第9話 走水の嵐で、船酔いしてしまった
駿河での休養で、オウスの体調も良くなってきた。怪我も癒えてきた。
駿河には“お湯の沸き出る泉”があった。源泉かけ流し、まさに天然温泉。三殊は温泉につかっていると、ここから離れたくないほど、幸せな気分になった。
穏やかな時間も終わりを告げる。オウスの軍は東に向かって、出発した。
駿河を出て、数時間。山中で山賊に襲われた。駿河で山賊と手を組む部族がいるという話を聞いていたが、それもすべてが嘘ではないようだ。
狭い山道を塞がれ、進行を止められた。両側は高い木々が生い茂り、脇にそれることは難しそうだった。相手は50人程度。オウスの軍は20人人足らず。数では圧倒的に不利だった。しかし山賊ごときは相手にもならなかった。剣に長けているタケイナダネは、あっという間に山賊を切り付けていく。
(いっつもおちゃらけているけど、イナダネさんって、すごいんや)
三殊は少し見直した。
タケイナダネとミヤトヒコとタケヒコの3人で50人を始末してしまいそうな勢いだった。
三殊とオトタチバナヒメは輿からおりた。オウスはオトタチバナヒメを自分の後ろにかばった。オトタチバナヒメは後ろから、オウスの腕をつかんでいた。
丈琉は三殊から離れなかった。トツカノ剣を鞘から抜き、構えているが、自分から攻めることはなかった。三殊に「3人で家に帰る」と言われた事が忘れられない。自分は強いと思っていても、何があるかわからない。三殊のそばを離れないと、心に決めていた。
八真斗も三殊の隣に立ち、剣を構えていた。丈琉と八真斗、そしてオウスは、女性2人を背中で守っていた。5人は一番後方にいた。
しかし後方からも、山賊が襲ってきた。挟み撃ちにするつもりだった。
一番後ろにいた八真斗が、狙われた。
「うわっ」
八真斗は咄嗟に、剣を構えた。その瞬間、八真斗の手が緑に光った。光は剣に宿り、緑の光が剣から噴き出した。その威力で、剣を振りかざした男は後ろに吹っ飛んだ。
八真斗の緑の光が見えない者達には、男が勝手に飛んだ様にしか見えない。オウスは初めて八真斗の光の力を目の当たりにした。一瞬だったが、目を奪われてしまった。
その瞬間、林の中から現れた2人の山賊に、オトタチバナヒメを奪われた。敵の手に落ちたオトタチバナヒメは、剣を顔に突きつけられている。
「そっちの女も頂け」
1人が三殊の腕に手を掛けた。
しかしその声に、丈琉が即座に反応した。男の腕を剣で打ち付けた。男の悲鳴が響き、倒れ込んだ。丈琉は三殊を抱えた。
「あ、ありがと。大丈夫や。ああ、でも、オトちゃんが……」
三殊は丈琉にしがみつき、震える声で言った。
「離せ。ヒメを離せ!」
オウスは大きな声をあげた。三殊と丈琉はオウスに目を向けた。
「あっ。手が。オウス君の手、光っとる。タケも。あっ。私もや」
三殊は手を見つめた。
「オウス。火打石も光っとる」
丈琉がオウスに声をかけた。オウスは胸に提げた革袋を取り出し、中から光る火打石を取りだした。
「ここで、火を起こせと言うのか……」
オウスは石を見つた。
オトタチバナヒメは声も出せずに、震えていた。そして乱暴に引きずられた。オウスは意を決して、石を打ち付けた。丈琉は抱きかかえていた三殊を突き放した。三殊は後ろによろけた。
オウスの打ち付けた石から炎が放出され、オウスと丈琉の剣に燃え移った。2人は申し合わせたように剣を振り上げ、炎の龍を放出させた。
周りの木々を瞬時に焼き払い、あっという間に天に昇って行った。そこにいた者、すべてが茫然と立ち尽くした。魂を抜かれた人形のようになった。焼け焦げた匂いが漂ってきた。
「……! クサナギの剣のヤマトタケルか。
引け、引け。あの、ヤマトタケルだ。かなうわけがない」
頭領の声が響き渡った。動ける者は、あっという間に逃げて行った。オトタチバナヒメは突き飛ばされ、乱暴にオウスの元に戻された。オウスはオトタチバナヒメを抱え、二人は抱き合った。
「なんや。今の火事」
三殊はしりもちをついたまま、動けなくなった。
「マジで、びびったわ。これが“腰が抜ける”って、事かも」
三殊は震えながら笑った。その姿を見た丈琉は、ほっと安堵の息をはいた。丈琉と八真斗は、三殊の傍に腰をおろした。震えが止まらない三殊の背中を、2人でポンポンと叩いた。三殊は目を閉じ、手を胸に当てて、大きく息を吐いた。
「この前の炎、見てなかったんか。今回のは、そん時より、ずーっと、ちっちゃい炎なんやで」
丈琉は笑った。
三殊がようやく立ち上がると、オトタチバナヒメが走り寄って来た。つぶらな瞳が涙で濡れていた。
「どうしたん。もう、大丈夫や。怖かったな」
三殊はオトタチバナヒメの背中を、優しく叩いた。
「いえ。そうではないのです。
私、私。ヤマトタケル様の足手まといでしかない。女の身で付いてきてしまって、迷惑をかけるだけです。
ミコヒメ様の様に、皆さまを導く力もない。そんな私が戦の旅に来るなど、大きな間違いだったのです」
両手で顔を覆って、泣き出した。三殊の腕の中で、小さな体を震わせた。
三殊はオトタチバナヒメの髪をなでた。
「さっきの事やね。
でもな、オウス君はオトちゃんがいてくれて、嬉しいと思うよ。心のオアシスって感じかな。
ほら、笑って。オウス君が一生懸命助けてくれたんやないか。お礼、言ったんか? オウス君、オトちゃんの笑顔が好きなんやから、笑って。
ほら、櫛もずれとる。オウス君からもらった櫛なんやろ」
三殊はオトタチバナヒメの髪に飾ってある木の櫛を、治してあげた。オトタチバナヒメは顔を上げた。オトタチバナヒメの唇が乾き、細かく震えていた。三殊はリップクリームを取り出し、塗ってあげた。
オトタチバナヒメは上唇と下唇を合わせ、リップをなじませた。そして涙を流しながらも笑顔を作り、オウスの元に駆けて行った。
一行は早々にその場を去った。そして歩いてすぐに見えた小さなムラで、休憩を取った。
ムラの
ムラ人は先ほどの火柱がヤマトタケルの所業とわかると、ひどく怯えた。まるで犯罪人でも見るような目つきだ。
「それはそれで。まぁ、豪華なもてなしやし。いいんじゃないか」
八真斗はすっかり、開き直っていた。丈琉も肉と魚を食べながら、「そやな」と笑った。
「なぁ。山賊もそうやったけど、オウスの事“クサナギの剣のヤマトタケル”って、言っとったよな」
八真斗が尋ねた。
「駿河で焼き討ちにあった時、オウスが“草を薙ぎ払え”って、叫んだんや。そんで、クサナギか?
なんか、単純な命名やな」
「でも、その名で随分と名が知れ渡ったっていうか、ネームバリューが付いたっていうか」
「黄門様の印籠みたいやな。その名を言えば、ははぁーみたいな」
2人は笑った。
丈琉はふと、三殊が静かな事に気が付いた。
「みぃ。どうしたんや。えらい、静やな。具合悪いんか」
「ううん。そうじゃない。
あのね。私、さっき手が光ったんや。そん時、私一人になってしまうって、そう思ったん」
「どういう事や。みぃ、1人になるって。俺ら、分かれてしまうんか?」
丈琉は大きな声をあげ、腰を浮かせた。周りで食事をしていた男たちの視線が一斉に集まる。
「声がでかいって」
八真斗に腕を引っ張られた。八真斗は笑って手を振り、ごまかした。
「それが、ようわからんの。あん時、バタバタしてたしな。なんか、中途半端な予言になってしまったって感じや」
3人は顔を見合わせ、黙りこくってしまった。
「みぃの予言。外れた事ないからな。
とにかく、3人、絶対一緒にいよう。離れんようにせんと」
八真斗が2人の目を交互に見つめた。3人は手を取り合い、大きくうなずいた。
富士山を遥か、後方に見る様になった。
今日は、目の前に穏やかな海がある。曲線の海岸で対岸が見える。
「湾、って感じやな。もしかして、東京湾か? 向こうが千葉か」
八真斗が遠くを見ながらつぶやいた。
「ここは
タケヒコが教えてくれた。
「その、走水がどこだかわからん」
丈琉は頭をかいて、笑った。
ここでも国造の大げさな出迎えを受けた。震える声で、歓迎の口上を述べ、地面に頭が付くほど、平伏している。
「国造よ。近頃、大和への貢物が滞っておるとの事。どうした事じゃ」
オウスの言葉に、国造は真っ青になり、油汗を流した。
「申し訳ございません。大和に逆らうなど、考えてもおりませぬ。
どうか、どうか命ばかりは……」
「なにも、殺すとは言っておらぬ。大和に従い、忠誠を示せばいいのじゃ」
オウスは穏やかに笑った。国造は口をポカンと開け、オウスの顔に見入った。しばらく、顔を上げたまま、動かなくなってしまった。国造の脇にいた男に脇をつつかれ、我を取り戻し、再び頭を下げた。
「ははっ。承知しました」
その後、腰が抜けたのか、両脇を抱えられて、ようやく立ち上がることができた。
「なんかさぁ、納得いかんのやけど」
三殊が憮然とした口調で言った。
「オウス君が鬼みたいな言われようやんか。
ホントは優しくて、かわいらしくて、素直で。皇子なのに偉ぶった所もない、すっごいいい人なのに。みんな、ホント見る目がないってか、わかっとらん」
「それなら、それでよい」
オウスの声。三殊は飛び上がって、後を振り向いた。後ろに丈琉がいると、思って話していたのだ。三殊は耳まで真っ赤になった。
「鬼でも蛇でも構わぬ。
吾の名を聞いて、戦意を失ってくれれば、余計な戦をしなくて済む。
吾の事、ミコヒメ様がそのように思って下さって、嬉しいばかりじゃ。それだけで、いいのじゃ」
オウスは三殊の頭を優しくなで、その場を去った。
(オトちゃん……。私、この気持ち抑えられんかもしれん)
三殊は胸の前で手を握りしめ、目をギュっと閉じた。そして強い胸の痛みに耐えていた。
その姿を、丈琉と八真斗が見ていた。八真斗は弟の顔を見た。遠くにピントを合わせるような瞳で、三殊を見ていた。
翌日、一行は海岸に集まった。次に向かう
国造は4艘の船を用意してくれた。そしてそれぞれの船に舵取りと、船漕ぎの人夫を付けてくれた。
船に乗り込もうとした時、船漕ぎのヒソヒソ話が、三殊の耳に聞こえてきた。
「女が船に乗るのか。不吉な……」
その声はオトタチバナヒメにも聞こえていた。オトタチバナヒメは下を向き、足を止めた。
「女が船に乗るのが、なんで不吉なの? 昔の言い伝えとか、全くナンセンスやんか」
オウスが三殊の大きな声を聞いて、歩み寄って来た。
「オトタチバナヒメは船に乗ってはいけないと、そう申すのか」
「いえ、いえ。そのような事は申しておりません。決して」
男達は慌てふためき、自分の持ち場に逃げるように駆けて行った。
「ヒメ。気にすることはない。早く、船に乗るのだ」
オウスに言われ。オトタチバナヒメは小さくうなずいた。
「オトちゃん。気にする事ないって。
私らのいた所では、女も普通に船に乗っとるよ。男とか女とか、そんなん関係ないんやから」
三殊は1人で憤っていた。そしてオトタチバナヒメの腕を引き、船に乗り込んだ。歩きながら、三殊はオトタチバナヒメと、話を続けた。
「この世界って女だからどうだっていう、制限が多すぎる。男女差別もはなはだしいって。だいたい男に何人も妻がいるってのが、あり得ん話なんや。1人の夫に対して、妻も1人やろ。
お互い、好きになるのは1人だけで、その人しか、見えんはずや」
「ミコヒメ様のおられたお国は、素晴らしい所なのですね。そこに行けば、ヤマトタケル様の妻は1人だけ。お心を1人でいただけるのですね」
オトタチバナヒメは憧れの眼差しで、遠くを見つめていた。
その会話を、そばで話を聞いていた丈琉と八真斗。
「俺たちのいた所にも、妻と愛人持っていた男が、身近にいたやろ」
八真斗が呟いた。
乗り込んだ船の船長は、10メートル以上はある。前と後ろが大きく、高くせりあがっている。真中には板が渡してあり、そこで櫂をこぐようになっていた。
「思ったよりでかいな。湖の手漕ぎボートみたいのだったら、どうしようかと思った」
「そやけど、なんか心配やな。昔の技術なわけやし」
丈琉は不安そうにあちこちを見て回った。
「大丈夫やろ。島国日本の人が作った船やし、思ったより安定感あるわ。海もこんなに穏やかやんか」
八真斗は船べりから、水面をながめた。
船はオウスの合図で、静かに出港した。
きょうだい3人とオウス、オトタチバナヒメは同じ船に乗り込んでいた。
「すっごい綺麗な海や。これって、東京湾なんやろ。こんなに透き通って、海底が見えそうや。
あっ、ほらほら、魚が見えるって」
三殊は丈琉の肩を叩き、すっかりはしゃいでいた。その丈琉は青い顔をして船べりにもたれかかった。
「大丈夫か? まさか船酔い?」
丈琉は黙ってうなずいた。
「エチケット袋の代わりになるようなもん、あるかな」
「そんなもん、あるわけないって。いざとなったら、海に吐け」
八真斗に言われ、丈琉は目を閉じたままうなずいた。
「なぁ、酔い止めの薬があるで。でもこの薬、7年間旅してきたんや。大丈夫かな」
三殊が背中のリュックを降ろそうとした。
「いや、7年前はやばいやろ。やめといた方がいい」
「リップは何ともないけど」
三殊は反論した。
「内服するのと、外用は違うって。ってか、そのリップもやばいんと違うか」
「大丈夫やって」
三殊と八真斗は言い合っている脇で、
「俺は、飲みたくない」
と、丈琉は小さい声で囁いた。
丈琉は脂汗を掻いている額に、風が当たったのを敏感に感じ取った。顔をしかめて目を開けた。三殊の長い髪が風にたなびいていた。
船はは穏やかに走る。
「いやぁ。爽快ですな。ミコヒメ様。一緒に水面を眺めませんか。そして、愛の語らいなど」
そう言ってタケイナダネは、三殊の肩を抱いてきた。以前は悲鳴をあげて、逃げていた三殊だったが、最近はかわす技術を会得していた。今回もするっと逃げると、すたすたと歩きだした。それでもタケイナダネは諦めず、後を追った。
「軽い男は嫌いなんやって」
三殊は邪険に言った。
「なんと。吾はミコヒメ様より、すっと重い。ほら、ミコヒメ様位、軽く持ち上げられますぞ」
と言って、三殊を抱きかかえた。
「アホか。体重の事やないって」
三殊はタケイナダネの鼻を、思い切り平手で叩いた。タケイナダネは三殊を降ろすと、その場にうずくまり、鼻を押さえた。涙目だ。
「そんなに痛かった? でも、自分が悪いんやからね。
まったく。剣をふるってた時は、カッコよかったのにな。黙っていればいいのに」
三殊は捨て台詞を浴びせると、船尾に歩いて行った。周りから笑いがおきた。のどかな時間が過ぎた。
丈琉の感じた風が、徐々に強くなってきた。
「まずいぞ。嵐になるかもしれん」
船の舵取りが空を見上げ、大声を張り上げた。船内がざわめいた。
雲が勢いよく流れていく。黒い雲が、追いかけてきていた。
「みぃ。こっち来い」
八真斗に呼ばれ、三殊は船の真中に戻って来た。船べりにしがみついている丈琉の所に行き、3人は手を取り合った。
「離れるんじゃないぞ。いいか、絶対、手を離すなよ」
八真斗が2人の手を、しっかりと握った。丈琉は口を真一文字にして、鬼気迫る目でうなずいた。そして三殊の手を、しっかりと握った。
急に風が強くなった。真黒な雲で空は覆われていく。船が激しく揺れ始めた。丈琉はこらえきれず、舟板につかまり海に吐いた。三殊は丈琉に駆け寄り、背中をさすった。八真斗は三殊の隣で板につかまった。
雨粒が落ちてきた。あっという間に豪雨となり、あたりを水浸しにした。波も高くなり、船内に入ってくる。雨と波でずぶ濡れ。
前方にオウスとオトタチバナヒメが、2人でうずくまっていた。
「オウス、こっちや。船べりにつかまった方がいいぞ」
八真斗がオウスを呼んだ。オウスはオトタチバナヒメの肩を抱え、這って来た。5人は並んで舟板にしがみついた。オトタチバナヒメは八真斗とオウスの間で、必死に板をつかんだ。
雷光が空を覆い、すぐに雷鳴が轟いた。一層、雨が激しくなった。
「やはり、女が船に乗ったから、悪かったのでしょうか」
オトタチバナヒメが消え入りそうな声で言った。
「だから、関係ないって、さっき言ったやろ!」
八真斗が必死で叫ぶ。
「でも、龍神様がお怒りになっておられます。このままでは、船が沈んでしまいます。
私、役立たずで、足手まといな女です。せめて、このような時くらい、ヤマトタケル様のお役に立ちたい。この身を龍神様に捧げます」
オトタチバナヒメは船べりにつかまり、ヨロヨロと立ちあがった。
「何をしている!」
オウスがオトタチバナヒメの服を、思い切り引っ張った。オトタチバナヒメは後ろにひっくり返った。その瞬間、大波に船が乗り上げた。船の前方が高く持ち上がり、船が海に対して垂直近くまでせりあがった。船内の人や物、すべてが船尾に落ちて行く。一塊になった5人は、転げ落ちていった。
丈琉と三殊と八真斗の体が触れ合った瞬間、3人の手が光った。しかし激しい揺れは、5人の塊を分解した。3色の光が合わさり、白い光が生成されたと同時に、白い光の柱は、2つに分かれた。
穏やかな波が、砂浜に打ち寄せる。水面は太陽の光をキラキラと反射させた。
三殊の体に波がかかる。
(助かったんか)
三殊はあおむけになっていて、晴れ渡った空が見えた。人の気配を感じ、顔を横にした。すぐ隣にオウスの顔があった。頬がふれるほどの至近距離。オウスの腕に抱かれる格好で、横たわっていた。三殊の心臓と呼吸が一瞬止まった。同時に熱湯に入れられたタコの様に、一瞬で全身が真っ赤になった。
三殊は飛び起きた。2人は波打ち際で横たわっていたのだ。オウスはゆっくりと体を起こした。三殊ははたから見ると哀れなほどに、慌てふためいていた。
オウスはすくっと立ち上がり、あたりを見渡す。
「ここは、どこじゃ。嵐はおさまったのか」
三殊は冷静なオウスを見て、少しずつ我を取り戻した。景色を見る余裕が出てきた。
「いつの間に吾らは海岸に来たのじゃ。
オトタチバナヒメがおらぬ。いや、タケヒもヤマヒコも、誰もおらぬ。船はどこじゃ。まさか皆、海に……」
オウスは状況を把握し、少し動揺をみせた。三殊の両脇を支え、立ち上がらせ、海からあがった。
三殊はびしょ濡れで、体にぴったりはり付いた服に気が付いた。体のラインが露わになっている。思わず、腕で胸を隠した。
「ミコヒメ様」
オウスの大きな声に、三殊はビクッと反応した。
「向こうに、煙が見える。船もあるぞ」
オウスは満面の笑顔を三殊に向けた。湾の対岸を指さした。
「ホントや」
三殊も恥ずかしがっていたことも忘れ、慌てて立ち上がった。走りだそうとして、濡れた裾が足にまとわりついて、転んでしまった。
「ミコヒメ様。失礼します」
オウスはそう言うと、三殊のリュックを背中からおろし、三殊に持たせた。そして軽々と、三殊を抱き上げた。三殊、人生初のお姫様抱っこ。声も出せず、固まった。水に濡れて冷えた体が、瞬時に熱くなった。顔から汗が流れた。
オウスは気にする事なく、そのまま走り出した。三殊の頭の中は真っ白になる。オウスの息の音が、すぐそばで聞こえる。三殊は目が開けられなかった。
しかし、オウスの呼吸が徐々に激しくなった。苦しそうな息づかいが聞こえた。三殊はうっすらと、目を開けた。オウスの顔が歪んでいる。
「オウス君。私、走れるから。おろして」
三殊の言葉に返事もせず、オウスは走り続けた。三殊は黙って、目をつぶるしかなかった。
「おーい」
突然オウスが立ち止まり、叫んだ。三殊は顔を上げた。海岸に人影が見えた。そこでオウスはやっと、三殊を砂浜におろした。するとオウスは胸元をつかみ、前かがみになった。大きく肩が上下する。数回、咳き込んだ。苦しそうなオウスを目の前にして、三殊は戸惑いながら、背中をさすった。
オウスの声は、届いたらしく、2人が走って向かってきた。タケヒコとミヤトヒコだ。ミヤトヒコが大きく手を振っている。
「ヤマトタケル様!」
タケヒコの声が聞こえてくる。オウスは膝に手をかけ、前かがみのまま前を見た。タケヒコは顔をぐしゃぐしゃにして駆け寄り、そしてオウスに抱き付いた。
「生きておられた。生きて……」
タケヒコは号泣した。ミヤトヒコは三殊に近寄り
「ご無事で何よりでした」
と微笑んだ。
「オトタチバナヒメも、向こうに、おるのか」
オウスは問いかけた。タケヒコは驚いたように、オウスを見た。
「オトタチバナヒメ様はご一緒ではないのですか。てっきり、皆さまはご一緒だと……。ミコヒメ様はおられますな。
ご一緒でないすると、オトタチバナヒメ様とタケヒ様、ヤマヒコ様は、今だ行方知れずという事になります」
「なんと!」
オウスは言葉を失った。三殊は両手で口をおさえた。
「ヤマトタケル様の船だけが、沈んだのです。今、行方の分からないのは、そのお三方だけです。
それと…… タケイナダネ様が、お亡くなりに」
オウスは目を固く閉じ、両手を固く握りしめた。
タケイナダネは砂浜に横たわり、布がかけられていた。同じように布をかけられた遺体が、3体並んでいた。
「ヤマヒコ様がおられたら、救っていただけたのかもしれません」
ミヤトヒコが悔しそうに唸った。
タケイナダネを覆っていた布が外された。日焼けをしていたタケイナダネの顔は、蝋人形のように真っ白になっていた。思わず三殊は目をそらしてしまった。
(さっきまで、私の事、からかっていたのに)
三殊は両手で顔を覆い、嗚咽をもらした。
唇をかみしめ、震えるオウスの元に、白髪の男が駆け寄ってきた。上総の国造と名乗った。
「名高いヤマトタケル様を、この地にお迎えでき、吾ら感激でございます」
男は深々と頭を下げた。
「皇子様。この者は、吾らの危機を察知し、いち早く駆けつけてくれました。流れ着いた者の救助。そして捜索もしてもらっております」
タケヒコは海辺を見渡して言った。砂浜には数か所に火がたかれ、兵士が火にあたっている。女は湯気の立つ汁ものを、ふるまっていた。海を見つめ、遭難者がいないか、探している者もいた。
「うむ。この度の配慮。感謝いたす」
オウスは頭を下げた。国造は「とんでもない」と言って、再び平伏した。
「しかし、吾の大切な者達が、いまだ行方知れずなのだ。よく、探してほしい。
吾が倒れていた所は、ここから随分と離れておる。ヒメ達も、もしかするとそこにおるのかもしれん」
オウスは来た道を振り返った。
「ヤマトタケル様は、あちらに流れ着きましたのですか?
ふむ。それはおかしな話ですな。潮流を考えますと、こちらに流れ着くはずでございます。見ての通り、船の残骸などは皆、ここに打ち上げられております。何かの力が加わらない限り、あちらに流れ着くとは思えないのです」
長年この土地に住み、海の流れを知るものの言葉。
「しかし、龍を従えておられる、ヤマトタケル様。不思議な力を発揮されたのかもしれません。
吾ら、初めて龍をお見受けしました。白い龍が2匹。嵐の海から、昇天されました。その龍をお見受けした時に、はっと気が付いたのでございます。これは、龍を従えているという、ヤマトタケル様がおいでなのかもしれぬと。
そこで、とる物もとりあえず、駆け付けた次第でございます」
「龍?」
オウスは繰り返して聞いた。
「はい。それは吾らも目撃しました。ヤマトタケル様の船が転覆する寸前。船から2匹の龍が天に昇りました。あの嵐の中でしたが、吾はこの目で見ました。
のう。ミヤトヒコ」
タケヒコに同意を求められ、ミヤトヒコは「はいっ」と、大きな返事をした。
オウスは首を傾げながら、顎に手を当てた。沈黙の時間が流れた。国造の男がたまらず声をかけた。
「では吾らは、行方知れずの方々を探してまいります。ムラ人を総動員させ、ヤマトタケル様の流れ着いた方まで、範囲を広げてみます」
オウスはハッと我に返った。
「すまぬ。よろしく頼む。オトタチバナヒメを必ず、探し出してくれ。
吾も、後から参る」
オウスに頭を下げられ、国造は満面の笑みを浮かべ、ムラ人の集まる方へ走って行った。
オウスと三殊、ミヤトヒコは火を囲んで腰を下ろした。オウスと三殊はナナツカハギが持ってきた温かいお粥をもらい、一口食べた。おなかの中から温まり、気持ちも落ち着いたように感じた。
「オウス君。私な、ちょっと前に、一人になってしまうって、そう思ってしまったんや。うん、私の手が光っとる時やから、予言なんやと思う。
それは、タケとヤマが、死ぬってのとは違う。そう、2人と離れてしまうって、そんな感じやった。だからな、私は2人が死んだりとか、絶対ないって思っとる。
たぶんオトちゃんもや。タケとヤマと、2人と一緒なんやと思う」
オウスは目を丸くした。そして手で口を覆った。
「それは、嬉しい話じゃ。そうか、ミコヒメ様の不思議な力が働いたのか。
確かに、おかしな事がいくつもある。
いつの間に嵐はおさまったのかという事。一瞬で、海が穏やかになり、太陽が出ていたのだ。
そして吾は、嵐の海にいたはずなのに、いつの間に海岸に来ていたのか。どうやって、ここに来たのじゃ。海に投げ出され、流れてきたというのか。
さらにじゃ。吾は海に投げ出されてから、すぐに海岸に来ていた。そして、すぐにここに駆けつけたというのに、この様に仕事が進んでおる。この海岸の時間が進んでいるようじゃ。
それに、白い龍とは? 吾には見えなかったぞ」
オウスの独り言の様な問いかけに、ミヤトヒコが考えながら、ゆっくりと答えた。
「吾らが、この浜に打ち上げられてから、すでに1刻(約2時間)は経っております。嵐はそれほど長くは続きませんでした。そうです、オウス様の船が沈んでしまってから、間もなくおさまりました。
それと白い龍は、吾も見ました。船が沈む直前に、確かに白い龍が、2匹、天に昇っていきました」
「ねぇ。ミヤ君。もしかして、それって、白い光だったんやない? ほら、みそぎ池に、私たちが来た時。白い光が現れたって言ってたやない。その時の光」
「……。確かに。そうです。言われてみれば、あの時と同じ光です。
しかし、みそぎ池では、太い1本の光の柱が現れたのです」
ミヤトヒコはオウスに視線を向けた。オウスは2回、首を縦に振った。
「吾が船で見た光は、2本でした」
三殊は長い前髪をかき上げた。そして瞬きを数回繰り返し、思いついたように話し始めた。
「あのな、嵐ん時。私達、3人の手が光ったんや。ホント、船がひっくり返る直前や。
スサノオがな、私らの力が合わさると、時空を移動するって言ったんやって。それって3人が光って、その光が合わさると、移動するって事やと思うんや。
で、私らの光が合わさると、白い光になるやろ。白い光が、移動する合図みたいなもんや。きっと。
だって、みそぎ池でも伊勢でも、私ら白い光と一緒に来たんやもんな」
オウスとミヤトヒコは2人で首を傾げた。理解がなかなか困難なようだ。三殊も上手に説明できない、もどかしさを感じていた。
「えっと、つまりな。光の力で、私とオウス君は時間と場所を移動したんや。
ミヤ君たちは船で海岸に無事たどり着いて、ここで1刻って時間を過ごしていた。私とオウス君は嵐の海から、直接ここに移動してきたって事」
「吾も、ミコヒメ様達の様に時間を移動したのか……。
では、オトタチバナヒメはどこに? 本当にタケヒとヤマヒコと一緒に、移動したのであろうか」
「うーん。どこに行ったかは、全く考えつかん。
でも、3人は、たぶん一緒なんじゃないかと思うんや。
あの時、白い光が2本あったんやろ。それって、2つに分かれたって事やんか。オウス君は私と移動できたんやから、オトちゃんやって、タケとヤマと一緒に、移動はできるはずや。
白い光ができた時、みんなで転げとったからな。一瞬、私ら3人がくっついて、白い光ができた。で、そのすぐ後で離れて、光が2本になった。その瞬間にくっついていた人と一緒に移動したって。そんな感じやないかな」
オウスは目を閉じ、顎に手を当てて考えを巡らせている。
三殊は腕に抱えたリュックの中にある、スマートフォンを思い出した。
(こんな時、電話が通じればな。ホント、電話って便利なアイテムなんやな。
丈琉と八真斗。無事なんやろか。まさか、2人だけ元の世界に戻ったとか)
三殊は火を見つめながら、とりとめのない事を考えていた。
突然、オウスが立ち上がった。
「よし。伊勢じゃ。伊勢に参ろう」
三殊とミヤトヒコは驚いてオウスを見上げた。
「なんで。急に」
「ミコヒメ様達は、伊勢に参った事があるであろう。伊勢は神の力が最も強い所じゃ。神の力に導かれておるのかもしれん。
たとえそこにおらんでも、伊勢にはヤマトヒメ様がおる。アマテラスオオミカミ様の
よし。出立の準備じゃ」
オウスはスタスタと歩き出した。ミヤトヒコは慌てて追いかけて行った。
その後、上総のクニで、一行はもてなしを受けた。その間も、オトタチバナヒメ達の捜索が続けられた。暗くなるまで行われたが、3人は見つからなかった。
夜、一行は国造の屋敷に集められ、伊勢に向かう事が告げられた。事情を知らない家来達は、一瞬ざわめいた。しかし、ヤマトタケルに心酔している家来は、すぐに同意した。 タケヒコだけが、一言、意見を言った。
「しかし、蝦夷をすべて従えたわけではありません。まだ東に向かう必要があるのではないでしょうか」
「うむ」
オウスも悩んでいたところだった。しかし、オトタチバナヒメの手がかりを、一刻も早く手に入れたい。その気持ちが勝ったゆえの、決断だった。
「あの。一言よろしいでしょうか」
上総の国造だった。
「ヤマトタケル様の名声は、この先のクニまで轟いております。
逆らえば、ヤマトタケル様に成敗される。皆、そのように思っておるはずです。ある意味、蝦夷は従えたと、そうお考えになってもよろしいのでは。
ですから、無理に東国に向かわずとも、よいと考えますが。何か、ご事情もおありの様ですし」
国造の一言で、伊勢行きは決まった。オウスは国造に、深々と頭を下げ、礼を言った。年老いた男は、恐縮して汗をかいていた。
三殊は夜の海岸に出てきた。波の音しか聞こえない。静かな夜。月明かりだけが頼りだった。
海岸にかがんでいる人影が見えた。鳥目の三殊は、顔が見えなかった。
「ミコヒメ様も、眠れませんか」
オウスだった。船の残骸が流れ着き、ゴミだらけの砂浜にポツンと座っていた。
「オウス君もか」
三殊はオウスの隣にきた。オウスは立ち上がった。そして、三殊に手を差し出した。差し出された手には、櫛が握られていた。オトタチバナヒメの櫛だった。
「吾が、ヒメに差し上げた物じゃ。海岸に流れ着いていた。
あの時、髪につけてあげると、ヒメは嬉しそうに微笑んだ」
オウスは櫛を握りしめた。オウスの表情はよく見えない。三殊は、オウスが泣いているのではないかと思った。
オウスが咳込んだ。苦しそうな呼吸音も聞こえてきた。
「オウス君。ここ、寒いから、家の中入ろ。風邪ひくと悪いし」
オウスは小さくうなずき、歩き出した。
オウスの背中を見つめているうち、三殊は思わず、オウスの服をつかんでしまった。オウスは振り返り、三殊の顔を見た。三殊は自分の行動に慌てた。つかんだ服を、パッと離した。
「ご、ごめん。
怖くてな。それに寂しくて、不安で。1人じゃ、おれんかったんや……」
三殊は下を向いた。ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「では、吾と共に来るか」
オウスも屋敷で1人だった。
三殊の涙がピタッと止まった。顔から火が噴き出た。
「ごめん。今のなし。大丈夫や。1人で大丈夫。お、おやすみ」
流れていた涙をぬぐい、走り出した。オウスは三殊の腕をつかんだ。三殊は立ち止まり、振り返った。オウスが真剣な顔で、三殊をまっすぐに見つめた。
「吾も、本当は、不安で胸が苦しいのだ。1人がつらい。どうか、そばに。
心配しないで下さい。ミコヒメ様は、神聖なる巫女様です」
オウスは顔を近づけ、三殊の瞳を見つめた。三殊は思考能力を失った。オウスの瞳を見ながら、小さくうなずいた。
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