第4話 救世主は不在

 目の前の子供を殺せば、私はこの病気から解放される――突然与えられた希望は。千佳の胸を満たし、喜びと共に彼女にナイフを握らせた。

 「やっ、めろ!」

 「……宮下くん?」

 ひとっ飛びに距離を縮めた多聞は、体当たりの要領で千佳の手からナイフを奪おうとする。フローリングに尻餅をついた千佳は、奪われまいと身をよじり、這うように居間の奥に逃げた。

 「どうして邪魔するの、宮下くん」

 「……言われたんだな、こいつに」

 確認する口調から、既に多聞もテオから事のあらましを聞かされていることが分かった。

 「うん。その子を殺せば、私もみんなも助かるんだって。よかった……もう、宮下くんに迷惑かけなくても済むよ」

 口の端が持ち上がり、笑みを形作る。微笑みであるはずのそれが、どれだけひどい表情になっているのか、多聞の顔をみれば自ずと知れた。

 「っ……!おい、お前、銘刈に言うのは卑怯だぞ!」

 多聞はゆりかごに横たわるテオの胸倉を掴んだ。座っていない首はぐらりと揺らぐが、泣くこともせずにされるがままだ。傾いだ頭はじっと千佳の方に向けられている。赤ん坊に似つかわしくなく怜悧な眼差しは、己の運命を全ていけ入れているように思われた。

 「お願い邪魔しないで、ね?私、助かるんだよ……助かりたいの……、お願いっ」

 「ダメだ!いくら銘刈のためでも、こいつは殺させない!」

 「……どうして、宮下くん。私のことを助けてくれるって言ったじゃない!」

 「銘刈のことを助けるって言ったのは本気だ、嘘じゃない!でも、こいつだって俺の甥っ子なんだ!」

 千佳の持つナイフが多聞へ向けられる。ああ、邪魔だ。助けてくれると言ったのに、どうしてここに来て邪魔をするのだろう。でも、障害になるならば取り除けばいいだけだ。そのための道具も手の中にある。よかった。

 「もう嫌なのっ、こんな羽のせいで、変な人たちに狙われるのは!ずっと狙われていろって言うの!?」

 「そういう事を言いたいんじゃない!俺が……俺が何とかしてみせるから!約束しただろ!」

 「適当なこと言わないで!!宮下くんにこれ以上何ができるっていうのよ!!」

 叫びと共に千佳はナイフを構えて多聞に突っ込む。多聞はゆりかごを遠くに弾き飛ばし、千佳のナイフをクッションで受け止めた。小賢しい。

 「っぶねー!」

 一時的に動きを妨げられたナイフを慌てて抜く。幸い、多聞が千佳の手を柄から引き離すより先に、奪い返すことができた。

 「……銘刈、どうしても信じられないか?」

 「……ごめんね」

 謝罪は肯定だった。

 再びナイフを構える千佳に、多聞はインテリアの燭台を向けた。ロウソクの刺さっていないむき出しの針は鋭い。だが、それを持つ多聞の手は震えていた。

 「……怖いの?」

 「怖い以上に嫌なんだ!銘刈を傷つけたくない!お前だって、本当は……!」

 「私……でも、けど……他に、どうすればいいのよ!」

 金属同士がぶつかる音は、そのまま千佳の悲鳴だった。どんなものでも縋りたいという気持ちだけが膨らんでいく。少しでも希望があるならば、殺人罪でも何でも受けよう。解決してしまえば、少なくともすぐそばに迫っている白人至上主義者たちの手は逃れられるのだ。

 「お願い……殺させて、お願い!」

 迫るナイフを燭台でいなされ、千佳は忌々しげに唇を噛む。お互いに傷つけること能(あた)わず、だが、いずれどちらかが相手の皮膚を突くと思われた。

 「何してるの!!」

 しかし、ナイフも燭台もお互いを害することなく手放された。柚梨とジャンが起きてきたのだ。

 多聞たち二人が何をしているのか、理由は分からないまでも状況を理解した柚梨は青ざめる。

 「……千佳ちゃん、一緒にいらっしゃい。ジャン、多聞をお願い」

 彼女が何を思って千佳と多聞を引き離すのか、そんなことは容易に想像できた。多聞が乱暴しようとしたと考えたならば、千佳が思い切り抵抗した末に、ナイフまで手にしてしまったのだと、今の状況を説明できてしまうのだ。

 不本意だが、ここで何か言っても、かえって無実を疑われてしまうと判断した多聞は、黙って柚梨の指示に従って別室へ連れられていく千佳の背中を見送る。傍らのジャンは、多聞を気遣いながらも、見張っているような眼差しをしていた。

 「千佳ちゃん、後で呼びに行くから、待ってて。……多聞、おいで」

 「……」

 間もなく部屋から出てきた千佳と入れ違いに、今度は多聞が柚梨に呼ばれる。送り出す柚梨の言葉から察するに、千佳と柚梨が同じ部屋で夜を越すことにしたようだ。

 通された柚梨たちの寝室では、騒ぎの原因になった赤ん坊がすやすやと寝息を立てている。普通ならば、天使のようと形容されるはずの無垢なそれが、今は憎たらしくて仕方がない。

 「……あなた、彼女にひどいことをしようとしたわけではないのよね?」

 確かめる声は、多聞への信頼と疑念の間で揺れ動き、震えていた。

 「そんなこと、してない……」

 真実、多聞は決してそんなことをしようとしたわけではない。なのに、答える声は震えていた。少なからず、自身も動揺したいたことにようやく気付く。

 「……千佳ちゃんもそう言っていたわ」

 千佳は、多聞に暴行されそうになったのではないかという柚梨の疑念を否定してくれたらしい。内心ほっとした多聞だが、目の前の姉の方がよほど安心した様子だ。

 「よかった……、勿論、多聞がそういうことする子じゃないって思っていたけれど……。でも、今日はここでジャンと寝てくれる?千佳ちゃんは、私が一緒の部屋になるから」

 「分かった」

 「……多聞……信じてるからね」

 「うん……」

 信じているから――それはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。

 千佳と多聞、両名共に柚梨が懸念するようなことはなかったと言っても――もっとも、もっと別の問題はあったが――それでも、全ての疑心を拭い去ることはできず、しかし弟を信用したいとも思っているのが理解できた。だからこそ、多聞は黙って、柚梨の指示に頷く。

 多聞の夜は、ジャンとテオの寝息を聞きながら、まんじりともせずに更けていった。

 

 翌朝、昨晩の空気を引きずったまま気不味い朝食を囲んでいると、

 「……すみません、私、もう日本に帰ろうと思い……帰りたいです」

 千佳が小さく呟いた。

 これ以上、千佳をテオの傍に置いておくべきではないと思っていた多聞にとっては、少なからず朗報だった。

 しかし、イタリアへの旅行を持ちかけた手前、予定を切り上げさせてしまったことも、後味の悪い旅の終わりになってしまったことも申し訳なく思う。数日前、空港の出国ロビーで嬉しそうに旅行ガイドを広げて、観光ポイントをチェックしていた千佳は、今は沈んだ表情で朝食のサラダをつついている。

 「姉貴、俺も帰るよ……」

 「うん、……分かったわ」

 千佳を帰国させ、自分だけイタリアに留まるという選択肢を取ることはできない。

 誘うべきではなかったのだろうか。全くの予想外の出来事があったとは言え、千佳を元気づけるつもりが、まるで反対の結果になってしまったことは、多聞をも消沈させていた。

 連休の中途半端な時期だったせいだろう、チケットの変更はその日のうちに済ませることができ、多聞たちは夜の便でローマを発った。

 互いに気不味い雰囲気のまま、無理に喋ろうとしなくてもよかったのは、機内の明かりが落とされ、乗客が皆眠りに就いていたからかもしれない。日の昇る方角に飛んでいく飛行機の短い夜を、多聞はまどろみと覚醒を繰り返して過ごした。日本に到着したら、千佳にどう話しかけるべきか考えながら。

 「ごめんね、宮下くん」

 しかし、空港から自宅に戻るバスの中、多聞が意を決するより先に千佳が口を開いた。

 「え、え……?」

 いきなり肩すかしを食わされたが、千佳が多聞との会話を拒まないのは幸いだ。寝不足と時差ボケで、目元が腫れぼったくなってしまったお互いの顔を見た。

 「だから、……ごめんなさい。多聞くんのお姉さんの子供に、ひどいことしようとして。私、この羽が無くなるなら、もう危ない目に合わなくてすむっていう一心で……言い訳だね、ごめん」

 「い、いや……気持ちは、何となく分かるし。追い詰められてたんだよな、銘刈」

 「うん、自分のことだけど、そう思う。……後先なんて、考えてなかった」

 あの夜、多聞が気付かなければ、千佳は赤ん坊殺しとして国内外のニュースになっただろう。多聞が救ったのは、テオの命だけではなかったのだ。そして千佳も、自分が多聞に少なからず助けられたことを理解していた。もし、テオの命を奪い天使病から解放されても、その後に千佳を待っていたのは嬰児殺しの償いだ。

 イタリアから日本までの十二時間の間に、千佳の気持ちが少し落ち着いてきてくれたのだと、多聞は少し安心する。しかし次の瞬間、千佳の目は虚ろな色を帯びた。

 「でも、……もう、宮下くんに助けてもらおうとは、思わないから」

 「な……んで、確かに、俺にできることなんて、限られているけど……けど、俺……」

 「そういうの、もういいから。本当に、もういいから。私、もっと自分で行動してみる。結局、自分しか自分のためだけを考えられる人っていないのよ。……それが分かってよかったと思っているくらいだから」

 千佳の精神が落ち着いたなど、多聞の希望的な見方に過ぎないことに気付く。

 彼女の目に浮かんでいるのは、平静ではなく諦念だった。もう、多聞どころか、自分の手にしてきた何もかもに、希望を見いだせなくなっているのだ。

 「俺は、やっぱり銘刈のこと、放ってはおけない。……その、もし、どうしても一人ではどうにもならないこととかさ、あったら……」

 「ありがとう」

 それでも――千佳がどんなに希望を失っていても、千佳のために何かできることがあればしたいと思う。その気持ちを素直に口に出せば、彼女は感謝の言葉で返してくれた。

 けれど、その言葉はただの反射だった。多聞にもそれがはっきりと理解できるくらい、千佳の言う「ありがとう」には何の感情もなかったのだ。

 「じゃあね、宮下くん。旅行、誘ってくれてありがとう。お姉さんにも、言いそびれちゃったけど」

 「あ……」

 多聞が次に口を開くより先に、千佳は到着した停留所で降りて行く。窓ガラス越しに見えた後ろ姿は、決して多聞を振り返らなかった。

 

 何もかもが上手くいかない――そんなことを誰かが愚痴っていれば、「そんな日もあるさ」と励ますのが常の多聞だったが、今回ばかりは、そういうわけにもいかなかった。

 対象が自分自身であるし、何より、何もかもうまくいかないという状況が、想像よりもずっと陰鬱にさせるものだと知ってしまったからだ。

 誰か、できれば明るい気分にさせてくれる人に会って話したかったが、連休の真っ只中、思い当たる人物は軒並み出払っている。連休は客数が平時より増えるということもあり、母も連休のほとんどを仕事で埋めていた。

 「はーあ、ただいま……」

 溜息と共に、習慣になってしまった帰宅の挨拶をする。誰も返事をしないはずのそれに、家の奥から近付いて来る足音があった。

 「おかえり、もう着いたのね」

 「え?母さん?」

 多聞の前に現れたのは、仕事をしているはずの母だった。

 部屋着で寛いでいたらしく、髪も少々ぼさついている。とてもではないが、仕事に行く格好ではない。

 「え、何で?確か、俺が旅行いくならって、休み中ほとんどシフト入れてたはずじゃ?」

 「あら、まだ聞いてない?お店にね、変なトラックが突っ込んじゃって、今、お店の半分閉まっているのよ」

 「何、それ……?」

 母の勤め先でそんなことがあったなんて、寝耳に水である。

 差し出された地方新聞をめくれば『ショッピングセンターにトラック突っ込む』の大きな見出しがあった。記事と一緒に掲載されていた写真には、店の入口とその周囲の壁を覆い隠すブルーシートが写っていて、損壊がそれなりにひどいことが分かる。

 「ひどいでしょ?幸い、テナントが入っている半分は問題ないから、そっちは入口を分けて営業続けてるんだけど……こっちは、警察に店長から課長まで引っ張り出されて仕事にならないのよ」

 「ひっどいなぁ、これは。何でこんなになったの?飲酒運転?ブレーキとアクセル間違えたとか?」

 ブルーシートの下に隠された、ガラスやコンクリートの破片を思うと多聞まで気が滅入る。嫌なニュースだが、さっきまでの千佳との確執を誤魔化すくらいの役には立った。

 「それがね、原因はよく分からないのよ。ほら、最近、この辺に外国の人が増えてるでしょ?突っ込んだトラックの運転手も外人さんだったみたいなんだけど、日本語がほとんどできないとかで、話の進みが遅いんですって」

 「へー」

 薄い関心を寄せる風にしながらも、多聞は『外国人』という単語にどきりと心臓を震わせていた。

 「外人さんが悪いってわけじゃないけどねぇ……迷惑なものは迷惑だしねぇ」

 多聞の内心を知らない母は、職場を壊された挙句、急な自宅待機まで命じられて不満であると言外にぼやいているが、リラックスした格好からは、突然与えられた休みをそれなりに過ごしているように見える。まあ、怪我もせず元気にしているならばそれで良しだ。

 「あ、そうそう。銘刈さんって方から連絡があったのよ」

 「え?」

 「娘がお世話になっているって言ってたし、一緒に旅行に行った子のご家族でしょ。お礼がしたいってさ」

 「……?」

 奇妙なタイミングだ。

 娘を暴漢から助け、海外旅行に伴った上、現地に住んでいる身内の家に宿泊までさせてくれるなんて、確かに、礼の一つや二つあってもおかしくない状況である。けれど、ならばもっと早くに連絡があってもいいはずだ。

 もともと多聞は特に礼を言われたいと思っていなかったし、千佳が自身の父親について、あまり娘に興味がなさそうであるということを言っていたので、彼から何か接触があることを考えてもみなかった。それが今、突然向こうから接触を図ってきたのである。

 「連絡、とってみたら?」

 「……うん」

 意図を図りかね反応に困っている多聞に、母は連絡をとってはどうかと提案した。一応それに是と答えたものの、千佳のこともあり、多聞の気は進まない。

 「ところで、お土産は?柚梨は元気だった?」

 「あ、うん。はい、これ。姉貴のとこ、子供生まれてたよ。……元気そうだった」

 母子ともに元気ではあったが、子供の方にはちょっと普通ではない事情がある――とは母に告げることはできなかった。テオの生みの親である柚梨でさえ知らない秘密だ。例え母であっても、軽々しく教えることはできない。

 もっとも、仕事の疲れが溜まった彼女は、多聞の差し出したチョコレートの箱に意識を向けているようだった。帰国前、慌てて空港の土産物のコーナーに走った甲斐があったというものだ。

 

 途中で切り上げてしまったものの、少ないながら観光地を巡ってきた多聞の話を母は随分聞きたがり、久しぶりに家族二人で賑やかに食卓を囲んだ。普段は母の出勤時間によって別々の時間に食事を摂ることも多く、手料理をゆっくり食べるというのは、ささやかな贅沢だった。

 「――……の病院で、保存されていた……は生殖補助医療法による……。成立以前に反対していたイタリア共和党、国民同盟はすでに法成立の体制に問題があったとして当時の……」

 「ん?」

 テレビから聞こえてきたニュースに、耳がそば立つ。イタリア――苦い思いを残してきた場所だ。

 画面の中、真面目くさった表情で原稿を読み上げニュースキャスターの下に、『凍結保存胚、損壊の容疑・イタリア人男性現行犯で逮捕』というテロップが流れている。

 「もともと現在のイタリアの医療法では……」「カトリック派医師団との対立が……」「犯人の主張は、医療法の見直しとの見方で……」「けれど、こんなことをしては、一番の被害者は患者たちになってしまうのでは……」

 画面中央のキャスターが一通り原稿を読み終えたところで、同じ画面の中にいた有識者だか著名人だかが、あれこれと意見し始める。そこでようやく、多聞にもニュースの全貌が見えた。

 どうやら、イタリアの大きな病院で、不妊治療のために凍結保存されていた卵子を何者かが勝手に持ち出した挙句、破棄してしまったらしい。イタリアでは受精卵の凍結保存は認められていないものの、捨てられてしまった胚は全て治療には使えなくなり、多くの治療中、または治療予定の患者に大きなショックを与えているということだ。

 幸いにも、実行犯は逃走しきることなく警察に捕まったようだが、犯人の行動に二〇〇四年に制定された生殖補助医療法の問題を突く政党間の対立に発展しつつある展望を見せているようだ。

 「……嫌な事件ね。病院でこんなことが起こるなんて……柚梨の出産が終わった後なのは不幸中の幸いだけど、患者さんたちが気の毒だわ」

 「そうだね……」

 柚梨とジャンとテオ。あの三人も、不妊治療という現代医療の恩恵により作ることを許された家族だ。中継の文字と共に、テレビに泣きじゃくる被害者たちの映像が流れる。あれが、もしかしたら柚梨だったかもしれないと思うとぞっとしない。

 しかし、ニュースを続けて見ていると、どうやら犯人に同調する者も多からずいるらしいことが報じられる。

 それというのも、定められた医療法により、保存された卵子は全て母親の子宮に戻されるよう定められているからなのだそうだ。それには、取り出した数の卵子は、その分だけ受精卵として母体に戻されなければならないということで、両親となるカップルは経済的、受精卵の遺伝子的問題などを理由に、受精卵を母体へ戻すことを拒めないという制約がある。

 不妊治療を行うためのその代償は、当然、患者たちにも不評だ。なので、今回の犯人も現行の医療法への反発と、何より、治療希望者への負担をもっと少なくなるよう法の改正を訴えての行動だと見なしている者が多いのだ。

 勿論、犯人に同情的な者ばかりではない。患者のみならず、現在の医療法に満足しているカトリック派の医師らは犯人をまるで悪魔のように罵っているし、未使用胚の科学研究を求めて対立する研究者たちは医師たちをまるで前時代的だと小馬鹿にしている。

 しかし、現行の医療法はローマ法王を頂くバチカン市国に配慮したものであり、それを見直すということは、バチカンとの関係にも影響を与えかねないという大きな問題を抱えているらしい。

 単純に医療や法体制の枠を超え、宗教的な価値観にまで波紋を広げる大きな事件に発展する見込みであると締めくくり、テレビの中では次のニュースが流れ始めた。

 (……違う……)

 事件のあらましを聞いた多聞の中に、否定の声が響く。違う、違う――それは必死に、何かが違うと訴えていた。

 (……犯人の目的は、法の改正なんかじゃない)

 イタリアの生殖補助医療法など、今テレビを通じて知ったばかりなのに、多聞には事件を起こした目的がそこにはないと何故か確信していた。しかし、だとしたら一体なんだと言うのか、答えを追いかけて思考するうち、一つの声が返ってくる。

 ――本当の目的は、テオバルドだ。

 どうして、テオと事件とが結びつくのか多聞には分からない。なのに、どうしてだろう。その解は、すとんと腑に落ち、多聞を納得させてしまうのだ。

 

 その不思議な得心が真実であったと気付くのは、数日後のことである。

 終わりが近付く連休を、多聞はごろごろと宮下家で過ごしていた。あの後、更にどこかへ外出する気分にはなれず、母も営業再開の目処が立ったために外出を誘われることもなかった。

 だからその日も、近付いて来る連休明けに少しばかり憂鬱になりながら居間で雑誌を読んでいたのだ。さて、昼食はどうしようかと怠惰に考えていると、電話が鳴った。

 「……家電にって、珍しいな」

 珍しいことに、携帯電話の普及以降、ほとんど置物と化していた電話機に着信があったのだ。

 多分、相手はセールスだろう。休日までご苦労なことだと無視を決め込もうとした多聞だが、なかなか相手も諦めない。鳴り続ける電子音に根負けし、渋々受話器を持ち上げた。

 「もしもし?」

 「お休みの日に申し訳ございません、銘刈ですが、宮下さんのお宅でよろしいでしょうか」

 丁寧な男性の声は、千佳と同じ苗字を名乗った。

 多聞の心臓がどきりと跳ね、逆に頭は妙に冷静だった。お礼をしたいと電話があったのは聞いていたのだし、その後自分から連絡をとることもなかったのだから、改めてあちらからかけてきても、何もおかしくないではないか。

 おかしくないはずなのに、多聞の心臓は速い脈を打ち続ける。

 「……はい、あの、俺……」

 「……千佳の父ですが、……宮下多聞さんですか?」

 「あ……」

 思った通り、電話の男は千佳の父親だった。千佳から子供に無関心な父親と聞かされていたが、彼の声は想像していたよりもずっと柔らかく聞こえた。

 「もう、戻っていたのですか?てっきり……」

 「えっと……銘刈、さんから聞いてないですか?俺、いや僕たち予定を早めて帰って来ているんです」

 多聞は帰宅について連絡をしていたが、千佳は伝えていなかったのだろうか。いや、一緒に帰ってきたのだから、少なからず千佳から事情を聞いているはずなのに、何故多聞が戻ってきていることに驚いているのだろう。

 戸惑う多聞と同じように、電話の向こうの男も動揺しているようだ。

 「ち、千佳は、一緒にいないのですか?」

 「え、はい。……あの、もう何日か前に日本に帰って来てから、途中のバス停で別れたんです。……銘刈さん、帰っていないんですか?」

 「……千佳から連絡があったら、すぐ連絡をください」

 千佳の父は電話番号を伝えると、慌ただしく電話を切る。折角完成したのに――と舌打ちが最後に聞こえたが、多聞に唯一分かるのは千佳があの後、自宅に帰っていないということだ。

 「何やってんだよ、あいつ……!」

 スマートフォンから千佳の連絡先を探す。一体何を考えて帰らずにいるのか、どういう目的で今どこにいるのか――多聞には見当もつかなかった。何だか千佳が、同じ高校生ではなく、理解不能の別の生き物になってしまったようで、怖かった。

 着信拒否されている可能性を考えたが、幸いにも数コールの後に繋がった。

 「……」

 「……銘刈か?」

 「宮下くん……」

 聞こえてきた声は確かに千佳のもので、多聞は胸を撫で下ろす。よかった。もし、これで誰か別の人間が出たら、最悪の状況を仮定しなければならないのだから。

 「銘刈、お前、家に帰ってないんだって?親父さん、心配してうちに電話してきたぞ」

 「お父さんが?……ああ、そっか、旅行中の連絡先にって宮下くんちの番号、教えてあったんだっけ……」

 「帰りたくないなら、連絡くらいしろよ。親父さん、銘刈が日本に帰ってたのも知らないじゃないか」

 「だって、教えてないもん。それに、連絡取るのなんてイヤ。着信拒否している意味がないじゃない……お父さんが私を探すなんて、ありえないわ」

 「でも、本当に……」

 「やめて!宮下くんじゃお父さんの味方なの!?だから、私の居場所を突き止めようとしてるんでしょ!?」

 「違う!ただ、銘刈が心配なんだ!」

 「やめてったら!!」

 千佳の身を案ずる多聞の気持ちに嘘はない。千佳の父親だって――あくまでも多聞が受けた印象だが、心配しているはずだ。千佳には信じてもらえなくかもしれないけれど、少なくとも、多聞は電話口の声に娘を軽んじるような印象は受けなかった。

 「……もう、電話してこないで。じゃあ……」

 「待て、居場所は教えろ」

 心配しているのが通じないのならば、せめてどこにいるのかだけでも知りたい。

 「いや……」

 「じゃあ、銘刈のこと、家出人行方不明で警察に届け出すからな!」

 「なっ……!卑怯よ!」

 抵抗は予想の範囲だ。だからと言って引き下がるつもりはない。

 「卑怯でも何でも言え!もしかしたら、もう親父さんが届けているかもしれないな!」

 「……」

 頑なに拒まれるのならば、こちらも相応の手段に訴えるだけだ。

 「……別に、変なとこにいるわけじゃないから……。宮下くんも、知ってる人のところよ」

 しばしの沈黙の後、千佳は重い口を開く。しかしそれでも、所在を明確にするつもりはないようだ。

 「じゃあね、教えたから」

 「おい、待っ……!」

 結局、千佳はそれ以上話すことはないという風に、電話を切ってしまう。

 「もうっ、何なんだよ!」

 通話の終了を告げる単調な音を聞きながら、多聞は舌打ちする。鏡を見るまでもなく、苦り切った表情になっているのが分かった。

 「知ってる人つったって……」

 知ってる人――千佳の言葉を反芻すると、多聞の頭は少し冷静さを取り戻した。考えてみれば、千佳はこの町に来て間もない。そして、彼女と多聞共通の知り合いの数は、非常に限られているのだ。

 「……まさか」

 思い当たる人物は一人しかいない。戸来だ。

 一人しかあてがないと言うよりは、そのあてが外れたら、最早打つ手なしになってしまう。多聞は祈るような気持ちで、再びスマートフォンを耳に当てた。

 「はい。宮下さん?どうしましたか?」

 「突然すみません。銘刈がどこにいるか知りませんか?」

 「……」

 戸来の沈黙は、やはり彼女が千佳に何らかの係わりがあることを教えてくれた。あてが外れずに安堵する気持ちと、よりにもよってどうして戸来たちの元へ行ってしまったのか、多聞の胸に疑問が生まれる。

 「銘刈は無事なんですよね?あいつ、家にも帰らずに、今どうしてるんですか?」

 「彼女は大丈夫ですよ。ええ、健康という意味ならば、何の問題もありません。自宅に変えられないのは、私には……」

 「銘刈を家に返してください!皆心配してるんです!」

 「帰らないのは彼女の意思なんです!私たちが強制しているわけではありません」

 よもや、千佳は戸来たちに何かを吹き込まれてしまったのだろうか。どんなに戸来が千佳の意思だと言っても、多聞には納得ができない。

 「……銘刈は、自分から戸来さんたちのところに行ったって言うんですか?」

 「そうです」

 「どうして……?」

 どうして、千佳は自分を頼らずに戸来たちの元へ行ってしまったのだろう。

 ここ数日ずっと考えないようにしていた記憶がよみがえる――最後に千佳とした会話だ。もう何も求めないと、期待しないと言っていた彼女は、戸来たちにどんな救いを見出したのだろう。

 全ての疑問が詰まった問いかけだった。

 「銘刈さんは、私たちのKIKと全面的に対立するという立場に同調されたのです。私たちと一緒ならば、組織として対立できますから」

 つまり、千佳は自分を守るために、多聞ではなくもっと大きな母体を持つ者を選んだというわけだ。その選択は、生物として正しく思えるのに、多聞の体は心臓から冷えていく。

 「私たちとしては、志を同じくする者が集まるのは歓迎です。それに今、国内のKIK被害者の事件を明るみにするための活動も考えていますので、銘刈さんのような方から協力をいただけると……」

 「……もう、いいです。銘刈は、大丈夫なんですよね?」

 「身の安全は保証できますわ」

 「……ありがとうございます。それで、あの、もしよかったら、家に連絡入れるように、戸来さんからもあいつに言ってもらえませんか?」

 「分かりました。銘刈産にお伝えしておきますね」

 きっと、千佳は連絡しないだろうな。そんな予感がした。

 通話を終わらせた多聞は、如何ともしがたい溜息と共に今のソファーにぐったりと体を預けた。

 千佳のためを思ってやってきた、何もかもが無駄になったような気分だ。もしかしたら、戸来たちと共にいることで、彼女の周辺の環境は改善されるのかもしれないけれど、今の多聞にはそれを素直に喜ぶ気持ちにはなれない。

 最後まで自分を信じ頼って欲しかったわけではない――と言えば嘘になる。

 千佳を助けることに、多聞は一種の充足感を味わっていた。英雄を気取っていたつもりはないが、それでも、一人の女の子を救えるくらいの力はあるのだと思いたかったし、実際に助けになれていると思っていた。

 しかし、今日、何もかも無駄になったのだ。それは少なからず、多聞にショックを与えていた。

 「……やだ、真っ暗な中で何しているのよ?」

 日が落ち、母が仕事から帰ってくるまで、多聞は薄暗い部屋の中で縮こまり、繰り返し襲ってくる無力感や苛立ちと戦っていた。もっとも、全て徒労に終わっていたが。

 「やだ、ひどい顔。……ご飯も、まだでしょ?」

 「うん……」

 憔悴した様子の息子に、彼女は理由を尋ねることはしなかった。その代わりというように、買ってきた惣菜と作り置きしていた料理を食卓に並べながら、多聞を遅い夕食に誘う。

 昼食を食いっぱぐれてしまった多聞には、疲労と共に空腹も襲いかかっていた。よって、食事を断る理由などない。

 「……何かあったの?」

 即席だが温かい食事が胃へ落ちると、多聞の口からほっと溜息が出てくる。同時に、張り詰めていたものが腹から解けていくような思いだった。

 そうして全てが解けてから、見計らったように母は口を開いた。

 何があったのか尋ねる口振りには、問いただそうとする意思よりも、息子を気遣う色の方が濃い。千佳の父も、電話口では同じ声音をしていた。

 この声を聞いても、千佳は父を頑なに拒むのだろうか。多聞には、そんなことできそうにもない。

 「……一緒に、旅行に行った銘刈って子のことなんだけど。あまり、その……父親に心を開いていないみたいで……」

 「お母様は?話を聞いてくれる家族はいないの?」

 「母親はいないって言ってた」

 「まあ……」

 眉根に皺を寄せる母は、痛ましい顔をしていた。父親のいない宮下家と、母親のいない銘刈家を重ねているのかもしれない。

 「それに、銘刈自身にも病気があって……天使病ってやつなんだけど、そのせいで変な事件に巻き込まれそうになったりして……」

 「変質者の事件ね?最近増えてるって言う」

 「そう、それ……」

 もっとも、いくら母でもその事件の裏に潜む、KIKなる集団や、面倒な思想については教えない。知らずにいた方が、気楽に生きていけることは多いのだ。

 「……俺、ずっと銘刈のこと守れているつもりだったんだ。変なヤツがいれば遠ざけて、家にも味方がいないならば、俺がなってやろうって……辛いことがあれば、旅行に一緒に行って、少しでも気を紛らわせてやれればって思ってた。でも……」

 でも、全ては空回り、多聞のエゴに過ぎなかったのだと、その結論を口にするだけの気力が多聞にはもう無かった。言葉にすると再び無力感がやって来る。

 「……ねえ、多聞。お父さんが死んじゃった頃のこと、覚えてる?」

 「父さん……?」

 突然、父親の話を出され、多聞は困惑を隠せない。

 父の死後、散々泣き暮らした母は、仕事への復帰をきっかけに嘆くばかりの日々を脱し、亡き父のことをあまり話さなくなっていた。多聞と柚梨も、あえて父のいた日々を思い出させるようなことは口にせずにいたのに。

 「お父さんが死んじゃった後、お母さん何も手につかなくて、家のことを柚梨と多聞に任せちゃってたでしょ?」

 「うん。でも、ほとんどは姉貴がやってたけどね、家事とか」

 突然一家の大黒柱を失った宮下家で、最も早く日常に立ち返ろうとしたのが柚梨だったのだと思う。朝起きて、食事をして、各々日中を過ごし、夜は家に帰って眠る――今までずっとしてきた日常をなぞることが、一番の薬なのだと信じているように柚梨は神経質なまでに家事をこなしていた。多聞は、その後をついて回るのが精一杯だった。

 「ううん、多聞はね、絶対に弱音を吐いたり、泣いたりしなかった」

 「それは……そんなの、姉貴だって……」

 「多聞は知らないみたいだけどね、柚梨は時々、こっそり泣いてたのよ。父親は亡くなるし、母親は知っての通り後追いしかねない勢いで泣いてるし……そりゃあ、人の目のある所では泣けないわよね」

 隠れて泣く柚梨の姿を思い出したのだろう、表情に苦いものが混ざる。

 「でもね、多聞。覚えていないかもしれないけど、あなたは自分で絶対泣かないって言ったのよ。そして本当に、あなたは私が立ち直るまで……立ち直っても、泣こうとはしなかった」

 「あ……」

 思い出した。

 最後のお別れを葬儀場で促され、棺にすがり付いて大泣きする母のために、棺を運べずにいた時だった。母の気持ちを汲みながらも、どうにか彼女を棺から引き剥がそうとする親戚を呆然と見ながら、多聞の傍らで柚梨が言ったのだ。うちはもうダメかもしれないね、と。

 それを聞いた多聞は――絶対に泣かないから、一緒に頑張ろうと言ったのだ。

 決して泣き言を言わない、泣いて困らせたりしない、だから、母にも姉にも諦めて欲しくないと多聞は言った。

 当時中学生だった多聞が考えた、精一杯の自分ができることだった。父の代わりになどなれないことは分かっていた多聞は、自分が父の分も頑張るなどと非現実的なことは言えず、しかし自分ができることを探して結局出てきたのがそれだった。

 「本当は、あなただって辛かったわよね。柚梨が泣いてるの見ちゃった時にね、お母さんと一緒に楽になるかって聞いたの……お父さんが死んで、お母さんが頑張らなくちゃいけないのに、その上柚梨まで泣かせちゃって、本当に情けなかったわ」

 「そんなこと……」

 「そしたら柚梨がね、多聞が泣いてないから自分も諦めないって言ったの。多聞のお陰で、私たち今生きてるのよ」

 「俺の……俺が……」

 「その後柚梨がね、お母さんも一緒に約束しようって言ったわ。自分が諦めないように、お母さんも多聞が泣かない間は絶対に諦めないでって」

 「……知らなかった」

 父を失った後、足を地に踏ん張って頑張っていた母と姉は、強い人なのだと思っていた。けれど、その強さの根元には多聞がいたのだ。

 「俺、……今まで誰の役にも立てないと思ってた……」

 誰かの支えになれていたのだと、その事実が多聞の憂いを払っていく。

 「……俺、ずっと役立たずだと思ってたんだ、自分のこと。だから……」

 だからあの日――橙の路地で千佳を助けたあの日、感謝の言葉を伝えられた時、多聞は自分が変われたような気がしたのだ。

 絶対に、千佳を守ろうと思った。彼女のために、そして自分のために。そうすれば、嘆く母にも黙々と頑張る姉にも、何もできなかった自分が少しだけ良い人間になれるように思った。

 多聞が守りたかったのは、千佳であると同時に自分自身だったのだ。

 けれど、多聞は役立たずなどではなかった。彼は彼の立場で、そこからできることで、家族を支えることができていたのだ。

 「俺、もう一度銘刈に連絡してみる」

 無力だと思っていた自分は、決して無力ではなかった――それを知った今、もう一度千佳を守りたかった。千佳が身を置いた状況は、どうしても彼女にとって良いと思えないのだ。ならば、そう思う自分をもう一度信じたい。千佳にも、もう一度信じて欲しい。

 彼女の言ったとおり、できることは限られているかもしれないけれど、諦める理由にはならないではないか。多聞はそれを諦めてしまうほど非力ではないのだと、知ることができたのだから。

 「でも、無理は禁物よ、多聞。銘刈さんもあなたも人間なの。すごく丈夫で堅固に見える時もあるけれど、すごく脆い時もあるのよ。絶対に、自分を壊すようなことはしないで。無理なことは抱え込まないこと」

 「うん」

 「これも、約束よ」

 「……うん」

 約束――この言葉が、こんなに重く、心に刻まれるものだとは、多聞は知らなかった。

 

 しかし、果たしてどうしたものだろう。

 千佳に直接連絡をすれば、下手をしたら本当に着信拒否されてしまう。それも恐らく、かなりの可能性で。

 「うーん……!」

 自室で頭を捻っている多聞の耳に、階下から電話の音が聞こえてきた。本日二回目のそれは、多聞にある人物を思い出させる。

 「そうだ、銘刈の親父さん!」

 千佳に直接ではないまでも、協力してくれそうな人物がいたではないか。

 「多聞―電話よー、銘刈さんからー」

 息子を呼ぶ母の声は、今まさに多聞が思い描いていた人物からの着信であることを伝えた。まるで見計らったかのようなタイミングだ。多聞は階段を転げそうになりながら、電話機へと走る。

 「こら、足音!」

 「ごめんって!……もしもし、宮下ですが」

 はやる気持ちを抑え、多聞は受話器から聞こえる声を待つ。

 「ああ、何度もすみません。銘刈です。千佳から、何か連絡はありましたか?本当に、何度もすみません」

 すみません、すみません――繰り返す声は、以前聞いたものよりも焦っているのが分かった。多聞はその彼の声を聞いて、彼は自分の側だと確信する。

 彼の声は、まるっきり父親の声だ。娘を心配する、一人の親の声だ。一切の損得感情なく、千佳と向き合っている立場の人間だ。

 「銘刈さんとは、少しだけ話せました。本人が教えたくないようなので、どこにいるか話せませんが、……危険な場所ではないです」

 だからこそ、多聞は自分の知り得る千佳の話を、全て彼に話すわけにはいかないと感じた。もし、話してしまえば、彼は後先考えずに千佳を探しに行ってしまうだろう。そうなれば、多聞と千佳は勿論のこと、千佳と父親の間にも大きな亀裂が生じてしまう――もしかしたら、千佳はもう父とは深い深い溝ができていると思っているのかもしれないけれど。

 「君、バカなことを言うんじゃない!父親である私が、娘の所在を知らないで安心できると思っているのか!?」

 案の定、多聞が千佳と接触できたと知った男は、まるで食ってかからんばかりの勢いで多聞を糾弾し始める。やはり、こんな状態のまま、彼を千佳と会わせてしまわけにはいかない。それに、その言い草に多聞も少しだけ、カチンときていた。

 「……俺は銘刈から、自分の父親は自分に関心が無いと聞きました。彼女が勘違いしている部分があるとしても、実の娘にそう思われていたことは間違いないんじゃないですか?なのに、銘刈がいなくなった途端に騒ぎ出して、父親ぶるなんて都合良すぎだとは思わないんですか?」

 「ちょっと、多聞……」

 離れた場所で聞き耳を立てていた母が、多聞に注意を促す。確かに、ただの高校生が人の親である相手に言うには、いくらか高慢な言い方をしてしまったと思う。

 けれど、多聞は彼ではなく千佳の味方だ。電話口の男がどう言おうと、千佳が自身の父親について話してくれた内容は、多聞にとって一つの真実だった。

 「……君に何が分かる!確かに仕事ばかりのつまらない父親だったが、あの子の病気を思えばこそだ!一日でも、一秒でも早く治療できるようにと仕事に励んだことを、君にとやかく言われる筋合いはない!」

 「……治療?」

 そして思ったとおり、千佳の父は口調を強いものに変えた。その怒声の中に、ふと、多聞は違和感を覚える。

 千佳の病気を治すために仕事漬けだった――多聞には、千佳の父がそう言っているように聞こえた。けれど、以前聞いたことがある。千佳の父は『リニアコライダーに係わる研究者』だと。この町の郊外にそれが設置されたために、わざわざ引っ越してきたのだと。

 つまり、千佳の父は医者ではない。ならば何故、千佳の天使病について言及するのだろう。

 「……銘刈から、父親はリニアコライダーの研究者だって聞きましたけど、それとあいつの病気と、どういう関係があるんですか?」

 「……君には……」

 「関係あります!少なくとも、その病気のために困っていた彼女を助けたのは俺なんです!銘刈のお父さんは、本当は医者なんですか?ならば、どうして……」

 「違う。私はあくまでも、研究者だ。医学はさっぱり分からない。けれど、私の研究は、あの子や他の天使病の患者を救うことに繋がっている。そして、その研究に目処がついた……それだけなんだ」

 「……」

 リニアコライダーと天使病にどういう繋がりがあるのだろう。お互いに勢いを削がれ口をつぐみ、しかし受話器を置くこともできずに黙り込んだ。

 沈黙の中、多聞は考える。

 リニアコライダーとはそもそも何だっただろう――確か、化学教師は『電子』という非常に小さなもの同士をぶつけることができる装置だと言っていた。では、何のためにそんなことをするのかと言えば、なんだろう。

 (たしか……宇宙の始まりが……)

 そうだ、宇宙の始まりの様子を知ることができるとかではなかっただろうか。非常に高温の状態を再現できると聞いたような気がする。

 (宇宙……)

 そう言えば、テオも宇宙について何か言っていた記憶がある。

 宙の彼方には魂の集合体があると、巨大なエネルギーと質量の塊があると言っていなかっただろうか。多聞はそれを、ブラックホールと呼んだ。

 「ブラックホール……」

 「え?」

 そして、その『塊』が世界に終わりをもたらすと、それから、迫る世界の終焉を察した細菌だかウイルスだかの変異で、天使病が発生したとも言っていた。

 天使病と宇宙の解明が、テオの言うように繋がっているならば、もしかしたらリニアコライダーの研究の真の目的が、テオの目的と同じところにあるならば……。

 「世界の終焉を……」

 千佳の父親たち研究者は、科学技術で世界の終わりを回避しようとしているのだろうか。

 「……宮下さん、一度直接お話できませんか?」

 唐突な誘いは、多聞の想像を肯定しているようだった。

 「……はい」

 その誘いに応じた多聞も、恐らくは、世界の終わりが迫っているという有り得ない状況を受け入れ始めていたのだろう。

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