第10話 伊吹の山は、命がけだった
オウス一行は、伊勢の前に尾張に立ち寄る事になった。尾張のオトヒコの嫡男、タケイナダネの遺髪を届けるためだった。
今回は甲斐、信濃を回る経路を取ることになった。厳しい山道が続き、回り道にもなる。しかし山岳地帯のクニが大和に忠誠を誓っているのか、確認が必要だった。
「タケヒコ様は、オウス様を日嗣の皇子様として、大王様に認めさせようと、必死なのです」
ミヤトヒコが三殊に教えてくれた。
「でもな、オウス君、調子悪いやんか。イナダネさんもいなくなって、タケもおらん。炎を出して、脅かす事もできんくなったし。それに、人数も少なくなってしまったやんか。戦とかになったら、ホンマに大丈夫なんか」
「吾がおります。タケヒ様にはかないませんが、これでもこの隊では、強者なのですから」
ミヤトヒコは笑った。
「ただ、タケヒコ様は少し焦っておいでの様です」
今回、三殊の輿は準備できなかった。使っていた物は海に沈んでしまった。輿の担ぎ手もいなかった。
「大丈夫や。私もここに来て、鍛えられたし。がんばって歩いていくから」
三殊の決意表明。その時ミヤトヒコが
「ミコヒメ様が歩けなくなったら、吾が背負って、尾張まで参ります」
と言ってくれた。
厳しい山道。三殊は何回か、ミヤトヒコの背中にお世話になった。
(私、今回の旅で、ホンマに男の人に対して、免疫ついたな)
切羽詰まった状況とはいえ、男性に体を寄せることができるようになった事に、驚いていた。
旅は順調で、戦をすることもなく進んだ。“クサナギの剣のヤマトタケル”の名は、全国に響き渡っているようだ。どのクニも、その名を聞くだけで怯え、忠誠を誓ったのだった。
信濃の山をようやく越えた。その頃、三殊は背負われることもなく、自分でついて行ける様になっていた。
(私の足が鍛えられたのかもしれんけど、なんか歩くのがゆっくりになった気がする)
そう思ってみてみると、確かにオウスの歩行がゆっくりになっている。息が切れることが多く、立ち止まる事もあった。三殊は休憩中にオウスの傍にいった。
「オウス君。大丈夫か。なんか苦しそうなんやけど。
それに、夜。結構、咳しとるやんか。眠れているんか?」
三殊はオウスの顔をまじまじと見つめた。目の下にクマができている。顔色も悪い。しかしオウスはニコッと笑ってみせた。
「大丈夫じゃ。あと、もう少しで尾張じゃ。そしてその先は伊勢。オトタチバナヒメが待っておるのじゃ」
オウスは伊勢の方向を見据えた。
ようやく尾張に到着した。オトヒコが出迎えてくれた。オウスは頭をさげて、タケイナダネの訃報を伝えた。オトヒコは驚愕し、涙をこぼした。
「ヤマトタケル様。タケイナダネの死は、非常に悲しく辛ろうございます。
しかし、この様に遺髪を届けていただき、さらにはヤマトタケル様に目が腫れるまで涙していただいております。タケイナダネはなんと幸せ者でしょう。
吾が息子が、名高きヤマトタケル様の軍に参加した事は、尾張の誇りでございます」
オトヒコの言葉で、三殊は改めてオウスの顔を見た。
(確かに、瞼が腫れとる。ってか、顔も浮腫んどる。なんか、おかしいって)
三殊はオウスの体に、何かが起きていると感じ取っていた。
「オトヒコ殿。そのように言っていただけると、吾の心も、少しは休まる。大切なご嫡男を預かっておきながら、このような事になり、なんと詫びればいいのかと」
「おお、なんと。そこまで、考えて頂いて……。
そのお優しさ、依然と変わらぬ、ヤマトタケル様でございます。
いえ、遠方より聞こえてきます、ヤマトタケル様のお噂は、恐ろしい物ばかりだったのでございます。あのお優しかったヤマトタケル様が、変わられたのかと、心配しておりました」
「刹那に、人を焼き殺すとでも、言われておるか」
オウスの言葉に、オトヒコは苦笑いをした。
その直後、オウスは手で頭を押さえ、膝をついた。
「ヤマトタケル様」
タケヒコが膝をつき、顔を覗き込んだ。一斉に人が駆け寄った。
「大丈夫じゃ。疲れただけじゃ」
オウスは肩を上下させながら、答えた。
「屋敷にご案内します。そちらでお休みください」
タケヒコがオウスを抱え、屋敷に連れて行った。三殊も後に続いた。
(咳ひどいし、風邪かと思とったけど、そんなんじゃない気がする。
そういえば、オウス君は不整脈で心不全になるかもしれんって、八真斗が言とったな。これって、心不全なんやろか)
三殊は八真斗をまねて、オウスの手首に触れ、脈をとってみた。そして、自分の脈と比べてみた。
(速い。私より、ずっと速い。
どうしたらいいんやろ。私じゃ、なんの役にもたたん。八真斗がここにおった方がよかったのに)
高床式の屋敷に案内された。
「タケイナダネの使っていた屋敷にございます。散らかっておりますが」
オトヒコが申し訳なさそうに、部屋に通した。
部屋の真ん中には囲炉裏があった。隅には薪や木箱などが、雑然と置いてあった。ミヤスヒメの準備した布団に、オウスは横になった。しかし臥床すると咳が出て、苦しそうになる。
「起きてた方が楽みたいやな。背中にクッション、えっと、でっかい枕を当てるといいかもしれん」
三殊の助言で、藁を布で巻いた、大きな背もたれが作られた。オウスはそれを背中に当て、座ったままで、眠ることができた。
(この足。パンパンや。艶光りしとる。いったい、いつからや)
こんなになるまで気が付かなかった事を、三殊は後悔した。
いつの間にか、部屋には三殊とオウスの2人になっていた。三殊はオウスの顔を、じっと見つめていた。
(まつ毛、長いな。やっぱ、綺麗な顔しとる。記念に写真撮りたいけど、スマホの充電切れとるし。
いや。そんな事、考えとる場合やないやろ。オウス君が苦しいって時に)
三殊はぶるぶると顔を振った。
そこへ、ミヤスヒメが水瓶を持って、部屋に入って来た。オウスの脇にカメを置き、三殊の隣に座った。
「この前、一緒におられた、オトタチバナヒメ様のお姿が見えません。どうかされたのですか」
ミヤスヒメの切れ長の目が、三殊を捉えた。その迫力に、三殊は一瞬ひるんでしまった。しかし、必死でその鋭い視線と戦い、負けないように気を張った。
「い、伊勢に行ったんや。それで、これから私らも、そこに行くんや」
「そうですか。ヤマトタケル様の具合が悪いというのに、薄情なお方なのですね」
「そんな事はない。オトちゃんの意志で、ここにおらん訳やない。仕方ない事情があるんや」
ミヤスヒメは鼻をふんと鳴らすと、面白くなさそうに部屋を出て行った。
入れ替わりに、ミヤトヒコが中に入って来た。
「オウス様は眠られたようですね。でも、顔色が悪いです」
ミヤトヒコは片膝をついて、オウスの顔を覗き込んだ。
「ミコヒメ様、お話があります。ここでは、ちょっと話ずらいので、外へ」
そう小さい声で言うと、ミヤトヒコは屋敷の外へ三殊を連れ出した。
三殊たちと入れ違いに、屋敷に入る人影があった。ミヤスヒメだった。
三殊とミヤトヒコは高床式の屋敷の階段を降り、階段の裏で話をした。。
「吾が軍は、これから伊吹山に行く事になりました」
「えっ? 伊吹山? 岐阜県にあった様な……」
三殊がまた、謎の言葉をつぶやいた。
「でも、何しに行くん? オウス君はどうするんや」
「はい。伊吹はここから2、3日で行けるそうです。ですから、ヤマトタケル様はここで療養させて頂くことにしました。吾が警護に当たります。ミコヒメ様も、吾がおまもりいたします」
ミヤトヒコの顔が、きりっと引き締まった。
「いいの? オウス君に相談もせんで」
「それは……。これはタケヒコ様が大将となって、決めたことです。
伊吹は鉄の精錬に長けているのだそうです。伊吹を従え、その技術を大和に持ち帰るのだと、タケヒコ様はおっしゃっています。鉄はこれからの時代、政権に大きな影響を与える。ヤマトタケル様が大王になるためには、手に入れる必要があると……」
ミヤトヒコの言葉が止まった。目を丸くして、三殊の背中越しに視線を向けた。
「ヤマトタケル様!」
ミヤトヒコは大きな声で叫んだ。三殊は驚いて、振り返った。ミヤトヒコの視線の先にオウスがいた。屋敷の脇をゆっくりと歩いている。ミヤトヒコは素早く駆けだした。三殊も急いで後を追った。
「ヤマトタケル様。まだお休みになっていて下さい」
「そや。まだ、動かん方がいいって」
ミヤトヒコはオウスの腕をつかんだ。オウスは驚くと同時に、怯えたような表情をした。オウスは顔を隠すように、下をむいた。そして戸惑った声で話した。
「その、ヤマトタケルというのは、ここにおるのだな。
ん? もしかすると、ヤマトタケルとは、吾に似ておるのか?」
「なにをおっしゃっておられるのですか? どうされたのです」
ミヤトヒコはオウスの腕をつかみ、顔を覗き込んだ。
「なんと。急に顔の色が良くなって。すっきりしたお顔になられて……」
ミヤトヒコが戸惑っていると、今度はオウスがミヤトヒコの顔を覗き込んだ。
「おぬし。葛城のミヤトヒコではないか」
「な、なにを、今更……」
ミヤトヒコと三殊は、お互いに戸惑った顔を見合わせた。
「ミヤトヒコがここにおるという事は、やはりヤマトタケルとは、オウスの事なのだな」
ミヤトヒコは目を見開いて、目の前の男の顔をマジマジと見つめた。
「まさか。まさか、オオウス様ですか?」
「そうじゃ。久しいの。ミヤトヒコ」
オオウスと呼ばれたその男は、オウスと同じ顔で微笑んだ。髪もオウスと同じく背中に垂らしており、この世界で一般的なミズラは結っていなかった。
「オオウスさんって、オウス君のお兄さんよね。ホンマにそっくり。区別、つかんわ」
三殊はオオウスの顔をぶしつけな程に、見つめた。
「オオウス様。やはり、生きておられたのですね。吾は、信じておりました」
ミヤトヒコの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「吾が、死んだような事を言うのぉ。」
オオウスはまた笑った。
(この人、オウス君が死んだことにしたの、知らんのや)
三殊は丈琉から、オウス達の間に起きた出来事を聞いていた。
今度はオオウスが三殊の顔を覗き込み、
「そなたは、オウスの妃か?」
と、聞いてきた。
「妃って、奥さんの事やろ。違いますって。妃と違います」
三殊は手を振り、強く否定した。
「オオウス様。こちらはミコヒメ様です。ヤマトタケル様と共に、旅をしてきた方です。先読みの力がおありで、吾らを導いて下さっています」
ミヤトヒコの紹介を聞き、オオウスは三殊の前にひざまずいた。
「これは、失礼しました。吾はオオウス。オウスの兄でございます。どうか、よろしく頼みます」
「いえ。こちらこそ」
三殊は頭を下げた。オオウスはニコッと微笑み、立ち上がった。
「ミヤトヒコよ。吾がここにいることは、他の者に知られたくないのだ。どこかに、目立たぬところはないものか」
「では、屋敷に入りましょう。中にヤマトタケル様、ああ、オウス様がいらっしゃいます」
オウスは半座位のまま、眠っていた。三殊達の足音にも気が付かない様子だった。オオウスはオウスの顔を見るなり、息を飲んだ。
「どうした事じゃ。顔の色がひどく悪い。オウスは病を患っておるのか。ミヤトヒコ」
ミヤトヒコは、オオウスに向かって、声を小さくするように言った。そして自分の声も潜めながら、話し始めた。
「はい。最近は、ずっと調子がお悪い様子でした。息が苦しそうで。どんどん顔の色も悪くなってきて」
オオウスはオウスの顔にかかった髪を、優しくかき上げた。オウスは顔を歪めて、体を動かした。しかし、またすぐに寝息をたてた。
「オオウス様」
ミヤトヒコが小さい声で名を呼んだ。
「吾らは、オオウス様が亡くなったと、聞いておりました」
オオウスは振り返り、ミヤトヒコに向き直った。
「そういえば、先ほどもその様な事を申しておったな。なぜ、吾は死んだことになっているのであろうか……」
オオウスは顎に手を当て、考え込んだ。顔だけでなく、仕草までオウスにそっくりだ。
「あの、それって……」
「ミコヒメ様。何か知っておられるのですか」
ミヤトヒコが三殊に近寄った。
「何か知っておるのであれば、教えてくれ」
オオウスは三殊の前で、手を突いた。顔をまっすぐに見つめられ、三殊の心臓は大きく拍動した。
(オウス君とおんなじ顔で見つめるんやもん。心臓に悪いわ)
三殊は1回、大きく息を吐いた。
「オウス君は、誰にも言うなって、言っとったみたいなんやけど。でも、オオウスさん自身の事やもんね。私、聞いた事、話すね」
三殊が話を始めようとした時、オウスが小さい唸り声を上げて、寝返りをうった。3人は静かにその場を離れ、屋敷を出た。そして屋敷の裏手に回った。
三殊はオオウスとミヤトヒコに話した。オウスとオオウスとオシロワケノ大王との間に起きていた事を。話し終わると、ミヤトヒコが泣き出した。
「それで、合点がいきました。あのお優しい、ヤマトタケル様が、オオウス様を殺すなど、そんな事は絶対にないと、信じておりました。
だから、ヤマトタケル様は、大王の無体な御命令にも、何も言わず従っておられたのですね。
熊襲、蝦夷。ヤマトタケル様が戦を命じられたのは、遠方で獰猛な所ばかり。負けも覚悟の、ひどい所ばかりでした。他にも、皇子様は大勢いられるのに、なぜヤマトタケル様ばかりがと、そう思っておりました」
「なんと、なんと、オウスが、そのように過酷な目にあっていたとは。
オウスは吾を逃がすときに、『心配はない。吾に任せておけ』と笑ったのだ。いつもの、あの笑顔で。
しかし、それからも吾は心配じゃった。オウスは大丈夫だったのか。父王にどう、申し開きをしたのか。
吾の住む所は、山奥で、世俗の噂も入ってはこない。中央の話も、全く聞こえぬところじゃ。それが、先日、迷い人が来たのじゃ。その者が申すには、ヤマトタケルという皇子が、尾張に向かっているという。
大王の皇子は大勢いる故、それがオウスかどうか、悩んだのだ。しかし、吾はオウスに会いたかった。オウスかもしれないと、そう思うと、いてもたってもいられず、尾張に来てしまった。
吾のために、吾のために。許せ、オウス」
オオウスの涙は地面に落ち、地中深く吸い込まれていった。
「ミヤトヒコ。どこにおる」
タケヒコの大きな声が響いてきた。3人は目を合わせた。
「こんな所におったか。何をしておる」
タケヒコが3人の所にやって来た。タケヒコは目を丸くした。
「な、なんと。オオウス様。オオウス様ではないですか」
「タケヒコ。相変わらず、おぬしは、吾とオウスを見間違えぬ」
オオウスは充血した目で、笑った。
「伊吹の鉄か」
オオウスはタケヒコの計画を聞き唸った。
「伊吹は一筋縄ではいかぬ。御神体である伊吹の山に守られておる。山は天然の砦じゃ。けっして、破ることはできぬ。
さらには剣の達人名手である、オウスを欠いての戦。太刀打ちできるわけがない」
「オオウス様。吾は戦に行くのではありません。鉄の技術を手に入れに行くのです。大和に鉄を持って帰れば、大王様もヤマトタケル様を、ないがしろにはできぬはず。ヤマトタケル様は、日嗣の皇子としての地位を、確固たるものにしなければならないのです」
タケヒコは興奮して、唾液を飛ばしながら熱弁をふるった。オオウスは顎に手を当てて、真っ赤な顔のタケヒコを見つめていた。
「ミヤトヒコ。吾らは、あと半時で出発する。ナナツカハギもここに残ることにした。皇子様はナナツカハギの作った物しか、召し上がらぬ。
ミコヒメ様。ヤマトタケル様をよろしくお願いいたします。お目覚めになられましたら、尾張でお待ちいただくよう、お話下され。5日ほどで帰って来ます」
タケヒコは頭を下げて、その場を後にした。口を真一文字にして、考え込んでいたオオウス。思い立ったようにタケヒコの後を追った。
オオウスはタケヒコ達と共に、伊吹に行く事になった。“ヤマトタケル”として。オオウスから申し出た事だった。オウスの鎧を付け、先陣切って歩くオオウスは、“ヤマトタケル”そのものだった。事情を知らない家来たちは、ヤマトタケルの病が治ったと喜んだ。一行の士気は上がった。
急に冷たい風が吹いてきた。一気に気温が下がった。空からは、ちらちらと細かい雪が舞い降りてきた。三殊は指先に息をはきかけた。
(こんなに寒いのに。みんな、無事に帰ってきて)
三殊は目を閉じて、祈った。
屋敷の中で三殊はオウスと2人だった。大きな枕にもたれて寝ているオウス。眠っているようだが、呼吸が荒い。突然に顔がゆがんだ。唸り声をあげ、体をよじった。そして、右手で首をかきむしり、左手を前に差し出した。首に引っかき傷ができた。
「オウス君」
見かねた三殊が、肩を揺すって名を呼んだ。オウスは「ぐはっ」と、音をたてて息を吸い、目を見開いた。そして前に伸ばしていた左手で、三殊の髪に触れた。
「オトタチバナ……。おお、ミコヒメ様」
オウスは三殊から手を離し、大きく息を吸った。はぁはぁと、肩を上下させながら呼吸している。顔は汗で濡れていた。
「オオウスの夢をみた」
(えっ? お兄さんがここに来たことは、知らないはず)
三殊はビクッとして、オウスに目を向けた。
「オオウスが先を歩いているのじゃ。吾は追いかけるが、胸が苦しくて、足が重くて追いつかない。オオウスは先に行ってしまい、見えなくなってしまった。
そして吾は海の中にいた。息ができないのじゃ。苦しくて苦しくて、もがいた。その時、ミコヒメ様が吾の名を呼んだ。
吾はミコヒメ様の声で、ここに戻ってきたのじゃ」
オウスは弱弱しく微笑んだ。
三殊はミヤトヒコを呼んだ。ミヤトヒコとナナツカハギはすぐに屋敷に入って来た。そして、オウスの汗でびっしょりの体を、拭いてあげた。
オトヒコがミヤスヒメと共に入って来た。ミヤスヒメは水瓶を持っていた。体を拭き終えたオウスは背もたれに、背に当てたまま、あぐらをかいた。ミヤスヒメは竹筒に水を注ぎ、オウスに渡した。オウスはゴクゴクと音をたてて、飲みほした。
「オトヒコ殿。迷惑をかけた。ろくな礼もしておらず申し訳ないが、吾らはすぐに出発しなければいけない。世話になった」
オウスは軽く頭をさげた。オトヒコは戸惑い、ミヤトヒコを見た。
「ヤマトタケル様。まだお体が元に戻っておりません。もう少し、ここで休ませていただいた方がよいかと」
「そうです。迷惑などと、とんでもございません。どうか、ごゆっくりとご滞在ください」
「いや。ご厚意はありがたいが、これは吾の問題じゃ。
ミヤトヒコ。タケヒコを呼べ」
ミヤトヒコは困惑し、視線をそらせた。家来のはっきりしない態度に、オウスはうろんげに一瞥した。
「あのな。オウス君」
三殊は思い切って、話し始めた。
「タケヒコさん達な、伊吹山に行っとるん。でな、自分たちが帰って来るまで、ここで待っていてくれって、言っとった」
オウスは体を起こして、前のめりになった。
「なぜ? その様な勝手をしたのだ」
ミヤトヒコはオウスに詰め寄られ、「申し訳ございません」と、頭をさげた。そして、オウスが眠っていた間の出来事を語った。
「オオウス。吾も、会いたかった。なぜ、ここで待っていてくれなかったのだ」
オオウスの名が出た時、オオウスの目から涙がこぼれた。
「吾は大王はなれぬ。吾のために、危険な事はしなくてよいのだ。
ミヤトヒコ。追いかけるぞ。これから伊吹に向かう。皆を止めるのじゃ」
オウスはゆっくりと立ちあがった。一瞬ふらついたが、倒れることはなかった。しっかりと踏ん張り、外に向かって歩き出した。
「お待ちください」
ミヤスヒメの甲高い声が、オウスを止めた。
「クサナギの剣はどうされるのですか。大切な物だと、おっしゃっていたではないですか。持って行かれないのですか」
オウスは部屋の中を見渡した。
「そうや。クサナギの剣。どこいったんやろ」
「オオウスが持って行ったのではないか。吾の鎧を付けて行ったというではないか」
「いえ。オオウス様は剣は持って行かれませんでした。
ヤマトタケル様が剣を外し、部屋の隅に置かれたかと思うのですが。どうもはっきりしません。
吾らはあの剣に触ることもできませんので、動かすこともできませんし」
ミヤトヒコが考えながら、キョロキョロと剣を探した。
「吾は剣を外した事は、覚えておらぬ」
ミヤスヒメの口角が吊り上がった。三殊はミヤスヒメのなにか企んでいるような、意地悪げな笑みで、ミヤスヒメが剣を隠したことを、確信した。
「では、探さないといけませんね。それがなければ、出発できないでしょう」
「なんで、そんなに嬉しそうなんや」
三殊はすかさず指摘した。さらに詰め寄ろうとした時、オウスが三殊の腕をつかんだ。そして穏やかに微笑むと、三殊の前に出た。
「クサナギノ剣を探す時間はない。吾には時間がないのだ。
もし剣が見つかったなら、1つ願いがある。クサナギノ剣は伊勢が嫌いなのだそうだ。くれぐれも伊勢には奉納せぬ様、頼みます」
オウスはオトヒコに向かって会釈した。そしてまっすぐに前を向き、ミヤスヒメの脇をすっと通り抜けた。三殊とミヤトヒコ、ナナツカハギも後を追いかけた。オトヒコもオロオロしながら、部屋をでた。
ミヤスヒメは下を向いて、1人立っていた。
外は雪が降っていた。オトヒコから蓑を借りた。蓑を着ても寒さは身に染みる。オウスは息を切らし、足が進まない。それでも鬼気迫る表情で、一歩一歩前に進んだ。
尾張を出発して2日。4人は猛吹雪にみまわれた。伊吹山はすぐそばにあると思われるが、雪に阻まれ何も見えなかった。山頂からの吹きおろしで、前に進むこともできない。4人は一塊になって、立ち止まった。三殊は3人の男に囲まれ、壁を作ってもらっていた。
世界は白一色に覆われた。白しか見えなかった。右も左もわからない。上下の感覚も失われてきた。
(ホワイトアウト!)
三殊はめまいを感じた。
「オウス様」
ナナツカハギの声が聞こえた。声のした方に手を伸ばした。ナナツカハギの頭に手がふれた。しゃがんでいるらしい。ナナツカハギの体に触れながら、三殊もかがんだ。雪の上にオウスが倒れ込んでいた。
「オウス君」
三殊はオウスの頬に触れた。氷の様に冷たい。三殊は顔を近づけた。
「大丈夫か。オウス君。わかる?」
三殊はオウスの頬を叩きながら叫んだ。
「オト、タチバナ、ヒ、メ……」
オウスは消え入りそうな声で言った。そして三殊の頬に手を当て、反対の手で頭を抱えた。オウスに導かれ、2人は顔を寄せ合った。そしてオウスの唇が、三殊の唇にふれた。
三殊の唇に、初めて触れた唇。しかし、そこにはロマンティックな感傷は、なにもなかった。体温が全く感じられない唇。三殊は死の恐怖を感じただけたった。三殊は唇を離した。心まで凍てついてしまった。オウスに抱きかかえられたまま、雪の上に倒れ込んでいた。
「どこかに、逃げないと」
ミヤトヒコの声が聞こえた。三殊の肩を抱え、起き上がるのを手伝った。オウスは起き上がれずにいる。ナナツカハギとミヤトヒコの2人がかりで、上半身を起こした。4人は吹雪の中で身動きが取れなくなった。
三殊は強い衝撃に出会い、思考能力が低下していた。極寒の中で、ほのかな熱を感じ始めた。そしてぼんやりと思った。
(死んじゃうんかな)
その時、ナナツカハギがピクッと動いた。
「人影が。おぉい」
吹雪にかき消されながらも、一所懸命に叫び、手を振った。真っ白な中に黒い影が突然、人の姿になった。タケヒコだった。すれ違うことなく、合流することができたのだ。
タケヒコはオウスの姿を見て、驚愕していたが、疲労困憊の状態。オウス達がなぜここにいるのか、詮索をすることもできなかった。一行はオオウスの案内で、避難をするところだった。動けないオウスをオオウスが背負った。三殊はミヤトヒコに引きずられる様にして歩いた。
オオウスの案内する洞窟に、やっとの思いで到着することができた。奥は鍾乳洞になっているのだそう。1年中一定温度に保たれている洞窟の中は、ほんのりと温かかった。オオウスは背負っていたオウスを地面におろし、臥床させた。
オウスはオオウスの姿を見つけ、目を潤ませた。オオウスに声をかけようとした。しかし、口から出たのは
「おおぉ」
という、唸り声だけだった。オウスは左手で自分の口を押えた。
「オウス君。どうしたん」
三殊はオウスの異常に気が付いた。オウスは三殊をすがるように見つめた。オウスの口は曲がり、口角から涎が流れた。起き上がろうという動作をしたが、体は動かなかった。
「オウス君。声が出んのか?」
オウスは顔を細かく動かした。三殊はオウスの右手が脱力している事に気が付いた。右手を持ち上げたが、人形の手を持っている様な感じ。手を離すと、ばたんと地面に落ちた。右は足も動かず、伸ばしたままになっている。
(まさか、脳梗塞なんか? おじいちゃんみたいになっとる。
八真斗が言ってたな。不整脈をほっとくと、脳梗塞になるかもしれんて)
「物の怪に付かれたのか」
家来の1人の声が聞こえた。タケヒコはキッと睨みつけた。男はその迫力ある瞳に怯み、後ろにさがった。
(脳梗塞とか、病気の事知らんかったら、そう思うかもしれん)
三殊はタケヒコの肩を叩いた。
「オウス君。病気になったんかもしれん。脳の血管が詰まる病気や」
「ノウ? ケッカン? 何ですかそれは」
「ま、まぁそれは、おいといて。とにかく、その病気、体が動かんくなるんや。
ヤマがな、もしかしたら、その病気になるかもしれんって、教えてくれとったんや」
「ヤマヒコ様! ヤマヒコ様がいてくださったら。ああ、どうすればいいのだ」
タケヒコは頭を抱えた。
「うろたえるな。タケヒコ」
オオウスの大きな声が響いた。オオウスはオウスの脇にしゃがみ込み、動かない右手を両手で握った。
「オウス。大丈夫じゃ。吾がおる。心配するな。
おお、手が冷えておる。温めた方がよいであろう」
オオウスは一生懸命、手をさすった。それを見たタケヒコは、慌てて体をこすり始めた。ミヤトヒコは足をさすった。
奥に鍾乳洞があると聞いたナナツカハギは、水を汲みに行っていた。竹筒に水を入れ、大事そうに抱えて走って来た。オウスは竹筒を見ると、左手をナナツカハギに伸ばした。
「水、飲みたいんか」
三殊の問いかけに、オウスは顔を揺らした。
(飲ませていいんやろか。おじいちゃん、飲み込むことができんくなって、おなかに管、入れたんや)
三殊は迷いながら、水の入った竹筒を受け取った。
(すっごい、マイナスイオン感じる)
水に見入ってしまった。オウスは喉が渇いている様子。三殊は決心して、オウスの口に水を運んだ。しかし、三殊はオウスの口に水を入れる手前で、一瞬、手が止まった。ドキンと心臓が強く打った。オウスの唇が目に入り、吹雪の中での出来事を思い出したのだ。
(オウス君が大変な時やってのに、何考えとるんや)
自らを叱咤し、何事もなかったように、水を少し、口を湿らす程度の量を入れた。2、3回繰り返したところで、オウスは大きく息を吐いた。
「うまい」
オウスは小さい声で言い、満足そうに眼を閉じた。
「声。声が出たな」
三殊の声にオウスが反応して、目をすぐに開けた。そしてさっきまで、ピクリとも動かなかった右手を、目の前に持ってきた。手が動くことを確認すると、今度はゆっくりと起き上がったてみた。
「おお。オウス。元に戻った」
オオウスはオウスを力いっぱい抱き寄せた。オウスはオオウスの背中に手をまわし
「会いたかった。オオウス」
と、声を絞りだした。オオウスは顔をゆがめて、オウスの体を離した。そしてオウスの顔を真正面にすると、頭をさげた。
「オウス。話は聞いた。吾のために、申し訳なかった」
オウスは小さく首を左右に振った。
「なんの事じゃ。吾に謝る事など、なにもない」
そう言って、柔和な笑みを浮かべた。
「タケヒコ。皆は無事なのか。けが人はおらぬのか」
オウスの問いに、タケヒコは緊張した面持ちになり、オウスの前に進み出た。
「はい。けが人はおりません。
オウス様。勝手な事をいたしまして、申し訳ございませんでした。しかも、伊吹の鉄を手に入れるどころか、たどり着くことすらできませんでした。猛烈な嵐になり、あたり一面真っ白。白い魔物に襲われたようでした。
恥ずかしながら、命からがら逃げ帰ってきました」
「皆、無事であれば、それでよい」
オウスはタケヒコの肩をポンポンと叩いた。
吹雪が止むまで、洞窟の中で過ごした。
オウスはすっかり元に戻り、何事もなかったように動けた。
(脳梗塞じゃなかったんかな)
三殊は不安が拭いきれずにいた。オウスをじっと見つめた。不意にオウスの唇に、視線が止まった。
(ピンク色や。今なら、冷たくないんやろな。
って、何考えとるんや!)
ひとりでつっこみを入れ、ひとりで顔を赤くした。
(でも、オウス君は覚えておらんのやろな。第一、あん時、オウス君にとって私は、オトちゃんやったんやから)
急に冷静になり、顔のほてりもスーッとひいていった。
ほどなく、吹雪はおさまった。空を覆っていた真黒な雲は、風に流されていった。さっきまでの嵐が嘘のように、青空が広がった。太陽も真上に上がっていた。尾張には戻らず、伊勢に向かって進むことにした。オオウスも美濃には帰らず、オウス達と行動を共にすることになった。オオウスは歩くだけで息を切らせるオウスが心配で、このまま帰る事はできなかった。
この先で一行は二手に分かれる事になった。タケヒコ、ミヤトヒコ、ナナツカハギはオウスについて伊勢に行く事にしていた。もちろん三殊とオオウスも一緒だ。それ以外の者は、纏向に向かう事になった。オウスが提案したのだ。長く故郷に帰っていない家来たちは喜んだ。
分かれの日。オウスは1人1人と握手を交わし、皆が見えなくなるまで、見送った。視界から消えた後も、しばらくそのまま立ちつくしていた。オウスの長い髪が、風に吹かれなびいていた。
「これ以上、吾と共に来ても、何も与える事はできぬ。吾が彼らにしてあげる事が出来るのは、一刻も早く、家族の元に返してあげる事だけじゃ。
吾は、もう、長くは生きられないのだから」
オウスの言葉を聞き取ったのは、三殊だけだった。三殊はオウスの顔を見た。穏やかな瞳をしている。何もかも悟ったような表情のオウスに、三殊は声をかけることができなかった。
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