第3話 無原罪、生後一週間

 千佳を見送った後、多聞は一人解決索を考えていた。どうしたって、自分のできることには限界がある。

 「……ああー、もう!」

 実に二日ばかりの出来事だというのに、多聞の精神は随分疲弊していた。体を受け止めてくれたベッドに甘え、意識を眠りの中に手放しそうになるが堪える。でも、まだダメだ。考えることがありすぎる。

 「……姉貴、出るかな?」

 多聞が選んだのは、第三者の意見を求めるという手段だった。イタリアにいる姉は、この状況を何も知らない。だからこそ、何か風穴を開ける手助けになるような気がした。

 イタリアはまだ早朝の時刻だろうか。通話に出ない可能性を考えたが、それは杞憂に終わった。

 「多聞?久し振りねぇ、どうしたの?」

 元気な姉の声は、締め切った空間に通る風のようだ。酸素濃度を取り戻した空気を吸うように、多聞は大きく深呼吸をする。

 「……久し振り」

 「うんうん。それで、どうしたの、多聞。自分から電話してくるなんて初めてじゃない」

 外に家庭を持った姉を気遣い、多聞は姉に自ら連絡をとることは極力避けていた。それに気付かない柚梨ではない。そんな弟が急に電話を掛けてきたのだから、只事ではないことくらい察しがつく。

 「あー、何て言えばいいのかな……今、すごい八方塞がりで……」

 「うん」

 「メールで女の子を助けた話しただろ、その子のことなんだけれど……」

 出産を終えて間もない姉に、ありのまま全てを話してしまうことはできなかった。少しずつ誤魔化しながら、どうにも町の雰囲気がおかしく、居づらくなっていることを伝える。

 「……ねえ、多聞」

 黙って話を聞いていた柚梨は、多聞が話し終えてからも少し考えるように黙りこくっていた。ようやく口を開いたと思ったら、

 「イタリアに来てみない?よかったら、その女の子、銘刈ちゃんも誘って」

 予想外の誘いを持ちかけてきた。

 「な、なんで……?」

 「多聞もその子も、ちょっと違う環境で過ごすと、気分が変えられるんじゃないかと思うの。ジャンには私から言っておくから、うちに泊まればいいし」

 「で、でもイタリアって行くのに丸一日くらいかかるだろ?学校あるし、そんな暇ない……」

 「やーね、多聞。カレンダー見てみなさいよ!」

 「カレンダーって……あ」

 間もなく終わる四月のカレンダー。月末から始っているのは、ゴールデンウィークだ。

 「ね?ゴールデンウィークはイタリア旅行に決定ー!」

 「まあ、銘刈がいいって言ったらね」

 しかし、柚梨はもう予定が決まったような口振りである。

 「そこは多聞がいいって言わせるのよ。……ねえ、今、大変かもしれないけれど、多聞も無理はしないでね」

 「……別に、俺は」

 けれど、柚梨の言うように疲労が溜まっているのも事実だった。電話越しに見透かしてしまうのは、やはり家族ならではということか……。

 「ううん。多聞はね、多分自分で思っているよりも我慢しちゃうタイプよ。それに、結構正義漢なとこあるし……でもきっと、その子と関わらなければ楽になれるよって言っても、聞きやしないでしょう?」

 「うん、無理だ」

 迷うことなく即答する。見放すには関わりすぎてしまっているからではない。ただ、理不尽な困難の中にいる千佳を助けたかった。助けたいと思えるのは、確かに柚梨の言うとおり、存外正義漢なのかもしれない。

 「じゃあ決まり。リフレッシュしに、うちにおいで。お腹の甥っ子にも挨拶していってね、叔父さん」

 「お、……おじさん?」

 多聞にノーは言わせないというように、柚梨は言うだけ言って電話を切る。よもや『叔父さん』などという扱いを受ける日が来るとは思っていなかった多聞は、通話の切れたスマートフォンを片手に、しばし呆けた。姉のところの子供は多聞の甥で、甥からすれば多聞は叔父だ。間違いない。

 「……問題は、連休に入るまでだな……」

 千佳がこれから転入する高校が同じ学校ならば、学内にいる間近くにいることはできる。けれど、学校というのは少なからず人目がある空間で、つまり、千佳を本当に心配しなければならないのは学校の外だ。

 「……あ、そうだ!」

 いるではないか。千佳の事情を知り、尚且つ学校の外に拠点を置く人々が。

 昨日もらった連絡先の番号を入力すると、スマートフォンは難なくその人物に繋がった。

 「戸来ですが」

 「あ、俺です。宮下です」

 「まあ、宮下さんですか。今日は突然失礼致しました。今日はどうされました?」

 「銘刈のことなんですけど、通学途中に気にかけてもらうことってできますか?」

 どういうことか説明を求める戸来に、多聞は事情を説明する。学校の外で千佳を見守る目の役割を戸来たちにお願いしようと考えたのだ。千佳の事情を知り、尚且つKIKに味方しないと判明している住民だ。協力を仰がない手はない。

 「地域の見回りについては、私たちも考えていたことですわ。警察のような力はありませんけれど、何かあったとき通報ぐらいは一市民としてできますものね」

 「それじゃあ……」

 「ええ、周辺の見回りについては、私たちにお任せ下さい。それに、イタリアに行かれるのでしたら、飛行機にも同乗しますわ」

 「え、飛行機まで!?流石にそれは……」

 金銭の負担を覚悟してまで協力するつもりを見せる戸来に、多聞はかえって戸惑う。いくらなんでも、そこまで厚かましくはなれない。

 「いいえ、私たちの渡伊スケジュールを宮下さんたちに合わせるだけですから」

 「え、戸来さんたちもイタリアに?」

 「ええ。『使徒協会』から、もっときちんとKIKに抗議する活動をしようという意見が出ていまして……」

 「それとイタリアに何の関係が?」

 「あら、ご存知ないですか?イタリアのローマには、全キリスト教の中心、バチカン市国があるんですよ」

 「あ、ああー!」

 そういえば、教皇が代替わりするとかの特集番組で、名前を聞いたことがあるような気がする。

 「バチカンのお膝元で、直接抗議行動を起こしてやりますわ!」

 「はは……まあ、あの、あんまり過激なことは……」

 「過激なことをやっているのは、あいつらでしてよ!」

 語気を荒げた戸来は、自分でそれに気付いたのか一つ咳払いをして、声の調子を元に戻した。

 「と、ともかく、出立までの銘刈さんについては安心してくださいな。ただ、ローマに着いてからは別行動させていただきますが」

 「それで十分です。ありがとうございます。それじゃ、急にすみませんでした」

 まさか戸来は本気で言っているのだろうか。通話を終えても、何だか信じられない。まさか、教皇のお膝元で行動を起こそうだなんて、普通ではちょっと考えられない。けれど、それをやってしまおうとする大胆さは、どことなくKIKに通じるものがあるように感じる。『神の王国の使徒協会』がKIK同様にキリスト教主流派から認められない理由が、何となく理解できる気がした。

 思いがけない同行者ができたが、あとは千佳さえ了承してもらえれば予定は実行できる。

色よい回答を貰えるか、柄にもなくドキドキしながら送ったメッセージには、間もなく誘いを受ける旨のメッセージが返ってきた。

 

 戸来たちが上手く動いてくれたのか、多聞と千佳は、つつが無く連休で混み合う空港に到着することができた。少し離れたところには戸来ともう一人婦人の姿が見える。

 「よろしくね、宮下くん。私、イタリア初めて」

 「俺も姉貴の家に行くのは初めてなんだ。ていうか、旅費、大丈夫だったか?」

 「平気よ。お父さんが私のためにって取っておいてくれた貯金があったから。……全然私の話聞いてくれないし、これくらいしたって、罰当たらないわ、きっと!」

 ちなみに、多聞は中学生時代に新聞配達をして作った貯金を崩して来た。

 「そうだ、ガイドブック持ってきたの。イタリアって、今の時期は日本よりも暑いんだよね?新しいお洋服おろしてきちゃった!」

 父のことを思い出した千佳は不機嫌そうだったが、すぐに持ってきた荷物やら、イタリアに着いたらしてみたいことに話題を変えていく。今着ている白いレースのシャツも、女の子らしい控えめなピンクの薄手カーディガンもきっと新品なのだろう。翼を出すために切り裂かれた背部には、ほつれもない。

 「搭乗券持ってるか?パスポートは?」

 「大丈夫!出国ゲートは……あそこかぁ」

 「先に大きな荷物預けちゃおうぜ。あ、飲み物と食べ物は出国手続きしてからな。でないと、取り上げられちまう」

 「はーい」

 多聞よりも大きいスーツケースを引きながら、千佳は嬉しそうについて来る。続いて機内に持ち込む手荷物と衣類のチェックを受け、いよいよ搭乗を待つのみとなった。そっと視線を巡らせれば、視界の端に戸来が見える。やはり彼女らも同じ飛行機に乗るのだ。

 うわあ、本気で教皇に言うのか……多聞は、ちょっと引いていた。

 「……宮下くん?」

 「え、あ、ごめん!何?」

 「あのね、宮下くんはローマのどこに行ってみたい?」

 付箋があちこちに貼られたガイドブックが目の前に差し出される。この旅行を千佳が本当に楽しみしてくれていたことが分かって、多聞も嬉しくなった。

 「そうだなぁ……俺、遺跡とかあんまり分かんないし……」

 「でも、このコロッセオならどこかで見たことあるでしょ?」

 「石でできたスタジアムみたいなやつ?」

 「すごい例え、ふふ。でも、そんな感じだね」

 あれこれと千佳の希望を聞いていると、間もなく搭乗ゲートが開く時間になった。一度飛行機に乗ってしまえば、後は半日の空の旅である。

 「機内モードにしとかなきゃな」

 「……うん」

 「どうした?」

 スマートフォンをいじる千佳の表情が優れない。

 「さっき、お父さんに飛行機乗るよってメール送ったんだけど、返事なかったよ……」

 「……きっと忙しいんだ」

 「ありがと、でも、いいの……いつもこうだから」

 仕方がないね、と笑ってみせる千佳の眉は下がり、無理をしているのが手に取るように分かった。

 「……忘れ物するなよ。飛行機はUターンしてくれないからな」

 「うん」

 広げていたガイドブックやスマートフォンを手提げ鞄につめて、いよいよ多聞たちは日本を飛び出した。次に地面に足を付けるのは、イタリアのローマ、ダビンチ空港である。

 

 「わぁ、着いた!」

 「元気だなぁ、銘刈……」

 エコノミークラスの狭い席で十二時間の拘束。それをものともせず到着を喜ぶ千佳は、アイマスクにネックピロー、耳栓まで揃えた万全の態勢だった。対して、『狭い空間で如何に快適に過ごすか』という対策を全く考えずに飛行機に乗った多聞は、キャビンアテンダントからもらった薄い毛布と備え付けの枕でやり過ごすことしかできなかった。女の荷物は多いと言われるが、快適に過ごすための準備にぬかりない故の現象なのかもしれないと、一人納得する。

 「たもーん!」

 入国ロビーに懐かしい姿があった。周囲の目を気にすることもなく、群衆の中、少しでも目立つようにぴょんぴょん跳ねている。その腹は、以前見た写真と異なり、平らになっている。

 「お、この子が銘刈ちゃんね。初めまして、多聞の姉の柚梨・メローニです」

 「は、初めまして。銘刈千佳です!」

 「可愛い子じゃないのー。千佳ちゃんって呼んでもいいかしら?」

 「ちょっと、姉貴あんま銘刈に迷惑かけないでくれよ」

 良く言えば人見知りしない、悪く言えば馴れ馴れしい。そういう姉だからこそ、イタリアに留学して結婚相手まで見つけてしまえたのかもしれないが、千佳にまで同じように振舞われると、多聞の方が恥ずかしい。

 「大丈夫だよ、宮下くん」

 「ほらねー、千佳ちゃんは分かってるわー。さあ、じゃあ駐車場に行きましょ」

 どこに繋がっているのか分からない空港の通路を、柚梨は迷うことなく進む。

 「ねえ、子供、生まれたの?」

 しぼんだ姉の腹を見て、多聞が問う。

 「ええ、一週間くらい前にね。予定日から少し早かったけど、お陰さまで母子ともに健康よ。今は、ジャンがお守りしてるわ」

 使い込まれたアルファロメオに荷物を積んで、三人はローマの町へと走り出した。空港は市街地と離れており、しばらくの間は家屋もまばらな田舎の景色が続く。

 「……あんまり都会って感じじゃないんですね」

 青々と繁った初夏の草花を見ながら、千佳がぽつりと呟いた。

 「そうねぇ、むかーしのコムーネっていうのかしら?まだ町が城壁に囲まれてた小さな自治国家だったころの名残で、今もかつてから町だったところの方が発展しているの。あ、ガイドブック持ってきた?」

 「はい」

 「そういうのに載ってるコロッセオとかフォロ・ロマーノなんかも、みんな郊外じゃなくて町の中にあるのよ」

 柚梨の説明を受けながら、車は住宅地を通過していく。いよいよローマの町の中心に到着する頃には、幅が狭く、歩道は観光客で溢れている複雑な道を何度も通るために、すっかり方向感覚が無くなっていた。

 「……この辺に住んでるんですか?」

 細い石畳の道には、いつ建てられたのかも定かではない建物が影を落とす。違法駐車の列に、隙間を縫うように歩く人々。猥雑にして活気にあふれたローマの下町は、早くも千佳を飲み込みつつあるようだ。

 「そうよ。ここの五階」

 一つの建物の前で車は停まる。周囲に並ぶ建造物と同じく年季の入ったそれの、出窓の一つから誰かが手を振った。薄く顎鬚を生やした男だ。

 「ユズリー!」

 「ジャーン、エッコミ・クィ!」

 柚梨の名を呼んだ彼に、呼ばれた方も大きく手を振り返す。問うまでもなく、彼こそイタリアの地で柚梨と結ばれた男である。

 「エッコ……?」

 「ただいま、って意味よ」

 ぎりぎり二人が乗れる小さなエレベーターで二往復し、ようやく三人と二つのスーツケースはメローニ家に辿り着く。外観とエレベーターの小汚さの割に、部屋は広く、綺麗に整えられていた。

 「おかえり、ユズリ。タモンもいらっしゃい」

 さっき窓から見えた男が、赤ん坊を抱えながら皆を迎えてくれる。おくるみの中の赤ん坊からは、寝息が聞こえた。

 「こんにちは、ジャンさん。お久し振りです。日本語、上手になりましたね」

 「ユズリから少しずつ教わっているんだ。おっと、鞄を運ばないとね」

 赤ん坊を柚梨に預け、この家の主・ジャンルカは千佳の鞄を客間へと運ぶ。多聞ではなくm千佳の鞄というところはイタリア人らしい。

 「ジャン、その子が多聞のお友達の千佳ちゃんよ」

 「えっと、チカ・メカルです。よろしくお願いします」

 西洋風に姓名を逆転させて自己紹介をする千佳の声は硬い。緊張を隠せない様子だ。

 「そうだ、千佳ちゃんもテオにお顔見せてあげてー」

 「テオ?」

 「我が家の息子の名前よ、多聞叔父さん」

 「叔父さんはやめてくれ」

 むずがりながら目を開けた赤ん坊は、泣き出すこともなく初対面の多聞と千佳をじっと見つめた。探るような茶色の瞳は、柚梨と同じ色だ。

 「こんにちはーテオくん」

 千佳は進んでテオに話しかける。子供好きなのだろう、むちむちの柔らかい指を触って、にこにこしている。

 「大人しい子ですね」

 「そうねー人見知りはしないかも」

 「それに……」

 千佳の指をテオの小さな手が握った。人差し指を赤ん坊に好きにさせながら、千佳はテオの顔を食い入るように見ていた。

 「それに、……すごく、綺麗な子ですね」

 うっとりと、千佳の視線は釘付けられたかのようにテオに向けられている。綺麗という子供に向けるにはいささか大袈裟な言葉も、ほとんど無意識に口にしたような有様だ。

 「うーん、まあ、可愛いかな、うん」

 対して、多聞は実の姉の子供というだけあって、手放しに褒められないでいた。可愛いのは事実だ。生まれたての無垢な表情、日本人とイタリア人のハーフであるせいか、白人とも日本人とも違うパッチリとした目に、同じ茶色の髪の毛はちょっとくせっ毛だ。

 「あらーこの可愛さが分からないの、多聞。さあさあ、ご尊顔を拝みなさい!」

 「わっ、ちょっと!」

 まだ首の座っていないテオをきちんと抱けるよう、柚梨が多聞の手を動かす。母の手を離れても、テオは大人しく多聞の腕に収まった。慣れない手つきで首を支える多聞を、やはりじっと見つめていた。

 「……賢そうな子だなぁ」

 そういえば、夜泣きの少ない子供は頭がいいという都市伝説を聞いたことがある。信憑性はともかく、この世に出てて一週間のテオの眼差しには、早くも理智の光が宿っているように見えた。

 「ほんと、人見知りしないね。まだ人の区別があまりついてないからなのかな?」

 「そうねー、イヤイヤ期が来たらまた変わるかもしれないわね」

 すっかり距離の縮まった千佳と柚梨は、テオのことからローマの町のこと、居間に戻って来た後、キッチンでごそごそやり始めたジャンのことへと話題を移していく。

 「あ、そうだ。ジャンさんにお土産あったんだ!」

 日本に残してきた母から預かってきた荷物を思い出す。テオを再び姉に預け、『柚子胡椒』のラベルが付いた容器を荷物の底から引っ張り出した。

 「これ、前に欲しがってただろ。姉貴の名前の調味料があるって言ってさ」

 「あらー覚えててくれたのね、母さん」

 多聞から柚子胡椒を受け取った柚梨は、嬉しそうにジャンへと話しかけている。イタリア語なので何を言っているか分からないが、様子からして料理に関係していることのように思えた。

 「銘刈は何か食べられないものってあるか?」

 「大丈夫だよ」

 「じゃあ、大丈夫だな。ジャンさん、料理上手いんだ。夕飯楽しみにしててくれよ」

 自分で作るわけでもないのに得意げな多聞に柚梨のツッコミが飛んでくる。まだ夕暮れには早い時間だが、今日は時差ボケを解消するために早い時間から夕飯を摂り、早めに休むことに決まった。

 「あ、私も準備手伝います!」

 「あらー千佳ちゃんはいい子ねー。どっかの弟とは大違いだわー」

 「っ……俺も手伝うよ!」

 柚梨の挑発に乗るまま、多聞もキッチンへと踏み込もうとした時だ。

 「……タモン……」

 「?」

 何者かに呼ばれて振り返る。しかし、そこにはテオを抱えた柚梨がいるだけだった。突然足を止めた弟を不思議そうに眺めている。

 「どうしたの、多聞」

 「いや……姉貴、今、呼んだ?」

 「ううん」

 柚梨が無意味に嘘を吐くとは思えない。きっと空耳だ。疲れているのだ。再びキッチンへ向かう多聞は、柚梨の腕の中からもう一人、じっと見つめている者の視線には気付かなかった。

 

 

 母が父に愛想を尽かして早二年。仕事一辺倒の父に任せられない分、それなりに家事をこなしてきた千佳には、ジャンの料理の手際が良いことがすぐ分かった。

 柚梨の宣言通りに柚子胡椒を使うようだが、ちょっと香りを嗅いだジャンは、迷うことなく夕飯のメニューを決め、準備に取り掛かった。

 「……お上手ですねぇ」

 塊肉を手際よくスライスしていく様を見ながら、千佳は感嘆の溜息を漏らす。

 「ありがと。これでも、料理人だからね。料理は得意なんだ。これしか得意って言えるものもないけど」

 にんにくを浸して香り付けしたオリーブオイルの中で、肉がじゅっと音を立てて、色を変えていく。ジャンは火の加減を見ながら、ジャンはドレッシング用に柚子胡椒と酢、油を混ぜた。

 「まだ日本食は詳しくなくて……本当はもっと柚子胡椒に合う料理があるのかもしれないけれど……」

 「いえ、十分美味しそうですよ……」

 サラダに使う野菜を洗う千佳の口の中には、早くも肉に噛み付いた時の味が広がっていた。

 「銘刈―、これどうしたらいいんだ?」

 パプリカの表面の薄皮を剥くように言われた多聞が音を上げる。普段下ごしらえをしたことのない彼には、トマトをスライスするくらいで手一杯だったのだ。しかも、スライスしたはずのトマトは微妙に潰れている。

 「ちょっと貸してね」

 ジャンの手伝いをするはずが、千佳はもっぱら多聞の手伝いに徹することになってしまった。けれど、嫌ではない。いつも一人で料理し、一人で食べていた。ただただ生命を繋ぐための摂食という行為が、こんなにも楽しくて賑やかで、満たされるものだということを、長らく忘れていたような気がした。

 まるで天国だ――幸せな気持ちで一日を終えられるなんて。少しでも早く明日が来ることを願いながらベッドに入るなんて、まるで小学生の遠足前だ。

 「……宮下くん、起きてる?」

 そして、遠足前夜の小学生同様、寝付けずにいた。

 「うん。……眠れない?」

 暗闇の向こうから返事が返ってくる。千佳にベッドを譲り、ソファーに寝転んでいる多聞からだ。

 「……旅行に誘ってくれて、本当にありがとう」

 「はは、俺よりか姉貴に言ってくれ。うちに来いって言いだしたのも姉貴なんだ。その割に、客室が一室しかないとか……ごめんな」

 「気にしてないよ。ベッドとっちゃってごめんね」

 「……気にしてないって……銘刈さぁ……」

 呆れたような肩の力が抜けたような多聞の声が聞こえた。彼が何を考えているのか、言わずとも分かる。いくら寝床を分けているとは言え、一つの部屋の中、年頃の男女が無防備に就寝するなんて、間違いがあっても不思議ではない。けれど、千佳はその間違いが決して起こらないと確信していた。

 「だって、宮下くんが、そういうことする人じゃないって信じてるから」

 きっと柚梨も同じだろう。弟を信頼しているからこそ、千佳と同じ部屋を寝所にしたのだ。そうでなければ、多聞とジャン、千佳と柚梨が同室になるように部屋を分ければいいはずだ。

 「信じてるって……それはさ、今まで俺が銘刈のことを助けてきたからってことか?」

 「うん……ダメ?だって、何度も助けてくれた宮下くんは、私にとってヒーローみたいなものなんだ。一緒にいたら、絶対大丈夫だって思えるの」

 「そっか……あー、でも、なんだ……」

 「?」

 「あんまりそう、信用してますよーって無防備になるのは、よくないぞ。うん、……よくないな」

 うんうん唸りながら、多聞は「よくない」を繰り返す。

 「……それって……でも、宮下くん、なら……私、何かあっても……」

 「それはもっとダメだ」

 今度ははっきりと否定された。

 「銘刈はねぇ、それなりに可愛いんだから、そういうこと言うのは無しな。あと、確かに俺に色々世話になってるかもしれないけど、それに引け目を感じて言ってるなら、俺は怒るぞ」

 「……ごめん」

 多聞の言うとおり、全く引け目を感じていないわけではなかったのだ。特に、多聞がKIKの存在を――その時は組織の名前など知りもしなかったけれど――いち早く伝えてくれたのに、忠告にまるで耳を貸さなかったことは、今も千佳の心に引っかかっていた。それさえも多聞に見透かされていたのかもしれないが。

 「まあ、その……そういう事情を別にして、銘刈がいいって言うなら……」

 「!……あ、えっ?え?」

 「あー、もう寝よう寝よう」

 多聞の言葉をどう受け取るべきか混乱する千佳をそのままに、ごそごそと寝相を整えた多聞はソファーの上で丸まってしまう。

 「ちょっと、宮下くんっ」

 呼びかけても、多聞が応じることはもうなかった。寝息が聞こえないので、完全に狸寝入りである。

 「言い逃げとは卑怯な……!」

 必ず多聞が聞いていると踏んで、悔し紛れの一矢を放つ。せめて、それが少しでも深く多聞に刺さればいいと願いながら、千佳は掛け布団に顔を埋めた。

 

 

 「タモンたちはどこに行ってみたいの?」

 「えっと、じゃあコロッセオとか……」

 「じゃあ、そのへんの史跡回る感じにしようか」

 昨日柚梨が運転していた車は、今日はジャンを運転手にローマの市内を走る。生まれたばかりのテオと柚梨が留守番をしている代わりに、ジャンが多聞らの観光案内を買って出たのだ。

 一方通行と行き止まりが罠のように待ち構える道路を、ジャンは迷うことなく走らせる。「先に、真実の口を見てみるかい?ここから近いよ」だとか「トレビの泉なら歩いた方がいいなぁ」だとか――行きたい場所を決めていても、スケジュールなど考えてもこなかった多聞たちをジャンは要領よくあちこちへと連れ回した。千佳の背中を羽を気にしていた多聞だが、皆自分の目的に忙しく、千佳のことなど気に止める様子もない。何より、観光客の中にちらほらと天使病患者の姿があり、千佳一人が目立ってしまうということもなかった。

 「……つっかれたー!」

 「ほんと……これでまだ全部見たわけじゃないんだもんなー」

 「うー、お肌ヒリヒリする……」

 コロッセオ、隣り合うコンスタンティヌス凱旋門、少し離れた古代ローマ遺跡フォロ・ロマーノ、少し入り組んだ道の先にトレビ泉を探し、一日歩き回った多聞たちは、心地よい疲れと共にメローニ家に帰って来た。全て屋外の観光地だったせいか、日焼け止めを塗ったはずの肌は赤らんで、明日には色を変えることになりそうだ。多聞はシャワーの温度や勢いを変えるくらいで済むが、千佳は濡れタオルで冷やした後、丁寧に軟膏を塗りこんでいた。女の子は大変だ。

 「ねえ、明日はちょっとゆっくりしない?」

 疲労困憊で帰ってきた二人に柚梨が提案する。

 「ジャンは仕事だし、私はテオがいるからあまり時間を避けないけれど、買い物しなくちゃいけないから……どう?」

 「つまり買い出しの手伝い?」

 「せいかーい!」

 何が正解だよ、と呆れる多聞の横で、千佳は好奇心に瞳を輝かせていた。

 「面白そう!行ってみたいです!」

 そして、予想通りの答えを口にしたのだ。

 もっとも、多聞が彼女らに反対する理由もない。ローマに住んでいる姉が普段どんな生活をしているのか興味はあったし――正直に言ってしまうと、ブランド店やブティック巡りをするよりずっと楽だ。

 

 翌朝も五月のローマは晴れ渡り、朝の少し涼しい空気は、早くも照りつける太陽で温度を上げつつあった。

 「ヨーロッパにも生協があるのよ。勿論、イタリアにもね」

 新生児用のチャイルドシートにテオを、それから多聞と千佳を乗せたアルファロメオは安全運転で走り出した。ローマに到着した日にも感じたことだが、メインの大通りから少し入れば、路上駐車が目立つ。どうやって抜け出すのだろう――縦列駐車で数珠つなぎになった車を眺めながら、多聞は考える。

 「……あら、やだ」

 ふと、柚梨が呟いた。何があったかと窓の外に目を向ければ、少し広い通りを練り歩く若者たちの姿が見えた。Tシャツにジーンズの取り立てて特徴のない白人……であるはずの彼らが目立つのは、大きな空気人形のせいだ。つるりとしたビニールの肌をした人型のそれは、青年たちの脇に抱えられ、じっとしている。

 「……なんですか、あれ……」

 空気人形を抱えイタリア語でわいわい喚いている彼らは、目的が見えないせいか、何かの路上パフォーマンスにも見えた。千佳もワケの分からなさを感じているらしい。

 「うーん、あれはねぇ……いわゆる有色人種排斥活動してる人たちよ」

 猛烈に言い難そうにしながら、柚梨は彼らの正体を教えてくれた。

 「ああ……なるほど」

 言われてみれば、空気人形はいずれもアジア人のような黄色の肌か、黒人の黒い肌をしている。きっと、イタリア語が理解できれば、さぞかし不愉快な文句をあれこれ並べているのだろう。

 「……気にしないでね」

 ただの旅行者の多聞と千佳より、住んでいる柚梨の方が堪えているだろうに、柚梨は二人を気遣った。「早く買い物しちゃいましょうね」気にしていない風を装いつつも、車の速度は少し上がったようだった。

 キャーッ!――後ろから悲鳴が聞こえる。反射的に身をよじってリアガラスの向こうを注視すると、さっきの若者たちが何者かと揉み合っているのが見えた。数人対数人の諍いは次第に大きくなっていき、野次馬が加わってあっという間に人の団子になってしまう。

 「!」

 その中に、戸来の姿を見たような気がして、多聞は身を乗り出す。

 「多聞、あんまり見ちゃダメよ」

 「あっ、うん」

 誰に見とがめられるか分からないのも確かである。多聞は姉の注意に従って、再び前を向いた。隣の千佳は、俯いて決して車の外を見ないようにしている。不意打ちのように、日本での出来事を思い出してしまったのだろう。

 「……この辺もね、色々あるのよ」

 千佳の顔色が悪いことを見てとった柚梨が、フォローを入れる。しかし、一度悪くなった車内の空気が良くなることはなかった。

 

 「明日は、また観光しよう!」

 買い物を終えて帰宅するや否や、そう宣言した千佳により、明日はいよいよバチカン市国に行くことが決まった。柚梨から使うバスの路線番号も教えてもらい、多聞と千佳は眠くなるまで計画を立てた。結局、「バチカンを満足に見て回るなら一日いっぱいかかる」という忠告により、明日の予定はバチカン市国のみで埋まってしまったのだが。

 「……?」

 昨日とは違う疲労のせいだろうか、まだ夜明けには早いというのに多聞は目を覚ましてしまった。何だか、喉も乾いている。少し喉を潤してから寝直すべく、多聞は千佳を起こさないようこっそりと寝床を抜け出した。

 「……タモン……」

 「!?」

 ミネラルウォーターをグラスに注いでいると、宵闇の中から呼ぶ声があった。女のように高く、しかし妙に落ち着き払った声は、この世のものとは思えない。

 「……誰だ?」

 幽霊だったらどうしよう……柄でもなくどきどきしながら、暗闇に問いかける。

 「……タモン、ここだ」

 さっきよりもはっきりと響いたそれは、居間に置いてあるゆりかごの中からだった。日中こそテオが入れられているものの、夜は夫婦の寝室にあるベビーベッドに移されているので、ゆりかごの中は空のはずだ。

 「……」

 やっぱり幽霊かなぁ、嫌だなぁ。けれど、怯える気持ちと同じくらい、高揚していた。本能的な恐れを上回る好奇心が、多聞をゆりかごまで動かしたのだ。

 「テオ……?」

 昼にそうしていたように、おくるみに包まれたテオがゆりかごの中に寝転んでいた。まさか、柚梨がベビーベッドに連れて行くのを忘れてしまったのだろうか。姉らしからぬ失敗の可能性を考え、慌ててテオを抱き上げた。

 「子供忘れていくとか、姉貴何やってんだよぉ……お前も、よく泣かずにいたねぇ」

 「……いいや、私はここでお前をまっていたのだ、タモン」

 「っ……!?」

 軽く揺すってあやす手から、危うく赤ん坊を取り落とすところだった。生後一週間ばかりのテオが、はっきりと多聞に語りかけたのは、それくらい衝撃だった。

 「な、な……テオ?何で……いや、テオなのか……?」

 震える手は、すぐに手の中の不可解な存在を手放すよう警告しているようだ。しかし、理性はか弱い新生児を傷つけないよう、しっかりと小さな体を支えさせた。

 「……私は、テオバルド・メローニであり、テオバルド・メローニではない」

 まだ歯も生えない小さな口は、自らの名を名乗り、同時に否定した。混乱する多聞とは反対に、テオはあくまでも落ち着いている。

 「かつての私は、イエスともメシアとも呼ばれ、原罪を負わずに生まれ出てたマリアの子であった」

 「それって……いや、でも、じゃあテオは……!?」

 もしこれが姉の息子でなければ、一体なんだ。知るはずのない日本語でとんでもないことを言う――こんなことがあるはずがない。少なくとも、多聞のよく知る世界では。

 「テオバルドもまた私である。本来ならば時を経て、体と心の成長に伴い私もまた開花し、発現する意識であったが……何しろ、時間がない。多聞、そこでお前に頼みがある」

 「何なんだよ、マジで……頼みを聞けば帰ってやるとかそういうやつ?」

 「ああ、勿論だ。さすれば私の今生での役割は終わり、この世界から憂いを遠ざけることができる」

 「……何をしろって言うんだ?」

 「私を殺すのだ」

 「……は?」

 「私を殺せ」

 「ちがっ、聞き返したわけじゃない!」

 言われたことは理解できた。けれど、肝心なのは何故そんなことを頼まれなければならないのか、ということだ。

 「いいよ、分かった。お前がテオだけどテオじゃないとして、……何でそんなことしなければならない?役割とか、世界とかどういう意味だよ?」

 「……まだ、語る者はいないのか?世の終焉、全てを飲み込む魂の成れの果てが迫り来ることを。天使たちは未だ現れていないのか?……いや、しかしあのチカという少女には……」

 深く考え込むように白い瞼が落ちる。しみ一つない柔らかな頬は赤く、目を閉じればまるで眠っているようにも、瞑想しているようにも見える。千佳が「きれいな赤ん坊」と評していたのが分かるような気がした。

 「……全てを話そう」

 再び持ち上がった瞼の下からの赤ん坊の目が覗く。逸らすことを許さない、強い眼差しをしていた。

 「お前たちは気付いていないのかもしれないが、人の世の終わりは近い。私が再び人の子として生まれたのは、終末の原因になる魂たちの救済だ。天の国にも行けず、消滅することもできず宙(そら)の果てを彷徨(さまよ)うものたち……彼らは故郷であるこの星を見つけ、目指している」

 「ま、待て。魂だのはともかく、この世界がもうじき終わるってことか?」

 「ああ」

 「その原因が、……彷徨っている魂、のせいだと?」

 「そうだ。宙の彼方にある強大なエネルギーと質量の塊が……」

 「……ブラックホールか」

 「恐らく、そう呼ばれるものの一つだろう。あれは彷徨う魂の集合体だ。己を満たし、救うものをもとめ、あらゆるものを飲み込む生の欲の果て……彼らは地球をも飲み込もうとしている」

 「ブラックホールに飲み込まれるのが、世界の終わりなのか……?」

 「正確には飢え苦しみ、救いを求めている死者の念により何もかもが飲み込まれ、全ての生が死に変わる。しかし、だからこそ、魂の救済により終焉を回避することができる」

 なるほど、何となくテオの言う終焉が分かってきた。ブラックホールに――テオに言わせれば、貪食する魂の群れというべきか、とにかく、大質量の何かに地球が飲み込まれるということだ。

 けれど、一つ疑問がある。それが事実ならば、何故誰も何も言わないのだろう。ニュースだって、内戦だとか経済危機だとかろくな内容ではないが、いつもの話題しか流さない。

 「……信じられない。だって、ならばどうして誰も騒がないんだ?人類史上最大の災害じゃないか」

 信じられないと、あるいは拒否するように多聞は首を振った。

 「お前たちの常識では、突拍子もない事実であることは理解できる。しかし、既に予兆があるだろう。お前も見ているはずだ、チカの背中に生えた翼を」

 「あ、あれは……原因不明の病気だろう?」

 まさかKIKの連中の言うように、終末を告げる天使云々と言い出すつもりか。多聞は構えるが、テオは意外にも多聞の言葉に同意した。

 「左様。あれは人や風、土に尊存在する小さき小さき者たちが起こす病だ。人にとっては、病に他ならない。だが、小さな者たちにとっては、生存戦略なのだ」

 「小さい者……菌やウイルスのことか?」

 「然り。小さき者はヒトよりも変化に富み、環境の変化に合わせて変異する。世の終焉を既に察している彼らは、少しでも生き延びられるよう常にそうするように変化していった。人の肌の上で変化した結果があれだ」

 「……じゃあ、お前の頼みを聞いて、世界の終わりとやらが無くなれば……」

 「天使病とやらもこの世から無くなるだろう。終焉が来ないのならば、小さき者もこれ以上の変異は求めまい」

 多聞は一つの可能性に気付く。

 「そしたら、銘刈の病気も……」

 「ああ、彼女を病から救える」

 「でも、それにはお前を殺さないといけないって言うのか……?」

 「かつて十字架の上の死と引き換えに人類の原罪を購ったように、今生の私はゆりかごの上の死と引き換えに宙の果てより来る魂を解放し、終末を遠ざけよう。そうすれば、チカだけではなく、地球上の全ての命を救えるのだ。タモン、私を殺して世界の救世主になれ」

 「……無理だ」

 数十億の命と千佳を助けられる見込みを合わせても、それでも、テオを殺すことはできない。苦しげに「できない」と繰り返す多聞を、テオの方が眉間に皺を寄せて見つめている。まるで人の心を解していない様子の赤ん坊に、多聞の心は苛立った。

 「無理に決まってるだろ!お前は……テオは姉貴の子供だ!俺の甥なんだぞ!?人類が助かるからって言われて、はいそうですかと身内殺せるかよ!」

 「……」

 「ふざけんなよ……!」

 苦々しい気持ちで胸が苦しい。馬鹿みたいな話だ。家族と大勢の人の命と、どちらを選ぶかの選択に迫られるなんて、映画の中でしか見たことがない。でも、こんなに胸糞悪い思いをするのは、スクリーンの中の架空の人物だけで十分だ。しかも、二択の選択肢のうち、片方が積極的に死を望んでいるなど。

 「……なあ、お前、テオから出て行けないのか?もっとさ、昔やったことをしっかり再現してくれるような、ケイケンな信者のことに行った方が、都合良いじゃないか」

 早く殺せと視線で訴える赤ん坊に、多聞は考えうる最大限の手段を提示する。例えば、KIKや戸来たちならば、こいつの望む通りにするのだろうかと考えるとやはり気分は良くない。多聞の考えた方法はいわば逃げの一手だが、自分の手で甥を殺すより、精神的な負担が少ない方法だった。それくらいしか、代案が浮かばないのだ。

 「私は本来、もっと早くに再び人の子として生まれる予定だった。しかし、条件に合う母が見つからなかったのだ。やっと現れたのがユズリだ。また次の機会を待つ猶予は最早ない」

 「どうして姉貴に?俺たちはキリスト教徒じゃない。見ればわかるだろ?お前を前に生んだマリアさんとも、何の共通点もないじゃないか」

 「処女懐胎を経て奇跡の子供を生み落とせるのは、世界中で彼女しかいなかったのだ。私にも選んでいる余裕はなかった」

 「しょ……っ!?馬鹿言うなよ、姉貴は、その……結婚してるんだぜ?」

 赤ん坊の口から出てはいけない単語を聞いてしまった気分だ。そして、問題の処女懐胎を柚梨がし得ないことを、どう説明するか悩んで、結局相当ぼかした言い方しかできない自分に泣きたくなる。

 「そうだ。しかし、私の父であるジャンルカには生物として致命的な弱点があった。生殖能力が極端に低いのだ。それが原因で、一度離婚もしている」

 「……知らなかった」

 「彼もお前に言うつもりはないだろう。問題は彼の信仰する教義において、子孫を成す以外の性交渉は禁じられているというところにあった。もっとも、最近は遵守する若者は減っているようだが、彼は珍しい部類の若者だったのだ。……随分悩んだようだ。性交で子供を作れないだろう自分が、他人と関係を持つことを恐れていた」

 「義兄さん、そんなことがあったんだ……」

 「だが、彼はユズリに出会えた。人工授精という手段でしか子供を作れないジャンルカをユズリは受け入れ、早々に不妊治療を始めたのだ。受精卵を宿した時、ユズリはまだ誰とも関係を持っていない体だった。……つまり」

 「……人工的に、処女懐胎してしまったってことなのか……まさか……」

 生まれつき問題を抱えていたジャンルカ、父が亡くなり恋人を作る間もなく生きてきた柚梨、そして医療技術の進歩――その全てが積み重なり、現代のマリアが出来上がってしまったのだ。偶然なのか、はたまた何かの意思が働いているのか。

 「まさか再び降りる体を得るための母が、こんなに長く現れないとは思わなかった。もっとも、貞節を守る女でも結婚すれば子を成すための行為をするのが当たり前なのだから、仕方がないのかもしれないが」

 「それで、やっと生まれて……すぐ死ぬってのか……」

 「……やはり、できぬか」

 「正直、お前さえ姉貴のところに生まれなければって気持ちはある……でも殺せない。……恨むぜ、マジで」

 どうしても多聞が肯首しないのを見て、テオは残念そうに口元をへの字に曲げた。

 「……ならば、私の願いを聞き届けてくれる者を探そう」

 「な、……やめろ、そんなっ」

 なりふり構わず自分を殺すように教唆されては堪らない。強い口調で諌めようとした時には、腕の中の赤ん坊は、すやすやと寝息を立てて、やがて掻き消えた。

 「!?……姉貴、ちょっと、ねえ!」

 慌てて夫婦の寝室をノックすると、寝ぼけ眼の柚梨が姿を現した。

 「どうしたの、多聞……まだ暗いじゃない……」

 「テ、テオは!?」

 「テオ?ベッドにいるわよ?」

 柚梨の言うとおり、夫婦のベッドの脇に鎮座するベビーベッドには、穏やかな表情で眠るテオの姿があった。勝手にどこかへ行ってしまったわけではなかったようだ。

 「あ……ごめん、夜泣きが聞こえたような気がして。寝ぼけてたのかな」

 不思議そうに弟をみる柚梨に精一杯の言い訳をして、多聞も間借りしている部屋に戻る。潤したはずの喉は、再びからからに乾いていたが、もう水を飲みに行く気力もなくなっていた。突然あんなことを聞かされては、仕方がないことである。

 

 日が昇ってからも、当然、多聞の気持ちが晴れることはない。当たり前だ。朝と同時に夜のように消えてしまうような問題ではないのだ。あれだけ計画したバチカン観光中も気がそぞろになってしまい、何度も千佳から心配の声を掛けられた。その度に「ごめん」ということしか多聞にはできなかった。

 昨日までとは違う疲労を抱えて一日を終えても、思慮を巡らせる度に眠気を邪魔され、浅い眠りと覚醒を繰り返してしまう。少し気分を変えよう。昨晩と同じように水を飲もうと居間に向かった多聞は――ゆりかごの中にナイフを突き立てようとする千佳を見た。

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