサナギの剣!」
丈琉は大きな声をあげた。床に置かれた剣に箱をかぶせ、隠してある様に見えた。
「クサナギの剣? では、ヤマトタケル様はここに」
オトタチバナヒメはやっと声を出した。
「誰じゃ」
女性の甲高い声。3人は飛び上がらばかりに驚いた。一斉に振り向くと、そこには見覚えのある、つり目の女が立っていた。
「ミヤスヒメ。ここ、尾張か」
八真斗はすでに冷静さを取り戻していた。ミヤスヒメは口をワナワナと震わせた。
「オトタチバナヒメ様。伊勢にいったのではないのですか」
「伊勢?」
オトタチバナヒメが首を傾げた。
「おぬし達、3人は伊勢に行ったと、ミコヒメが言っておった」
「ミコヒメ? みぃもここにおるんか。よかったぁ。どこにおるんや」
丈琉はミヤスヒメに詰め寄った。ミヤスヒメは肩に駆けられた丈琉の手を、激しく振り払った。顔を真っ赤にして、さらに目を吊り上げた。
「いません! みんな、出て行きました。ヤマトタケル様も」
ヒステリックに叫び、その場に座り込んで大声で泣き出した。手も付けられないほどの混乱。丈琉達は聞きたい事がたくさんあったが、遠巻きに見ているしかなかった。どれ位泣いたか、ミヤスヒメは急に泣き止んだ。
「声、かけてもいいんやろか。お前の方が、女の扱い、慣れとるやろ。なんとかしてくれ」
丈琉は八真斗の肘をつついた。八真斗は丈琉を横目で見て、溜息をついた。
「俺やって、そんなに慣れとる訳やないし。古代の女の心境なんか、わからんって」
2人がつつき合っているうちに、ミヤスヒメは自分から話し始めた。
「私が止めたのに、ヤマトタケル様はここを出て行ったのです。
クサナギの剣を隠したのに、探しもしないで。大切にしていたから、剣が見つからないうちは、どこにも行かないと思ったのに」
(あれ、隠してあったんか。隠し方も幼稚やけど、それで引き留めようと考えるあたり、子供とおんなじやな)
八真斗は溜息をついて、ミヤスヒメを見下ろした。
「あの様に具合がお悪かったのに、休みもせずに」
「えっ? ヤマトタケル様はご病気なのですか」
「それもご存じでなかったのですね。ヤマトタケル様からのご寵愛を、一心に受けている方とは思えません」
皮肉交じりに言った。
「俺ら、自分たちの意志で離れていたんやない。オトヒメやって、好きでオウスと離れていたわけやないんや」
丈琉は声を荒げた。ミヤスヒメはキッと丈琉を睨み、横に視線を逸らせた。
「なぁ。オウスが具合悪いって言ったよな。どんな感じなんや」
八真斗は穏やかに、ミヤスヒメに問いかけた。
「ここに着かれて、すぐに、倒れられました。顔も足も浮腫んで、顔の色も悪くて。ずっと咳をされていました。横になられると特にひどくて。眠られないので、それを」
ミヤスヒメは藁の大きな枕を指さした。
「それを背中に当てて、座ったまま眠っておられました」
「やばい。心不全になっとる。起坐呼吸になるなんて、相当悪くなっとる」
八真斗は眼鏡の位置を直しながら、つぶやいた。
「えっ? そんなにお悪いのですか。
ミヤスヒメ様。ヤマトタケル様はどこに行かれたのですか。伊勢なのですか?」
オトタチバナヒメの問いには、ミヤスヒメは答えなかった。横を向いて、口を堅く閉じた。
オトタチバナヒメはミヤスヒメの前でしゃがみ込み、目線を同じにした。
「ミヤスヒメ様。先ほど、私がヤマトタケル様の御寵愛を1人で受けていると、おっしゃいましたが、それは誠ではありません。私は正妃ではありませんし、お子もなしてはおりません。正妃様であるフタジノイリビメ様は、お世継ぎも産んでおられます。私は、側室の1人でしかないのです。
気持ちを押さえてはいましたが、本当は悲しくて、悔しくて。そのように思うのは、はしたない事とはわかっておりますが、自分では抑える事はできませんでした。だから皆に反対されても、危険とわかっていても、この旅に来てしまったのです。離れられなかった。
でも、でも、それは、私のわがままでしか、ありませんでした。迷惑でしかなかった……」
オトタチバナヒメはポロポロと、涙をこぼした。
「えっと、何を言いたかったのか、わからなくなってしまいましたが。私はヤマトタケル様にそれほど愛されている訳ではなくってですね」
「いえ」
ミヤスヒメの高い声が響いた。
「ヤマトタケル様はオトタチバナヒメ様を愛しておられます。心から。だから、私は悔しかったのです。
でも私には、戦の旅について行くなど、とてもできません。そんな勇気はありません。わかっていたはずなのに。あなたには、決してかなわないと」
ミヤスヒメは涙を拭って、顔をあげた。両方の口角が上がっている。
(このヒメの笑い顔。初めて見たな)
八真斗は思わず微笑んだ。
「ヤマトタケル様がお休みの間に、タケヒコ様が先頭にたって、伊吹に出陣されたのです。
そう。突然、ヤマトタケル様の兄様と言われる方が来られました。本当にそっくりなお2人でした」
「兄って、オオウス……さん、やったかな」
「はい。そのオオウス様もタケヒコ様と共に伊吹に行かれたので、ヤマトタケル様は追いかけたのです。2日前の事です。尾張には、もう、戻ってはこないでしょう。
ヤマトタケル様は伊勢に行くと、大変焦っておいでの様でした。伊吹でタケヒコ様達とお会いになったら、そのまま伊勢に向かわれるのだと思います」
「じゃ、俺らはどうする。オウス達、追いかけるか。伊吹ってどこやったっけ。どん位、かかるんやろ」
丈琉は矢継ぎ早に、八真斗に問いかけた。
「落ち着けって。伊吹って、たしか岐阜やなかったか。琵琶湖寄りやと思うで。結構遠いけど、伊吹までどん位かかるんやろ」
「父は2、3日かかると言っておりました」
「って事は、もう伊吹に着いとるかもしれん。うまくタケヒコ達と会っていたら、伊勢に向かう頃かもしれんし」
「じゃ、俺らはここから伊勢に向かえばいいんやろ。俺らが先に着いたなら、そこで待っとればいいやんか」
丈琉は相変わらず、気が急いているようだ。半分、お尻が浮いている。
「でも、伊吹からやと、どれくらいで伊勢に着くんやろ。向こうが早く着くかもしれん。
距離的には俺らの方が、伊勢に近いんやろか」
八真斗は眼鏡のブリッジに触れて、考え込んだ。
「私はよくわかりませんので、父に聞いてみます」
ミヤスヒメはオトヒコを呼んできてくれた。オトヒコは伊吹から山を越えて、海に出て海岸沿いに進むだろう教えてくれた。距離は伊吹から伊勢と、尾張から伊勢では、それほど変わらないのではないかと言った。
「琵琶湖から、伊勢湾に出てくるって事やな」
八真斗は床に、指で地図を描いた。ここでは丈琉にしかわからない図。
「山道行くより、海沿いの道の方が楽やろ。そうすると、オウス達は四日市のあたりに出るのが、いちばん近道かもしれん。それか直線距離で考えると、菰野とか亀山とか通って、津に出るかもしれん」
八真斗は自分で言って、ハッと気が付いた。
亀山。自分たちの故郷であり、“日本武尊”が死んだとされる場所。
オウスは心不全を起こしていると考えられる。命にかかわる状態かもしれないのだ。八真斗は手で口を覆った。
「もしかして、亀山とか通っていたら……そこで、まさか」
丈琉も気が付いた。2人は不吉な結末を、思い浮かべてしまった。
「早く出よ。とにかく、伊勢に向かうしかないやろ」
丈琉は立ち上がり、部屋を出た。しかし外は真っ暗。部屋の中にいて、気が付かなかったが、今は夜だったのだ。
「夜は進むことはできません。朝になってから、出発するしかありません」
オトヒコに言われ、丈琉は舌打ちをした。古代の世界も長くなっている。夜の旅が危険な事は、十分承知していた。顔を左右に振りながら、引き返してきた。
その時、丈琉は誰かに呼ばれているような気がした。部屋の隅から、気配を感じる。そこにはクサナギの剣が横たえてあった。
「これ、忘れてくトコやった。オウスに持って行かんと」
丈琉は剣を持ち上げた。軽々と剣を持つ姿を見て、ミヤスヒメが驚嘆の溜息をついた。
「簡単に持たれるのですね。私は弾かれてしまいました。持つどころか、触ることすらできませんでした」
「この剣な。持つ人、選り好みするんや」
丈琉はミヤスヒメに向かって笑顔を見せた。
そして剣に視線を移し、それを目の前に持ってきた。剣と正面から見つめ合い、ゆっくりと目を閉じた。しばらく身動きせずにいたが、ゆっくりと目を開け、八真斗に向き直った。
「剣がな、オウスじゃないと、嫌なんやって。この剣の持ち主はオウスや。
剣がオウスのトコに、導いてくれるらしい」
八真斗はその言葉を聞いて、ほっとした表情になった。
「それなら、安心やな。当てのない旅をするようで、ものすご不安やったけど。
きっと、俺達は、みんなに会える」
そう言ってから、八真斗はふと思った。
(しかし、剣に導かれるって、いったいなんやって話や。だいたい、それをすっかり、信じ切ってしまっとるってのも、なんだかな。俺ら、すっかり不思議世界に慣らされてしまったな)
心の中で1人、笑った。
翌日、早朝から丈琉達は尾張を出発した。その際、オトヒコが旅の必要品を準備してくれた。いつも人任せで、旅について行くだけだった丈琉と八真斗には、ありがたい心づくしだった。炒った米、木の実の味のないクッキー、干し肉や魚などの保存食。水筒代わりの竹筒。傷薬というガマの穂を乾燥させた物や綺麗な布。寝袋代わりになる厚手の布など。それらを麻袋に詰めてもらい、丈琉と八真斗と二等分して背負った。丈琉はその他にも、背中にトツカの剣、腰にクサナギの剣を下げている。
「タケ。剣、2つも持って、重くないか。俺、荷物余分に持つで」
「いや。不思議なんやけど、こいつら、全然重くないんや。重力感じない程や。この荷物の方が重たいわ」
丈琉は麻袋を揺らしてみせた。
「じゃ行くか。俺らが仕切って旅するって、かなり心配やけど。でも行くしかないもんな。がんばろ」
頼りない決意の元、3人は伊勢への旅路に出発した。
“ただひたすら、海岸沿いに進むだけ。前にオウス達と、伊勢から尾張の旅を経験している。その時の記憶を頼りに進めば大丈夫”
丈琉と八真斗はそれを合言葉にして、旅を続けた。無事、1日を歩き通した。夜は火を焚き、丈琉と八真斗で交代で見張りを務めた。
明け方。見張りをしている丈琉の隣に、八真斗が座った。丈琉は火を見つめながら、八真斗に話しかけた。
「夜、1人でいるのは、切ないな。よけいな事ばっか、考えてしまう。
みぃのヤツ。大丈夫なんかな」
「少なくとも、俺らよりは安心なんじゃないか。オウスやタケヒコと一緒やし」
「確かに」
丈琉はクスッと笑った。ここで一瞬の沈黙。
その静寂を破って、丈琉が話し出した。
「なぁ。俺、確かにみぃの事好きやけど。でもな、なんか最近、前と違うように思うんや」
「おい。いきなりなんや。弟の恋愛相談なんか、まじめに聞いてられんって」
「そのような事を言っては、タケヒ様がかわいそうです」
後ろからいきなりオトタチバナヒメが話しかけてきた。2人はびっくりして振り返った。丈琉は哀れな程に、慌てふためいた。顔が真っ赤に染まった。
「タケヒ様はミコヒメ様の事を、愛しておいでなのですよね。でも、ミコヒメ様はヤマトタケル様の事を思っていらっしゃいますし。
思う人が、自分を愛してくれないのは、本当につらい事です」
(このヒメ。全部、見通しとる)
八真斗は意外に思った。どちらかというと、普段はのんびりとしているヒメだった。恋愛事情など、気が付かない感じだった。
(まぁ。わかりやすい2人ではあるな)
「でも、タケヒ様とミコヒメ様は同母でございましょう。同母では、添い遂げることはできませんよね」
「えっ? それって、母親が違えばいいって事か? 父親が同じ姉弟でも、結婚できるんか?」
「えっ? もちろんではないですか。タケヒ様達のおクニでは、違うのですか」
オトタチバナヒメに逆に聞かれた。
「へー。羨ましいっていうか、なんと言うか」
丈琉はもう隠す気もなくなっていた。
「アホか。羨ましいってなんや。俺ら母親おんなじやろ。この時代でも無理やって」
「でも、人を好きになるのは、どうしようもない事ですよね。母親が同じというのは、タケヒ様のせいではありません。愛する気持ちを、同母の姉だからといって、抑える事はできないでしょう?
ここではお二人が同母と知る人もいないのですから、無理に気持ちを押さえなくても、良いのではないですか。あっ。ミコヒメ様のお気持ちを、無視してはいけませんね」
オトタチバナヒメは指を口に当てて、くすっと笑った。
「ここでなら、俺とみぃでも、付き合っていいんか。でもな、俺。前よか冷静になっている気がするんや。
俺、みぃの事、姉さんやと思うようになってきたかもしれん。いや、違うな。妹みたいや。恋愛にも不器用で、目が離せない。思わず世話、やきたくなるわ」
丈琉は屈託なく笑った。八真斗は丈琉の背中を、ポンポンと叩いた。
尾張を出て、2回目の朝。雲ひとつない空。空気は冷え切っていた。目の前に流れる川から、霧が立ち昇っている。
丈琉と八真斗は川の水で顔を洗っていた。氷の様な水。丈琉は透明な水を覗き込んだ。
「みぃがいたら“マイナスイオン”って、言うんやろな」
八真斗は「確かに」と言って、笑った。
いきなり丈琉が立ち上がった。
「剣が、呼んどる」
そう言って、クサナギの剣の所へ歩いた。剣を手に取り、じっと見つめた。そして今度は川の上流に顔を向けた。視線は川の上流に向けられていた。
「うわっ」
突然、丈琉は小さく叫び、その場にしゃがみ込んだ。八真斗は顔を拭きもせず、丈琉の元に駆け寄った。
「大丈夫や。急にスサノオが話しかけてな」
丈琉は頭を抱えていたが、汗をかきながら笑ってみせた。八真斗はホッとした様に息を吐いた。
「この川に沿って行けって。
それと『急げ』って。スサノオがそう言ったんや。なぁ、どうしてやと思う?」
丈琉の問いかけに、八真斗は不安を覚えた。
(急がないと、間に合わないって事か。何に、間に合わないんやろ。
まさか、オウスか。具合が悪いらしいし。そや。この辺、四日市か、鈴鹿あたりかもしれん。この川が鈴鹿川だとすると、上流には能褒野がある)
「オウスかもしれん。オウスがやばいんかもしれん」
八真斗が鬼気迫った顔で答えた。
「やばいって、どういう事や」
丈琉の大きな声を、オトタチバナヒメが聞きつけた。
「オトヒメのいるトコではできん話や。とにかく、急ご」
八真斗は丈琉にだけ聞こえる声で囁いた。八真斗の言いたい事を察した丈琉は、唇をかみしめて、強くうなずいた。
自然と歩く速度が上がってきた。オトタチバナヒメはついて来るのがやっとだ。途中から丈琉が背負う事になった。トツカの剣は肩にかけた。八真斗も抱える荷物が増えてしまった。それでも、2人は歩く速度を緩めず、必死に歩いた。
太陽が真上に昇ってきた。2人の額から、汗が流れた。
突然、丈琉が立ち止まった。オトタチバナヒメをゆっくりと背中から降ろし、しゃがみ込んで頭を抱えた。
「どした?」
「いや。スサノオの指令がきたんや」
丈琉は汗をぬぐいながら、顔を上げた。
「この先、川が二手に分かれるから、右手の細い方に進めって」
「ありがたい道案内やな」
「いや、俺らが伊勢に向かっている事に、気が付いたらしい。伊勢には絶対に行くなって。剣の持ち主に合わせてやるからって。恩着せがましく言われたわ」
「まっ、それでも、俺達にもありがたい話しやないか。
それにしても、よくオトヒメの事、落とさんかったな。今までなら、びっくりして落としてたかもしれん。ようやく、スサノオにも慣れたか」
「勝手な事言うな。お前、1回聞いてみろ」
丈琉は八真斗の肩を、バシッと叩いた。
3人は一休みした後、再び歩き出した。疲れがピークに達してきた。丈琉と八真斗は下を向き、無言で歩いた。
「あの、私、歩きます。がんばります」
オトタチバナヒメが申し訳なさそうに、丈琉に声をかけた。
「大丈夫。気にすんな」
丈琉は息を切らせながら返事をした。オトタチバナヒメは「ごめんなさい」と、小さく言い、前を向いた。
「あっ。煙が上がっています」
オトタチバナヒメが叫んだ。丈琉と八真斗は立ち止まり、前方に目を向けた。オトタチバナヒメが指さす方向に、煙が一筋、立ち上っていた。
「オウス達かもしれん。俺、先に行ってみる」
八真斗は疲れを忘れたかの様に、駈け出した。丈琉はオトタチバナヒメを背中から降ろした。
「オトヒメも走った方が、速いかもしれん。がんばれるな」
オトタチバナヒメは力強くうなづき、丈琉に手を引かれて、必死で走った。
全速力で駆ける八真斗。煙の元に人の姿が見えた。走りながらも、目を凝らした。見覚えのある顔。
「ミヤーー」
ミヤトヒコは声を聞きとったらしい。キョロキョロとあたりを見渡している。声の発生源を見つけると、満面の笑顔になった。
「ヤマヒコ様」
ミヤトヒコは大きな声で叫んだ。三殊は真っ先に立ち上がり、ミヤトヒコの元に走った。三殊の目に、なつかしいきょうだいの姿が映った。
八真斗が三殊の元にたどり着いた。
「よかった。無事やったな。よかった」
と言って、三殊の背中を叩いた。笑顔の八真斗に対し、三殊は厳しい表情。
「ヤマ。助けて。オウス君が大変なんや。
爪の色が悪いんや。チアノーゼって言うんやろ。宮崎のおばあちゃんと、おんなじ色しとる。
八真斗。チアノーゼって、亡くなる時になるって、言っとたやんか。なぁ。オウス君、どうなるんや」
八真斗の服をつかんで、泣きそうになりながら訴えた。八真斗は息を飲んだ。木にもたれかかっているオウスの姿を見つけた。三殊の頭をポンポンと軽く叩くと、オウスの元に駆けつけた。
遅れて、丈琉とオトタチバナヒメが到着した。丈琉は三殊の前に息を切らせて立った。
「よかった。無事やったな。よかった」
そう言って、三殊の背中をたたく。
「ヤマと、おんなじ事、言うんやな」
三殊は泣きそうになりながらも、微笑んだ。
オトタチバナヒメはオウスを探した。
「こっちや。オウス君、具合悪くてな。休んどる」
三殊はオトタチバナヒメの手を引いて、オウスの元に走る。丈琉も後を追いかけた。
「ヤマトタケル様」
「ヒメ」
オウスは、泣きながら抱き付いてきた、オトタチバナヒメの名を弱弱しく呼び、その背中をさすった。
八真斗はオウスの手首に触れて脈をとり、爪の色を見た。そして耳をオウスの胸に当てた。しばらくそのまま厳しい顔をしていた。一つ大きなため息をつくと、耳を離し、オウスの顔を覗き込んだ。
「オウス。苦しいやろ」
オウスは目を細め、首を横に振った。
「オトタチバナヒメに、会えた。胸のつかえが取れたようじゃ。どこも、苦しい事はない」
幸せそうに微笑んだ。
八真斗はゆっくりと立ちあがった。そして下を向いたまま、丈琉と三殊の元に来た。難しい顔をしている八真斗に、2人は強い不安を感じた。八真斗は黙ったまま顔を上げた。三殊の顔を見て、視線が止まった。
「みぃ。ほんの2、3日で、えらいやつれたな。お前も、どっか悪いんか」
「2、3日って、何? いつからの話や」
「俺らが離れてからや」
「何、言っとんの。走水の嵐の時から、1か月近く経っとる。タケとヤマは違うんか?」
「俺らは気が付いたら、尾張におった。そこでみぃたちが、伊吹から伊勢に向かうって聞いて、追いかけてきたんや。
そっか、あれから、お前はそんなに時間経っとるんか。大変やったな」
丈琉は三殊の肩をポンポンと叩いた。三殊は涙をこらえ、微笑んだ。
八真斗は2人を引っ張り、皆から少し離れた所に移動した。
「なぁ、みぃ。オウスはいつから、あんな風になったんや。顔も足もパンパンに浮腫んどる。尾張にいた時より、ずっと具合悪いやろ」
八真斗が暗い顔をして聞いた。
「いつからって、言われても。ほんと日に日に悪くなっていったんや。
そうや。伊吹でな急に話ができなくなって、右手と右足が動かなくなったんや。おじいちゃんみたいになって。私、脳梗塞になったんかと思ったんやけど、数分で治まったん。あれって、なんだったんやろ」
「TIAかもしれん」
「?」
「一過性脳虚血。
1回、脳血管が詰まったけど、また血流が回復する事や。でも、また詰まる事が多いんや。血栓の予防せんと、今度は本格的に詰まってしまって、じいちゃんみたいに、脳梗塞になってしまう可能性が高い。それこそ命に係わるくらい、重症になる事もあるんや。
それに、心不全や。みぃの言う通り、チアノーゼが起きとる。喘鳴も聞こえるし。このままやったら、ホンマにやばい」
八真斗は眼鏡を直しながら、顔を歪めた。
「ヤマ。どうにかならんのか」
丈琉が八真斗の肩をつかんだ。八真斗は切なそうに、頭を振った。
「ここじゃ、薬もないし、何もできん。
それに俺、まだ学生で、一般的な知識しかないし。もしかして父さんなら、循環器の専門医なら、なんか考えられるんかもしれんけど。今の俺じゃ、無理や。どんな状態なのか推測する事はできても、どうすればいいのかわからん」
3人は下を向いてしまった。
そこへオオウスとミヤトヒコが近づいて来た。
「オウスが兄。オオウスじゃ。タケヒ殿。ヤマヒコ殿。オウスが世話になったと聞いた。一言、礼を言いたかったのだ」
オオウスは2人に、深々と頭を下げた。
「いえ。そんな」
丈琉と八真斗は一緒に首を振った。
「そや。オオウスさんな、さっき、スサノオの声が聞こえたんや。そんで、ここで待てって、言われたんやって。だから私ら、ここで休んでいたんや」
と、三殊。
「俺らもスサノオに案内されたんや。こっちに進めって言われてな」
「おぬし。あの声を、何度も聞いているらしいの。あれは、ひどいな。あまりに大きな声で、驚愕した。歩いていたが、しりもちをついてしまった。
吾は何度も聞く気にはなれぬ。勘弁してほしいものじゃ」
丈琉は「俺もや」と言い、オオウスと共感しあった。
「待てよ」と、丈琉は頭をかきながら、記憶を辿るように遠い目をした。
「そういや、スサノオが前に、オウスには自分の声が聞こえないって、言ってたんやけど。オオウスさんには聞こえるんか。もしかして、オオウスさんも、手が光るんか?」
「おお、それもご存知か。吾とオウスは、時に赤く手が輝く。二人だけの秘密だったのじゃ」
「じゃ、もしかして、これ、持つことができるかもしれんな」
丈琉は腰からクサナギの剣を外し、オオウスに渡した。オオウスは剣を受け取ると軽々と持ちあげ、じっと見つめた。
「美しい剣じゃ。
しかし、吾はからきし剣が使えぬ。いくら鍛錬を積んでも、オウスのように強くはなれなかった」
オオウスは苦笑いをした。
「オウスとオオウスは双子やったな。こんだけ似とるんやから、一卵性双生児なんやろな。
受精卵が分裂する時に、スサノオの力も分裂したのかもしれんな」
八真斗は小さい声でつぶやいた。
「ところで、なんでタケがクサナギの剣、持っとるんや? それ、尾張でなくしてしまったんやけど」
三殊が不思議そうに剣を見た。
そこへタケヒコが駆けてきた。
「ヤマトタケル様が皆様をお呼びです。
オオウス様。ヤマトタケル様が纏向に帰るとおっしゃっております。いかがなものでしょうか」
オオウスは1回大きく息を吸い込み、ハーっと息を吐いた。
「纏向か……。吾も帰れるものなら、帰ってみたいが」
オオウスは遠い目をして言った。
八真斗は迷っていたが、思い切って口を開いた。
「あのな、ぶっちゃけ、オウスの具合は悪い。命にかかわる、重篤な状態やと思う。
だから帰るんなら、早くしたほうがいいと思う」
その場にいた全員が、八真斗に視線を向けた。そして三殊はハッと息を飲んで、八真斗の腕をつかんだ。
「オウス君、この前、自分の命はもう長くないって、言ったんや。
それって、ホンマなんか」
「そんだけ、オウスは苦しいのかもしれん。死ぬかと思うくらいに」
八真斗の言葉を聞いてオオウスは勢いよく走りだした。皆、その後を追いかけた。
オウスは自分の周りに集まった人の顔を、ゆっくりとじっくりと見回した。
「皆。ここまで、吾と共に、来てくれたこと、本当に感謝している」
オウスはとぎれとぎれに言った。
「オウス。纏向に帰るぞ。吾が背負って、おぬしを纏向に連れて行く」
「オオウス。おぬし、纏向には、帰れぬ。大王に、殺されてしまう」
オウスは静かに微笑んだ。
「吾の事など、いいのだ。
そうじゃ。クサナギの剣がここにある。おぬしの剣じゃ。これがおぬしを守ってくれる。
よし、出発じゃ。皆、準備をいたせ。ここから、纏向に向かう」
皆、一斉に立ち上がった。オオウスはオウスの腰に、クサナギの剣を提げてあげた。
「
オウスは歌を口ずさみ、ゆっくり目を閉じた。
「吾が故郷は美しい。ミコヒメ様にも、見せて差し上げよう」
そう言うと、目尻に涙がにじんだ。
オウスはオオウスに背負われた。紐で二人の体を縛った。昔ながらのおんぶ紐のようにして、二人の体は固定された。
きょうだい3人は、少し離れて歩いた。
「なあ、この川、鈴鹿川かもしれんよな。そうすると、亀山に行ってしまうな」
丈琉が進む方向を見つめながらつぶやいた。
「そなや。『日本武尊』のお墓がある所や。
タケ。お前、オウスが能褒野に行くって言ったら、止めるかもしれんって、ヤマトヒメに言っとったやんか」
「うん。けどな、あんなに纏向に帰りたがっとるオウス見ると、止められん」
丈琉は空を見上げた。
「白鳥や」
丈琉に言われ、八真斗と三殊も上を向いた。4羽の真っ白な鳥が、真っ青な空に円を描いていた。
オオウスはずっと1人でオウスを背負った。ミヤトヒコや丈琉が変わると言っても、頑として受け入れなかった。
「吾がオウスを纏向に連れて行くのじゃ」
繰り返し呟きながら、ただひたすら歩き続けた。
陽が傾き、風が冷たくなってきた。正面に見える、なだらかな稜線と空の境目が、淡いオレンジ色に染まった。
「オオウス様。陽が暮れてまいりました。ここは川の近くで、地面も平坦です。休むにはいい場所かと思います」
オオウスは立ち止まり、汗をぬぐった。
「確かに。よし、今日は、ここで野宿じゃ」
オオウスは地面に布を敷き、オウスをゆっくりと背中から降ろした。オウスは太い木の幹に、もたれかかった。ナナツカハギは食事の準備を始めた。丈琉は川に、カ水を汲みに走った。大きいカメをかかえ、たっぷりと水を入れた。その時、
「ヤマトタケル様」
オトタチバナヒメの悲鳴に近い声。丈琉は水をこぼさない様に、それでも急いで駆けつけた。
オウスは力なく、地面に横たわった。弱い呼吸の度に肩が動く。顔は真っ青で、唇は薄紫色。目は閉じられていた。
八真斗はオウスの手首に触れ、脈をとった。
「脈が弱い。血圧、下がっとるんやろ。呼吸も弱くなっとる。口唇チアノーゼも。
オウス、オウス」
八真斗は名を呼び、頬をなでた。オウスはうっすらと目を開けた。オウスはクサナギの剣を腰から外し、オオウスに差し出した。オオウスがその剣を受け取ると、オウスは満足そうに目を閉じた。
「オオウス。この剣を、おぬしに。頼む」
とぎれとぎれに言った。オオウスは激しく首を振った。
「これは、おぬしの剣じゃ。おぬしの命なのであろう」
オウスは返事ができなかった。オオウスは両手で剣を掲げ、オウスに念を送る様に唸った。
「ヤマトタケル様!」
オトタチバナヒメは半狂乱で名前を呼んだ。オウスは目を閉じたまま、何も言わなかった。オトタチバナヒメはオウスの脇でペタンと座り、両手で顔を覆って号泣した。タケヒコ達は大声で名を呼び続けた。向こうの世界に行ってしまわぬように。
ただその場に立ち尽くしていた、丈琉。オウスの精気のない顔、力ない言葉に命の終焉を感じてしまった。全身が震え、歯がカチカチと音をたてた。手に持つカメの中の水が、波をたてた。
丈琉の隣で固まっていた、三殊が動いた。横たわるオウスに駆け寄り、頬に触れた。
「オウス君! 好きや」
生まれて初めての愛の告白。決心より先に、体が動いた。オウスに倒れ込み、自分の唇を、オウスの唇に押し当てた。
丈琉は呆気に取られて、手に持つカメの事も忘れた。三殊の肩に思わず手を伸ばした。カメは宙に放たれ、水を撒き散らした。水は夕焼け色に染まり、丈琉と三殊、八真斗、そして地面に横たわるオウスに降り注いだ。
その瞬間、4人の手が光った。
白い光の柱が、天に伸びた。その光景を目の当たりにしたオオウス。光を追って、空を見上げたが、光は一瞬で消えた。薄墨色の空を、4羽の白鳥が飛んでいた。
地上に視線を戻した時、オウスが横たわっていた地面には、カメがコロコロと転がっているだけ。丈琉と三殊と八真斗と共に、オウスの姿も消えていた。
「オウス!」
オオウスの大きな声が、空間に響き渡る。
タケヒコは呆然としている。オトタチバナヒメは指の間から、目を疑う光景を見ていた。涙も止まる衝撃。
「白鳥になった」
オオウスが空を見て、つぶやいた。地上にいる5人は、一斉に天を見た。4羽の白鳥が円を描いている。突然、円を崩し、横並びになって飛び去っていった。
「向こうは、纒向です」
タケヒコがつぶやいた。オオウスはうなずいた。そして祈るように言った。
「無事、故郷にたどり着いてくれ」
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