第2話

 6月の午前中とは思えない暑さと湿気の中、千葉亮治は2限目の講義を受けていた。

 講義室の冷房は壊れてしまっているのか、何一つとしてそれが機能していない為に室内の環境は最悪を通り越しそうなほど劣悪であった。


「溶けるー。溶けるよリョージー。風を俺に浴びせてくれよー。ねえリョージ!リョージー!」

「うっるさいなケンジ!!講義に集中できないだろ!黙っててよ!」

 右隣の席に座っていた桜井賢二は亮治からそう注意されてもなお口を動かし続けた。

「んへぇー、女の子の匂いがこの篭った部屋の空気に溶け込んでさえ無ければ、今すぐこんな講義室抜け出してるのにー。」

「この講義室、窓が無いのはマジで夏場の学生を殺しにかかってるとしか思えない。いや、むしろ女の子の匂いを部屋中に充満させる為の意図的な構造なのか?天才か……。」

 賢二の戯言に答えた男は亮治の左隣に座っている沖井勝利だ。

「オキトシは容赦ない程に汗を噴出してるのに辛くなさそうだなー、すげえなー。」

「辛いよ、今にも痩せてしまいそうで。長年かけて蓄えてきた大事な脂身が溶けてしまう。」

「えー、オキトシはカケラもデブじゃないだろー。」

 亮治を挟んで会話を続ける二人を見て亮治は遂に講義に集中する事を諦めた。


「そういえば二人共、今日大学でエイチの事見かけた?」

「エイチは今日もサボりだろー。3年間も一緒に過ごせば大体察するわー。」

 まぁサボりだよな、と納得した亮治はそのまま講義時間の残りをどうやって過ごすか考えを巡らせ始めた。


 亮治は教授にみつからないように携帯端末をイジり始めた。

 一通りSNSをチェックした後、匿名制の大規模ネット掲示版の雑談板を覗く。亮治は本当に暇になった時はこの板に立てられたスレッドを適当に巡回して過ごしていた。

 今日もいつも通りそうしようと板にアクセスすると何やら板内の様子がおかしかった。


 一つだけ異様にレスのついているスレッドがある。すぐに亮治はこのスレッドを開く。

 抹殺投票関連の話題なのはスレッドのタイトルから理解したがどうにもおかしい。

 多くのレスの内容から察すると、どうやら今回はこの掲示版から所謂″祭り″が始まった訳では無さそうだ。

「あぁそれ、昨日の夜中辺りからずっと騒いでるやつだな。興味も無いから覗いてなかったが。」

 勝利が素っ気なくそう言った。

 しかしその時亮治は勝利の言葉が聞こえないほどの衝撃を受けていた。

「おい、おいなんだこれ!どうなってるんだ!」

 亮治が突然大声を出したので講義室がざわついた。教授が注意をするが亮治にはもはや聞こえていない。

「なんで、なんでエイチが……?」

 勝利と賢二は完全に呆気にとられ何も言葉を返さない。亮治はそのまま黙りこんだ。

 直ぐに講義は再開されたがもはや亮治の頭には何も入ってこなかった。


 講義が終わり、勝利と賢二は昼食を買いに出たが、亮治はそれにはついていかずに直ぐに栄一にメッセージを送る。


 栄一からの返答を見た亮治は、彼がまだ自分が抹殺投票の対象者になった事に気づいていない事を察し電話をかけた。

 栄一は電話には出たがこの電話の内容が真面目な話だとは思っていない様であった。

 電話で栄一に彼が今立たされている状況を説明しながら亮治はなぜ栄一なのかを考えていた。

 彼は他人から恨みを買うような事をするタイプでは無いし、今までに危険な行動をしていたという話も聞いた事が無い。大統領、そしてその次の謎に満ちたテロリスト以来の3人目特例ターゲット候補となるには余りにも平凡な男なのだ。


 栄一との電話を終え、亮治は直ぐに勝利と賢二に連絡を取る。今晩にもに栄一の部屋に集まることに決まり、それまでの間に亮治はひとまず出来るだけ多くの反対票を稼ぐために知人に連絡をとった。


 ふと亮治の携帯に非通知の番号から電話が入る。彼は不審に思いながらもその電話に出た。

「そうじゃない、反対票なんてルール通りのやり方で特例ターゲット候補を救える訳がない。」

「えっ、ど、どちら様ですか?俺やエイチの知り合いですか?」

 電話先の声は加工されていて性別もわからない。しかし電話先の人物は淡々と言葉を並べる。

「こちらとしては、荒井栄一君が抹殺されてしまう状況というのをなんとかして避けたい。何の手立ても無く抹殺されてしまっては彼が不憫だ。だから彼が助かるかも知れない、助けられるかも知れない人を紹介しよう。追って連絡する。」

 ちょっと待て、と亮治が言う間に電話は切れた。

 亮治は電話の内容を必至に頭の中で繰り返す。栄一を誰かが意図的に特例ターゲットにしようとしている事はわかるが、目的がわからない。酷い考えかも知れないが、彼が死ぬ事で世の中にどんな影響があるというのか、栄一は実に平凡な人間なのだ。なぜ彼なのか。

 亮治は午後の講義に出ている間、ずっとこの電話の事を考えていた。


 気づけば勝利と賢二の姿は何処にも見当たらなかった。恐らくサボったのだろう、と亮治は納得した。友人が抹殺投票の、それも特例ターゲット候補になっているのだ。講義など受けていられる精神状態では無いのだろう。

 亮治はそう思った後、自分こそ何故普段と同じように講義になど出ているのだという意識が芽生えた。

 亮治は思考こそ巡らせつつも、友人が死ぬかもしれないというこの状況で冷静でいられる自分が少し怖かった。


 午後の講義が終わり、亮治は栄一の住むマンションに向かう。

 亮治は栄一にどう接したら良いのかわからなかった。なんと声をかけるべきなのか、何を話し合えばいいのか、どうしてこんな事になったのか。

 気を紛らわせる時の癖で亮治は先ほど栄一についての話題を見つけた掲示版の雑談板にアクセスした。


 瞬間的に亮治は固まる。

 スレッドのタイトルが先ほどと異なっている。タイトルにはハッキリと『死亡確定』と付けられていた。


 亮治は直ぐに抹殺投票のアプリを起動した。

 対象者一覧を直ぐに開き、栄一の得票数を確認して愕然とした。60万票を超える投票数が栄一のプロフィールに表示されていた。

「あれからたった数時間でここまで票が伸びるなんて……、どう考えてもこれはおかしい。何が起きてるんだよ。」

「教えてあげよっか?」


 亮治は背後から突然声をかけられ一瞬身構えた後すぐに振り向いた。

 20代半ば程に見える女性が亮治に笑いかけている。

「誰……ですか?」

 亮治は突如現れたこの女性にただならぬ警戒心を覚えた。ずっと笑顔でいるが明らかに異常な人物である事を亮治は直感的に見切っていた。

「さっきWWから人を紹介するって連絡受けたでしょ?私がその紹介される人。そういうこと。グーテンアーベン。」

 彼女への警戒心と同時に亮治の中には多くの疑問の種が生まれ、それが一気に爆発した。

「ダブリューダブリュー……?さっきの電話の人の名前ですか?貴方は誰ですか?ていうか、今もうエイチの得票数は抹殺確定まで半分を切ってるのに本当に助けられるんですか!?どうしたらいいんですか!?あとなんでドイツ語なんですか!?」

「わはぁ、そう質問を一気に並べられちゃうと、私意地悪だから答えたくなくなっちゃうなぁ。とりあえずまぁ私のことはJPとでも呼んで貰えればいいかなぁ。」

 JPと名乗る女は相変わらず笑顔だった。


「す、すみません……。じ、JPさんはその、なんで俺の居る場所が……いや、質問は止めます、何度もすみません。とにかく、エイチを救えるかも知れないなら是非、協力をお願いします。」

 彼女から発せられている異常な空気を悍ましいほど感じている亮治はこの人には深入りしてはいけないと悟った。

「んわぁ、意外と冷静なんだね君。いや、冷静というより自分を常に三人称視点で観察していられるタイプなのかな。」

 亮治は何を言われているのかわからなかったが、兎に角彼女を栄一の元に連れて行こうと考えた。

 この女性の発しているオーラ、一緒に居るだけでまるで心臓を強く握られているかのような強烈な緊張感は、亮治の中に恐怖と同時に何とかなるかもしれないという希望を生んでいた。


 亮治は栄一の部屋に向かう道中で、JPと名乗る女性に現在の栄一の得票数や彼が特例ターゲット候補になっている事が一体どれ程おかしい状況なのかを説明していた。JPはそれをにこにこしながら黙って聞いていた。

「それでその、WWさんからの電話の事とか、JPさんが来る事を栄一に伝えるべきなのかどうか迷ってまして……、その、」

「えへぇなんでさ、私が行くことはせめて伝えなきゃ。一応男の子な訳だし、突然異性が部屋に上がりこんだら見られるとマズイものとかあったら可哀想じゃん。私としては君達のそういう部分も見てみたいけどねぇ。それってすっごく人間っぽいし。電話に関してはその栄一君にも連絡入ってる筈だから気にしなくてもいいよぉ。」

 亮治はわかりました、とだけ返事をして栄一と今夜栄一の部屋に集まる面々に彼女の事を伝えた。


 結局栄一の住んでいるマンションの部屋の前にたどり着くまでにJPと名乗る女性の謎は1つもわからなかったが、亮治はむしろそれで良いとホッと胸を撫で下ろした。


 亮治が栄一の部屋のインターホンを鳴らそうとJPが思い出したように口を開いた。

「んあ、ちなみに先に言っておくけど、絶対に抹殺を阻止できるって訳じゃないからね?こっちとしてもこう何と言うか、実験的な部分もあるからさぁ。」

「わかってますよ、協力してくれてありがとうございます。もしあの、お礼というか、お金とか払うって事になったらその時はその、皆でなんとかするんで……。」

 それを聞いたJPはやけにふわふわした声で笑った後、ゆっくりと亮治に目線を向けた。

「お礼ねぇ、むしろ礼を言うのは私達のほうかなぁ。ありがとうねぇ。」


 亮治は再度彼女から異様な空気を感じ、正体不明の恐怖感に呑まれた。



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